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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第二章

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第15話・スパイス地帯



 「スパイス地帯」と呼ばれた一角は、想像以上に広かった。


 オアシスの奥。

 湿った土と浅い水脈が縫う平地に、低木と草本と背の低い樹木が、層をなして広がっている。


 風が渡るたび、空気が一気に騒がしくなる。

 甘い香り。

 鼻を刺すような鋭い香り。

 土を連想させる、重たい香り。

 すっきりとした爽やかな香り。

 それらが折り重なり、息を吸うだけで、口の中にまで味が広がってくるようだった。


「……は?」


 有羽は、思わず足を止めた。

 視線の先。

 細長い種を鈴なりに実らせた草――クミンもどき。

 白い小花をたくさん付けた、セリ科特有の形の草――コリアンダーもどき。

 地面近くに葉を広げ、その下に太い根を隠したターメリックもどき。

 そこまでは、以前、遠目に見ていた通りだ。

 だが、その周囲には――。


「ちょ、ちょっと待て」


 有羽は、左へ二歩、右へ三歩と、スライドするように移動する。


 そこには、縦に長い鞘をいくつもぶら下げた低木があった。鞘の中には細い黒い粒。

 噛んだ途端に爆発しそうな、鋭くて甘い香り――カルダモン。

 少し離れたところには、細長い樹々。

 近づけば、あまりにも馴染み深い、甘くて温かい香り――シナモン。

 さらにその奥、釘のような形をした小さな蕾を、これでもかと付けている低木。

 一つ摘み取れば、じわりと舌を痺れさせる芳香――クローブ。

 赤く尖った実をいくつもぶら下げ、触れただけで指先がひりつきそうな唐辛子。

 細く伸びた葉から、清涼感のある香りを放つタイム。


 他にも、有羽が名前を知っているものから、見覚えのないものまで、香りと色の洪水が視界いっぱいに広がっていた。


「……」


 数秒。

 有羽の脳内で、何かが遅れて爆発した。


「うわー……何してんだ昔の俺」


 頭を抱える。


「ここ、宝の山じゃん。っていうか、宝物庫だよこれ……」


 思わず、その場でくるりと回る。

 視界の右にも左にも、スパイス、スパイス、スパイス。

 風がひと撫でするだけで、香りが層になって押し寄せてくる。

 今までは――遠くから見て「あ、コリアンダーっぽいのがあるな」で、わざと視線を切っていた場所。

 カレーを思い出したくなかったから。


(いや、バカか俺。何で近づかなかったんだよ)


