第14話・樹神女帝
渓谷の空気が、ふっと変わった。
乾いた岩肌の熱気に、別種の湿り気が混じる。
焦げた砂の匂いの向こう側から、柔らかな土と若葉の匂いが、そっと鼻先をくすぐった。
視界の先――そこは、ぽっかりと「口」が開いている。
崖の裂け目のようなその先には、深い緑が覗いている。
さっきまで岩と砂しかなかった世界の中央に、唐突に現れる森。
そこが、西部のオアシス。
そして――。
(ここから先は、あの人の庭だ)
有羽は、入口のほんの一歩手前で足を止めた。
岩の地面は、そこで質感を変えている。
ひび割れた赤茶の岩盤の終端と、苔むした黒い土の始まりが、まるで境界線のようにくっきりと分かれていた。
その境界まで、あと一歩。
片足を伸ばせば簡単に踏み越えられる距離。
だが――踏み入れない。
ここから先は、西の番人の縄張り。
有羽ですら、もしも本気で戦うことになったなら、手加減抜きで「全力」を出すしかない怪物の庭だ。
(入る前に、ちゃんとノック)
有羽は、軽く息を吐き、瞼を閉じた。
魔法で、意識を「飛ばす」。
肉体から、ほんの少しだけ意識の焦点をずらす。
身体感覚を保ったまま、感覚の一部だけを、森の奥へ向けて伸ばしていく。
声ではない声。
音ではなく、波。
空気を震わせるのではなく、魔力の層を「軽く叩く」。
西部全体を包む、巨大な魔力の網。
その一部に、指先で扉をノックするように、そっと触れる。
――おじゃましますよ。
そう告げる意志だけを、そこに乗せる。
この行為を、別の言葉に置き換えるなら「扉のノック」だ。
だからこそ、返答は必ず返ってくる。
『……おや?』
脳裏に、澄んだ響きが落ちてきた。
耳は何も聞いていない。
空気も揺れていない。
それでも確かに、「声」としか表現できない何かが、有羽の意識の内側に響いた。
『隠者? ……珍しい客人もあったものだ』
女性のような声。
ただし、いわゆる「人間の女性」の声とは、どこか違う。
高すぎず、低すぎず。
やわらかいようでいて、どこか木霊のような硬さを帯びている。
中性的、とも違う。
あえて括るなら「女性」と言うしかないけれど、人間の感覚ではぴたりと当てはまる言葉が見つからない異質な声色。
そして、その声に呼応するように――。
有羽の目の前、数メートル先の地面が、わずかに盛り上がった。
「……来た」
境界線の、ちょうど向こう側。
苔むした土の上に、薄緑色の「芽」が、ちょこんと顔を出す。
ほんの親指ほどの小さな双葉。
それが、ひと呼吸置く間もなく、すくすく、と伸び始めた。
細い茎が、あっという間に人の膝ほどの高さになり。
次には、腰の高さ。
胸の高さ。
茎はやがて太さを増し、「幹」と呼ぶべき姿に変わる。
その表面は、なめらかな木質。
木目が流れ、ところどころに蔦のような筋が絡みついている。
幹の上部が、ふくらむように形を変え――肩のラインが浮かぶ。
その両側から、枝のような腕が伸びる。
曲線。
関節。
指先。
腰のあたりでは、幹がくびれ、そこから再び広がって、脚のラインが形作られる。
根が、そのまま脚の形に分かれて、地面に軽く「立つ」。
最後に、頭部。
幹の先端が丸みを帯び、なめらかな楕円体となる。
そこに、細い枝が束ねられたような「髪」が生えた。
髪に相当するのは、柔らかな葉をつけた枝。
その葉は、薄いエメラルドグリーンから濃い緑へと色を変え、風もないのにさやさやと揺れた。
顔の部分は、白木で作られた仮面のようだ。
目にあたる部分に、細い切れ目。
口元に、わずかな線。
彫りは浅く、表面は滑らか。
