第109話・森奥隠者と星髪の顎
――魔境の大森林、南部。有羽の居住空間。
探求神スキエンティアと世渡有羽の二名は、探求神の権能による「最深奥の万魔図書館」を展開し、情報収集に励んでいた。
世界の記録を片っ端から漁っては、引き上げ、並べ、比較する。
神聖国の加護の段階。
微加護のルールの穴。
アギトという現象体が持ちうる機能。
多種多様な世界の記録を目に通す。
しかし――ここ数日は手詰まりだった。
読める範囲は、ほとんど読み終えている。
新規情報は薄い。断片は拾えるが、肝心の核心は引っ込んだまま。
もっと深く知りたい情報ほど、届かない領域にある。
天蛇本体も同様。
北の番人に至っては、触れようにも名すら解らない。
森の情報は神の管轄外で――解析不可という状態。
――だから今は一旦、手を止めている。
理由は簡単。頭を使えば腹が減るのだ。
それは世界の上位存在であろうと同じ理屈で。
とどのつまり――ご飯の時間である。
「うわーい! ハンバーグだぁ! 美味しそうー!!」
有羽の住むログハウス。その食卓のテーブルで、スキエンティアが目をらんらんと輝かせ、ナイフとフォークを握りしめていた。
食卓の上には、肉汁の香りを湛えた焼きたてのハンバーグ。湯気が立ち、ソースが照り、付け合わせの野菜が色を添える。
美味しそうな昼ご飯を前に、眼鏡美女が椅子の上で跳ねる。完全にお子様だ。
「ねぇねぇ!? これ何のお肉? 鳥? 牛?」
「デストロイホーン。森で狩った牛さん。地下に一杯冷凍してあるから、いい加減消費しないと溜まる一方なんだよ」
「どんどん消費していいよ! 神様の胃袋は無限大だからね!!」
ぐっと親指を立てる女神様。
そのまま返事も待たず、ナイフとフォークを握りしめ、ハンバーグに突撃した。
じゅわっ、と音を立てながら、スキエンティアはハンバーグを切り分ける。
肉汁が溢れ、湯気が立ち、香りが弾ける。
あーん、と大口を開けて頬張る。
瞬間、女神の顔が蕩けた。
「んっふふ……ねぇ有羽君」
「なにさ?」
「――お礼に加護、要る?」
「要らんわ!! 黙って食え!!」
怒鳴る有羽。
至極当然の反応。何処の世界に、ご飯のお礼に加護を与える神が居ると言うのか。
怒鳴られたスキエンティアは、しおしおに萎びる。
「そんなに怒んないでよぉ……えーん」
ひんひん泣きながら、もっきゅもっきゅと食べ続ける。
泣いているのか食べているのか、もうよく分からない。
有羽は盛大に溜息を吐く。
ただし、ハンバーグの出来には満足しているらしい。自分の皿の分を切り分け、噛みしめ、味を確認する。
「……ふむ。味はまあまあだな。もうちょい脂身増やしてジューシーにしても良いけど、デストロイホーンは赤身強いからなぁ。このくらいが安牌か」
「……思ったんだけどさ」
スキエンティアが、ハンバーグに舌鼓を打ちながら首を傾げる。
「有羽君のその、食への情熱はどこから来てるの?」
「日本人を舐めるな。毒がある食い物でも、どうにかして食えるようにする民族だぞ。執念の方向が大体おかしいんだよ」
「……有羽君の故郷、食に関しての探求はわたしより凄いんじゃない?」
「かも知れない。フグの卵巣を三年漬け込んで食うとかさ、正気じゃないだろ?」
「この世界だと狂気の沙汰だよ、それ」
スキエンティアが半笑いを浮かべながら……それでもハンバーグを食べる手は止まらない。
美味しいは正義。万国共通の理は、世界を越えて神にも通用するようだ。
有羽も同じで、今はただ出来立てのハンバーグを頬張るのみ。
だが旨味たっぷりの肉の味を噛み締めれば噛み締めるほど……心の中に想いが募る。
ふと、目が遠くなる程に。
