第125話・世渡有羽
最初にこの世界へ落ちた時――世渡有羽は、まだ弱かった。
火を出せた。風を操れた。水を湧かせ、大地を割り、光を灯し、闇を伸ばすことすらできた。
思いついた魔法は、たいてい形になった。初めて握ったはずの力なのに、何故か指先は覚えていた。まるで最初からそこに「在った」ものを、ただ思い出しているだけのように。
だから、力だけ見れば異常。
けれど――有羽自身は、ただの子供だったのだ。
まだ中学生の年齢。
部活帰りに、コンビニで何を買うか悩んで、明日の小テストが面倒で、親に言われた宿題を後回しにして、友達とくだらないことで笑っていたような、ただの少年。
剣の握り方も知らず、人を殴ったこともほとんどなく、生きるか死ぬかの選択を迫られたことなど一度もなかった、ただの日本の中学生。
そんな人間が、ある日突然、魔境の大森林のど真ん中に立っていた。
空は高く、木々は異様なほどに太い。
葉は見たこともない形をしていて、空気は湿って重く、鼻を刺す匂いがあった。
腐葉土と樹液と、獣の気配と、血のような鉄臭さが混ざった、ひどく生ぬるい匂い。
最初の数分は、何も理解できなかった。
夢だと思った。
悪質なドッキリか、気絶でもしているのかと思った。
だが、肌にまとわりつく熱も、足元の土の柔らかさも、あまりにも鮮明。
初めて見る異世界の光景。
だから最初は浮かれていた。
まるで冒険小説の主人公になった気分で。
扱える魔法も、自分の思うがまま。万能感に満たされて。
――うお、すげー!
――マジかよ、チートじゃん!
呑気に。文字通り子供のようにはしゃぎながら。
けれど、森の奥から現れた魔物を見て――ようやく、夢ではないと理解した。
四足の獣。
けれど、狼ではない。虎でもない。見た目はどちらにも似ているのに、そのどちらでもない。
口が裂けるように大きく、牙が何重にも並び、眼球だけがぎょろりと動いた。
唸り声を上げ、涎を垂らし、有羽を見つけた瞬間に、飢えたように飛びかかってきた。
あの時、自分がどうやって火を出したのか、有羽は今でも正確には覚えていない。
ただ、怖かった。
怖くて怖くて、死にたくないと叫んで、気が付いたら腕の先から炎が噴き出していた。
獣は燃えた。
簡単に燃えた。
焼けた毛の匂いが広がり、甲高い悲鳴を上げ、地面をのたうち回り、やがて黒くなって動かなくなった。
それを見て、有羽は最初舞い上がった。
恐怖はなかった――正しくは麻痺していた。
心の防御作用。逃避。現実から目を逸らして。
――自分は「生き物を殺した」のではない。
――自分は「モンスターを倒した」のだと。
ゲームと置き換えた。
敵を倒してレベル上げて強くなるゲームと置き換えて……心の平穏を護った。
壊れたくなかったからこそ、意識を歪めた。
これはゲームの延長線上の出来事で、燃えて死んでいくものは単なる「経験値」なのだと認識を変えて。無意識の内に、壊れるのを防いだ。
――もうその時点で、何かが砕けていただろうけれど。
最初の数日は、まだ正常だった。
水を作れたので渇きは遠く。
風を操れたので虫の被害もなく。
土を盛り上げて簡易の壁を作り、雨風凌げる家さえ作れた。
できた。
何でもできた。
あまりにも簡単に。
それが――有羽の中の負債を溜め込んだ。
一か月後には泣きながら夜を過ごすほどに。
どうして自分は、こんなものを使えるのか。
どうして知らない理屈を、最初から知っているのか。
どうして口に出したこともない言葉が、頭の中に最初から並んでいるのか。
分からない。
でも使わなければ死ぬ。
使えば生きる。
だから使う。
自分は魔法を使える。
炎も風も水も大地も、思うがままに操れた。
けれど――有羽自身は弱かった。
あえて言うのなら、「最強の武具」を手に入れた「最弱の村人」だった。
力はある。
だが、その力を扱う自分自身の器が弱い。
恐怖に心を乱される。
血を見れば吐く。
夜になれば眠れない。
音に怯え、影に怯え、少しでも大きな鳴き声が聞こえれば全身が跳ねる。
