第25話・ほんの少しの気の緩み
ログハウスの中は、外のひんやりした空気とは対照的に、ほんのりと暖かかった。
朝食の匂いがまだかすかに残っている台所を抜けて、有羽はアウローラの手を引いたまま、奥の扉の前で立ち止まる。
「こっち」
短くそう言って、馴染みの取っ手を回す。
軋むような音もしない、よく手入れされた木の扉が、するりと横に開いた。
その先――そこが、有羽の工房だった。
「……わぁ」
思わず、アウローラの口から小さな声が漏れる。
広さは、こぢんまりとした貴族の書斎ほど。
けれど、そこに詰め込まれている密度は、王城のどの部屋よりも濃い。
壁一面に棚が並び、そのほとんどを、瓶や壺や箱が埋め尽くしていた。
中には光を反射する魔石や、見たこともない形の金属部品、緻密な線で刻まれた魔導具のパーツがぎっちり詰まっている。
天井からは、乾燥中のハーブ束や、何かの素材が逆さ吊りでぶら下がり、
机の上には、描きかけの魔法式の紙と、簡易の鍛冶道具まで置かれている。
だが――真っ先に目を引くのは、やはり床だった。
「相変わらず、すごいなー……」
アウローラは、呆けたように歩を進める。
床いっぱいに広がる魔法陣。
線一本一本が、細い針で刻まれたように精密だ。
幾何学模様と、見たこともない文字列が幾重にも重なり合い、輪郭を形作っている。
淡い光が、ごく薄く、床全体から立ち上っていた。
まるで空気そのものが、魔法でろ過されているかのように。
「この魔法陣も、細かすぎて術式がサッパリわからん」
アウローラは、膝をつく寸前までしゃがみ込み、食い入るように床を見つめる。
有羽は、その様子を見て肩をすくめた。
「分からないなら、分からないままでいいよ。真似されても困るし」
「真似しようとしても無理だろ、これは……」
アウローラは苦笑しながら、そっと指先を床に近づけ――思い直して引っ込める。
触れてはいけない、と本能が告げていた。
これは、自分たちが扱っていい領域ではない、と。
有羽は、魔法陣を見下ろしながら、心の中だけでぼんやりと思う。
(空気清浄、殺菌、埃の浮遊制御……ま、クリーンルームもどきってところだな)
現代日本の「クリーンルーム」を、そのまま魔法で再現しようとした結果がこれだ。
空気の流れを制御し、微細な塵を落とし、雑菌の繁殖を抑える結界。
この世界の魔術師に説明したところで、何百年も先の概念だろう。
「相変わらず、すごいなー。全然わかんない」
「そんな大したもんじゃないって。俺が生きやすいようにしてるだけ」
「それが大したことなんだよ……」
アウローラは立ち上がりながら、ぽつりと呟いた。
「私たちの世界では、まだ「そこ」を目指すって発想すら、出てこないんだ。森で死なないために、魔物を倒すことばかり考えてる。空気を綺麗にするなんて、考えたこともない」
「まあ、生活優先の魔法って、案外後回しになるよな」
有羽はあっさり頷き、そのまま工房の奥へと歩いていく。
「ほら、こっち」
その声に、アウローラはハッと我に返り、小走りで後を追う。
有羽が立ち止まった先――そこには、小さなテーブルが並んでいた。
「……なにこれ」
アウローラは、目を丸くする。
テーブルの上には、ずらりと並ぶ透明な小瓶。
中には、色も形もバラバラな粉末や種子が詰められている。
赤、黄色、茶色、黒、緑。
粉状のものもあれば、粒のままのものもある。
乾燥した実、細長い種、丸い粒……見たこともない形のものばかりだ。
だが、何より圧倒されるのは――その「匂い」だった。
工房に入った瞬間から、どこかスパイスの香りはしていた。
それが今、この一角に近づいたことで、一気に濃くなる。
鼻の奥をくすぐる、複雑な香り。
甘さ、辛さ、ほのかな苦み。
言葉にできない幾つもの匂いが絡み合い、ひとつの渦になって押し寄せてくる。
「これは……」
アウローラの喉が、ごくりと鳴った。
「この匂いは……カレーか!? これがカレーの素なんだな有羽!!」
一瞬で瞳がキラキラに変わる。
昨日食べたばかりの、未知の料理。
口に含んだ瞬間、世界の色が変わったように思えた、あの味。
