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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第二章

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第24話・砂糖

 

 朝の森は、まだ少しひんやりとしていた。


 ログハウスの外、有羽の魔法で創られた木製の長机が一つ。

 その上には、焼きたてのパンとスクランブルエッグ、軽く炙ったベーコン、温野菜のサラダ、ハーブ香るスープ……そして例によって、人数分よりやや多めに用意された朝食が並んでいる。

 森の匂いと、木と土の匂いと、食欲をそそるベーコンの匂いが混じり合って、空気だけで腹が減りそうだった。

 そのテーブルの片側に、妙にそわそわしている男女が二人。

 世渡有羽と、アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリスである。


「殿下はこちらに。有羽様はこちらに」

「さあさあ、お二人とも。冷めないうちに座ってくださいまし」


 にこにこ顔の侍女達に腕を引かれ、有羽は主なのに何故か逆らえないまま、アウローラの隣の椅子へと押し込まれていた。


(なんで俺が言いなりになってんだよ、家主俺だろ……?)


 心の中でツッコミは入れるが、口には出ない。

 出せない。さっきの一言が、まだ喉元に引っかかったままだった。


『……可憐だ』


 たった一言。それだけなのに。

 言った本人も驚くほど自然に口からこぼれたその評価は、今になって有羽の脳内で何度もリピート再生されている。


(あー……思い出しただけで死にたい……なんだよ可憐って……ドラマかよ……)


 思い出すたびに、じわじわと耳まで熱くなっていく。

 だから、有羽は顔をそらしていた。アウローラの方から、全力で。

 一方その隣では、ワンピース姿の王女が、やっぱり顔を真っ赤にしていた。

 視線だけ、何度も何度も有羽の横顔を盗み見ては、そっと逸らす。

 手元のフォークをいじる指先が、いつもより落ち着かない。

 侍女達と護衛は、それぞれ対面側に並んで座りつつも、心の中で一斉に感想を共有していた。


(((これは甘い)))


 だが、誰も邪魔はしない。

 今この瞬間だけは、「仕事という名の別荘通い」ではなく、主と客人の、なんとも言えない空気を味わう時間だと分かっていたからだ。

 少しの沈黙の後、痺れを切らしたのはアウローラの方だった。


「な、なあ有羽……」

「ん」

「どうして……顔を背けるんだ?」


 その声には、不安が混じっていた。

 嫌われたのではないか。さっきの言葉は、冗談だったのではないか。

 そういう恐れが、言葉の端に滲んでいる。

 有羽は肩をビクッと震わせた。


「いや、どうしてもこうしても……あー、待って待って……」


 言葉を濁しながら、さらに顔をそらす。

 アウローラの方は、逆に身を乗り出してくる。

 ワンピースの裾がふわりと揺れて、柔らかな布の匂いがふっと鼻をかすめた。


(やめろ、その距離は本気でやばい)


 心の中で悲鳴を上げながらも、避けきれない。

 テーブルの幅と椅子の位置が、それを許さない。

 そもそも隣同士に座らされた時点で、完全に詰みだ。

 有羽は、ぼそりと、逃げるように呟いた。


「破壊力凄いから、見れないんだって……ああもう」

「……え?」


 アウローラが目を瞬く。

 有羽は、覚悟を決めてちらりと横を見る。

 そこに座っていたのは、昨日までと同じアウローラで、しかしまるで別人のようでもあった。

 いつもの鎧ではない。

 淡い色合いのワンピースが、戦場の英雄ではなく、「一人の若い娘」としての輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。

 さらりと下ろした金髪が、朝日を受けて柔らかく光り、頬は恥ずかしさで桜色に染まっていた。


 まだ咲ききっていない蕾のようで、

 すでに満開の花弁のようでもある。

 その両方を同時に思わせる、どこまでも綺麗な姿。


(そうだよな……王女様なんだよな……うん)