魔物を倒しても、安心はほんの一瞬で、すぐ次が来る。
魔境の森には魔物が多すぎた。
どれも強大で、なおかつ凶暴。
牙を剥き、爪を立て、飢えた目で有羽を見る。
食らおうとするもの。
殺そうとするもの。
いたぶろうとするように、じわじわ追い詰めてくるもの。
有羽の魔法なら容易く倒せた。
それは事実だ。
だが、逆に言えば、少しでも判断を誤れば、容易く「倒されそう」でもあった。
詠唱が遅れれば噛み千切られる。
障壁の厚みを読み違えれば爪が届く。
眠気に負けて意識が落ちれば、そのまま朝は来ない。
常にそういう場所だった。
昼も夜も関係ない。
森は優しくない。
景色が綺麗でも、月が明るくても、花が咲いていても、そのすぐ近くに死がある。
足音を忍ばせる音。
枝を踏む音。
舌なめずりみたいな濡れた音。
それらが全部、有羽の精神を削っていく。
ゲームだと思い込んでいた逃避行動は、とっくの昔に破綻していた。
当然である。
まだ少年だった。
たった一人で、異世界の森に放り出されたのだ。
常に襲い掛かってくる魔物たち。
頼れる大人も、相談できる誰かもいない。
これで心が壊れないわけがない。
最初に変化したのは、睡眠だった。
眠れない。
眠ってもすぐ目が覚める。
少しでも物音がすると飛び起きる。
飛び起きた瞬間に魔法を撃つ。
何もいない暗闇に向かって火を撒き散らし、風を叩きつけ、息を切らしてから、自分が何もない空間を攻撃していたことに気付く。
次に変化したのは、食欲だった。
腹は減るのに、食べる気が起きない。
口に入れても味がしない。
ひどい時は、水だけで過ごした。
そうやって生き延びていくうちに……一年の時が過ぎる。
その頃、顕著に摩耗したのは記憶だった。
家の匂いが、思い出せない。
朝の食卓の光景が、ぼやける。
母親の声が、遠くなる。
父親の背中が、曖昧になる。
友達の顔が、一人ずつ輪郭を失っていく。
それが、何より怖かった。
死ぬのも怖い。
魔物に喰われるのも怖い。
だが、それ以上に――日本で生きていた自分が、薄れていくのが怖かった。
あそこにいたはずの自分。
学校に通って、ノートを取り、部活で汗をかいて、コンビニの肉まんで火傷して、友達とゲームの話をしていた自分。
その「当たり前」が、少しずつ削れていく。
このままでは、本当に戻れなくなる。
戻れる戻れないの話ではなく、「戻りたい場所」そのものが、頭の中から消えてしまう。
それが、有羽には耐えられなかった。
だから……ある意味で当然だった。
有羽が、あの魔法を作ろうとしたのは。
再起魔法。
記憶を呼び戻す魔法。
失いかけた自分を、もう一度起動するための魔法。
地球で過ごしていた日々を想起し、精神を立て直すための技。
忘れたくない、という執着。
まだ自分が「あっち側」の人間だと思っていたい、という意地。
それだけのために、必死で組み上げた術式だった。
焚火の前で、眠れない夜に何度も何度も考えた。
地面に線を引き、消し、頭の中で構成を反復した。
人の脳は記憶の器だ。
ならば、記憶の再読込は可能か。
記憶の想起を、魔法として固定できないか。
脳ではなく、もっと深いところ――存在の「記録」の層から、自分を引っ張り上げるような構造が作れないか。
今にして思えば、発想の時点でおかしかった。
中学生が、極限状態で、そんなものを思いついてしまうこと自体が異常だ。
だが、あの時は気付かなかった。
気付けるはずもない。
何しろ、縋るものが他になかったのだから。
毎日が地獄だった。
魔物に襲われる現実も。
孤独も。
眠れない夜も。
忘れていく自分も。
だから、有羽はその魔法を組み上げた。
その結果がどうなるかを、考えもせずに。
誰もいない夜だった。
月の光が木々の隙間から落ちて、焚火の赤がかすれて見えるような、酷く静かな夜。
静かなのに、森の奥には何かがいると確信できる、そんな嫌な夜。
有羽は、一人で座っていた。
手が震えていた。