「……まだ再現できてない料理は山ほどあるんだよ。特に米料理……」
そして、急に眼が血走る。
このハンバーグで白米を食べたくて仕方ない様子。
「ええい、レジーナさん。早く魔国から持ってきてくれ。俺はすぐにでも米が食べたくて食べたくて……!」
「……なんか、すごいね」
スキエンティアが形容しがたい目で見つめる。
女神様は迷える人の子を優しく見つめているだけであって、血走った目の米欲しがり星人にドン引きしているわけではない。たぶん。
ひとしきり米への恨み節を吐き終え、有羽はようやく現実に戻った。
食卓の上の空気が、少しだけ重くなる。
「……それにしてもだ、女神さん」
「んー? なぁに有羽君?」
「どうするよ。俺たちの情報収集、いい加減手詰まりだろ」
スキエンティアの口が止まる。
ふざけた空気が一瞬だけ引っ込む。
「……そうだねぇ」
スキエンティアは真面目な顔になる。
世界記録は読んだ。
神聖国の内情も掘った。
加護の段階も、ルールの穴も、微加護の安売りの疑いも、拾えるだけ拾った。
アギトの目的が「刻まれた」ことも確認した。
しかし、動いているのは外界だ。
記録では追い付けない速度で、現実が先に進み始めている。
「わたしたち神は、あんまり露骨に介入できないし……」
スキエンティアは言いながら、目を泳がせた。
「有羽君も、手を出しすぎると天界が黙っちゃいないしなぁ」
「覇皇神ヴェルミクルムのことか?」
「それもあるけど……従属神の子たちも動くよ? 仕事熱心な子多いし」
スキエンティアは切り分けたハンバーグを口の中に放り込み、ぼそっと付け足す。
「……あんまり苦労はかけたくないなぁ」
スキエンティアが本音を漏らす。
その顔は、食いしん坊の女神ではなく「世界の調整」を知っている顔。
有羽は頬を掻く。
神々の事情はよく分からない。
だが、神々が出張ってくる事態が碌でもないことだけは、肌で理解している。
誰が味方で誰が敵か、という単純な話ではない。
神が動けば、ルールが動く。
ルールが動けば、世界が揺れる。
「となると……残る希望は……」
有羽は懐から緑の宝玉を取り出した。
テーブルに置くと、ころりと転がる。
深い緑。光が内部でゆっくり回っている。
「なにそれ? 何か、複雑な魔術構成してるけど」
「簡単に言うと――西の女帝さんとの直通窓口」
「――え?」
スキエンティアの顔色が、目に見えて悪くなる。
さっきまでハンバーグで幸せそうだったのが嘘みたいに、青くなる。
「どしたの女神さん……ああ、昔揉めたって言ってたっけ」
「う、うん……すんごい怒られた……」
笑って誤魔化そうとして、誤魔化し切れない。
挙動不審が過ぎる。
「何をしたのよ、おたく」
有羽がジト目になる。
女帝を怒らせると怖い。それは分かる。
だが仮にも上位神がここまで怯えるのは、相当やらかした匂いしかしない。
スキエンティアは観念したように語り出した。
「えっとね……女帝さんの領域、珍しい植物いっぱい生えてるじゃない?」
「うん」
「……それで、ちょっと欲しいなーって思って……」
そこで一瞬、言葉が詰まる。
「……無許可で、ぶちぶちと……」
「なんで命がある探求神」
有羽の溜息が、盛大に落ちる。
それは責めるというより、呆れてしまった者の溜息。
「そりゃ怒られるわ。てか、採る前にアンタなら解るだろ? 女帝さんがヤバいって」
「いやぁ……あの時は『わぁ、こんなに珍しいのがいっぱいある、すごーい!』って感情だけが先走っちゃって……後のことはあんまり……」
「アンタは昔っからそんななのか」
この女神は知性と善性はある。
だが理性は、割とすぐ弾ける。シャボン玉のように儚く脆い。