 自分で自分の胸ぐらつかみたい気分だった。

 記憶の引き出しが、自動的に開き始める。


 スパイスカレー。

 キーマカレー。

 バターチキン。

 スープカレー。

 いやそれどころか、カレー以外にも――。


「……カルダモンあるならチャイも……。

 シナモンとクローブあったら、ホットワインとかも……

 いや酒じゃなくても、ジュースで似たの作れそうだ……

 タイムとローリエっぽいのも混ぜれば、煮込み料理が一気にレベルアップするし……」


 呟きながら、涎が出かかる。

 有羽の頭の中で、記憶のレシピ群が総動員されていた。


 スパイスの配合表。

 香りの相性。

 肉との組み合わせ。

 煮込み時間の違いによる味の変化。


 今までは「材料がないから無理」で強制シャットアウトしていた部分が、一気に解放された結果、イメージだけが洪水のように押し寄せてくる。

 近くで見れば見るほど、この地帯は圧巻だった。

 線を引いたみたいに、同じ種類のスパイスがまとまって生えている。

 それは自然ではあり得ない整い方だった。


 女帝が何百年、何千年かけて、少しずつ「植え替え」てきた結果なのだろう。

 一角をカルダモンの群生地に。

 一角をタイムとローズマリー系の香草帯に。

 一角を、辛味の強い唐辛子たちの楽園に。

 「香り」と「効能」と「相性」を基準に、植物たちが配置されている。

 まさに、女帝が作り上げた香辛料の温室――いや、野外植物園。

 その真ん中で、有羽は完全に少年の顔をしていた。


「あ、これもいいな……でも、こっちも捨てがたい……いや、これとこれでブレンド作ったら絶対うまいし……」


 試行錯誤の妄想だけで、何日も潰せそうだった。

 そんな有羽の様子を、女帝は少し離れた場所から眺めていた。

 マネキンのような無表情の樹皮の顔に――今は、確かな「柔らかさ」が宿っている。


『宝か』


 木でできた唇が、ゆっくりと動く。


『宝物庫か……ふふ』


 女帝の足元の草が、さざ波のように揺れた。


『かつて、この地帯まで迷い込んだ人間も、幾人か居た。彼らは皆、この子らを「奇妙な草」と呼んだ。中には、虫除け程度には使った者もいたが……』


 さほど重要視されることはなかった、かつての光景を思い出す。

 人間達は草の判別もつかず、ただ流し見るだけだった。

 しかし、今、夢中になっている有羽は違う。

 まるで、輝く星空を見るような顔――。


『――その子らを宝と称したのは、お主が初めてだ、隠者』


 その言葉は、ひどく小さかった。

 有羽には届かない。

 今の彼は、完全にスパイスの海に溺れている。

 クミンを前にして、カレーのベースを考え。

 カルダモンを前にして、チャイの配合を思い出し。

 クローブを見て、煮込み料理のアクセントに思いを馳せ。


 そして最後に、とんでもないものを見つけて目を剥いた。

 それは――水の浅いところ。痩せた花弁に、赤い柱頭と花柱のサフランもどき。


「サフラン……お前サフランだろおい。こりゃもうパエリア作るしか――」


 口に出した瞬間。


「あ……駄目だ。米が無い」


 有羽は、その場でがっくりと膝に手をついた。

 視界の中で、黄金色のパエリアが、ふわっと湯気を立てたかと思えば、そのまま霧散する。


(何でだよ……何で米だけ無いんだよこの世界……)


 日本人的には、ここが一番重要だ。


 カレーライス。

 オムライス。

 親子丼。

 チャーハン。


 全て、「米」という土台あっての豊かな食文化。

 南部でも、ここ西部でも、海まで見つけたのに。

 なのに、いまだに――稲だけが見つからない。

 有羽の肩が、だらりと落ちる。

 女帝は、その様子を見て、ようやく口を開いた。


『コメ?』


 不思議そうに首をかしげる。


『聞かぬ名だ。どのような子だ?』

「……あー……」


 有羽は、まだ若干魂が抜けかかったまま、説明を始めた。


「えっとね。湿地帯とか、水の張ってあるところに群生する穀物で、細長い茎の先に稲穂がついてさ。その穂にできる種子――籾の外側の殻を取り除いた、粒状のやつを、俺らのところでは『米』って呼んでた」