 今さらながら、有羽は実感していた。

 いつも鎧姿でお宅訪問、元気いっぱい突撃してくる、毛並みの良い大型犬みたいな「わんこ王女」。

 美人であることは、とっくに知っていた。

 王族特有の威厳も、ふとした拍子に垣間見えたことがある。

 けれど、こうして「装って」隣に座られると――話は別だ。


(いや、これそういう……普通に、年頃の女の子じゃん……)


 有羽も、22歳の健康な男だ。

 そんな美女が半径数十センチ以内に座っていれば、その、アレだ。

 目のやり場に困る。変なところを見たら失礼だし、かといってずっとテーブルだけ見てるのも不自然だし、じゃあどこ見ればいいんだよと脳が軽くフリーズする。


 視界の端には、ほっそりとした首筋も、ワンピースの襟元からのぞく鎖骨も、ふわりと揺れる裾も入ってくる。

 そこから意識を逸らすほど、逆に意識してしまうのが困る。


 そして何より――。

 アウローラ自身が、一番顔を赤くしていた。

 彼女は自分の胸の鼓動を、うるさいほどに感じていた。


 国事でドレスを着ることなど、日常茶飯事だ。

 今のワンピースより遥かに華美な衣装に身を包ぎ、大広間の視線を一身に浴びたことも、一度や二度ではない。


 けれど、今のこの感覚は、そのどれとも違っていた。

 一番近しいのは、かつての夫――昔馴染みの公爵令息と結婚式を挙げた、あの日の胸の高鳴り。

 誓いの言葉を交わした時、隣に立つ彼を見上げた時、全身を満たしていたあの熱と震え。

 今感じているのは、その記憶に酷似した、けれど少し違う震えだった。


(……これは……恋、なのか……? それとも……裏切り、なのか……?)