人形やマネキンと呼んだほうがしっくりくる、「均整の取れた無表情」。
全身が樹々で構成された、精巧なマネキン人形――。
(やっぱ、どう見てもマネキンだよな……)
有羽の知識の中から、もっとも近い表現を持ってくるなら、それが正解だった。
ただ、家具屋のショーウィンドウに立っているそれと違って。
目の前の「マネキン」は、森そのものの延長だった。
葉の一枚一枚に、微細な魔力が宿っている。
指先の動きに合わせて、根の一部が地面の下で広がり、周囲の土壌の状態を確かめているのが、魔力の感覚でわかる。
この西側の主。
西部、最強の魔物。
世界中の森に、稀にしか存在が確認されない樹精霊――その最古の個体。
何千年もの時を生き、竜種さえ赤子扱いする、最強のドライアド。
その名を――樹神女帝と言う。
『随分と久方ぶりだな、隠者』
真っ白なマネキンの顔が、有羽のほうを向いた。
切れ目だけの「目」が、そこにあるはずもない瞳で、有羽をまっすぐに見据えている感覚がある。
『いつ以来であろう? 大樹海の南部に、お前が王国の王女を招き入れた頃か』
「……そんな前じゃないと思うけど」
有羽は、肩をすくめる。
「まあ、久々なのは認める。ちょっと、幾つか欲しいもんがあってさ」
そう言って、肩から下ろしていた小さな木箱を、ひょいと掲げた。
「これ、お土産ね」
『ふむ』
樹神女帝が、一歩、前に出る。
「歩く」というより、「滑る」と言ったほうが近い。
根が地中を滑り、体躯がそれに合わせて前進する。
足音は一切しない。
だが、周囲の木々が、女帝の動きに合わせてさざめいた。
そそそ、と近寄ってくる女帝。
白木の顔が、有羽の差し出した木箱の上に、影を落とす。
彼女は指先――細い枝に似た指を伸ばし、箱の蓋に触れた。
それだけで、ぱちん、と嚙み合わせが外れ、蓋が静かに開く。
中には、三本の小瓶が収まっていた。
無色透明の液体が満ちた瓶。
ラベル代わりに、有羽が魔力で刻んだ印が、うっすらと光る。
汎用型。
根張り強化型。
果実の実り促進型。
『……ほう』
マネキン染みた顔に、ほんのわずかに「色」が宿った。
感情の形が曖昧な、木目の仮面。
だが、その表面に、確かに興味と期待の揺らぎが走る。
『これは……魅惑の蜜の匂いがする』
女帝は、一番手前の瓶を、指先でつまむ。
栓の部分に、ほんの少し魔力を流すだけで、栓がぽん、と音もなく抜けた。
「……ご自由にどうぞ」
有羽が苦笑混じりに言う間もなく、女帝は瓶を傾けた。
指先を液体に浸す。
木の枝のような指が、透明な液体の中に沈む。
次の瞬間。
瓶の中身が、ストローで吸われるような勢いで、みるみる減っていった。
液体が、指を通じて、女帝の身体の中へ流れ込んでいる。
樹木の内部を通う樹液の流れに、そのまま混ざり込んでいくイメージ。
ごぽ、ごぽ、と音がしそうな速度で、中身が消える。
『……ふむ』
無表情だった白木の顔に、わずかな変化。
口にあたる線が、ほんの少しだけ上に持ち上がる。
表情筋があるわけでもないのに、確かに「笑み」に見えた。
頬にあたる部分の木肌には、薄い若葉色の光が差している。
森のあちこちで、かすかな反応が起こる。
女帝の背後に広がる木々の葉が、さやさやと揺れた。
遠くの古木の幹に、ふっと新芽が灯る。
地面に張り巡らされた根の網から、微細な魔力の波が立ち上る。
このオアシス全体に、ほんの少しだけ、みずみずしさが増した。
『甘露なり……』
女帝は、ひとことそう言った。
『おお……これは良い。根にまで染み渡る。枝の先まで息を吹き返す。……まだあるな』