 手振りを交えて、稲の高さや穂の垂れ方を示す。


「乾燥させて、精米して、研いで、水と一緒に炊いて食べるんだ。味は……そうだな……小麦よりももっちりしてて、でもくどくなくて、味を吸いやすくて」


 言えば言うほど、自分で自分の腹を減らしている気がする。


「カレーライスってのは、その米の上にカレーのソースをかけて食べる料理でさ。カレーといえば米、米といえばカレーってぐらい、セットみたいなもんで」


 ここまで説明して――。


『ああ、あの子らか』


 女帝の口から、あっさりとした声が出た。


『確かにこの付近には無いな』

「え?」


 有羽の眼が、ぱちくりと見開かれる。

 日本人的には、ここは命が懸かっていると言っても過言ではない。


「まさか知ってるの!? ねえ、どうなの女帝さん!!」


 女帝は、さらりと言葉を継いだ。


『西部には無い』


 そこで、指先を東に向ける。


『東部の湿地帯に生えておる。ほら、東の「蛇」めが縄張りとしとる、あそこに――』


 そこまで聞いて、有羽はぐったりと項垂れた。


「やーだー!」


 声が、オアシスの木々にこだました。


「それ、もう無理ってことじゃんかー! やだよー、アイツの縄張りに行くのー!!」


 両手で頭を抱えて、ぐるぐるとその場で回る。

 東の「蛇」。

 有羽の脳内には、魔境東部の主の姿が広がっている。


 見た事があるのだろう。言葉の端々に、拒絶の色が濃く出ている。

 関わりたくない――そんな感情が、容易に想像つく。


『うむ。我も嫌だ』


 女帝も、あっさり同意した。


『近づかなければ問題は無いがな……そもそも、あやつに近寄りたくはない』


 女帝の声に、オアシスの木々がざわざわと揺れる。

 それは、尊敬でも恐怖でもない、「関わりたくない相手」への本能的な距離感だった。

 森の西の主と南の主が、揃って同じ顔をする。


 ――げー、アイツのところー? やだー。


 そんなニュアンスが、空気に滲んだ。


「……米のためだけに、あいつの縄張り突っ切るとか、正気の沙汰じゃないからな……」


 有羽は、しばらく「やだやだ」言い続けて――やがて、息が切れたように、ぺたんと地面に座り込んだ。

 肩で息をしながら、空を仰ぐ。


「仕方ない。カレーは、パン……あるいはナンで食べよう。うん。そうしよう」


 諦めるしかない。


「ああ、さようならカレーライス……」


 胸の前で、そっと掌を組む。

 ささやかな、哀しみの祈りを捧げる。

 女帝は、その様子を黙って見守っていた。

 しばらくして、有羽の顔つきが、ほんの少しだけ真剣なものに変わる。


「でも、そうか……」


 視線が、森の外側――東のほうへ飛んでいく。


「東のアイツは、今も、まんじりともせず陣取ったまま?」

『うむ』


 女帝は頷いた。


『あやつは動かぬだろう。そも、あやつが動けば、我かお主、どちらかが動かねばならん』


 その声には、先ほどの軽さはない。


『あやつは、ただ動くだけでも、森に影響を及ぼしてしまう』


 風向きが、ほんの少しだけ変わる。

 オアシスの葉が、一斉にざわりと鳴った。

 有羽も、同じことを理解している。


「面倒くせぇ……」


 額に手を当てる。


「うん、そうだね。アイツは東で、じっとしていてもらおう。それが平和……じっとしてくれる分には、無害だし」

『うむ。違いない』


 女帝も、しみじみと言う。


『静かに丸まっていてもらいたいものよ』


 二人にしか分からない会話。

 だが、その「面倒くささ」の規模だけは、森じゅうがうすうす感じ取っている。


 そして――有羽の表情が、少しだけ険しさを増した。

 東の話をしている時よりも強い……嫌悪感。


「……北の『アレ』は?」


 今度は、別方向。

 森の北方。


「今も変わらず?」


 その問いに、女帝は一瞬、言葉を選んだ。


『……少なくとも、今は大人しくしておる。暴れる様子は無い』


 慎重に、言葉を置いていく。


『これは、お主のおかげでもある、隠者。四年前、よくぞ『アレ』を抑えてくれた』

