第21話・壊れた空気
「悪いけど俺、明日から一週間ほど出掛けるから」
さらりと。
本当に、いつも通りの調子で。
「…………」
アウローラの時間だけが、そこで止まっている。
手に持っていた食器が、かすかに震える。
湯気が、ゆらりと揺れて、消えるまでの数瞬――彼女の脳内は、完全に真っ白だった。
(……え?)
聞き間違いかもしれない。
もしくは、別の意味かもしれない。
「出掛ける」という言葉に、別の意味があったかもしれない。
――ない。
他の意味なんて、ない。
過去にも、何度か聞いた言い回しだ。
新しい魔法の実験。
食材の探索。
あるいは、森のどこかで起こっている異変の調査。
理由は様々だが、有羽はこのログハウスに引きこもりっぱなしという訳ではない。
八年間、ずっと森の南部で暮らしてきたが、その間何度も、こうして「少し遠出」を繰り返している。
だから、有羽にとっては、ただの一言。
だが――アウローラにとっては、今日だけは、あまりにも重い一言だった。
「そんな訳でさ」
本人だけが、その重みに一切気付かぬまま、言葉を続ける。
「今回、王女さん達がどれだけ滞在するか分かんないけど……」
有羽は、空になった鍋を片づけながら、いつものようにさらっと言った。
「野菜とか水とか、自由に使っていいからね。保存食もそこそこあるし、台所周りも、もう侍女さん達慣れてるから説明不要だろうし……」
気遣いだ。
そのつもりで言っている。
留守中でもなるべく不便のないように――そう思っての言葉だ。
「何か聞いておきたいことある? 結界のこととか、火の扱いとか」
いつもと同じやり取り。
実際に、過去にも何度か同じような会話があった。
そのたびに、アウローラ達は「じゃあ二、三日だけ滞在して帰ります」「では、留守中、粗相の無いように使わせてもらいます」と、軽いやり取りで済ませてきた。
だから、有羽が、目の前の王女の様子に違和感を覚えなかったのも――無理はない。
むしろ彼は、気を遣っている。
長旅で疲れているだろう一行に、少しでも快適な宿を提供しようとしている。
「…………」
侍女たちは、沈黙した。
護衛たちも、どこか居心地悪そうに視線を逸らす。
(……殿下)
(ああもう……それは、流石に酷でございますわ……)
部下たちは、知っている。
今回、アウローラが荷物に「いつもと違う服」を忍ばせていたことを。
綺麗なワンピース。
ヒラヒラと過剰な装飾はないが、上質な布地と洗練されたライン。
森歩きには不向きだが、ログハウスの中なら十分に着られる――そんな服。
それは、ただの気分転換ではない。
姉レジーナと一緒に選んだ、特別な一着。
(有羽様に、お見せするための服――)
誰も口には出さない。
だが、侍女たちは全員、それを分かっている。
だからこそ、今の有羽の一言が、どれほどアウローラの胸に突き刺さったかも。
(なんてタイミングの悪い……!)