何日眠っていなかったのかも、もう曖昧だった。
目は熱いのに、体の芯は冷えていた。
泣きたいのか、叫びたいのか、眠りたいのか、自分でも分からない。
「……忘れたく、ない」
声に出した時、自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
「忘れたくない……」
家も。
学校も。
日本も。
友達も。
両親も。
自分が何者だったのかも。
全部、消えていく。
その恐怖を振り払うみたいに、有羽は術式を起動する。
再起魔法。
記憶の起動。
過去の想起。
記録の再構築。
魔力が流れる。
術式が通る。
そして――繋がった。
それが全ての分岐点。
再起魔法。
あれこそが、全ての始まり。
有羽はあの時、あの魔法を使うしかなかった。
使わなければ、自分が先に壊れていたのだから。
だから当然だった。
そこに至るのは必然だった。
その結果が、どれだけ残酷なモノだとしても。
◇◇◇
――有羽は、目を覚ました。
最初に感じたのは、布の感触。背中を包む柔らかさ。肩口まで引き上げられた毛布の重み。鼻先をくすぐる、洗いたてのシーツと木の匂い。
ほんの僅かに遅れて、聞き慣れた家鳴りが耳に届く。壁のどこかが小さく軋み、窓の外で葉が擦れ、遠くで鳥か何かが鳴いている。
そこは自室だった。
ログハウス内の、自分の部屋。
いつも通りの天井。いつも通りの壁。見慣れた家具。窓から差し込む、柔らかな日の光。
眠っていたのだと、そこでようやく理解する。
だが、どれほど眠っていたのかは分からない。
半日なのか、一日なのか、もっと長いのか。
そもそも、なぜ自分がベッドの中に横たわっていたのか――その理由すら、すぐには繋がらなかった。
(確か――)
有羽は、ゆっくりと記憶を手繰り寄せる。
クロエからの緊急送信。
アウローラの危機。
何もかもを無視して行った空間跳躍。
大河の上でのアギトとの戦闘。
帝王との会話。
そして――。
急速に、自分の中から喪われていった「何か」。
そこで思考が止まる。
「…………」
有羽は無言のまま身を起こした。
体の辛さは無い。
痛みもない。
怠さも、吐き気も、目眩も無い。
呼吸も普通だ。指も動く。視界もはっきりしている。
けれどあの時、有羽は確かに空洞になっていく感覚を味わった。
血が抜ける、とか。魔力が尽きる、とか。
そんな生易しいものではない。
もっと根源的な何かが、根本から抜け落ちるような感覚。
その崩れゆく意識の中で――誰かが必死に自分を繋ぎ止めていたことを覚えている。
淡い水色の髪。
眼鏡の奥で揺れる必死な瞳。
泣きそうな声。
あれは――
そこまで考えた時。
がちゃり、とドアノブが回る音がした。
扉が開く。
入ってきたのは、水の入った器と、清潔な布を持った女性。
淡い水色の髪。眼鏡。細身の体。知性の気配を纏った、美しい女神。
探求神スキエンティア。
だが、その顔には、これまで一度も見たことがないほど覇気がない。
目の下にうっすら影がある。
髪もいつもより整っておらず、眼鏡の位置もほんの少しずれている。
何より――疲れていた。
神だとか上位存在だとか、そういう肩書きを全部剥ぎ取ったとしても分かるくらいに、ひどく疲れた顔。
そのスキエンティアが、有羽の顔を見る。
「……え?」
スキエンティアが、立ち止まる。
器と布を持ったまま、有羽の顔を見て。
次の瞬間、その両手から力が抜けた。
ばしゃん、と水が床に零れ落ちる。
器が転がり、布が濡れ、木の床の上に水たまりが広がる。
けれどそんなこと、彼女の目にはまるで入っていなかった。
「有羽君――有羽君有羽君有羽くーん!!」
大慌てで駆け寄ってくる。
椅子に足をぶつけるのも構わず、ほとんど飛びつくような勢いでベッド脇へ辿り着くと、そのまま有羽の手を握った。
ぎゅう、と。
壊れ物でも扱うように。
温もりが本物かどうか、何度も確認するように。
「うわーん! 良かった……良かったよぉ……!」
ひんひんと泣きながら、スキエンティアは有羽の無事を喜ぶ。