「……二度とゴメンだけどな」


 有羽は、露骨に顔をしかめる。


 四年前。

 森の北方で、「何か」が暴れた。


 地面が裂け。

 空が軋み。

 北の空が、血のような色に染まった。


 その惨状を知っている者は、森に住まう者達だけ。

 森の外には、一切知られていない。

 王国も、魔国も、帝国も、神聖国も知らない。

 森の内部の存在だけが――四年前の悪夢を知っている。


 詳細は語られていない。

 語りたくないのかもしれない。

 ただ、その結果として――北の一帯が、他の三方とは質の違う「危険地帯」になったことだけは、事実だ。

 そこには、東の蛇とも、西の女帝とも違う「何か」がいる。

 名を呼びたくないほどの、「アレ」。


「面倒通り越して『嫌だ』」


 有羽は、吐き捨てるように言った。


「『アレ』の相手はしたくない」


 女帝も、静かに同意する。

 しばし沈黙が落ちた。

 オアシスの水音だけが、さらさらと聞こえる。

 だが――その静けさの奥には、二人だけが共有する「約束」が潜んでいた。


『もしも次――』


 女帝が、ぽつりと言葉を紡ぐ。


『『アレ』が動くような事態になったら』


 有羽は、その続きを、当然のように引き取った。


「分かってる。その時は俺と女帝さんで――『アレ』を迎え撃つ」


 南の主と、西の主。

 人間の賢者と、樹神女帝。

 森の中で、唯一「それを口にしていい者」達だけの、静かな取り決めだった。

 もしも北が暴れれば、東も大人しくはしていないだろう。

 森そのものが、崩れる。

 それを防ぐための、最後の盾。

 外の人間達が知らないところで、大森林の均衡は保たれている。

 女帝は、わずかに視線を落とした。


『……願わくば、その時が来ぬことを』

「同感」


 有羽も、息を吐く。


「マジで、平和に腐ってたいんだけど、俺。カレー作ってさ。天ぷら揚げてさ。王女さん達に食わせてさ。それだけでいいんだけど」

『ふふ』


 女帝の喉奥で、微かな笑いが弾けた。


『ならば、今は存分に「腐るがよい」』


 樹皮の指先が、スパイスの群れを示す。


『お主がここで料理をこしらえ、人の子と笑い合うことが――この森のどこかを、確かに穏やかにしているのだから』

「……買いかぶりすぎだろ」


 照れくさそうにそっぽを向きながらも、有羽は立ち上がった。


「とりあえず、今日は『腐る第一歩』として――」


 両手をぱん、と打ち鳴らす。


「このスパイス達を、丁重に持ち帰らせてもらいますよ!」


 そして腕まくり。

 何せ、お宝が山のようにあるのだ。全てを丁寧に採取し、出来るだけ多く持ち帰る。

 もう、北や東のことは、彼の頭の中に無い。

 今、有羽を支配しているのはスパイス達。そしてそのスパイスから生まれるカレーだけ。

 面倒事は取りあえず投げ捨てて――有羽は採取作業に移った。





◇◇◇





 しかし、物事はそう上手くいかないもので。

 帰り支度を整えるはずの有羽の足は、なかなかオアシスから離れなかった。

 それもそのはずで――。


「……入らん」


 肩から提げた鞄の口を、これでもかと広げていた。


 中には、既にいくつもの小袋が詰め込まれている。

 乾燥させたクミンもどき。

 ホールのコリアンダーもどき。

 砕いたターメリックの根。

 少量のサフランもどき。

 それに、試し用に少しずつ分けてもらったカルダモンやクローブ、シナモン、タイムやら何やら――。

 袋という袋がぱんぱんで、今にも縫い目がはじけそうだった。


「どんだけ豊作なんだよ……」


 有羽は、半ば感嘆、半ば悲鳴混じりに呟く。

 足元には、まだ「これも持っていきたい」と選別した袋がいくつか残ったままだ。

 ゲームなら、インベントリが無限にあるタイプ。

 現実では、そんなありがたい仕様は存在しない。


「えー……ここ削るか? いやでも、こいつはこいつで使い道あるし……」


 唸りながら、袋を出したり入れたり。

 見た目は完全に、旅行前に荷造りで苦しむ人である。

 そこへ、女帝の声が落ちた。


『ふむ』