 ちくり、と胸の奥が痛む。

 亡き夫の姿が一瞬だけ脳裏をよぎり、すぐに、有羽の横顔と上書きされる。

 その事実に、一層戸惑う。

 再婚の話は、これまですべて断ってきた。

 顔も知らぬ貴族の名が書かれた縁談の書状を破り捨てたことも、一度や二度ではない。

 明確に、亡き夫への操を立てていたから――それが、一番大きな理由だった。


 けれど今。

 森の賢者の隣で、ワンピース姿のまま座っている自分の胸の内は……。


 有羽の傍に居たい。

 有羽が傍に居て欲しい。

 こちらを見て欲しい。

 私を見て欲しい。


 止めようとしても止まらない、そんな脈動だった。

 うつむきかけたその瞬間――。


「失礼」


 テーブルの向こうから、落ち着いた女の声が飛んだ。

 黒髪の美女が一人、椅子からすっと立ち上がる。

 三十路の未亡人侍女長、マルガリータだ。

 すたすたと歩き、有羽とアウローラの傍へ。

 切れ長の瞳が、ちらと有羽とアウローラの表情を一瞥する。

 そして――何の前触れもなく、わしっと有羽の頭を掴んだ。


「うおっ!? ちょっ、おまっ、マルガリータさん!?」


 ガシリ、と有羽の後頭部をホールドすると、そのまま有無を言わさず、ぐいっと顔の向きをアウローラの方へと回す。


「失礼。ですが――」


 ぐっと力を込めて、その瞳をまっすぐアウローラと合わせる形にしてから、マルガリータはにこりと笑う。


「ちゃんと、見て差し上げてくださいませ。有羽様」


 その言葉には、同じ未亡人としての、静かな思慮がこもっていた。

 過去の愛を抱えたまま、それでも新しい誰かを好きになってしまった女の揺らぎを、彼女は痛いほど知っている。

 だからこそ、背中を押す。

 侍女としてではなく、一人の女として。


 アウローラは一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤に染めた。

 有羽もまた、耳まで真っ赤。

 お互い顔を赤くして、見つめ合う。


 何を言えばいいか分からない沈黙が、数秒、数十秒と伸びていく。

 森の風の音と、スープの立ちのぼる湯気が、やけに大きく感じられた。

 先に折れたのは、有羽だった。


「あー、その……」


 喉がからからだ。水を飲みたいが、それを口実に今視線を外したら、きっと一生このまま逃げ続ける気がする。理屈ではなく本能で。

 だから、有羽は逃げない。

 腹を括って、言葉を選ぶ。


「綺麗すぎて見れなかっただけだから……その、心配すんな……」


 しどろもどろになりながらも、なんとか最後まで言い切る。

 アウローラの瞳が、大きく揺れた。


「あ、あぅ……」


 口元が小さく震えて、声にならない音が漏れる。

 一拍おいて、絞り出すように。


「ありが、とう……」


 それだけ言うのにも、精一杯の勇気が必要だった。

 てれりこてれりこ、とでも効果音を付けたくなるほど。

 二人の間に甘ったるい空気が立ち込める。

 その場に居合わせた侍女と護衛隊は、全員が同じタイミングで視線を逸らし、同じタイミングで内心を揃えた。


(((甘い)))


 耐えきれなくなった護衛の一人が、声を漏らす。


「今日の朝飯、砂糖が効き過ぎてるんですが、どうなってるんですかねぇ!?」


 別の護衛が、スープを啜りながら肩をすくめる。


「スープに砂糖なんて入れてないよな……?」

「入れてませんとも。これは、空気の糖度というやつでしょうねぇ」

「誰だよこのメニューに砂糖ぶち込んだやつ!」


 テーブルの端で、そんな小声の漫才が始まる。

 有羽は、たまらずテーブルをドンッと叩いた。


「うるせー! 黙って食いやがれ野次馬ども!!」


 その一喝に、侍女達と護衛隊は一斉に姿勢を正す。


「はっ、申し訳ありません!」


 口では謝りつつも、顔はどこか緩んだままだ。

 その空気に釣られてか、有羽もアウローラも、少しだけ肩の力が抜けた。

 アウローラは、そっとパンをちぎり、スクランブルエッグを少し乗せて口に運ぶ。

 さっきまでより、ずっと味が分かる気がした。


(……甘いのは、朝食じゃないな)


 自分の頬が緩んでいるのを自覚しながら、心の中で苦笑する。

 有羽もまた、スープを一口啜る。

 ハーブの香りと、野菜の優しい甘さが、さっきまでの気恥ずかしさをゆっくりとほどいていく。

 隣では、ワンピース姿の王女が、小さく息を整えていた。

 その横顔は、まだどこか照れくさそうで――けれど、目元は確かに、嬉しそうに笑っていた。


 森の朝は、やけに眩しく、騒がしく、そしていつもより、少しだけ甘い。





◇◇◇





 そして朝食は、静かに――いや、表面上は静かに、慎ましく終わった。


 パンもスープも卵も、全員分きれいになくなっている。

 有羽もアウローラも、きちんと食べた。フォークもスプーンも、皿の上には何ひとつ残っていない。

 ……のだが。


(……何食べたっけ俺)


 有羽は、空になった自分の皿を見下ろして、内心で頭を抱える。

 パンをちぎった記憶はある。スープを飲んだような気もする。

 だが、味がまるで思い出せない。塩味だったのか、ハーブは何を使ったのか、その程度すら霧の中だ。


 刻み込まれているのは、味ではない。

 隣から伝わってくる体温と、視界の端にちらつくワンピースと、さっきの「可憐」の余韻と――どうしようもない気恥ずかしさだけだった。


 アウローラも事情は同じだ。

 フォークを持つ手は礼儀正しく、王女として鍛えた所作で、きれいに食べ終えている。

 だが、口に運ぶたびに意識していたのは料理ではなく、ほんの数十センチ隣から聞こえる息遣いと、スープを啜る小さな音だった。


(……美味しかった、はず、だよな? だって有羽の料理だし……)