肩が震えている。
泣き顔はぐしゃぐしゃで、美人が台無しだ。
けれど、その乱れた姿こそ、今の彼女の本音を雄弁に語っている。
「全然起きなくて……わたしもう駄目かと……ほんとに、ほんとに……」
その姿を見て、有羽は悟る。
ああ、この女神様が自分を繋ぎ止めたのだと。
あのまま、消えていく筈だった自分。
空洞になっていく感覚の中で、必死に引き戻していたのはこの女神だったのだと。
「そっか……女神さんが助けてくれたのか」
「うん……うん!」
スキエンティアは何度も頷く。
泣いて、笑って、また泣きそうになって。
何度も。何度も。
「本当にびっくりしたんだからね!? 急に空間渡って、帰ってきたと思ったら急に倒れ込んで……本当にもう……心配させないでよぉ……」
へにゃりと笑う。
涙交じりの、情けないくらい優しい笑顔だった。
安心しきった優しい笑顔だった。
優しすぎて――有羽は、そこで逆に気付く。
スキエンティアが、必要以上に踏み込んでこないことに。
本当なら、彼女は聞きたがるはずなのだ。
どうしてああなったのか。
どこへ行って、何をして、何を代償にしたのか。
探求の女神である彼女なら、根掘り葉掘り訊き出してもおかしくない。
なのに、聞いてこない。
ただただ、有羽が生きていることを喜んでいる。
まるで――聞きたくない、とでも言うように。
「…………」
有羽は、そこで理解した。
クロエからの助けを求める声を聞いて。
森の外に出て。
力を振るって。
きっとその代償として、自分の中が「空洞」になった。
その事実から導ける答え。
自分が何なのかを。
クロエ――あの小さな体を思い出す。
自分と女帝が力を合わせて創り出した自立型のゴーレム。
女帝の芽と、有羽の魔力を「素材」に創り出したゴーレム。
最初から「そうで在る」ように創造した命。
だから、あの小さなゴーレムは自由気ままに動き回れる。
創造主の助けすら不要で、クロエの思うままに。
ならば自分の存在は?
なぜ自分は縛られている?
なぜ自分は森の外に出られない?
異世界から転移しただけの自分は、何故「空洞」になった?
……その欠落の意味を。
有羽は、もう掴んでいた。
――掴んでしまっていた。
「よーし!」
スキエンティアが、わざとらしいほど明るい声を出した。
空気を変えようとするみたいに、にぱっと笑う。
それはまるで、無理やり口角を上げた笑顔。
「とりあえず起きたのならご飯食べようよご飯! 有羽君は病み上がりだろうからね! 今日はわたしが手並みを披露するよ! 知性の神の手料理だよ? これはもう後世に誇ってもいい絶品だからね!!」
冗談めかして胸を張る。
笑顔の形をしている。
けれど、目の奥にあるものは全く笑っていない。
人に寄り添う善なる女神。
そんな彼女が、いまだけは探求ではなく、有羽ひとりの心を労わるように振る舞っている。
だからこそ、有羽には分かってしまった。
スキエンティアもまた、「真実の一端」に触れたのだと。
彼女は知っている。
全部ではないにせよ、もう見てしまっている。
見たからこそ、聞かない。
聞いたら壊れるものがあると分かっているように。
「じゃ、ご飯作ってくるから待っててねー」
そう言って、スキエンティアは退室しようとした。
足元の濡れた床に気をつけながら、いつもより少しゆっくりと扉の方へ向かう。
その手首を――有羽は掴んでいた。
咄嗟だった。
自分でも考える前に、手が動いていた。
迷子が親を探すように。
溺れる者が浮き輪に縋るように。
ただ、行かないでくれ、と。
「……有羽君?」
振り返ったスキエンティアの声は、驚きながらも優しい。
責める色が一切ない。
ただ、こちらを傷つけないように触れてくる声音。
その優しさが、今の有羽には逆に辛かった。
優しくされればされるほど、自分が掴んだ「答え」が本当のことだと分かってしまう。
気遣われるたびに、腫れ物に触るみたいなその距離感の意味が理解できてしまう。
「なあ……女神さん」
聞かずにはいられなかった。
