第13話・西の魔物達
森が、変わっていく。
同じ「魔境の大森林」のはずなのに、南部とは空気の色が違う。
湿った腐葉土の匂いが、いつの間にか薄れ。
代わりに、乾いた岩肌と、焼けた砂と、鋭い日差しの気配が濃くなる。
見上げれば、頭上の樹冠は少しずつ高さを増し、その合間から、細い青空がひび割れのように覗いていた。
足元の地面は、柔らかな土から、固く締まった岩混じりの土へ。
やがて、露骨な「岩盤」へと変わっていく。
その上を――有羽は、彼視点では『のんびり』と駆けていた。
全力疾走でもなく、散歩でもない。
有羽的には少し早足のジョギング、という気持ち。
だが速度は駿馬に勝る。足場は決して走りやすくはないというのに。
そんな速度でもう三日。食事と睡眠以外の休憩も取らずにだ。
一切の衰えも無く駆け続けている。常人では到達不可能な身体能力。
崩れかけた岩の縁。
乾ききった段差。
縦に割れた断層。
人間が足を滑らせれば、そのまま谷底まで一直線、というポイントがいくらでもある。
それでも、有羽の足取りには、欠片の危うさもなかった。
重力を、ほんのわずかに「いじっている」せいもある。
靴の裏に乗る荷重を、魔法で分散し、岩の上を滑るように走るよう調整していた。
つまり――。
(まぁ、運動不足解消くらいの感覚だよね)
口元に、半端な笑みを浮かべる余裕すらある。
眼前に広がる光景を眺めながら、有羽は心の中でつぶやいた。
(北アフリカのチュニジア……ミデス渓谷ってところか)
脳裏に、鮮明な映像が立ち上る。
かつて日本にいた頃、画面越しに見たドキュメンタリー。
写真集で流し見しただけの風景。
崖の両側に赤茶けた岩が積み重なり、紺碧の空とのコントラストがきつい、あの谷。
有羽の魔法――再起魔法。
記憶を、写真以上の解像度で復元する。
わずか一瞬映った映像でも。
たまたま目に入った雑誌の一ページでも。
それは、有羽の内部に刻まれている限り、呼び出せる。
今、彼の眼前にある光景は、それによく似ていた。
ただし――。
違うのは、「生き物の気配の濃さ」だ。
「でも目的地はまだ先……こっからが面倒くさいんだよなぁ」
有羽が、ごく自然な独り言を零した刹那。
足元よりも一段低い岩棚の影で、砂がもぞりと動いた。
黒い影が、ぬっと姿を現す。
甲殻。
節くれた脚。
臼ほどもある巨大な鋏。
背丈は、馬の胴体ほど。
尾は、有羽の身長の倍以上。
尾の先端には、鈍く湿った光を放つ毒針。
巨大な猛毒サソリ――ダークスコーピオン。
その複眼が、有羽を捉える。
甲高い、擦れたような鳴き声。
次の瞬間、毒針が雷光のような速度で襲いかかってきた。
――が。
「はいはい」
有羽は、首を傾げる程度の動きしかしなかった。
ダークスコーピオンの毒針は、有羽の肩口を狙って突き出され――その手前、数十センチのところで、ぎゅっと空間に押し潰されたかのように止まる。
空気が、鳴いた。
ぱきん、と細いガラスを割るような音が、耳の奥で弾ける。
次の瞬間。
サソリの巨体が、まるで目に見えない何かにひっつかまれたように、上へ、横へと吹き飛んだ。
有羽の身体を中心に、見えない「層」が走っている。
超高密度に圧縮された風。
空気の流れを極端に偏らせ、近づくものを「外側」に向かって弾き飛ばす流線。
それが、ダークスコーピオンの一撃を、いとも容易く飲み込む。
巨大な甲殻が、鈍い音を立てて岩壁にぶつかる。
そのまま、きしむ音と共に滑り落ち――谷底のほうへぽとりと消えていった。
「邪魔」
有羽は、それだけ言った。
その声に応えるように、今度は頭上で空気が裂ける。
上昇気流を切り裂きながら舞い降りてきたのは――獅子の胴体に、鷲の頭。
広げた翼は、三メートル以上。
オピンニクス。