有羽はこめかみを押さえつつ、宝玉を指で転がした。
「ま、それは兎も角だ……この宝玉は、その女帝さんと通話するためのもんだよ」
テーブルの上で、ころころと転がる宝玉。
沈黙を続ける――今は綺麗なだけの「テレビ電話」の球。
「女神さんが来る前は、何度か女帝さんから声飛ばしてきてたんだよ。けど最近、めっきり無い」
「……ふぅん」
スキエンティアが不安そうに宝玉を見る。
見てるだけで胃が痛そうだ。
「最後の通信が、『我は少し考えるべきことがある』ってやつでさ。言ったきり音沙汰無し」
有羽は、あの時の女帝の声を思い出す。
軽口でも怒鳴りでもない、妙に静かな声だった。
天蛇本体と対峙した後。
何かを話し、何かを悟り、そして沈黙した。
有羽は、その何かを知らない。
聞いていない。
聞けていない。
だが、女帝が黙っているのなら――こちらから手を伸ばすしかない。
手詰まりの今を打開するために。
有羽は宝玉を見つめる。
緑の奥で、光がゆっくり回る。
呼び出せば繋がる。繋がれば話せる。
女帝は、意味もなく沈黙するような存在ではない。
話さないのには、それ相応の理由があるのだろう。
そこに突っ込めば、面倒が増えるだけかもしれない。
それでも、今は。
「え、や、やるの……? 今……? 女帝さんに……?」
「やらないと、こっちが詰む」
こちらから女帝に連絡を取る。そう思い立った有羽は、緑の宝玉へ手を伸ばした。
指先が宝玉の冷たさに触れる――
――まさに、その瞬間。
有羽の脳裏に、映像が流れ込む。
クロエからの「送信」だった。
大河の匂い。
湿った土の匂い、金属の匂い。
空気の熱さ。飛沫が肌を叩く感覚。
轟音が、鼓膜ではなく頭蓋の内側で鳴る。
大河を挟んで対峙する帝国軍と王国軍。
互いに動けず、互いに睨み合う数十の精鋭。
硬直したまま、戦争にならないように理性で踏ん張っている顔つき。
発生した激闘。戦いの一部始終。
爪と根と。稲妻と剣戟と。
無数の情報が有羽の脳裏を巡る。
だがそれらは全て、些事だった。
有羽にとっては、些末事だった。
有羽の知覚は――星髪のアギトがアウローラを殺そうとする姿。
それだけしか映っていなかった。
――その瞬間、有羽の思考は完全に「無」になる。
国への干渉。
上位神と同格である力の発動。
有羽が動けば周辺がどう揺れるか。
後処理。
事後の対応。
国とのいざこざ。
そして――森の外へ出る選択肢の欠落。
外に出る機能が備わっていない。
いつの間にか芽生えていた特性。
あるいは、誰かに植えつけられた制限か。
動くな、と。
森の外はお前の居場所ではない、と。
お前の居場所は森の中だ、と。
どこかから叫ぶ声がある。
だが有羽は。
(――黙れ)
その全てを追い払った。
どうでもよかった。
このままではアウローラが死ぬ。
大事なのは、それだけで。
それ以外のことなど――全て、どうでもよかった。
「■■■■」
短い呟き。
その短い音だけで、高密度の術式が走る。
空間干渉。
亜空間穴瞬間生成。
瞬間縫合。
座標錨の確定。
穴の生成。
口の安定。
身体の跳躍。
そして縫合――穴を閉じる。
有羽の身体が、食卓から消えた。
跳躍は一瞬。
穴は瞬間。
縫合は呼吸より短い。
そして――ログハウスには、置き去りが一つだけ残った。
「――ちょっ!? ちょっとちょっと有羽君!? 突然何――どこに跳んじゃったのさぁ!?」
スキエンティアが椅子から立ち上がり、声を上げる。
だが応える者はいない。
彼女の声はログハウス内で跳ね返り、残響になって戻る。
スキエンティアは、今の動作を理解していた。
空間転移。