無視もできない。
無かったことにもできない。
ならば、訊くしかない。
たとえそれが、自分の求めていない答えなのだとしても。
「俺は……」
喉が乾く。
声が妙に遠い。
「俺のままか?」
スキエンティアの瞳が、揺れる。
「俺は……アンタの知ってる俺のままか?」
「――――」
問い返さない。
どういう意味かも訊かない。
その時点で、答えはもう半ば出ていた。
有羽の中で、冷たい確信が形を取る。
ああ、やはりそうなのだと。
「……作り物なんだろ、俺は」
ぽつりと落ちた言葉。
空気が凍る。
「ゴーレムなんだろ、俺は」
スキエンティアの目が、見開かれる。
唇が震える。
何か否定したいのに、それを口にすることができないような顔。
その沈黙が、何よりの答えだった。
有羽は、静かに視線を落とす。
――そう。
本物の世渡有羽は、とっくの昔に死んでいる。
ここにいる有羽は、世渡有羽の死骸を元に創られた有機生体ゴーレム。
再起魔法の発動と同時に死んだ、世渡有羽の残骸。
名称――森奥隠者。
それが、この森に住まう南の番人の真実。
◇◇◇
思えば、おかしかったのだ。
有羽の持っている力。
有羽の現在の強さ。
過去の有羽の弱さ。
そして、過去の有羽が踏み越えてきたはずの死地。
それらは一本の線で繋がっているように見えて、どこかで明確に断絶していた。
異世界へ転移したばかりの頃の有羽と。
再起魔法を使用した後の有羽と。
その二つの間には、どうしても埋まらない「隔たり」がある。
過去の有羽は、森の魔物相手に苦戦していた。
苦労していた。
手にした魔法の力で、どうにかこうにか倒していた。
勝てはした。生き延びてもいた。
だが、今のように圧倒的ではなかった。
今の有羽なら、当時の魔物たちなど視線ひとつで沈められるだろう。
だが、あの頃は違った。
炎を撃ち、風を起こし、水で切り、大地で押し潰して――そうやって一匹ずつ、恐怖と一緒に倒していた。
勝利ではなく、延命。
踏破ではなく、生存。
それが、あの頃の有羽の戦いだった。
圧倒できるほどの力を得たのは、再起魔法を使用してからだ。
記憶を呼び起こす魔法。
有羽が、ずっと「記憶を呼び起こす魔法」だと信じていたあの術。
いや――正確には、勘違いではない。
実際、有羽の中には地球の記憶がある。
地球で見た景色。日本で聞いた音。食べた料理。生活用品。常識。発想。
このログハウスの中の品物の多くが、そうした記憶を元に組み立てられているのは真実だ。
だが、それだけでは説明のつかない部分が、あまりにも多い。
有羽は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前では、スキエンティアが息すら出来ないような顔で自分を見ている。
「……本当に全部、俺の記憶なのかって話なんだよ」
自嘲気味に、有羽は笑った。
笑いながら、その笑みが自分でも薄っぺらいと分かる。
「いや、一目見たものを引っ張り出してる部分は、そりゃあると思うんだ。実際、地球で見たものを土台にしてるのは間違いない。冷蔵庫も、エアコンも、風呂も、調味料も、家具も……俺の知ってる地球の知識が元だ」
そこで一度、有羽は小さく息を吐いた。
「でもさ――本当に、一目でも見たのか?」
スキエンティアは答えない。
答えられないのではない。
たぶん、答えを知っているからこそ、口を挟まない。
「……化粧水や乳液の成分表を、中学生男子だった俺が、ほんの一瞬でもちゃんと目にしたと思うか?」
静かな問いだった。
「本当に? コンテナハウスの構造だの、洗剤の配合だの、細かな生活用品の理屈だの……そんなものまで?」
冷静に考えれば、答えは限りなく「否」に近い。
それだけではない。
有羽が扱う魔法の数々。
理解できない言語で構成されている術式。
アギトに対して使った歪曲収束砲。
そもそもの空間転移。
亜空間穴を利用した跳躍。
世界の座標を繋ぎ変えるような芸当。
――その知識は、どこから来た?