その記憶が、一気に蘇ってくる。
「おうよ」
有羽は、どこか誇らしげに胸を張る。
「今は、色んなブレンド試してるところ。使う種類、比率、組み合わせ……一生掛かっても終わりは無いだろうな。ま、だからこそ楽しいんだけど」
「一生……?」
アウローラは呆然と呟く。
有羽は、テーブルの端の小瓶を一つ手に取り、栓を抜いた。
「ほれ、これ嗅いでみ」
差し出された瓶を、アウローラは両手で包むように受け取り、そっと鼻先へ近づける。
ふわり――。
「……っ!」
目を見開く。
昨日のカレーを思い出させる、スパイスの香り。
けれど、どこか違う。
蘇るのは、昨日のカレーの味。
しかし、今鼻に届いている香りは、それとは別の方向に尖っていた。
スパイスの辛さが、より鋭く。
どこか爽やかさが強く、鼻筋の奥までスッと通っていく。
「違う……」
アウローラは、ぽつりと呟いた。
「これ、昨日食べたカレーの匂いと違う!」
ひとつひとつの違いが、分かるわけではない。
でも、昨日の香りとは別物だとはっきり感じられる。
「え? 待ってくれ有羽……カレーってひとつだけじゃないのか!?」
「ん?」
有羽は、特に驚いた様子もなく肩をすくめる。
「ああ、昨日も言っただろ? 昨日のアレは入門編というか……基本の味に過ぎない」
「き、基本……」
「一番、万人に受けそうな味って言うか、誰にも好かれそうな基本ベースみたいな? それが昨日食べたカレー」
そう言いながら、有羽は別の小瓶を手に取る。
今度は、深い茶色の粉末が入った瓶だ。
栓を抜くと、さっきとはまた違う、ずしりとした香りが漂った。
どこか甘く、少し焦がしたような香ばしさ。
「で、ここで試してるのは、俺好みの奴」
有羽は、その瓶を眺めながら口元を緩める。
「最高の組み合わせを、あーだこーだ言いながら試行錯誤してるんだよ。まだまだ先が長いぜぇ」
困ったもんだ、と言いつつも、その顔はどう見ても楽しそうだった。
スパイスを指先で摘まみ、光に透かすように見つめる瞳。
配合を書きつけたメモ用紙は、何枚も重なって重なって、ひとつの山になっている。
道は長い。
終わりは見えない。
けれど、有羽の胸の内には、確かにワクワクがあった。
この世界で、新しい味を、自分の手で組み上げていく楽しさ。
(あー……これで米があれば最高なんだけどな)
ふと、頭をよぎるのは、まだ出会えていない「白い主食」。
カレーと米。
日本にいた頃は当たり前すぎて、ありがたみを感じなかった組み合わせ。
今は、その「当たり前」が何より遠い。
そんなことをぼんやり考えながら、瓶を棚に戻した時――。
「……あれ?」
違和感に気付いて振り向くと。
アウローラが、ぽろぽろと涙を流していた。
「お、おい!?」
あまりにも見覚えのある光景に、有羽は思わず声を上げる。
「なんで泣く!? 俺なんかしたか!?」
「ち、違うんだ……」
アウローラは目元を手の甲でこすりながら、鼻をすんと鳴らした。
「有羽ですら、こんなに苦労してるものを……」
カレーの香りがまだ鼻に残る中、言葉を継ぐ。
「私達の国は、再現できるのだろうかって思って……そうしたら涙が……」
うっ、と胸の奥が詰まったような声になる。
「このままだと、入門編のカレーすら食べられないんじゃないかって思ったら……またあれを食べられないなんて、そんなの酷すぎるだろう……!」
ぽたぽたと、涙が床に落ちる。
昨日も似たような泣き方を見た気がする。
理由も似たようなものだった気がする。
有羽は、深くため息をついた。
「あー、もう……」
ポケットからハンカチを取り出し、アウローラの前に突き出す。
「泣くな、この食いしん坊王女さんが」
「う、うるさい!」
アウローラはハンカチをひったくり、勢いよく目元を拭う。
「仕方ないだろ! 本当に美味しかったんだ! あれをもう一度食べたいと思うのは当然だろ!」
「だからって毎回、将来のカレー供給を想像して泣くなよ……」
有羽は頭をガシガシとかきむしる。
「まだ諦めろって言ってないだろ? レシピのヒントは出してんだから、国の連中が頑張れば、そのうちそれっぽいの作るって」
「それっぽいのじゃ嫌なんだよ!!」