 自分で自分にそう言い聞かせるしかない。

 味の記憶より、胸の鼓動の方がよほど鮮明だからだ。

 ふと、テーブルの上を見回すと、侍女達が手際よく食器を片付け始めている。

 護衛達はすでに立ち上がり、椅子をテーブルの下に戻していた。

 このまま黙っていても、いずれは誰かが口を開くだろう。

 そうなる前に、有羽は自分で話題を投げた。


「えと……今日、どうするんだ?」


 声が、ほんの少し上ずった気がして、内心で咳払いする。


「いつもはこの後、森の生態調査してるけど……」


 言いながら、いつもの流れを思い返す。

 アウローラ一行は、この結界内に滞在している間、ほとんど毎日といっていいほど、魔境の大森林の調査に出ていた。

 前人未到、未帰還者多数の世界最大の樹海。

 多種多様な魔物が蔓延り、大陸のど真ん中で黒々と広がる巨大な緑の塊――それが「魔境の大森林」。


 アウローラ達の本来の目的は、その樹海の探査だった。

 有羽と出会ったのも、二年前、その任務の途上でのことに過ぎない。

 それから、任務には「森の賢者スカウト」という項目が追加された。

 けれど根本の目的は今も変わらない。

 王女として、騎士として、王国の未来のために森の情報を持ち帰ること。


 ……のはず、なのだが。


 今日のアウローラは、どう見ても調査に行く格好ではなかった。

 戦場仕様の鎧ではなく、軽やかなワンピース。

 鎧の下に着る簡素なワンピでもなく、王都での外出や茶会にもそのまま出られそうな、ちゃんと選ばれた服。

 腰には剣こそ提げているが、それすらどこか「護身用」に見える。


(こんな格好で木の根っこ跨いで跳びまわったら、裾がぼろぼろになって泣くやつだよな……)


 どう見ても「調査装備」ではなく、「誰かに見せる用の服」だ。

 本人も、それを分かっている。

 アウローラは、一瞬だけ視線を落とした。

 自分のワンピースの裾を、指先でそっと摘まむ。


(……こんな服で、森の奥になんて行ける訳ない)


