第20話・突然の一言
夕闇が濃くなり始めた頃、庭に出された長卓の上に、湯気がもうもうと立ちのぼった。
丸く大きな木椀。
その中には、白く艶やかなうどんの麺。
そして――とろり、とろりと、その上から黄金がかった茶色の汁がかけられていく。
カレーの香り。
それも、昼間のそれとは少し違う。
「はい、お待ちどうさま。こぼすと大惨事になるから、気を付けてねー」
有羽が、一人一人の前に器を置いていく。
器の縁には、まだちょっとだけ煮え立つような小さな泡が残っている。
と、その前に。
「その前に確認だ」
有羽は、椅子に座った一同の服装を、じろりと見回した。
「汚れてもいい服だよな?」
全員、こくこく頷く。
アウローラも、侍女たちも、護衛たちも、今日は森用の丈夫な服だ。
元々、この森林探査に高価なドレスなど一着も持ってきていない。
「よし」
有羽は満足げに頷いた。
「じゃあ遠慮なく啜っていい。……多分、最初は上品に食べようとしても無理だから」
何やら不穏なことを言いながら、最後の一椀を置く。
目の前には、見慣れたうどんとは違う光景が広がっていた。
白いうどんの上に、カレー色のつゆ。
その中を、玉ねぎや肉の欠片が、するりと沈んだり浮かんだりしている。
湯気と共に立ちのぼる匂いは――まぎれもなく、昼に食べたあのカレー。
だが同時に、昼とは違う、どこか落ち着いた、丸い香りも混じっている。
「……いただきます」
アウローラが、そっと箸を取り、祈るように呟いた。
続いて、侍女たちと護衛たちも、声を揃える。
「いただきます」
箸が器に伸びる。
とろりとしたカレーつゆの中から、一本の麺をすくい上げる。
うどんの白に、カレーの色が絡み付く。
黄金がかった茶色が、麺の表面に薄く膜のように纏わりついて――。
ごくり、と誰かが唾を飲み込んだ。
「……ええい」
アウローラが覚悟を決めるように一息吐き、そのまま一気に啜った。
つるっ――
「ふっ……!?」
口に入れた瞬間、まず舌に触れたのは、昼間と同じカレーの香りと、ほのかな辛味。
だが、すぐに違いが押し寄せる。
昼のカレーより、少し軽い。
さらさらしているのに、とろみはしっかり残っている。
そして、口の中にじわりと広がるのは……出汁の旨味。
カレーの暴力的な香りの下で、静かに、しかし確かに主張する「だし」の味。
(……何だ、これ)
アウローラは、目を見開いた。
(確かにカレーだ。昼間のカレーの味が、ちゃんとする。なのに――)
昼のカレーは、重厚な鎧を纏った騎士のようだった。
一撃一撃が強くて、圧倒的で、真正面から殴りつけてくるような存在感。
だが今、口にしているカレーうどんのつゆは――。
(柔らかい……!)
同じカレーなのに、どこか穏やかで、包み込むような味。
出汁という鎹が、全ての尖ったところを丸く整えている。
そこに、もちもちとしたうどんの食感が重なる。
噛むたびに、小麦の甘味と、カレーの風味が舌の上で混ざり合う。
汁を吸った部分と、まだ白さを残す部分。
そのコントラストが、一本の麺の中で幾度も現れては消える。
「な、何だこれ……」
アウローラの喉から、勝手に言葉が漏れた。
「どうして……どうしてだ……!」
隣で護衛の一人が、感極まったように呻く。
「カレーだ。間違いなく、昼間のカレーだ。にもかかわらず……」
湯気越しに器を見つめ、叫ぶ。
「全然違う! 同じものだとは、とても思えない!」
「ベースは確かに、昼のカレーですわ!」
侍女が、箸を止めて断言した。
彼女は日頃から香りや味に敏感だ。
「舌も鼻も、そう告げています。それなのに……全くの別物! 別の料理として完成しておりますわ!」
別の侍女も、うどんを啜りながら、涙目で笑う。
「うどんが……うどんがすごく合いますわ……! カレーを纏わせたうどんが、こんなにも……こんなにも美味しいなんて……!」
器の中から、次々と麺が吸い上げられていく。
誰もが、最初の一口で「熱い」と理解したはずなのに、勢いは一向に止まらない。
「ずずっ……あっつ……!」
「きゃっ、汁が飛びましたわ!」
「ほらな、言っただろ」
有羽は苦笑しながら、あらかじめ用意しておいたタオルを差し出す。
「だから汚れてもいい服で、って条件を出したのさ。これ、綺麗な礼服とかで食べると、本気で泣くからね。特に白い服」
「……なるほど」
汁を拭きながら、侍女たちは顔を見合わせた。
「これが、有羽様が予め汚れても良い服でと念押しした理由ですのね」
「ええ。幸い、森に来る時は、皆丈夫な服しか持ってきませんものね。高価なドレスを持参する者なんて居りませんし」