アウローラが、きっぱりと言い返す。
「有羽のカレーがいいんだ! あの味がいいんだ! あんなもの食べさせておいて……責任は取るべきだと思う!」
「いやどういう責任論だそれ!?」
思わず素で突っ込む。
「カレーは悪魔的すぎる! あんなものを森の賢者が軽率に生み出していいのか!? 人類の胃袋が滅ぶぞ!」
「知らねーよ! 胃袋が滅ぶ前に、お前らの理性が滅びてるだけだろ!」
「そうだ! もう滅びかけてる! だからこそだ!!」
「意味分かんねぇよ!!」
ぎゃあぎゃあ、と言い合う声が工房に響く。
さっきまでの甘酸っぱい沈黙が嘘のようだ。
涙目のアウローラと、頭を抱える有羽。
その周囲を、スパイスの香りがぐるぐると漂っている。
ふと、二人とも同時に息を切らして黙った。
目が合う。
一瞬だけ、お互い気まずそうに目を逸らそうとして――。
有羽が、ふっと息を吐いて笑った。
「……まあ、そうやってぎゃあぎゃあ文句言ってくれる方が、俺は楽だけどな」
「な、なんだそれ」
アウローラが拗ねたように口を尖らせる。
「さっきまで、やけに大人しくてさ。ワンピース効果かと思ったけど」
「わ、ワンピース効果とはなんだワンピース効果とは!」
「いや、ほら……」
有羽は曖昧に手を振った。
「さっきみたいに「傍に居るだけで嬉しい」とか真っ直ぐ言われると、こっちの心臓がもたねぇんだよ。こうやってカレーで騒いでるくらいが丁度いい」
「……それはそれで失礼な気がするぞ、有羽」
「うるせぇ。王女さんも本音ダダ漏れだからおあいこだ」
「ぐ……」
言い返そうとして、言葉に詰まる。
だが――
(……やっぱり、この感じが一番落ち着くな)
アウローラは、ハンカチで最後の涙の跡を拭いながら、胸の内でそっと思った。
甘い空気に満たされたさっきの朝食の時間は、
間違いなく嬉しくて、幸せで、心臓がうるさかった。
けれど、この「ぎゃあぎゃあ」と言い合って、
最後にふっと笑い合う空気もまた、たまらなく心地いい。
きっと、この空気感こそが――
王女アウローラと、世渡有羽の、一番しっくりくる距離なのだろう。
ただ、それはそれとして――腹は立つ。
「ふ、ふん! 王女に対して失礼なやつだ! 本当なら怒られるんだぞ有羽! 解ってるか!?」
「解ってますよー。だからここに居るんですー」
「ぐぬぬぬぬ」
「……そっちこそ、その呻き声で、王女名乗るんじゃないよ」
「う、うるさい!」
ぷりぷり怒りながら、アウローラは視線を巡らせる。
視界に広がるのは、有羽が調合したスパイスの数々だ。
鼻を少し利かせれば――それだけで、香る。
工房の中を、スパイスの香りがゆっくりと満たしていく。
さっきまでぷりぷり怒っていたアウローラも、棚一面に並んだ瓶や皿を見ているうちに、すっかり目を輝かせていた。
「へえ……こうやって見ると、全部違う形してるんだな」
有羽が、乾燥済みのスパイスを並べた木皿を、ひょいとテーブル中央に移動させる。
粒のままのもの。
細長い鞘のようなもの。
小さな木の実。
細かく砕いた樹皮のようなものまで。
粉にする前の「元の姿」が、そこには勢揃いしていた。
アウローラは、身を乗り出すようにしてそれを覗き込む。
「触ってもいいか?」
「割らなきゃいいよ。齧るのはおすすめしないけどな」
「齧らない!」
軽口を交わしつつ、アウローラはそっと指先で一粒つまみ上げる。
ころりとした、小さな黒い種子。
見慣れた光沢と手触りに、彼女の眉がぴくりと動いた。
「あ、これ!」
ぱっと顔を上げる。
「魔国から輸入してる品だ、間違いない!」
うれしそうに、指先の黒い粒を掲げる。
「いつも粉にして薬に混ぜたり、肉の臭み消しに使ってるやつ! 形も色も、そのままだ!」
有羽が「ほう」と興味深げに覗き込む間に、アウローラは次の皿へと視線を移す。
「……あ、これも!」
細長い鞘状のスパイスを見て、また声を上げる。
「これは魔国の商人が『香りの良い棒』って呼んでるやつだ! 甘い匂いがするから、菓子に混ぜたりしてて……」
さらに別の皿にも目を走らせる。
「あ、これも! これも!」