侍女の一人は、心の中でギリ、と奥歯を噛んだ。
有羽に、悪気はない。
そもそも「悪気がある」領域の話ですらない。
アウローラが何度も森に押しかけている。
そのたびに、有羽は自宅を開放し、居心地の良い空間を整えてくれている。
責めようがない。
責める筋合いもない。
ただ――どうして、今日に限って。
よりにもよって、「綺麗な服を見せよう」とアウローラが決心しかけていた今日に限って。
「ん? どったの皆?」
有羽が首を傾げる。
「黙っちゃって……え? なんか変なこと言った?」
何も、変なことは言っていない。
誰も、悪くない。
ただ、間が悪いだけ。
それが一番困るのだ、と部下たちは思った。
沈黙が落ちる。
焚き火の爆ぜる音だけが、ぱちん、ぱちんと軽く響く。
アウローラは――視界の端が、じわりと揺れるのを感じた。
(……着ようと思ってたのに)
森に向かう前、レジーナと交わした会話が、頭の中で何度も反芻される。
『綺麗な服も用意していってきなさい。そしてそれを、賢者様に見せてごらんなさい』
『わたくしの可愛い可愛い妹の、おめかしした姿を見て――少しも心が揺れない男性なんて、居るはずがないわ』
(行こうって……決めたのに)
夕食が終わって、片づけが済んだら。
みんなが眠る前に。
「ちょっとだけ」と言って、有羽を呼び出して。
ログハウスの中か、テラスの端で。
それくらいの段取りを、頭の中で何度もシミュレーションしていた。
着替えるタイミング。
声をかけるタイミング。
最初の一言。
(全部、飛んだ)
今すぐ、やればいい。
急いで着替えて、見せればいい。
そう思っているのに。思考が働かない。
だって明日、有羽はいない。
綺麗な服を着て、有羽と一緒に過ごそうとしていた数日間が。
もう、何処にもない。
胸の奥が、きゅう、と縮まる。
「…………」
椅子が、がたん、と鳴った。
立ち上がったアウローラの表情を、誰も正面から見られなかった。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、椅子から飛び出すように立ち上がると、そのまま食卓から離れ――駆け出していく。
「殿下っ!?」
侍女の一人が慌てて立ち上がった。
護衛も数名、椅子を倒さんばかりの勢いで続く。
「ちょ、ちょっと――!」
慌ただしい足音が庭を横切り、客間へと消えていく。
有羽は、ぽかんと口を開けたまま、それを見送る。
取り残されたのは、食べ終わっていない夕食。
残されたのは、ぽつんと有羽と、数名の侍女と護衛だけ。
「……え?」
かろうじて、その一音だけが、有羽の口からこぼれた。
「ご、ごめん……俺、なんか悪いこと言った?」
おそるおそる尋ねる。
どちらかといえば、「また余計なことを言ってしまったか」くらいの感覚だ。
残った侍女は、難しい顔をした。
(悪くない……有羽様は、何も悪くないのです)
(ただ、本当に……ただ、間が悪かっただけ)
だからと言って、「実は殿下がおめかし用の服を持ってきてまして」とも言えない。
そんなことを暴露してしまっては、あとでアウローラにどれほど詰められるか分かったものではない。
王女付き侍女としての忠誠心と、妙な恥ずかしさと、場を取り繕うべき立場と。
その全てが頭の中でごちゃ混ぜになって――。
「あ、あの、有羽様!」
びくり、と、全員の肩が跳ねた。
声を上げたのは、侍女隊の一人。
年の頃はアウローラと同じくらい、あるいは少し下。栗色の髪を一つに結った、いつもは控えめな彼女が、今だけは勇気を振り絞ったように背筋を伸ばしていた。
「ん?」
有羽の視線が向く。
それだけで、彼女の喉が一度ひくりと動いたが――それでも、引き下がらなかった。
「有羽様に、ご用事があるのは承知しています!」
声が、わずかに裏返る。
隣の侍女が、思わず彼女の袖を引いた。
「ちょ、ちょっと、あなた……!」
小声で「やめなさい」と、厳しく叱責する。
だが、彼女は振り払うように首を横に振った。
ここで何も言わなかったら、一生後悔する――そんな顔をしていた。
唇を噛み、ぎゅっと拳を握りしめて、彼女は続ける。
「……ですが、せめて……せめて一日でも良いのです!」
