第22話・アウローラ、怒りのグルグルパンチ
客間の扉が、ばたん、と勢いよく開いた。
有羽が振り返ると、そこには――さっきまで籠っていたはずのアウローラが立っていた。
目元はほんのり赤く、長い睫毛の先に、まだわずかに涙の名残り。
頬も耳たぶも桃色に染まっていて、しかも肩が小刻みにぷるぷる震えている。
「……あー、えっと。王女さん?」
恐る恐る呼びかけた瞬間。
「ばかばかばかばか!!」
アウローラが、ものすごい勢いで突進してきた。
「うおっ!?」
次の瞬間には、有羽の胸ぐらを掴む勢いで、その拳がぽかぽかと叩きつけられる。
「明日じゃなくていいなら、早くそう言え、ばか!!」
「いてぇなおい! 何すんだ!? いや、正確にはそんなに痛くはないけどさ! 落ち着け王女さん!!」
「うるさい! ばかぁ!! この鈍感っ!!」
ぽかぽかぽかぽか。
拳の一発一発は、もちろんダメージになっていない。
有羽の身体を覆う風の守護は、今はほとんど解いているが、それでも彼の身体能力は常人とは比べものにならない。
だが。
(……すっげぇ鬱陶しい)
ぶっちゃけ、物理的な痛みより、精神的なダメージが大きかった。
胸のあたりを、リズミカルにぽすぽす殴られながら、有羽はただされるがまま。
「ちょ、王女殿下!?」
「殿下、落ち着いてくださいませ!」
侍女たちが慌てて腰を浮かせかけるが、護衛の一人が、そっと手で制した。
「……いい。今は、止めない方がいい」
その声に、侍女たちは顔を見合わせてから、そっと腰を下ろす。
ぽかぽか。
ぽかぽか。
殴ったところで、傷一つつかないのは皆知っている。
それでもアウローラは、子どものように拳を振り続けた。
(……殿下、相当悩んでいらしたものな)
(たった一言、「一日くらいずらせる」と言われただけで、この反応……)
侍女や護衛の胸中には、呆れ半分、愛しさ半分のため息が渦巻いていた。
しばらく一心不乱にぽかぽかやっていたアウローラだったが、やがて腕が疲れたのか、勢いが落ちる。
最後に、胸を一つだけ、ぽふんと叩いてから、くるりと背を向けた。
そして――顔を真っ赤にしたまま、叫ぶ。
「今日はもう寝る!!」
「え、あ、うん?」
「有羽!!」
びしっ、と振り返りざま、人差し指を突きつけてくる。
「明日の朝……見てろよ!!」
「え? 何?」
「ちゃんと見るんだぞ!!」
「だから何が?」
「いいから!!」
言いたいことだけ言い切ると、アウローラはくるりと踵を返し、ぷりぷり怒りながら客間へ戻っていく。
どんどんどん、と地面を踏み鳴らす足音。
そして、ばたん、と勢いよく閉まる扉。
ログハウスの中庭に、残されたのは――ぽつんと立つ有羽と、まったりモードの侍女と護衛たちだった。
「……ねぇ」
有羽が、テーブルの方を振り返る。
「何なの? どうしちゃったの王女さん?」
心底分からない、という顔だ。
侍女たちは、顔を横に逸らしたり、わざと空を見上げたりしながら、くすくすと笑った。
「さあ、何でございましょうか」
一人が、口元を押さえて微笑む。
「殿下の仰る通り、明日の朝にちゃんと見て差し上げればよろしいかと」
護衛の一人が、茶杯を傾けながら肩を竦める。
「男は黙って従うのみですぞ、賢者殿」
「そうそう。こういう時の男は、黙って女の言う事を聞くのが吉です」
「……いやいやいや」
有羽は、心底納得いかないという顔で頭を掻く。
「いや、いいけどさぁ……何なのよ、ホントに……」
ぼやいてみたところで、誰も教えてくれそうにない。
この場に居るのは、全員アウローラ側の人間だ。
有羽は一人だけ、別のゲーム盤に置かれた駒みたいなものだった。
有羽はぶつぶつ言いながら、空になった皿を回収し、台所へ運び出す。
侍女たちも手慣れた動きで洗い場に立つ。もう、この家での「後片付け」の動きは完全に身についていた。
しばらくして、食器を拭き終えた有羽が、ぽん、と手を叩く。
「あ、そうだ」
くるりと振り返り、テーブルの面々を見渡す。
「今晩、麻雀やる人いるー?」
その一言で、空気がガラリと変わった。
「はーい、私やりまーす!」
元気よく手を挙げたのは、若い侍女の一人。
すぐ隣で別の侍女――年上の侍女長が微笑みと共に、挙手。
「わたくしも。さっきのカレーの借りを、点棒で返していただきたいですわ」
「いや、カレーの借りって何」
「満腹感と幸福感で大きく借りを作ってしまいましたから」
「へいへい」
護衛の一人が立ち上がる。
短髪で、陽気な雰囲気のある男。
「よし、今回は俺が行こう」
「お、やる気だね」
「賢者殿に勝てる数少ない機会だからな」
「ハードル上げるなって」
そんなやり取りをしながら、数名がログハウスの中へ移動していく。
家の中から、すぐに「ジャラジャラ……」と、石がぶつかり合うような独特の音が響き始めた。