指さすたびに、顔がお日様みたいにぱあぁっと明るくなっていく。
どうやら、見覚えのある種や実が、思った以上に混ざっているらしい。
有羽は腕を組みながら、その様子を眺めた。
(……ってことは、魔国の交易路を通じて、すでにこっち側にスパイスがちょくちょく流れてきてるってことか)
匂い、形、加工のされ方。
この世界のやり方で、なんとか使い道を編み出していたのだろう。
アウローラは、胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。
「つまり、この辺りの種類の比率さえ分かれば……」
ぱっと有羽の方を向く。
「有羽!」
「駄目」
即答だった。
「まだ何も言ってない! 酷いぞ!!」
「言わなくても分かる。比率教えろってんだろ? だーめー」
有羽は、指先を左右に振ってみせる。
「ケチ!」
ぷい、とアウローラが横を向く。
だが有羽は、肩をすくめながらも、顔には苦笑を浮かべていた。
「作れる、って確証が取れただけで満足しときなさい。俺だって今、苦労して作ってんだから」
「むぅ……」
「むぅ、じゃない。むぅ、じゃ」
口を尖らせたまま、じっと睨んでくるアウローラ。
理屈では、もう分かっている。
有羽は意地悪で詳細を教えないわけじゃない。
一個人の匙加減で、国の食文化と経済が一気に塗り替わる危うさを、誰よりも理解しているからこそ、大元の「正解」を渡さない。
あくまで方向だけ示し、あとは国が自力で辿り着くべきだと考えている。
アウローラとて、一応は王女だ。
一人の天才に国家が依存することが、どれだけ危ういかくらい、いやというほど分かっている。
……それはそれとして、だ。
(カレーは一刻も早く国に広めたい……)
アウローラの心の声は、切実だった。
(そして恒常的に食べられるようにしたい……! 有羽の家に来ないと食べられないなんて、そんな酷い話があるか……!)
うどんでさえ、完全な再現にはまだ遠い。
粉の質、水の質、こね方、寝かせ方――全てが微妙に違う。
そこにさらにカレーという超難題が積まれる。
(生殺しにも程がある……!)
アウローラは、両手を腰に当てて抗議するように言った。
「有羽は酷い。本当に酷い」
「ひどい言われようだな」
「大体、私は有羽の説明を聞いても、全部はよく分からない。私は学者じゃないんだ。有羽の説明は、どれも、チンプンカンプンだ」
「でも、いつもメモ書きして帰ってるじゃん」
「意味の分かんない言葉を、意味の分かんないまま書いてるだけだ!」
アウローラは、思い出して頭を抱えた。
「『なんとか反応』とか『分子』とか『殺菌』とか……! 上手く説明できないし、いつも国の学者たちは頭を抱えている!」
有羽は、どこか申し訳なさそうに頭をかく。
現代日本の科学知識を、魔法文明ベースのこの世界に投げ込んでも、簡単に理解できるはずがない。
百年、二百年かけて、ようやく「概念」として馴染んでいくような話だ。
それでも、それを何とか形にしようとする学者や技術者たちがいる。
紙の上で唸り、魔法陣と睨めっこをし、失敗しては怒鳴られながらも、諦めない連中が。
(どこの世界も、モノづくりしてる奴らは変わらないな)
有羽は心の中で苦笑する。
より優れたものを欲しがるのが、人間。
危うくもあり、同時に、それが生きる活力にもなる。
アウローラはなおも続けた。
「他にも化粧水とか乳液とか……よく分かんないモノばかり! 私がどれだけ、王都で苦労してるか分かってるのか!?」
「いや、知らんし」
有羽は素で返す。
「少しでいいから教えてー、って強請ったのそっちじゃん」
「強請ってない! 当然のことを聞いただけだ!」
アウローラは、ぶんぶんと首を振る。
「あんなの、聞かない方が無理だろう!? 『肌がしっとりする成分』とか、『髪がさらさらになる洗い方』とか、『汚れだけ落として皮膚は守る』とか!!」
その単語の一つ一つを思い出すたびに、王都の光景が脳裏に浮かぶ。
城の一室。
机の前に座らされたアウローラ。
向かいに立つ、上品な笑みを浮かべた姉――第一王女レジーナ。
『自分ばかり森で綺麗になって……悪い子ねぇ』