「まさか、綺麗な服を着られない環境が、功を奏する日が来るなんて……」
くすくす笑い合いながらも、手は止まらない。
うどんを啜る音。
カレーつゆを掬う音。
時折聞こえる、「熱っ」「はふっ」「ああ飛んだ!」という悲鳴混じりの声。
庭の空気は、幸せな喧噪で満たされていた。
そんな中で――アウローラだけが、ふと箸を止めた。
先程、侍女が言った言葉が頭に残る。
綺麗な服。
ぐつぐつと煮えるような器の中を見下ろしながら、そのことを思い出していた。
(……姉上の、言葉)
森へ向かう前。
王都の一室で交わした会話が、鮮明によみがえる。
『ねぇ、アウローラ。賢者様の意思を無下にするのは良くないわ。それは、わたくしも同意見よ』
あの時のレジーナは、いつもの柔らかな笑みを浮かべながらも、目だけはどこか真剣だった。
『でも……いいの? そんな素晴らしい知識を持った賢者様なんだもの。他の国から勧誘があるかもしれないわ』
国からの勧誘。
そして――。
『……いいえ、国じゃなくても。ほかの女性から、言い寄られることがあるかもよ?』
『――やだ』
あの時、頭が真っ白になって、口をついて出た言葉。
今思い出しても、顔が熱くなる。
(……そうだ、持ってきてるんだ)
アウローラは、自分の荷物の中身を思い返す。
いつもの、森用の実用一点張りの服。
騎士団長のような装備。
森を歩くには最適。けれど、「女」としての自分をアピールする要素は、一切ない。
そんな服ばかりの荷物の中に、一着だけ――浮いているものがある。
綺麗なワンピース。
動きやすさも考慮されてはいるが、それでも明らかに、「戦うための服」ではなく「見せるための服」だ。
レジーナと一緒に選んだ。
鏡の前で、何度も着ては脱ぎ、姉にあれこれ弄られながら――。
『これくらいがいいわ。可愛さと大人っぽさの中間。アウローラの魅力が、一番素敵に見えるバランスよ』
あのときの姉の楽しそうな顔を思い出す。
(あれを……ここで、着るのか)
有羽の家は、森の中でも特別な「安全地帯」だ。
魔物は入ってこない。
足元は土だが、テラスやログハウスの床はしっかりしている。
多少裾が長くても、引きずったりはしないだろう。
(……傍に、居てほしい)
その願いだけは、はっきりしている。
かつての夫――戦場で失った公爵令息の影を追っているわけではない。似ているのは、黒髪くらいだ。
性格も、話し方も、生き方も、まるで違う。
もう二年も付き合ってきた。
別人だと、ちゃんと解っている。
(……じゃあ、この気持ちは、何なんだろう)
森から帰る道中。
王都での報告のあと。
ふとした瞬間に思う。
次も、また来たい。
この家に。
この人のところに。
王国の為。
国益の為。
外交の為。
それらを建前にしている自覚も、少しだけある。
本音では――単純に、ここに居ると楽しい。
有羽と話していると、胸が軽くなる。
(……似合ってないって、だけは)
一瞬、心の中で弱音が漏れた。
(それだけは、言われたく、ないなぁ……)
レジーナの言葉が、再び頭に響く。
『わたくしの可愛い可愛い妹が、心を込めて着飾った姿を見て……少しも心が揺れない男なんて、居るはずがないもの』
どうだろう。
本当にそうだろうか。
(……姉上は、そう言うけど)
有羽は、時々、よく解らない。
魔法と料理、生活の工夫に関しては、とんでもない洞察力を見せるくせに。
肝心なところで、ぽかんと首を傾げるようなところがある。
だからこそ――だからこそ、怖くもある。
(意を決して着替えてみて……「ああ、それ、動きにくそうだね」とか、平然と言いそうなんだよなぁ……)
想像してしまって、思わず頭を抱えそうになったそのときだった。
「そうそう」
丁度、器を空にした有羽が、コップの水を一口飲み、何気ない調子で言った。
「悪いけど俺、明日から一週間ほど出掛けるから」
箸を持つ手が、ぴたり、と止まった。
「…………え?」
アウローラの口から、感情の抜けた声が漏れる。
侍女も。
護衛も。
全員同時に、顔を上げた。
庭に、夕闇が落ちていく。
焚き火の赤い光が、皆の顔を照らし出す。
さっきまで、カレーうどんの美味しさにとろけていた表情が、一斉に固まった。
有羽だけが、いつもどおりの、少しだけ疲れた笑みを浮かべていた。
「……え?」
アウローラは、もう一度、同じ言葉を繰り返すしかなかった。
……投稿する話、間違えました。僅か数分ですが、21話を先に投稿してしまいました。
見てしまった方は申し訳ありません。そして、慌てて消してしまったので、書き直しです。21話は明日投稿します。