 そもそも、もし今日も調査に赴くつもりなら、こんな服を選ぶはずがない。

 これは実質、「異性に見せる為だけのワンピース」だ。


 戦う相手は魔物ではない。

 有羽ただ一人。

 今日は、王女でも将でもなく、「女」としての戦いの日だと、自分で決めてきた。


 だが同時に、この大森林では、普通の意味での「デート」など成立しないことも、よく分かっていた。

 有羽の張った結界の外に出れば、そこは魔物の天国。

 人間にとっては、地獄の見本市。

 甘酸っぱい逢瀬を演出してくれるのは、夕焼けでも劇場でもなく、牙と爪と毒針である。

 というわけで、アウローラは少し考えてから、顔を上げた。


「有羽の……仕事を見てみたい」

「俺の?」

「ほら、いつも何かやってるだろう? よく解んない魔道具作ったり、よく分かんない料理試作したり」

「よく分かんないって何さ」


 即座にツッコミを入れつつも、心のどこかで少しだけホッとする。

 森の外に出られないなら、結界の中。

 結界の中でできることといえば――有羽の日常を見ることだ。

 アウローラは、むぅっと唇を尖らせた。


「だって、よく分からないんだ!」


 ぐっと両手を胸元で握りしめる。

 その仕草は、いつも通りの彼女の癖なはずなのに、今日の格好と相まって、とんでもなく可愛らしく見えた。


「有羽の作る物は、いつもよく分からない! 分かるのは凄いってことだけだ!」


 声には、本気のもどかしさが滲んでいる。

 このログハウスで、有羽はいろいろなものを作っている。

 エアコンもどきも、冷蔵庫も、こたつも、風呂も、調味料も。

 最近では、謎の香辛料ブレンドまで増えた。

 だが、その理屈や仕組みは、アウローラにはほとんど分からない。

 「魔法でなんかしてる」「よく分からない配線と魔石がついてる」「でも結果は最高に快適」――その程度の認識だ。

 だからこそ、気になっていた。

 王女としての視点でも、

 戦場を渡り歩いてきた戦士としての視点でもなく――。


 一人の女として、

 「この人は、普段どんな顔で、どんな風に物を作っているんだろう」と。

 有羽は、少し肩をすくめた。


「あー……じゃあ、見学してるか? つまんないかも知れないぞ?」


 普段の作業風景を思い出す。

 魔法陣を描いたり、魔石を削ったり、素材を刻んだり、地味な工程の繰り返しが大半だ。

 華やかな魔法戦闘のような「見せ場」は、ほとんどない。

 しかも、最近の有羽の「作業」は群を抜いて地味。

 魔法云々ではなく、永遠と手作業で行われる、試行錯誤。

 だがアウローラは、椅子の背もたれから少し身を乗り出す勢いで首を振った。


「そんなことない!」


 金髪がふわりと揺れ、ワンピースの布がほのかに香る。


「見てるだけで面白いし、それに……」


 そこで、一度言葉を切った。

 喉の奥に、小さな塊がひっかかる。

 それをどうしても飲み込めなくて、彼女は勇気を振り絞って続けた。



「……それに、傍に居るだけで、嬉しいし」



 その瞬間、有羽の心臓が、ドクンと跳ねた。


 隣で、誰かが小さく息を呑む気配がした。

 きっと侍女か護衛の誰かだろう。

 だが、有羽にはそちらを見る余裕がなかった。


 視線を逸らさなければ、まともにアウローラの顔を見る自信がない。

 視線を逸らせば、今の一言から逃げてしまいそうで嫌だ。

 結局、有羽は、ほんの一瞬だけ彼女を見て――案の定、顔を真っ赤にして、ぎゅっと目を閉じた。


「…………だからさぁ、破壊力凄いんだって」


 自分でも情けないと思う反応しか出てこない。

 それでも、アウローラにはそれで十分だった。

 有羽の耳まで赤いのを見て、胸の奥にじんわりと広がっていくものがある。


(……ちゃんと届いた)


 そこに、亡き夫への裏切りの感覚は、もうほとんどなかった。

 ただ、今この瞬間の自分の感情に、素直になりたいという願いだけがある。


「じゃ、行くか」


 気恥ずかしさに耐えかねたように、有羽が椅子から立ち上がる。

 そうして、自然な仕草で――本当に、ごく自然な動きで、アウローラの方に手を差し出した。


「立てるか?」


 普段なら、「ああ」と反射的にその手を使わず、自分で立ち上がるだろう。

 鍛えた足腰は、そんな手助けを必要としない。


 しかし今日は、ワンピース姿で、さっき「可憐だ」と言われて、今また「傍に居るだけで嬉しい」と自分で口にした日だ。

 アウローラは、少し戸惑いながらも、その手をそっと取った。

 指先が触れた瞬間、二人の肩が同時にわずかに震える。


(あ、温かい……)

(なんか、思ってたより華奢だな……)


 互いにそんなことを考えながら、言葉にはしない。

 そのまま立ち上がると、有羽は彼女の手を離さなかった。

 いや、離すタイミングを逃した、と言うべきかもしれない。


 気づけば、有羽はアウローラの手を引く形で、ログハウスの方へ歩き出していた。

 アウローラも、自然とその歩調に合わせる。

 二人とも、繋いだ手を不自然だとは思いつつ、ほどこうとはしなかった。


 外から見れば、どう見ても恋人同士のそれだと分かるような歩き方で。


 その様子を、侍女隊と護衛隊は、遠慮がちに、しかししっかりと目に焼き付けていた。

 全員、同じタイミングでうつむき、肩を震わせながら。


(((ああもう、見てるこっちがむず痒い!)))