岩場を縄張りとし、上空から獲物を狙う天敵。
鋭い鉤爪と嘴で、馬くらいの大きさなら、骨ごと持ち去るといわれる怪物。
その巨鳥の眼が、有羽の頭上で獰猛に光る。
風を裂く音。
鋭い爪が、上からたたき落とされ――。
やはり、届かない。
有羽の頭上、わずか数十センチの地点で、空気が再びきしんだ。
猛烈な「流れ」が、上から下へ落ちてきたオピンニクスの身体を、そのまま横に滑らせる。
「ブギャッ!?」
飛行する獣の悲鳴が、軽く裏返る。
そのまま、翼ごと空中でくるくると回転し、風の帯に巻き込まれて――やはり、谷の向こう側へと飛ばされていった。
羽根が数枚、ふわふわと落ちてくる。
有羽は、顔にかかりそうになった羽を、鬱陶しそうに手で払った。
「ここの連中、毎回来るたびに、誰かしら突っ込んでくるよな……」
ぼやきつつ足を止めない。
前方、岩場の窪みから、今度は、ぬらりと黒光りする影が顔を出した。
人間と同じ二足歩行。
だが、肌の代わりに鱗。
尾があり、口には鋭い歯列。
普通のリザードマンなら、それだけだ。
しかし、目の前のそれは、違う。
鱗の間から、黒い瘴気が漏れ出している。
皮膚にあたる部分がところどころ腐食し、その隙間から、魔力そのものが漏れ出すかのような、どろりとした黒が覗いていた。
ガビアル。
この西部特有の、闇に侵食されたリザードマンの亜種。
常に瘴気をまとい、その触れたものは、魔力を吸い取られる。
黒い眼が、有羽を一目見ただけで、警戒心を強めた。
喉の奥から、低い警告音。
次の瞬間、その瘴気が、槍のように伸びた。
黒い槍が、有羽の胸を狙って突き出される。
しかし――。
「だからさぁ」
有羽の足元で、そよ風ほどの魔力の揺れ。
圧縮された風の層。
その表面だけが、一瞬、ギュッと握られたように密度を増す。
ガビアルの放った瘴気の槍は、その「層」に触れた瞬間、勢いを失った。
黒い霧がぐしゃりと押しつぶされ、霧散する。
代わりに、風のほうが「反撃」した。
圧縮された空気が、逆方向に解放される。
ぱん、と、小さな破裂音。
それと同時に、ガビアルの身体が、まるで見えない巨大なハンマーで殴り飛ばされたように、横っ飛びに吹っ飛ぶ。
「邪魔だって」
ぼそり。
有羽は、肩越しに吹き飛んでいく黒い影を一瞥しただけで、すぐ前を向きなおした。
ダークスコーピオン。
オピンニクス。
ガビアル。
どれも、人間の冒険者からすれば、単独で遭遇しただけで悲鳴を上げるレベルの「上位モンスター」だ。
レベルにして三十五前後。
まともにやりあうなら、小隊規模のパーティが必要とされる脅威。
この渓谷地帯には、それがゴロゴロいる。
ひとつ倒せば、次の一匹。
視界の外から、さらに別の一匹。
地上、空中、崖の陰。
あらゆる方向から、獲物を狙う眼が光っている。
人類側の探索隊がここを渡ろうとすれば、それだけで地獄絵図になるだろう。
だが――。
有羽にとっては。
本当に、どうしようもなく。
(……面倒くさい散歩道、なんだよなぁ)
その一言に尽きる。
彼の周囲を包む風の層は、常時、目にも留まらぬ速度で流動している。
触れたものを、外側へ外側へと押し流す。
それだけではない。
足元には、転倒防止の重力制御。
衣服には、熱と毒素を遮断する薄い膜。
攻撃・防御・移動補助が、全て「自動運転」で回っている。
有羽は、ただ走るだけ。
ただ「進む方向」を決めるだけ。
それだけで、周囲の魔物たちは、勝手に吹き飛ばされていく。
もちろん、完全に無視していいわけではない。
時折、「層」をすり抜けられそうな奇妙な魔物も混ざる。
そういう相手には、指先から放つ小さな光弾で頭を抜き、あるいは、風の密度を局所的に上げて骨ごと圧し折る。
だが、いちいち立ち止まるほどの苦労ではない。