地球にはない。
少なくとも、日本の中学生だった世渡有羽が、知り得るはずのない概念だ。
ならばこれは、何の記憶を参照している?
何の記録を覗いている?
答えは、もう出ていた。
「確証はない。裏取りももう取れない。けど――見てない可能性の方が、どう考えても高い」
スキエンティアの喉が、僅かに鳴った。
有羽は、それを聞いてしまった。
聞いてしまったから、もう止まれない。
ベッドの傍らに立つスキエンティアの手首を掴んだまま。
彼女の顔を見ないまま。
目を伏せ、そして、ゆっくりと結論を口にする。
「……多分さ、本質は女神さんの権能と同じなんだ」
その一言に、スキエンティアの肩が震えた。
「最深奥の万魔図書館」
有羽は、その名を口にする。
探求神スキエンティアの権能。
世界の記録に接続し、過去も現在も、理も術も、万象の記録を参照する力。
図書館という形で顕現した、探求神の秘奥。
「俺の再起魔法は、たぶんあれと同じ」
有羽の声は、やけに落ち着いていた。
いや――落ち着いているというよりも、自分自身に刃を向けている人間の声。
「違うのは、記録の投射先だ。女神さんは、図書館って形に顕現させてる」
「……」
「でも、再起魔法は違う。あれは、世界の知識を……世渡有羽の記憶を「呼び水」にして世界の記録を、直接「脳内」に投射する魔法だ」
部屋が、しんと静まり返る。
窓の外で木々が揺れる音だけが、妙に遠い。
ベッドの上で体を起こす有羽と、その傍に立つスキエンティアの間だけが、時間から切り離されたように静かだった。
「……何で出来るのか。どうして出来るのか。そこまではまだ分からない」
有羽は言う。
己の声で、己を裁くように。
「けど――今なら分かるんだよ。俺はこの魔法を「全力」では使ってない」
自分のこめかみを指先で軽く叩く。
「無意識にブレーキ踏んでる。壊れないように。……「本物の世渡有羽」みたいに、壊れてしまわないように、抑えて使ってる」
その言葉に、スキエンティアの顔から血の気が引いた。
彼女は知っている。
治療の最中に見てしまったからこそ、今の言葉が間違いではないことを。
かつての有羽は。
本物の世渡有羽は。
その魔法を使って――死んだ。
思い出に浸るために。
日本の記憶を取り戻し、自分を繋ぎとめるために。
たったそれだけの、あまりに切実で、あまりに当たり前の願いのために。
膨大な知識の海に呑み込まれた。
世界記録を無理矢理脳内に焼き付けるという、あまりにも無茶な行為の代償として。
脳が壊死するほどの知識量。
何千年、何万年、あるいはそれ以上。
言語、理論、構造、歴史、法則、術式、営み、文明。
魂ごと軋み、人格が砕け散るほどの情報の奔流。
人間の器では到底耐えられない「世界」の流入。
「……俺は、「前の俺」は、思い出に浸るために再起魔法を使った。そして、そのまま死んだ」
有羽は、静かにそう言った。
まるで昔話のように。
けれど、決して他人事ではない声で。
「それでどうして、俺みたいなゴーレムが創られたのか……それはまだ分かんないけどさ」
自嘲するように、口元だけが少し歪む。
スキエンティアの目から、堪えきれず涙が落ちた。
彼女は知っている。
有羽を癒した時に視てしまったのだ。
彼の基幹構造を。
魂と肉体の縫合跡を。
人の営みの果てに生まれた命ではなく、「素材を元にした創造生命体」としての構造を。
しかも、その素材が――ヒトの死骸。
死んだ世渡有羽の残骸を縫い合わせ、記憶と意識を複写させ、役目と機能を埋め込み、森の中でだけ成立するように作り直された、有機生体ゴーレム。
クロエとは根本的に前提が違う。
クロエは新しく生まれた生命。有羽と女帝の全力によって、新しく芽吹いた一個の命。
けれど有羽は……ここに居る有羽は違う。死骸を「再利用」したモノ。死体を縫い合わせて作られたボロボロの人形。