しかも単なる遠距離移動ではなく……空間の接続を書き換えた。
点Aから点Bへ移すのではない。
点Aと点Bの距離を消した。
移動ではない。
点Aと点Bを一瞬だけ「同じ場所」にした。
世界の地図を、つまんで折りたたむような行為。
従属神級なら、点Aから点Bの高速移動はできる。
速度は光速近くまで上げられる。
だが今のは違う。
世界の運用に触れる――上位神域の術式。
スキエンティアは、顔色が変わった。
技の凄さに驚いたのではない。
有羽の焦燥に驚いたのだ。
空間接続の書き換えは「波」が大きい。
世界に揺れが出る。
そんな面倒事は、有羽が嫌うモノの筈。
なのに使った。
慌てている。
焦っている。
――取り返しのつかない何かを見たように。
「ええ……? 有羽君があんなに慌てるってことは、何かあったのかな……」
スキエンティアは腕を組み、眉をひそめる。
「確か、クロエちゃんとかいうゴーレムと連絡取り合ってるんだよね。じゃあそのゴーレムから緊急の伝達が……」
だが、ここにいる彼女には状況が分からない。
有羽がどこへ跳んだのかも分からない。
空間を直結されると、追跡の手がかりすら残らない。
「うーんと、うーんと……頼れる誰かは……」
スキエンティアは視線を泳がせ――そして、現実に戻る。
森の奥に誰もいない。
ログハウスにいるのは、神が一柱だけ。
「……って、この森の奥に誰も居ないし。有羽君の家にいるのはわたしだけだし……」
小さく肩を落とす。
「うえーん! せめて事情説明してから跳んでよ有羽くーん!!」
泣いても変わらない。
ログハウスに女神が置き去りにされた事実だけが残る。
そして、もう一つ。
世界に「波」が伝播した事実も残る。
空間跳躍の波。
それは――森の西へも届く。
テーブルの上で、緑の宝玉が突然激しく光り出した。
「え? え? ……これ、わたしが触らなきゃいけないの……?」
スキエンティアはおそるおそる宝玉へ手を伸ばす。
触れた瞬間、宝玉が魔力を要求するように脈打つ。
反射的に、魔力が流れた。
スキエンティアの膨大な神力が、ほんの少しだけ宝玉に注がれる。
宝玉が「起動」する。
立体映像が、食卓の上に投影された。
樹の器――無機質なマネキン顔。
枝葉を髪にした木人形。
圧倒的な力を誇る、樹神女帝の樹人形。
『――隠者!? お主、いきなりどうした!?』
声が響く。
怒声に近い。だがそれは心配の怒声。
『お主の空間跳躍は「波」が大きいから軽々に使うなと、以前も言って――』
女帝の言葉が途中で止まる。
映像越しに、目が合ったからだ。
探求神スキエンティアと、樹神女帝。
何千年かぶりの邂逅。
『……探求神?』
女帝の声が、明らかに温度を下げる。
首を傾げる。理解できないものを見る視線。
『お主、ここで一体何を……?』
「あ、あはははは……」
スキエンティアは笑うしかない。
笑って誤魔化すしかない。
だが口角が引きつる。笑いが震える。声が裏返る。
「お、お久しぶりですぅ……」
小鹿のようにぷるぷる震える探求神。
そんな探求神を訝りながら見つめる女帝。
ログハウスの空気がさらに重くなる。
残されたハンバーグの湯気が、行き場を失って揺れる。
家主が消えた森のログハウスで――。
世界の上位存在同士が、最悪のタイミングで再会した。
◇◇◇
そして――時間軸は戻る。
有羽が、アギトの爪を止めた瞬間に。
振り下ろされる爪牙。
そこに横手から伸びた手。
有羽の手が、まるで道端の石ころでも摘まむように――星髪の顎の爪を掴み止めた。
アギトの目が細まる。
あり得ない、という理解が遅れて脳に届く。
止まった。止められた。止められるはずがないのに。