今も、岩陰から新たな影が飛び出てきたが――。
「……はい、さようなら」
有羽が、視線すら向けずに軽く手を振った瞬間。
風が、一方向に噴き出した。
飛びかかってきた魔物の身体が、空中で体勢を崩され、そのまま岩壁に叩きつけられ、二度と動かなくなる。
血が飛び散る前に、風がそれを下方へ払い落す。
岩に赤黒いシミを残す暇さえ与えない。
有羽は、ひとつあくびをした。
「……あー。眠くなってきた」
淡々と、谷沿いの道を進む。
周囲は、どんどんと「渓谷」らしさを増していく。
左右にそびえる岩壁は、すでに人の手ではどうにもできない高さだ。
赤茶けた岩肌には、風雨に削られた筋が縦横に走り、ところどころに奇妙な形の岩の突起ができている。
頭上を見上げれば、細く切り取られた空。
そこには、澄み切った青と、刺すような日差し。
だが、谷底には、直接の日射しは届かない。
代わりに、熱は岩肌に蓄えられ、じわじわと放射される。
空気は乾いているのに、妙にまとわりつくような熱気。
南部のじっとりとした湿気とは、別種の不快さだ。
「……水分だけ、ちゃんと取っとかないとな」
有羽は、腰のベルトに下げた水筒を軽く叩いた。
中身は、南部の自分の井戸から汲んだ水だ。
魔法で不純物を取り除き、冷気を保つ処理をしてある。
ひとくち飲めば、舌の上に柔らかい甘味が残る、良質な水。
この地獄みたいな渓谷を歩くにあたって、それはちょっとした贅沢でもあり、生命線でもある。
(……まあ、渇いたらその辺の岩から水分抜いて飲めばいいんだけどさ)
それでも、わざわざそんなことをするほど困窮する状況にはなりたくない。
有羽は水筒の位置を確認し、再び前方に視線を戻した。
この先に、目的地がある。
森の西部にしか存在しない、「オアシス」。
渓谷を進んだその先に、唐突に広がる、緑の楽園。
地表に湧き出る泉。
その周囲を取り巻く、一帯の森。
そこに、クミンやコリアンダーもどきが群生している。
同時に――。
「……西の主の、庭、なんだよなぁ」
有羽は、肩をすくめる。
人の価値観では測れない、森の管理者。
圧倒的な魔力と、時間の感覚を持った存在。
知性があり、会話が成立し、友好的に接すれば、こちらを歓迎すらしてくれる。
ただ、未だに距離感を完全に掴めていない。何か一つ選択を誤れば、何が起きるか。
「今回は、ちゃんとカレーのためって目的あるからな……慎重に話しないと」
そんなことを考えながら、有羽は岩場の角を曲がる。
道が、わずかに緩やかになった。
風が変わる。
これまで、乾いた岩の匂いばかりだった空気に――かすかな、緑の匂いが混ざった。
有羽の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「……見えた」
視界の先。
渓谷の向こう側、わずかに開けた場所に、深い緑色の塊が見え始める。
岩しかなかった世界の、ただ中に。
唐突な「森」が、口を開けて待っている。
そこが、西部のオアシス。
そして――話の長い「西の主」が待つ場所だった。
鬱蒼とした樹海が途切れ、そこだけぽっかりと切り抜かれたかのように、青と緑の世界が広がっている。透き通った水をたたえる湖、その周囲を取り巻く瑞々しい草原と低木、ところどころに点在する背の低いヤシのような木々。乾いた瘴気と獣臭に満ちた魔境の空気が、あそこだけは薄く、澄んでいる。
「……おお、やっとオアシス」
世渡有羽は額の汗をぬぐい、息を少しだけ吐いた。
といっても、息は切れていない。ここまでずっと、軽いジョギング程度の運動量でしかない。ダークスコーピオンだのオピンニクスだの、さっきまで飛び出してきた魔物たちは、すべて「進行方向を塞ぐ障害物」として、道端の石ころくらいの扱いで吹き飛ばされてきた。