神の目から見ても、それは悍ましかった。
あまりにも、惨かった。
死んだ命は、そこで終わるべきだ。
死は終着であり、冒涜してはならない境界。
せめてそこだけは、誰にも踏み荒らされない最後の尊厳であるはずなのに。
それなのに。
異世界に転移させられた哀れな少年は、死んだ後まで奪われた。
その死骸すら縫い合わせられ、残骸を残骸にし尽くされて、役目を背負わされて蘇らされた。
スキエンティアが涙を零したのも、当然のこと。
ここまで惨い境遇の命など、彼女は他に知らない。
「……森の外で、空っぽになって……ようやく気付いた」
有羽が呟く。
その声には、諦めが混じっている。
「俺の力とか命とか、そういうものは全部「森の中」から供給されてるんだってな」
それが空洞の正体。
森の中にいる限り、有羽の身体には力が供給され続ける。
生命が。
魔力が。
存在の土台が。
上位神の位階にまで届く、超域の力が、「魔境の森」という巨大な枠組みから流し込まれていた。
だが、森の外に出れば、その供給は消える。
力は消え続ける。
存在を保つための中身が失われていく。
結果――死ぬ。
実際、有羽は死にかけた。
スキエンティアが全力で縫い止めなければ、今ここに生きていない。
「……なあ、女神さん」
有羽の声が、少しだけ揺れた。
「本当に、今の俺は、「俺のまま」なのかな?」
問いかけは静かだった。
だがその静けさの奥には、どうしようもない恐怖があった。
「最初の俺みたいに、本当は死んでて、ただ記憶と意識が連続してるだけの――」
最後まで言わせなかった。
咄嗟に、スキエンティアは、有羽を抱きしめていた。
かき抱くように。
覆い隠すように。
有羽の頭を胸に引き寄せる。
その顔を見たくなかったのだ。
泣いて壊れそうな、有羽の顔を。
有羽の身体が、一瞬だけ強張る。
けれど抵抗はしなかった。
「有羽君は――有羽君のままだよ」
スキエンティアの声は震えていた。
それでも、はっきりと断言する。
「わたしがここで会った、有羽君のままだよ」
「……本当に?」
胸元に埋もれたままの声。
子供のように小さい声だった。
「うん」
スキエンティアは答える。
「断言する。神様が誓って言う」
少しだけ抱く力を強める。
「有羽君は有羽君だよ――この森で生きてきた有羽君だよ」
彼女は視た。
癒しの最中、その命の、魂の「経過年数」を。
――齢七歳。
それが、今の有羽の本当の年齢。
七年前。
再起魔法を使い、本物の世渡有羽は死んだ。
そして、その死骸を素に、記憶と意識を複写させられて、「今の有羽」がここにいる。
森の中でだけ生きられる。
森の中から外に出られない。
哀れな自立型有機生体ゴーレムとして。
……けれど。
それでも。
七年生きたのだ。
七年間、笑って、怒って、料理して、失敗して、苛立って、守って、悩んで。
森の中で、七年分の時間を確かに生きた。
その時間は偽物ではない。
複写された記憶が出発点だったとしても、その先に積み上がったものは、紛れもなく「今の有羽」のものだ。
だからこそ、スキエンティアは断言できる。
今の有羽は、そのままだと。
自分が繋ぎ止めた。女神が全力で引き戻した。
死んで「三人目」になった訳ではないと。
そんな救いを、伝えた。
――そんな救いしか、与えられなかった。
有羽はしばらく何も言わなかった。
スキエンティアの胸元に額を押しつけたまま、じっとしていた。
窓の外では、森の葉擦れが聞こえる。
いつも通りの、穏やかな南部の森の音。
だがその穏やかさが、今はひどく残酷に思えた。
この森だけが、有羽を生かす。
この森の外では、有羽は死ぬ。
それでもスキエンティアは、有羽を抱きしめ続けた。
少しでも、その震えが止まるように。
少しでも、有羽が「有羽のまま」でいられるように。
神としてではなく。
ただ一人の、優しい誰かとして。