ごりっ、と鈍い音がアギトの手首からした。
骨が鳴っただけなのか、骨が軋んだのか、もはや区別がつかない。
ただ確かなのは――握り潰しかねないということだ。
天蛇の分身の手首を、怒りだけで。
「お前さ――今、誰を殺そうとした?」
声は淡々としていた。
怒鳴らない。
叫ばない。
感情を荒立てない。
その代わり、言葉の温度が凍っている。
氷点下の殺意。
凍っているからこそ、純度の上がった殺意。
握られる手首に、圧が増す。
増すたび、アギトの痛みが増える。
膝が崩れそうになる。
「……ぐ……っ」
口を開こうにも開けない。
呻き声しか出ない。
立つことさえ厳しい。
有羽の手に集中しているのは、魔力だ。
膨大で研ぎ澄まされ、均一に圧縮された魔力が、指先の一本一本に流れ込んでいる。
ただ掴んでいるのではない。
このままでは砕かれる。
何もできないまま、握り潰される。
「なあ――答えろよ。お前に聞いてるんだぜ?」
有羽の声が、さらに落ちる。
落ちるほど、圧が増す。
殺意が冷えれば冷えるほど、握力が上がっていく。
アギトでなければ、とっくに砕け散っている。
それほどの握力。
星髪の顎の顔が歪む。
痛みのあまり、涙が出そうになる。
そんな自分が気に入らなくて、アギトは犬歯を剥き出しにした。
「う……っるさい!!」
左足を蹴り上げる。
狙いは有羽の顔面。
爪先が容赦なく突き刺さる――その直前。
まるで、棒切れを捨てるように。
アギトの身体が投げ飛ばされた。
空中で叫ぶ暇もない。
抵抗する暇もない。
掴まれた手首から解放された瞬間、反動だけが全身に走る。
水面を跳ねる。
まるで水切りの石だ。
大河の水面を、激しく跳ねながら、星髪の少女が飛んでいく。
跳ねるたび水柱が立ち、飛沫が舞う。
そして川向こう――帝国側の地面へ激突。
轟音。
土煙。
衝撃で地面が抉れ、石が飛び、土が舞う。
アギトの姿が土煙に飲まれて見えなくなる。
「――うるさいのはお前だよ。分身如きが」
吐き捨てるように言い放ち、有羽は視線を切り替えた。
アギトを敵として認識したまま、優先順位だけを変える。
視線はアウローラに向けられていた。
傷だらけの王女が倒れている。
腕の中にはクロエ。
小さな身体を抱きしめたまま、必死に守るように丸くなっている。
「……あ……ゆ、有羽……?」
声が掠れる。
痛みで顔すら上げられないのだろう。それでも、なんとか有羽の姿を認識した。
有羽はアウローラの近くで片膝をつく。
そして優しく……傷だらけのアウローラに触れた。
その所作は、驚くほど柔らかい。
さっきまで氷みたいな殺気を垂れ流していた男の手が、壊れ物を扱うように繊細になる。
アウローラの肩、腕、背中――骨の位置を確かめるように触れていく。
そして、短い呟きが伝わる。
「■■■■■」
回復魔法――そんな代物ではない。
治療ではない。
治癒でもない。
失った構造を新規生成して、元の形として再接続する。
欠けた部分を補うのではなく、欠ける前の形に再建する。
治療ではなく復元。
治癒ではなく再生。
有羽の行使した術は、回復という言葉から外れていた。
「――あ、あれ?」
アウローラが目をぱちくりと瞬かせる。
痛みが消える。痺れが抜ける。呼吸ができる。
腕の中のクロエも同じだ。
きょとんとした顔で瞬きを繰り返し、次の瞬間にはわたわたと手足を動かし始める。
傷だらけだったはずの身体が、元通りになっている。
裂傷も、痛みも、疲労も。
まるで最初から傷なんてなかったかのように。
「大丈夫みたいだな」
「う、うん……大丈夫だけど……って有羽!? え? あれ? お前、どうしてここに――」