ただ。
「……ふむ」
有羽は足を止め、わずかに眉を寄せる。
肌に触れる空気が変わった。空気中の魔力密度が、一段階……いや、二段階ほど跳ね上がる。皮膚をなめる風に、目に見えない棘が混じったような、そんな感覚。
さっきまでの連中とは、格が違う。
だが、有羽は、その事実に驚きの表情を見せることはなかった。
軽いジョギングから、短距離走前のストレッチに移るくらいの、わずかな気持ちの切り替え。肩の力を少しだけ抜き直し、逆に意識だけを研ぎ澄ませる。
「……来たな」
独り言のように呟いた直後、影が落ちた。
空が翳る。
有羽はふと顔を上げる。青空を切り裂いて、巨大な緑の影が滑り込んでくるのが見えた。
翼だ。陽光を透かして輝く、巨大な翼。尾を引くように落ちてくるのは、全身をエメラルドグリーンの鱗で覆われた、しなやかな竜の躯だった。
大地の力を宿した地竜ではない。森林に同化する森竜でもない。そのどちらよりも、魔力の質も、純度も、圧力も上。
緑玉竜──エメラルドドラゴン。
人間たちのレベル指数に当てはめるなら、五十越え確定の上位竜。これを討ち取れば、英雄として国中に名を響かせるだろう。「竜殺し」の称号も、謁見の間で授与されるに違いない。
そういう「この世界の常識」は、有羽も一応は知っている。
だからといって、興味があるかどうかは別だが。
「お? 新人か?」
竜が旋回しながら降下してくるのを見上げ、有羽はぽつりと呟いた。
「……へー、今度は竜を門番にしたんだ。やるねぇ」
その声音は、拍子抜けするほど呑気だった。
まるで、研究室に新しく配属された後輩を見るような、あるいはコンビニに入ったばかりのバイトを観察するような、そんな目線。
緑玉竜は、もちろん答えない。
竜に与えられている命令は単純だ。
──オアシスに近づく者を追い払え。あるいは殲滅せよ。
それ以外の思考回路は、そもそも与えられていない。目の前の存在がどれほど異常であろうと、竜は立ち止まらない。
西の主の眷属。忠実なるしもべ。
戦いは、挨拶もなく始まった。
竜の喉元が、ぎらりと輝く。肺の奥底から搾り出された風と魔力が、喉を通る間に圧縮され、圧縮され、それでもまだ押し込まれる。常人の目には見えないはずの風の魔力が、視認できるほどの密度になってゆく。
次の瞬間、それは放たれた。
エメラルドグリーンの光が迸る。陽光をうがつ一本の閃光。空気を焦がし、大気を震わせる緑色の熱線が、一直線に有羽へと突き進んだ。
風の魔力が可視化され、光になっている。それほどまでに集束された破壊の奔流。
普通の魔術師なら、避ける以外に選択肢はない。
だが有羽は──右手を、ふいと突き出した。
何の前触れもなく、何の詠唱もなく。
目の前の空間が、透明な膜のようにきらりと光る。目に見えない壁……いや、「力場」と呼んだ方が近いか。それが、緑の光線を受け止めた。
「お? 結構威力高いじゃん」
軽口とは裏腹に、掌に伝わる手応えは、想定よりもわずかに重い。
本来なら、完全に遮断できるはずだった。構築した力場の計算上、あの程度の熱線なら、ゼロコンマ何秒で拡散させて消せる。
それでもなお、今の一撃は、ほんのわずかに押し切ろうとしてきた。
興味を引くには、十分だった。
焦りではない。むしろ、面白そうな玩具を見つけた子供のような、そんな好奇心が、有羽の脳裏に灯る。
「じゃあ、こっちも少し遊ぶか」
彼の内側で、魔術式が組み上がっていく。
この世界の魔法体系とは、根本から異なる理。魔力の流れに、物理という名の規則を上書きしてゆく。空間座標、ベクトル、反発係数。目に見えない数式が、彼の思考と共に空間へと流し込まれていく。
この世界の誰も知らない記号と概念が、魔力と混ざり合う。