 有羽は、ログハウスの階段を上がる途中で、ふと思い出したように振り返る。


「そうだ。アンタ達はどうするんだ?」


 言いつつも、まだ手は繋いだままだ。

 アウローラは一瞬びくっとしたが、誰もそこには突っ込まない。空気を読んでいるのだ。


「大分、暇になるけど」


 護衛の一人が、待ってましたとばかりに一歩前に出た。


「結界の端の方で、訓練させて貰います」


 その顔は、妙に晴れやかだ。


「いやぁ、今日は訓練が捗りそうだ!」


 別の護衛が、にやりと笑う。


「そうだなぁ、こう……士気が違うというか」

「殿下のご様子を目の当たりにしましたからな。これで何度かは死線も越えられる気がします」

「お前らの訓練、何と戦ってんの?」


 有羽のツッコミに、護衛達はそろって肩をすくめた。


「主に己の煩悩とでございます」

「余計なことを口に出さない訓練も兼ねております」

「今まさに鍛えられておりますとも」

「今ちょっと漏れてるけどな!」


 そんな軽口の応酬も、いつもの光景だ。

 だが今日は、どことなく浮かれた雰囲気が混じっていた。

 次に侍女隊の代表が、ぺこりと優雅に一礼する。


「わたくし達は家周りの掃除をしておきますわ」


 優美な笑顔のまま、すらすらと続ける。


「その後は、家の外に控えておりますので、何かあったらお呼びください」

「外って……」


 有羽は思わず眉をひそめる。


「お前ら、番犬か何かじゃないんだから――」

「番犬でも構いません」


 と、侍女の一人が即答した。


「殿下がお怪我をなさらず、有羽様が無茶をなさらないなら、それで」


 別の侍女が、くすりと笑う。


「それに、わたくし達の仕事は殿下の身の回りの世話ですもの。少し距離を置いて見守るのも、仕事のうちですわ」

「ね、マルガリータ様」


 振られた侍女長マルガリータは、穏やかな笑みを浮かべた。


「ええ。誰かが来た時に、最初に対応する役目もありますからね」

「いや、こんな所、誰も来ない――」

「二年前のわたくし達をお忘れですか? 来る場合もあります」


 その視線は、チラリと二人の繋いだ手に落ちたが、何も言わない。

 目尻だけが、ほんの少し柔らかくなる。


「中のことは、お二人で」


 その一言に、侍女達の内心の総意が詰まっていた。

 両隊とも、にこにこ。

 凄くにこにこ。

 もはや「良い笑顔」というより、「何かを見守る親戚一同」の顔だ。

 有羽は訝しげに目を細める。


「お、おう。解った……じゃあ、後でな」


 一応そう言っておいて、これ以上突っ込むのをやめた。

 何か言えば言うほど、自分で自分の首を絞める未来しか見えない。


「行ってらっしゃいませ、殿下、有羽様」


 侍女達が一斉に裾をつまみ上げて礼をし、護衛達は胸に拳を当てて敬礼する。

 その視線と笑顔に背中を押されるようにして、有羽はログハウスの扉を開けた。

 木製の扉が、ギィ、とわずかに軋む音を立てる。

 中からは、いつもの居住空間の匂い――木材と、乾いたハーブと、微かな魔力の残り香が流れ出してきた。


 有羽はアウローラの手を引いたまま、一歩足を踏み入れる。

 アウローラも、それに続いて中へ入る。

 外から差し込んでいた朝の光が、二人の背中を一瞬だけ縁取る。

 その輪郭が、扉の影にゆっくりと呑み込まれていく。


 ぱたん。

 扉が閉まる音が、結界内に静かに響いた。


 ログハウスの中には、有羽とアウローラのふたりっきり。

 昼前の、まだ少し涼しい時間帯。

 窓から差し込む光が床板を照らし、埃の粒がきらきらと舞っている。

 外では、侍女達が掃除を進め、護衛達が訓練の準備を始めているはずだ。

 しかし、この小さな家の中に届くのは、木のきしむ小さな音と、二人の息遣いだけ。


 中の様子は分からない。


 有羽の「仕事場」としてのログハウス。

 女としての一歩を踏み出そうとしているアウローラ。

 それを、無自覚なまま受け止めてしまっている森の賢者。



 ――二人の行動の詳細は、まだ誰も知らない。




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