麻雀牌を混ぜる音。
この異世界に麻雀なんてゲームは存在しない。
だが――有羽が魔法で卓も牌も作り、「遊び道具」として持ち込んでしまった結果、今やアウローラ御一行の滞在中は、ほぼ毎夜の恒例行事になっていた。
夜の暇つぶしに、と有羽がルールを教えたのが始まり。
最初は、皆ぽかんとしていた。
『えっと……同じ種類の牌を三つ揃える、と?』
『そう。それが刻子』
『数字が順番になっているのは……?』
『順子ね』
『……難しいですわ……』
そんな反応だった。
だが、一度理解が進むと――特に侍女隊と護衛の数名は、見事なまでにハマった。
今では、森に滞在しているあいだは、ほぼ必ず夜に誰かが卓を囲むのが恒例になっている。
◇◇◇
ログハウスの大部屋。
中央には、四人が囲むのにちょうどいい高さの卓。
その上には、牌がきれいに並べられ、四方から伸びた手がそれを混ぜている。
ちゃらちゃらちゃら……。
ジャラジャラ……。
「いやあ、いい音だよね。これだけで酒が飲める」
「今は飲んでおられませんけどね」
「雰囲気の話だよ雰囲気の」
席に座るのは――。
東家、有羽。
南家、護衛の一人。短髪で、いつも陽気な男。
西家、侍女の若い方。
北家、侍女隊の長――今年で三十になる、黒髪の美女。名はマルガリータ。
黒髪の侍女長だけ、どこか纏う空気が違う。
背筋は自然に伸び、指先の動きには無駄がない。
(……今日は、あの人が同卓か。気が抜けない)
護衛は内心で戦略を変える。
有羽は――楽しげに笑っていた。
「じゃ、まずは半荘一回。いつも通り、持ち点は二万五千からね」
「「「了解」」」
配牌が始まる。
牌が走る音、配られた牌を整える音。誰も喋らないわけではないが、自然と空気に集中が生まれていく。
(……賢者殿は、基本手堅く行く人)
護衛がちらりと有羽の手つきを見る。
当の本人は、最初の配牌をぱっと開いて、にやりと笑った。
「……くっくっく」
「その笑い方やめていただけます?」
「なんで。楽しいじゃん」
「その笑いが出る時の有羽様、だいたいろくでもない手牌持ってますから」
若い侍女が、じとっとした視線を送る。
最年長侍女は、静かに牌を眺めていた。感情の動きが読みにくいタイプだ。
「じゃ、俺からね」
有羽が、一枚を捨てる。
卓上に牌が置かれる音が、やけにくっきりと響いた。
◇◇◇
しばらくの間、牌の打ち合う音と、時折の小さなため息だけが続いた。
「……くそ、また微妙な手牌だ……」
「欲張りすぎなんですよ、あなたは」
「男は夢を見る生き物なんだよ。倍満ぐらい狙わせろ」
「だからそうやって、殿下に振り込んで飛ばされるんですね?」
「今日は殿下いないから大丈夫」
「あ、そういえばそうでしたわね」
アウローラは、今日は客間に引き籠っている。
麻雀においては「高い役を狙っては振り込んで吹っ飛ぶ」「逆に嵌ったときだけとんでもない大勝をする」という、非常に波の激しい打ち手だった。
今日は、その爆弾がない分、卓上はやや穏やか――に見えた。
だが、嵐は別のところから吹く。
「ロン」
最年長の侍女マルガリータが、静かに告げる。
「發、混一……三千九百」
「うわー、やっぱそこかー」
有羽の呻き。
狙い通り、彼の捨て牌をぴたりと刺してきた形だ。
南家の護衛は、ほっと胸を撫で下ろす。
「いやあ……俺の捨て牌じゃなくて良かった……」
「あなたはさっきから、ずっとベタ降りしてますもの」
若い侍女が呆れたように言う。
護衛は辟易とした様子で口を開いた。
「賢者殿とマルガリータ殿が本気で打ち合ってるときに、素人が突っ込んでいけるわけないだろ……」
「今の姐さんの当たり牌、ちゃんと読めてました?」
「……なんとなく危ないなとは思ってた」
「なんとなく、で止めておけるのなら上出来ですわ」
そして次局。
空気が、さらに張り詰める。
有羽は、守りながら慎重に手を回していた。
配牌から、最年長侍女の手が明らかに「重い」ことを感じ取ったのだ。
(……あの人、本当に怖いんだよな)
彼女の読みは尋常ではない。
牌効率はもちろん、他家の捨て牌、仕草、呼吸のリズム。
そういうものを総合して、「今、どこにどんな危険が潜んでいるか」を直感的に掴んでくる。
この世界に、賭博としての麻雀の歴史はない。
だが、「読み合い」と「駆け引き」の場数を踏んできた大人の女の勘は、それだけで恐るべき武器になっていた。
南家の護衛に至っては――完全に心が折れていた。
(無理だって……あの人、まじで容赦ねぇんだもん……)
最早、現物オンリー。被害に合わないよう逃げ道ばかりを選び続ける。
しかし、その選択は悪手。大事な現物を、早い段階で捨てる愚挙。
とりあえず生き延びようとする……痩せた考え。
話にならぬ甘ったれ……っ!