有羽は、少しだけいたずらっぽく口角を上げた。
「■■ ■■」
ぽつりと洩れた言葉は、この世界の誰にも理解できない言語の断片。
その瞬間──空間が、ぐにゃりと歪んだ。
正面から押し寄せていた緑の破壊光線が、有羽の目の前で進路を変える。まるで透明なレールを敷き直されたかのように、光が曲がる。ありえない角度で、ありえない方向へ。
再び直線となった熱線の先にいたのは、有羽ではなく、放った本人だった。
竜の瞳が見開かれたその刹那、緑の光線が竜の胸部を直撃する。
轟音が爆ぜる。緑の鱗が灼け、焦げた匂いが風に乗る。空気が震え、衝撃波が周囲の砂を舞い上げた。
苦悶の咆哮を上げながら、竜は空中でバランスを崩し、ぐらりと体勢を傾ける。
──何だ、今のは。
竜の思考に、初めて「疑問」が生まれた。
風を圧縮して放つことは、竜にとっては呼吸のようなものだ。それに対して、相手が障壁を張り、焼き切られることもある。反発の力場で弾かれることもある。だが。
放った光線が、「方向を変えて自分に戻ってくる」などという現象は、知らない。
空間そのものが捻じ曲げられている。魔力の流れではない。世界の骨組みが、別の形に一瞬組み替えられたような、そんな感覚。
竜に刻まれている本能が告げる。今のは、人の魔法ではない。
空間的反発力場の構築。座標軸の局所的再定義。そんな言葉は竜には分からない。ただ、「自分の理解を超えた理」がそこにあったという事実だけが、強烈な警告として魂に刻み付けられる。
油断を捨て、竜は鋭く視線をたたきつける。
さっきまで立っていた場所にいるはずの人間を、睨みつける──はずだった。
だが、そこには何もいない。
竜は全身の感覚器官を総動員し、知覚を最大限に広げる。視覚、聴覚、嗅覚、魔力感知。あらゆる感度を限界まで引き上げる。
しかし、それでも「それ」は捉えきれない。
何もかも遅かった。
「おやすみ」
耳元で、囁き声がした。
竜が気づいた時には、有羽は既にその背後──首の付け根辺りにまで接近していた。空中に立っているかのように、重力を無視した足取りで。
有羽の右手が、竜のうなじに軽く触れる。
ぱん、と、指先で弾くような、ごく小さな衝撃。
だが、そこから解き放たれたのは、皮膚を貫通し、筋肉をすり抜け、骨の隙間をくぐり抜けて、竜の頭蓋の奥へと直撃する「振動」だった。
竜の強靭な鱗も、分厚い筋肉も、ミスリルすら凌駕する骨格も、その振動を阻むことはできない。装甲は「外からの打撃」には強くても、「内部での揺れ」を止めることはできない。
竜の脳が、容赦なく揺さぶられる。
世界がぐるりと一回転したような感覚。上下も前後も分からない。翼に力が入らない。尾を振ろうとしても、命令が届かない。
──何だ、これは。
竜は、人生で初めて「脳震盪」という概念を身をもって知った。
意識はある。だが身体が動かない。地上への落下を防ぐこともできず、そのまま大地に叩きつけられる。砂が舞い上がり、低い唸り声が漏れる。
死には至っていない。だが、初めて味わう無力感に、竜の心は震えた。
理解する。
目の前の人間──いや、人間の形をした何かは、自分の主と同格の存在だ。
とても勝てる相手ではない、と。
竜の瞳孔が収束する。その視線の先で、有羽はのんびりと背伸びをしていた。
「中々やるのうお主。だが、まだまだ修行が足りぬ。精進したまえ!」
どこかの師匠じみた、冗談めかした口調で言いながら、ひらひらと手を振る。
そのまま、竜を完全に「わんぱくペット」扱いして、オアシスへと足を向けた。
彼にとって、レベル五十を越える上位竜でさえ、道端でじゃれついてくる犬や猫と大差ない。
森の賢者の歩みは、何事もなかったかのように、澄んだ水面へ向かって続いていくのだった。