ちらり、と箱の中を覗き込む。
『うむ。うむうむ』
まるで美味しい菓子を前にした子供のように、木の仮面の口元が、少しずつほころいでいく。
(…………)
有羽は、頬を指先でぽりぽりと掻いた。
(……いや、喜んでくれるのは嬉しいんだけどさ)
元がマネキンじみているため、ものすごくシュールだ。
ホラー映画に出てくる人形が、突然にっこり微笑んだような、不思議な怖さがある。
だが、女帝が本心から喜んでいるのは、魔力の波で伝わってきた。
彼女の全身を巡る樹液の流れが、さきほどよりも明らかに軽やかだ。
根から吸い上げる養分と、液体肥料が混ざり合い、新しい活力の渦を作っている。
『隠者』
女帝が、有羽のほうへと視線を戻した。
木目の仮面の奥、そこにあるはずのない瞳が、まっすぐ彼を射抜く。
『これは、良い物だ。森に与えるに足る蜜よ』
「そりゃどーも」
有羽は、肩を竦めつつも、少しだけ胸をなでおろした。
(とりあえず、手土産のチョイスは正解だったな)
初手は上手くいった。マネキン顔の笑顔は怖いが、喜んでいるのは解る。
あとは更に、会話を弾ませていき、最終的な目的地に向かうのみ。
「あー……ところで女帝さん? 門番変えたのね」
『む? ……おお、以前の奴がくたばりおったのでな。新しく竜を従えてみた』
「へー」
呑気な会話。けれど内情は途方も無い。
少なくとも森の外――人間や亜人達の間に、「竜を従える」という想定など存在しない。そんなことが出来る種族など、想定の外だ。
竜は強大な、生物の上位種。それが現実で、それが常識。
だが、この森の主にとっては、新しい番犬を飼った……その程度のもの。
『隠者よ。あの竜はどうであった? 無論、そち相手なら勝てる筈も無いが』
「結構将来性あるんじゃない? 少なくとも、この辺の魔物相手なら負けないだろうし」
『成程の……ま、しばらくはそれで良しか。死ねば変えるだけだしのぅ』
「…………」
平然と、竜の今後を口にする女帝。
一切の情が無い。いや、有羽との会話を見る限り、感情自体はあるのだろう。
だが、その感情の向け方、振舞い方が、人とはかけ離れている。
文字通り、植物染みた機微。不要なら捨てる。必要なら使う。それだけの情動。
(……この辺が、おっかないんだよなぁ……何に怒るのか、未だに掴めん)
内心で舌を出す有羽。
いかに強大な力を持っていても、齢二十二の男に、女帝の心は難解過ぎた。
何気なく踏み出した先に、地雷が埋まっていたりする。
幸いにも有羽は、まだ女帝の怒りに触れたことは無い。
けれど――女帝の怒りに触れた者の末路は知っている。
だからこそ恐れているのだ。この西の主を。
しかし、今は大丈夫。栄養剤を吸って、女帝の気分は良い。
あとは、本題だ。
頬を掻きながら、少しだけ咳払いをする。
「……で、ですね。女帝さん」
『うむ』
瓶の中身をすっからかんにしたまま、女帝はもう一本の栄養剤に手を伸ばしつつ、軽く頷いた。
『頼みがあるのであろう? 貴様がここまで足を運ぶときは、いつもそうだ』
「否定はしない」
有羽は、苦笑するしかない。
「どうですかね? 頼み、聞いてもらえますかね? 出来る範囲でいいんで」
『善き』
女帝は即答した。
『我が与えられるものならば、何なりと』
その声には、いつもよりも柔らかな響きが混ざっている。
先ほど吸い上げた栄養剤が、よほど気に入ったらしい。
女帝は、二本目の瓶――根張り強化型に指を浸しながら、有羽の言葉の続きを待つ。
有羽のほうも、肩の荷をひとつ下ろした。
(よし、交渉の入り口は、これでオッケー)