テーブルの空気が、びん、と張り詰める。
そして勢いよく頭を下げて。
「予定をずらすことは……出来ませんか!?」
言ってしまった。
言った瞬間、彼女は自分の鼓動が耳の奥でがんがん鳴るのを感じた。
王女殿下でもない、自分のような侍女風情が、森の賢者に「予定をずらせ」と頼むなど、本来なら許されざる越権だ。
それは分かっている。
分かっているからこそ、他の侍女たちは表情を引きつらせた。
「あなた、本当に……っ!」
「殿下のお気持ちは分かるけれど、だからと言って……!」
よく通る叱責の囁きが、彼女の耳を打つ。
それでも、彼女は座ったまま頭を下げ、顔を上げなかった。
(せめて、一日……)
思う。
たとえ、この事で叱責されるとしても。
たとえ、この言葉で反感を買ったとしても。
(殿下が、あんなに迷って、あんなに勇気を振り絞って……それなのに、何もないまま背中を押されるように別れるなんて――わたくしは嫌です)
その想いが、彼女の背骨をまっすぐ支えていた。
そして――返ってきた有羽の声は。
「え? まあ、一日くらいなら全然良いけど」
あまりに、あっさりと。
驚いたような、一瞬ぽやんとした呑気なものだった。
「…………」
その場にいた全員が、同時に、ぐたりとテーブルに額を押しつけた。
どん、と木製の天板が揺れる。
緊張感とか、そういう類のものが、全部消えた。
ちょっと待て森の賢者。さっきまでの空気が壊れたぞ。
「お、おい……」
「さっきまでの、あの悲壮感を返してほしい……」
「腰を据えて『殿下の為に我らが直談判を』って覚悟固めてたのに……」
護衛たちが、小声で呻きながら額を押さえる。
侍女たちも、顔を伏せて肩を震わせていた。
さっきまでの緊張感。
覚悟。
「駄目で元々、それでも言わねば」と腹を括った決死の一言。
その全てが、あまりにあっさりと受け入れられたことで、一周回って脱力に変わっていた。
本当にもう……時間を返せと叫びたくなるくらいで。
「よ、よろしいのですか……?」
勇気を振り絞った侍女が、よろよろと顔を上げる。
「何か……大事なご予定があるのでは……?」
有羽は、首をかしげた。
「確かに大事な用事……というか、無視できない用事だけどさ」
湯飲みを持ち上げ、一口啜ってから、気楽な調子で続ける。
「一日ずらすくらいなら別に」
さらり。
「そもそも、正確な日時決められてる訳じゃないしね。明後日に行ったからって怒られる相手じゃないし」
そう言って肩を竦める有羽の横顔は、本当に「その程度」のことだと物語っている。
「ただ、そうだな……感覚的には、『近日中に顔出さないと後でめっちゃ文句言われる』ってだけで」
侍女は、恐る恐る問い返した。
「お礼、というお話でしたが……その、お礼、とは?」
「ああ」
有羽は、ぽんと掌を打った。
「今日カレー食べたじゃん?」
全員の背筋を、さっと何かが走る。
あの、暴力的旨味を誇る料理。
誰の舌にも、さっきまでの香りと辛さが、はっきりと蘇る。
「で、『スパイス使った』って話もしただろ?」
「は、はい……」
頷く声が、侍女も護衛も混ざっていくつも聞こえた。
有羽は、あっけらかんと続けた。何でもない雑談のように。
「このスパイスさ、森の『西』に住む主から貰ってきたもんなんだよ」
「………………は?」
空気が、凍りついた。
一瞬、焚き火の音すら消えたような錯覚さえ覚える。
森の西部。
魔境の大森林の、そのさらに奥。
アウローラたちが目指すことのない領域。
そこには――。
アウローラの部下たちは知っている。
有羽自身が、口を酸っぱくして言い聞かせてきたのだ。
『森の西側には、会話が成り立つ魔物が居る。こっちから攻撃しなきゃ襲われることはない』
『けど、無意味に近づくな。あそこはあいつの縄張りだ』
『俺から見ても「同格」くらいの相手だから』
その言葉を聞いたとき、護衛たちは冗談だと思った。
どれだけ謙遜しても、有羽は有羽だ。森の魔物相手に負ける姿など、想像さえできない。
だが、あまりにも真剣な有羽の目に、やがて彼らは悟った。
――本当に、居るのだと。
有羽が「本気を出さないと勝てるか分からない」レベルの存在が。