そのような考え……すぐに餌食……食い物っ……!
故にその結果は無残な物。
残り四巡。安牌ゼロ。
「リーチ」
そこでかかった北家のリーチ。
東家も西家も、まだ勝負を諦めてない。聴牌気配が漂っている。
南家の護衛は、何を切れば良いのか分からない。
しかし。
(これだ……死地に救いの神……! ツモったのは四枚目の九萬……! 槓なんてするものか……一度でも通れば四巡凌げる……! 逃げ切り……っ!)
だがその考えこそ、待つ側からすれば、絶好の罠……っ!
まるで白痴……! 喉笛を自ら差し出す愚行……!
「フフフ……ロン」
再び、柔らかな声が卓に落ちる。
「リーチ・一発・平和・一気通貫・清一」
淡々と手役を数え上げていく最年長侍女。
「……三倍満。二万四千」
点棒が、ごっそりと動いた。
南家の護衛の持ち点は、一気にゼロを超えてマイナスに。
「はい、飛びましたね」
「ぎゃあああああああああああ!!」
護衛が、頭を抱えて卓に突っ伏した。
心なしか、顔が「ぐにゃあ」と歪んでいる気がする。
轟沈……! 護衛、轟沈……っ!
「お疲れさまでした」
若い侍女が、笑いながら肩を叩く。
「姐さん、今日も絶好調ですね」
「そんなことはありませんよ。ただ、少し巡り合わせが良かっただけです」
最年長侍女は、控えめに笑った。
だが、その目には僅かに「獲物を仕留める快感」の光が宿っていた。
「……ほんと、歴戦の強者だよなぁ」
有羽が、感心とも嘆息ともつかない声で呟く。
「魔物より怖いですよ、あなた」
「何を仰います、有羽様。わたくしが怖いのは点棒が減ることだけですわ」
「やだこの人。いつの間にか雀ゴロになってる……」
そんな冗談を交わしながら、夜は更けていく。
◇◇◇
一方その頃。
客間のベッドの上では、アウローラがようやく布団に深く沈み込んでいた。
目元には、さっきまでの涙の跡が、ほんのりと残っている。
だが、眉間の険しさは消えていた。
胸元に抱いているのは、王都から持参した綺麗なポーチ。
その中には、綺麗なワンピースが丁寧に畳まれて入っている。
アウローラは、横向きに丸まりながら、小さく呟く。
「……ばか」
誰にともなく、でも確実に有羽に向けられた一言。
「ほんと……鈍いんだから……」
けれど、その口元には、もう怒りの色はない。
ほっと緩んだ、穏やかな笑みが浮かんでいた。
(明日の朝……ちゃんと、見てくれるかな)
胸の奥が、くすぐったくなる。
少し怖い。
でも、それ以上に楽しみだ。
目を閉じると、森のざわめきが遠くから聞こえる。
結界に守られたこの空間は、驚くほど静かで、あたたかい。
森の魔境のど真ん中とは思えないほど、安心できる場所。
そこで、アウローラの意識は静かに沈んでいった。
ログハウスの外では、星々が瞬き、森の上に、薄い光のベールを敷いている。
焚き火は消えかけ、かわりにランタンの光が、家の中と客間の窓辺を柔らかく照らしていた。
悲壮感も緊張感も、今はどこにもない。
ただ、賑やかで、くだらなくて、少しだけ胸がくすぐったい――。
そんな「いつもの夜」が、この森の奥で、静かに更けていった。