 ささ、と足元の土が蠢く。

 有羽のすぐ後ろで、樹の根と蔓がぐんぐん伸びていく。


『見ておられよ、隠者』


 マネキンのような白木の手が、空中でふわりと舞う。

 それに呼応するように、蔓が複雑に絡み合い、編み込まれていく。

 太い蔓が、しなやかな骨組みを形づくり。

 細い蔓が、それを縫うようにして網目を作る。

 わずか数十秒で――。


「……おお?」


 有羽の目の前に、一つの「形」が立ち上がった。

 蔓で出来た、背負い袋。

 背板に当たる部分には、柔らかな苔と葉がふんわりと張られ、クッションのようになっている。

 肩に掛ける紐は太めで、重さが一点に集中しないよう、幅広く編まれている。

 中央の袋部分は、しっかりとした網目で囲われていて、多少の衝撃ではほどけそうにない。

 ところどころに、小さな木の実や花が飾りのように編み込まれていて、妙に洒落てすらいた。


『即席の背嚢はいのうだ』


 女帝は、さらりと言う。


『我の庭では、重き荷を運ぶ者など居らぬが……お主は人の子ゆえな。枝葉に頼る術を持たぬならば、代わりの枝葉を与えよう』


 有羽は、しばし言葉を失った。

 ぱちぱちと瞬きを三回したあと――。

 思いきり頭を下げた。

 床に額を打ちつける勢いで、ぺこりどころではない。


「ありがとう! マジでありがとう! 女帝さん、マジで女神、いや樹神だけど! ほんと助かる! ありがとう!」


 異世界に来てから、有羽は割と「礼」は言ってきたほうだ。

 しかし、ここまで全力で感謝を表明したのは、そう多くない。

 それくらい、今は嬉しかった。

 だって――。

 スパイスが、もっと持てる。


『ふふ』


 女帝の喉奥から、くすりと笑いが洩れる。


『喜んで貰えたなら、何よりだ』


 蔓の背嚢をそっと持ち上げると、不思議なほど軽かった。

 外見はがっしりしているのに、手に伝わる感触は、空気を掴んでいるようだ。


「すげ……軽っ。何これ。強度大丈夫?」

『我が織ったものだぞ?』


 女帝は、少しだけ得意げに胸を張るような仕草をする。


『この森の風圧にも、あの「蛇」の息吹にも耐えられる。人の子が担ぐ荷など、露ほどの重みもあるまい』

「さらっと恐ろしい耐久テスト出てきたなぁ……」


 ぶつぶつ言いながらも、有羽はさっそくスパイスの小袋たちを、蔓の背嚢に詰めこんでいく。

 まるで、底がないかのように入る。

 形が変わるたびに、蔓が自動的にきゅっと締まり、荷の形に合わせて微妙に調整されていく。

 気づけば、先ほどまで鞄に入りきらなかった袋たちが、すべて背嚢へ収まっていた。


「……夢の装備だ……」


 ちょっと、本気で涙ぐみそうだった。

 背負ってみると、重さはある。

 だが、不思議なほど「肩にこない」。

 重さが背面全体に分散されているのだろう。

 植物の繊維が、揺れに合わせて微妙に伸縮し、衝撃を吸収してくれる。


「これ、俺が死んだあと、絶対遺品として争奪戦起きるやつだよな……」


 一瞬、遠い目になりかけたが、すぐに軌道修正する。


「いや、死ぬ気ないけどね!? まだ! カレー作って食うし!」


 その様子を、女帝は静かに見ていた。

 マネキンのような顔に――ほんの少しだけ、目元の柔らかさが増している。


『さて』


 女帝が、ふと切り出した。


『カレーなるものの、試作品が出来たのなら』


 有羽の視線が、ぱっと向く。


『是非、持ってきてくれ』

「え?」


 有羽は首をかしげた。


「それはいいけど……女帝さん、食えないでしょ?」


 女帝は、平然と頷く。


『うむ。我が食うわけではない』

「じゃあ、誰が?」

『少し、考えがあってな』


 マネキンの顔に、意味ありげな笑みが浮かぶ。

 口角が、じわり、と上がる。

 目元は変わらないのに、どこか愉快げな気配だけが、じわじわとにじむ。


『詳しくは、次来た時に話そう』

「……」


 はっきり言って、怖い。

 真っ暗な夜道でこの顔に出会ったら、間違いなく全力で逃げ出すレベルだ。


(なんで笑顔ってこんなホラーになるんだろ、この人……)