現実として有羽の存在を認めた瞬間、アウローラの声が跳ねる。
疑問が洪水のように溢れ、思考と言葉が追いつかない。
有羽は、苦笑した。
見慣れたわんこを見守るような、心底ほっとしながら浮かべた苦笑。
その眼差しは――愛おしいものを見る眼差しに近い。
「そこの小さい奴の「送信」があったんだよ」
有羽がクロエを指す。
クロエは、両腕を振っている。
がんばった、やった、つたえた、と言いたげに。
声は出ないのに、全身で主張している。
「お前が危ないってな」
「そ、そうなのか……って、ちょっと待て有羽!」
アウローラが勢いよく身を起こす。
クロエの「送信」により、有羽がここに来たことは解った。
だが、その「来た」という事実が一番ありえない。
「有羽の家からここまで、どれだけ距離が離れていると……お前一体どうやって――」
「まあ色々聞きたいことあるだろうけど、それは後でな」
有羽はくしゃりとアウローラの頭を撫でた。
優しい手。
優しい声。
優しい顔。
その優しさに、アウローラが固まる。
撫でられた頭の感覚に、変な声が喉まで上がって飲み込まれる。
だが――そんなアウローラから視線を切り、有羽が立ち上がる。
立ち上がった瞬間、空気が変わっていた。
さっきまでの有羽の優しさが、消えている。
残るのは凍て付いた殺気だけ。
有羽の視線が、土煙の向こうへ刺さる。
土煙が吹き飛ぶ。
風ではない。圧だ。
存在感が土煙を押し退ける。
そこにいたのはアギトだった。
肩で息をし、目をぎらつかせ、手首を押さえながら立っている。
星髪の美少女が、天蛇の手が、完全に怒っている。
獣が、本気で噛み殺す相手を見つけた目。
「……先にアイツを片付けるわ。話はその後で」
有羽の口調は雑だった。
まるで床のゴミを片付けるみたいな調子。
相手はレベル八十五。
世界天蛇の分身。
それでも気負いがなく、軽い。
アギトが牙を剥く。
「……やってくれたなぁ。引きこもりのクソ隠者……!」
声が掠れるほど怒っている。
理屈ではなく、感情が先に走る。
痛みの記憶が燃料になる。
爪が鳴る。
ぎちりぎちりと空間が軋む。
境界が噛まれる準備音。
「……邪魔するなら相手が誰だろうと構うもんか……お前もぶっ殺してやる……!」
その言葉を聞いて、両軍の兵が凍りつく。
帝国兵も王国兵も同じ顔をする。
――この星髪は、止まらない。
止める理屈がない。止める方法がない。
唯一止められるであろう有羽は――気怠そうに手招きするばかり。
「――いいから。はやく来いよ」
挑発ではない。
煽りでもない。
ただ、邪魔なものを片付けるために「呼んだ」だけ。
アギトの表情が歪んだ。
「――――!!」
怒りが爆発して、爆音が生まれる。
アギトが跳んだ。
大地を蹴る音が砲撃のように響き、河岸の土が吹き飛ぶ。
星髪の顎が、牙のまま突っ込む。
有羽は動かない。
足も体も、動かさない。
冷めた目つきで、迫るアギトの姿を見続ける。
そして迫る爪牙を――左手一本で弾き飛ばした。
「……づぅ!?」
思わず苦悶の声を上げるアギト。
右手が砕けそうな衝撃と痛み。
クロエのように障壁を張るでもなく、根を伸ばすでもなく。
邪魔な埃を振り払うような仕草で、叩いて弾いた。
「……どうした? 殺すんだろ? ほら、相手してやるから」
「……上等だよっ!!」
先程以上の唸りを上げて、アギトの両腕が魔力を放つ。
天蛇の権能。世界の境界すら噛む、その力の一端を爪に宿す。
その一連の動きを、有羽は静かに見つめたまま――再び轟音が戦場に木霊する。
森奥隠者と星髪の顎。
人間では踏み込めぬ、神域の戦いが――今、国境線の上で始まった。