「……そ、その、『主』……と仰いましたが……」
護衛の一人が、喉をかすれさせながら問う。
もしかすれば、国を滅ぼせるような竜かもしれない。
古き時代から封じられていた魔神かもしれない。
あるいは、森そのものを喰らうような邪竜か――。
想像は、いくらでも膨らんだ。
そんな彼らの内心を知ってか知らずか、有羽はさらりと説明を続ける。
「えっとね、西の森の、その更に奥に、でっかいオアシスがあってさ」
「お、オアシス……?」
「水場のことですわよね……?」
「そこに、色んなスパイスが大量に自生してる地帯があるんだよ」
さらっと告げられた内容のスケールが大きすぎて、逆に頭に入ってこない。
クミン、コリアンダー、ターメリック――。
昼間、説明された数々のスパイス。
その上、チリペッパーやカルダモンなど、名前さえ聞いたことのない香辛料まで。
「で、その辺一帯を縄張りにしてるのが、西の主ね」
軽い。
あまりにも軽い口調だった。
「そいつに『試作品が出来たら持ってこい』って言われててさ」
そこで、ようやく「お礼」の意味合いが見えてくる。
「だから、今日みんなに出したカレーも……実は西の主への『お裾分け前の試作』ってとこかな」
有羽は、特に悪びれた様子もなく肩を竦める。
「まあ、基本的には借りを作りたくないんだよね、あの人に」
なにせ、「同格」だ。
有羽が全力を出してようやく釣り合えるかどうか、という規模の存在に、一方的に借りを作るのは避けたい。
「だからスパイスを大量に貰ってきた分、お礼としてあっちの頼みも聞く」
そんな風に、彼は言った。
「それが、今回の用事。だから明確な日時は決まってない。明日でも明後日でも、正直どっちでもいい。どうせ片道三日掛かるしね」
ただ、と有羽は指を一本立てる。
「『絶対に近日中に行かなきゃ駄目』ってだけ」
護衛の一人が、ごくりと唾を飲み込んだ。
西の主。
有羽と同格の怪物。
聖騎士ですら「我が聖剣をもってしても太刀打ちできぬ」と評した存在。
魔国全域を見下ろすように、遥か高みに座す「何か」。
それと「借りを作らないようにするための礼」が、今、有羽の口から何気なく語られている。
(そんな相手と、平然と「試作品が出来たら持ってこい」なんて約束を……)
想像しただけで、背筋が寒くなる。
侍女の一人は、思わず自身の腕を抱きしめた。
鳥肌が、さーっと広がっていくのが分かる。
(森の内部では……私たちの常識では測れない何かが、本当に動いている……)
アウローラたちが死ぬ思いで越えている大森林の、その更に奥で。
自分たちが地図に描くことも出来ない領域で。
森を守る者。
森に住まう者。
そして――森そのもののような存在たちが、「常識外れ」の規模で交渉し、やり取りをしているのだ。
(有羽様は……本当に、そういう場所に足を踏み入れていらっしゃるのだわ)
怖い。
でも、それ以上に――誇らしい。
彼女たちは、森に通うたびに鍛えられてきた。
強靭になった。
レベルも上がり、今や将軍級の戦力と言われている。
けれど、こうして話を聞くたびに思い知らされる。
自分たちが見ているのは、まだ「森の入口」に過ぎないのだと。
それでも――。
(この人は、その更に奥で……)
飄々とした黒髪の青年は、そのさらに奥深くで、今日も「ご近所付き合い」の感覚で怪物たちとやり取りしている。
「……というわけで」
有羽が、少しだけ照れくさそうに後頭部を掻いた。
「西の主のところに行くのが、俺の用事。一日ずらせばいいんでしょ? いいよそれくらいなら」
呑気。
侍女も護衛も、最後まで緊張を解けないまま。
有羽だけが、一貫して、森の日常の一コマみたいなテンションで話を締めるのだった。
彼らは知らない。
森の西の主――樹神女帝ドライアド・エンプレスと有羽が、どれほど緩い「ご近所付き合い」をしているかを。
お裾分けのスパイスと、「魅惑の蜜」こと植物用栄養剤を巡る、ゆるゆるの物々交換。
そんな日常が、この魔境のど真ん中で、今日も変わらず続いていることを。
ただ一つ分かるのは――。
アウローラが悲しむ未来が消えた。
それだけが、侍女や護衛達に判明した事実だった。