あの、笑顔なのに目が笑っていない顔。
「ひぃ……」
思い出しただけで、背筋がひやりとする。
「姉上に詰め寄られてだな……「新しい化粧品の話は?」って、何度も何度も……!」
「あー……」
有羽には容易に想像がついた。
森帰りのたびに、肌艶も髪の状態もよくなっていく妹。
侍女隊までそろって一段階美人になっていれば、社交界の頂点にいる姉としては、放っておけるはずがない。
一種のトラウマだ。
姉は好きだが、姉に詰め寄られるのは恐ろしい。
思い出すだけで、身体震えてしまい――。
アウローラは、勢いで言葉を吐き出してしまった。
「もう! 今度、姉上連れてきちゃうぞ! こうなったら有羽が直接、姉上に説明してくれ!!」
それは、本当に「思わず」だった。
心のどこかで、第一王女レジーナをここに連れてくるなんて、現実的じゃないと分かっている。
国王の許可、護衛の問題、森の危険度――
考え出せば、いくらでも障害は挙がる。
だから、本来ならこの一言でまた、いつものように口喧嘩が始まるだけのはずだった。
「姉上連れてくるとか正気かお前」
「正気だ、むしろそれが最善だ!」
そんなやり取りで、ぎゃあぎゃあと一悶着あって終わるはず。
……なのに。
「ああ?」
有羽が、ぽりぽりと頬をかきながら顔を上げた。
いつものような即座の拒絶ではない。
少しだけ間を置いて、溜息まじりの声が続く。
「……ったく、しょうがねぇな」
ゆるんだ声色。
アウローラは、一瞬それが何のことか分からなかった。
「……?」
「いつだよ。王女さんの姉さんが来るの?」
あまりに何気なく、有羽はそう言った。
「……え?」
アウローラの動きが、ぴたりと止まる。
耳が、今聞いた言葉を理解するのを拒んだかのように、頭の中が一瞬真っ白になる。
(……今、なんて?)
外部の人間を迎え入れる――そんな態度を、有羽が取ったのは、これが初めてだった。
「い、いいのか? 姉上連れて来て?」
かろうじて出た声は、いつもの王女らしい張りを欠いていた。
有羽は、まるで大したことではないと言わんばかりに肩をすくめる。
「いいもなにも、王女さんが言ったんだろ?」
「そ、それは……そうだけど……」
「? なによ?」
有羽は、スパイスの瓶を一本手に取り、指でとんとんと叩きながら続けた。
「で、いつ? こっちも準備しなきゃだから、教えて欲しいんだけど」
「…………!」
アウローラは、喉まで出かかった「本当にいいのか」という言葉を、慌てて飲み込んだ。
心臓が、さっきの甘い空気とはまた違った意味で跳ね上がる。
(……落ち着け、アウローラ。これは――とんでもないチャンスだ)
王女としての部分が、必死に自分を引き留める。
レジーナの交渉術は、国で随一。
学問的な知識も、政治感覚も、アウローラを上回っている。
そんな姉を、この森の賢者の元に直接連れて来られる機会。
「森の賢者」と王家が、真正面から話し合う場を作れるかもしれない。
それは、国が大きく動くきっかけになり得る。
(多分、二度とない機会……)
アウローラは、ぎゅっと拳を握りしめる。
(絶対に、返答を間違っちゃだめだ……!)
そして、その「二度と無い機会」を生み出したのは――。
有羽の警戒心を、ほんの少しだけ緩ませた、自分のワンピース姿であり。
それを見て、「可憐だ」と言ってしまった、有羽自身の動揺でもあった。
王女としての自分が、強く警鐘を鳴らす。
同時に、女としての自分も、別の意味でざわついていた。
(姉上を連れてきたら……きっと国は富む。情報も一気に動く。けど……)
今までここは、自分と侍女と護衛だけの「特別な場所」だった。
そこに、尊敬する姉を招きたい気持ちと――
少しだけ、独占したい気持ち。
それらが複雑に絡み合って、胸の内で渦を巻く。
だが、逡巡している時間は長く取れない。
(……連れてくる。姉上を。私は、王国の第二王女でもあるんだ……!)
胸に、何か鋭い剣を刺されたような。
そんな痛みを覚えながら。
あるいは無視しながら。
物事は進む。物語は進んでいく。
本来ならば許可しなかった客人の訪問を。
世界の頁に刻みながら。