森の西部を縄張りとする最強の怪物とのやり取り。
それは、世界の歴史から見れば、とんでもない出来事かもしれない。
だが当人たちにとっては――。
たまに顔を合わせる、ご近所づきあい。
庭仕事が趣味の隣家に、肥料を持っていく。
代わりに、庭で採れたハーブを分けてもらう。
感覚としては、その程度の距離感に過ぎなかった。
「じゃあさ――」
有羽は、一歩、境界線のすぐ近くまで踏み込み。
オアシスの緑から吹き出す涼やかな風を胸いっぱいに吸い込みながら、静かに口を開いた。
「森の奥で育ってる、香りの強い「あの種」と「あの根っこ」のこと、覚えてる?」
カレーを求める旅は、ここからが本番である。
◇◇◇
オアシスの空気は、渓谷とは別世界だった。
足元の土はしっとりと湿り、踏みしめるたびに、ほのかに草と水の匂いが立ちのぼる。頭上では、幾重にも重なった葉が陽光を柔らかく散らし、薄い翡翠色の光が揺れている。
小川が、幾筋も、樹の根元を縫うように流れており。
水面では、丸い葉の水草が波紋に揺れ、白や紫の小さな花が、ぽつぽつと浮かぶように咲いていた。
有羽は、その間を、女帝の後ろに続いて歩いていた。
女帝は、歩いている――ように見えて、その実、ほとんど「揺れている」だけ。
彼女の足にあたる部分は、地面と境界が曖昧で、根が地中に溶け、幹だけがすらりと前に滑っていく。
歩くたびに、彼女の足元から新しい草が芽吹き、数歩後ろには、もうその草が元どおりオアシスの一部になっている。
『さて、隠者』
少し前を行く女帝が、木で出来た顔だけをくるりとこちらに向けた。
『お主が求める「カレー」とやら――その仕組みを、もう少し詳しく聞かせてもらおうか』
カレー。
その単語を口にした瞬間、胃がきゅう、と主張してくる。
「……自分で言っておいて腹減ってきたな」
有羽は、内心で呻きながらも、口では淡々と説明を始めた。
「カレーってのは、そうだな……簡単に言うと、複数のスパイスを混ぜて作るソースというか、汁というか」
歩幅をあわせながら、指を折っていく。
「ターメリックみたいな根っこを粉にして色と香りを出して、クミンみたいなやつで土っぽい匂いと食欲を刺激して、コリアンダーっぽいのや、他にも辛味になるやつとか、香りを足して、全体をまとめて……肉とか野菜を一緒に煮込む料理だよ」
女帝は、黙って聞いていた。
女帝の頭上――髪にあたる蔓の先から、小さな葉が何枚もふわりと宙に浮き、ぐるりと円を描いて、彼女の周りを回り始める。
『ふむ。つまり、あの地帯の子ら――あの香草たちの力を、ひとつの器に集め、混ぜ合わせるわけだな』
「そういう感じ。で、身体への影響としては――」
有羽は、記憶からそのまま引き出す。
「便秘の改善、消化促進、解毒、食欲増進、肝機能向上、抗酸化作用、殺菌、鎮痛……ざっとこんなところ?」
列挙しながら、自分でも「何でこんなに出てくるんだろうな」と思う。
再起魔法のせいだ。
かつてネットで読んだ「カレーは健康にいい」系の記事の文面が、ほとんどそのまま脳内再生されているだけだった。
女帝は、その言葉を一つひとつ、舌の上で転がすように「味わって」いた。
『便秘、消化促進、解毒、食欲増進、肝機能向上、抗酸化作用、殺菌、鎮痛……ふむ』
緑がかった樹液色の瞳が、少しだけ細くなる。
『確かに、あの地帯の子らの効能を思えば、そのような結果が導き出されるな』
女帝の周囲に浮かんでいた葉が、一斉にくるりと裏返った。
葉の裏面が淡く光り、そこに緑色の線が走る。
空中に、文字列が浮かび上がった。