 心の中でだけ突っ込みながらも、有羽は頷いた。


「ま、まあ、いいけどさ。どうせ試作は作るし。持ってくるよ」

『うむ。楽しみにしておる』


 女帝は、そこでふと、付け足すように言った。


『ああ、それと』

「ん?」

『その子らだが』


 ぎっしり詰まったスパイスたちを、ちらりと見やる。


『もしや南部で栽培するつもりもあるのか?』

「え? 駄目? 駄目なら諦めるけど」


 有羽の様子から、南部に帰った後の行動を読み取ったのだろう。

 女帝は軽く諫める。

 だがそれは、栽培の許可を出さないという訳では無く。


『栽培するのは構わんが……おそらく、我の庭ほどよく育たんぞ?』

「う……やっぱり?」


 有羽は、予想はしていたものの、改めて言葉にされて肩を落とした。

 ここは、女帝が何百年、何千年もかけて手をかけてきた地だ。

 土も、水も、風も、光も。

 全てが、スパイス向きに調整されている。

 雑草は、ほとんど見当たらない。

 あるとしても、スパイスと共存できる種ばかりだ。

 病害虫の類も、近くには寄ってこない。

 この環境そのものが、一つの巨大な温室装置のようなものだ。


『ああ』


 女帝は、あっさり肯定する。


『お主も「中々やる」が、我には及ばん』


 さらっと、口にする。


『南部の土と水であれば、「それなり」の子に育つだろうがな』

「それなり、かー……」


 有羽が、微妙な顔になる。

 日本人的感覚で言うところの「それなり」は、「まあ悪くはないけど、別にわざわざ褒めはしない」というニュアンスだ。


『ふふ』


 女帝は、ほんの少しだけ首を傾けた。


『果たして、我の育てた子らを使ったカレーを食べて――』


 わずかに間を置く。


『お主が、「それなり」のスパイスで満足できるのか否か……楽しみだ』


 にやぁ、と。

 木の唇が、ぐい、と大きく裂けるように笑う。

 真意を知らなければ、完全に邪悪な笑みだ。

 闇夜に浮かんでいたら、悲鳴を上げて逃げる自信が有羽にはあった。


「うわぁ、性格悪い」


 思わず、有羽の本音が漏れた。


『誉め言葉と受け取っておこう』


 女帝は、悪戯が成功した子供のように、少しだけ肩を揺らして笑う。


「……でもまあ、確かに、ここまでのスパイス味わったあとで、南部の畑で育てたやつで我慢できるかって言われると……」


 目を伏せる。


「……多分、無理だな」


 食う前から、試す前から、答えは出ていた。

 この香りと、鮮烈さを知ってしまった。

 ここで作るカレーの味を知れば――。


(……また来る羽目になるのか)


 空を仰ぐ。


「……どっちにしろ、またここに来なくちゃいけないのかー……いや、まあ、良いんだけどさー」


 言葉はぐったりしているが、完全に嫌がっているわけではない。

 面倒なのは事実だ。

 南から西へ抜ける道は、上位魔物だらけの地獄みたいな渓谷だ。

 だが、女帝との会話は嫌いではない。ただ距離感が掴み辛いだけ。

 それに――。


『ふふふ……』


 女帝が片手を胸に当て、くすりと笑う。


『その時は、また例の「魅惑の蜜」……あの「栄養剤」なるものを頼むぞ』


 木の指先が、さっき空になった瓶を軽く弾く。

 瓶の内側には、栄養剤の名残がほんのり光っていた。


『あれは実に善き。根も葉も喜ぶ』

「りょーかい。次はもうちょっと量多めに持ってきますよー」


 有羽は、少しげんなりしながらも笑った。


「こっちもカレーの材料もらってるわけだしね。等価交換ってことで」

『うむ。その精神、悪くない』


 ――有羽は、知らない。


 女帝が有羽の野菜栽培や畑の管理について、「中々やる」と評したことを。

 それが、この樹神女帝にとって、どれほどの賛辞であるのかを。

 森と共に生きるエルフたちですら――。


『未熟』


 女帝から見れば、その程度の評価でしかない。


 彼らの畑。

 彼らの森の手入れ。

 細やかなつもりでいて、全体の流れを読めていないところが多々ある。

 厳しい眼で見れば、まだまだ幼い。

 そんな女帝が、「お主も中々やる」と口にした。

 これは、彼女なりの「合格点」だ。


 日本の農業技術の知識があるから。

 勿論それもある。先人たちの知識は偉大だ。

 超常の魔法能力のおかげ。

 それだって原因のひとつ。人知を超えた力があってこその結果。


 だが、それだけで、今の評価が生まれたわけではない。


 この異世界で。

 誰もいない森の中で。

 何年も、何年も、失敗してはやり直し。

 土を変え。

 水の流し方を変え。

 肥料の配合を変え。

 季節を見て。

 日照を見て。

 虫の出方を見て。


 そうやって積み上げてきた試行錯誤の時間は――決して、虚無ではなかった。


 今、有羽の畑に実っている野菜たち。

 有羽自身は「まあまあ」としか言わないかもしれないが。

 樹神女帝という、森の絶対評価者からすれば。


『なかなか、見どころのある畑よ』


 そう認めざるを得ないレベルに、達していた。

 その事実を、今、知る者は二人だけ。

 森の主と。

 森の、少し変わった隠者。

 有羽は、蔓の背嚢の紐を、きゅっと握り直した。


「……よし。とりあえず、今日はここまで。早く帰って、スパイスの下処理しないと」


 振り返れば、オアシスの緑が揺れている。


「じゃ、女帝さん。また来るよ」

『ああ』


 女帝は、樹皮の手をそっと上げた。


『次は、香る料理を携えて来るがよい、隠者』


 有羽は軽く手を振り、渓谷へ向かって歩き出す。

 背中には、蔓で編まれた背嚢。

 中には、ぎっしりと詰め込まれた、香りの宝物たち。



 その一歩一歩が、魔境の大森林に、新たな始まりを連れてくる第一歩になることを――このときの彼は、まだ知らなかった。



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