この世界の標準文字をベースにしながらも、ところどころに見慣れない「符牒」が混じっている。
女帝独自の、植物専用の魔法記号だ。
光る文字は、彼女の思考に合わせて凄まじい速度で流れていく。
クミンもどきの主成分と効能。
コリアンダーもどきの揮発成分。
ターメリックもどきの色素と血流への影響。
それらが、数式めいた図表として、空中に組み立てられていく。
女帝の指先が、時折、空中の文字に触れ、配合の数字らしきものを書き換えていく。
『これを一対、これを二対……いや、湿度によって変わるな。火の通し方は――ふむ、肉の脂と合わさるか……』
細い木の指先が、さらさらと走る。
風が草を撫でるよりも速く、正確に。
有羽は、その様子を見ながら、ただ感心するしかない。
(相変わらずバケモノだなこの人)
初めて会ったときも驚いたが、何度見ても慣れない。
彼女は、森にあるすべての植物の「性格」を知っている。
どの土壌を好み、どんな虫に食われ、どんな動物の腹を通ったあと、どこで種を落とすのか。
そのすべてを、何千年も観察し続けてきた存在だ。
植物に関して、女帝の右に出る者はいない。
この世界のどの賢者も、どのエルフも、彼女の足元にも及ばない。
『……なるほど』
しばらくして、女帝は指を止めた。
空中に浮かぶ緑の配合表が、ひとつの形にまとまる。
『この配合であれば――各々の子らの効能が喧嘩せず、互いを引き立て合い、なおかつ、人の胃腸には負担が少ない』
淡々と結論を述べ、それから少しだけ顔を上げる。
『見事だ』
樹皮の口元が、またわずかに歪む。
笑っている。
『流石は隠者。あの子らの使い道は、エルフ達でさえ完全には見つけられなんだ』
女帝の声に、オアシスの木々がざわ、と共鳴する。
『あの子は香りだけ、あの子は薬効だけ、あの子は虫除けだけと、皆、役割を切り分けていた。だが――お主は、それらを全て合作させて、新たな「場」を創り出した』
そこで、ほんのわずか、言葉を溜める。
『善き。実に善き』
「あ、あはは……そりゃどうも」
有羽の笑いは、乾いていた。
とてもではないが誇れない。
このカレーの発想が、自分のオリジナルではないのだから。
かつてのインドの誰か。
日本の家庭料理を磨き続けた無数の人たち。
地球の、名も知らぬ料理人たちの積み重ねの上に、自分が乗っかっているだけだ。
だがきっと、女帝に言ったところで、伝わらない――何より、この世界には「地球」という単語の参照先がない。
初めて女帝と出会ったとき、有羽は試しに「別の世界から来た」とそのまま告げてみたことがある。
女帝は、数秒の沈黙ののちに、真顔でこう言った。
『記録にないな』
何千年も世界の森を通して「記録」を眺め続けてきた女帝の知識の中にも、「地球」も「日本」も、「異世界転移」という概念すら存在しなかった。
その事実は、有羽にとって妙な安心でもあり、妙な孤独でもあった。
(そりゃあ、俺のいた世界の歴史なんて、この世界から見たら「別の宇宙の落書き」みたいなもんだしな)
胸の奥に、ほんの少しだけ、苦くて切ないものが浮かび上がる。
故郷の駅前の風景。
コンビニの明かり。
スーパーの総菜コーナーに並ぶ、レトルトのカレー。
再起魔法が、それらを鮮明に蘇らせてしまうせいで、「忘れたフリ」がしづらい。
有羽は、軽く首を振って、意識を切り替えた。
「俺の努力じゃないよ」
自分に言い聞かせるように、女帝にも言う。
「前にも言ったと思うけどさ。昔いたところの料理人たちの知恵を、俺が思い出してるだけ」
女帝は、緑の配合表をふっと消しながら、すぐさま否定した。
『それでもだ』
樹皮の目が、じっと有羽を見据える。
『戻れぬ故国の知識を、この世界に「根付かせて」いるのは、お主だ隠者』
オアシスの土が、ほのかに震える。
まるで、大地そのものが頷いているようだった。
『ならばそれは、紛れもなくお主の知恵でもある。そも――』
女帝は、木の手をゆっくりと広げた。
『他者の知識に頼らぬ者が、世界に一体どれだけ居ようか。我ですら、生まれたばかりの頃は、森の庇護に頼る無力な存在であったのだぞ』
「それって、どれくらい昔の話?」
有羽は、思わず聞き返していた。
女帝は、さも「昨日の夕飯」を思い出すかのような軽さで答える。
『まだ大陸のどこにも、人の国が無かった時代だな。人の子は皆、服すら着ず、洞穴で生活していた』
女帝の淡々とした声。
有羽は、反射的にツッコミを飲み込んだ。
(原始時代かよ……)
とんでもないスケールの昔話だ。
大陸に、まだ王も貴族もいなくて。
村も街もなく、石器と焚き火だけで夜を越していた頃。
その時代に、女帝は「生まれた」らしい。
『その頃の我は、森の片隅で震えているだけの小さな芽であった』
女帝の声に、わずかな懐かしさが混じる。
『風が強く吹けば折れ、虫にかじられれば泣き、獣に踏みしだかれれば、ただただ痛みに耐えるしかなかった』
彼女の足元に、ふっと一本の若木が生えた。
まだ指ほどの太さしかない細い幹。
ひょろひょろと頼りない枝先。
それは、女帝の言う「昔の自分」のイメージなのだろう。
『だが――森は、根を通じて我に教えてくれた』
小さな若木の周りに、他の植物の根が絡み、支えるように伸びる。
『水脈の在り処。肥えた土の見分け方。虫の進路。獣の足跡』
幼い芽に、森全体の知恵が、少しずつ流れ込んでいく。
『我は、それを、ただ受け取っていただけだ』
女帝は、そこでほんの少しだけ肩をすくめる。
『今の我が持つ知識も、多くは森の子らの記憶の積み重ねだ。単に、長く居ただけよ』
そう言ってから、また有羽を見る。
『お主も同じだろう、隠者。昔の世界の料理人とやらの記憶を受け取り、自らの舌と腕で確かめ、今この森で再現している』
「まあ……否定はしない」
有羽は、苦笑した。
完全なオリジナルなんて、本当はどこにもない。
どこかで誰かが作ったものを見て、真似して、少し変えて。
それを繰り返した結果だけが、目の前にある。
『ならば、それを胸を張って「己の知恵」と呼べばよい』
女帝は、さらりと言い切る。
『過去に縛られているわけではあるまい?』
「……まあね」
縛られてはいない。
ただ、時々引っ張られるだけだ。
有羽は、胸の奥のひりつきを、ひとつ息を吐いて追い出す。
ふと、前方の景色が変わる。
オアシスの木々の間が、すこし開けていた。
そこは、小さな「庭」。
背の低い草が、生け垣のように周囲を囲み、その内側には、膝丈ほどの草や、背丈ほどの木々が整然と並んでいる。
葉の形も、茎の色も、どれも微妙に違う。
だが――鼻をくすぐる香りには、はっきりと覚えのあるものが混じっていた。
「……クミンと、コリアンダーと、ターメリックっぽいの。勢揃い、って感じだな」
有羽の感想に、女帝は満足げに頷いた。
『ここが、あの子らの庭よ。さあ、存分に観察するがいい、隠者』
スパイス地帯まで、ようやくたどり着いた。
道中の話は、いつの間にか穏やかで、少しだけ胸に沁みる雑談になっている。
森の女帝と、異世界人の隠者。
カレーという一皿の料理をきっかけに、故郷と世界と、知恵の在り方を語り合いながら――二人は、瑞々しいオアシスの奥へ、ゆっくりと歩みを進めていった。




