第11話・国王と第一王女の秘密会議
王宮の一角、謁見の間からは少し離れた場所に、王族だけが使う小さな応接室がある。
高価ではあるが、謁見の間ほどわざとらしくはない家具。
壁には簡素な地図と、数枚の風景画。
机の上には、書類と一緒に湯気を立てる茶器。
「国王陛下」ではなく、「父親」として娘たちが顔を出す場所――そんな空気が漂う部屋だった。
今、その部屋の中央の椅子には国王が腰掛け、その向かいにレジーナと、その隣に夫である聖騎士が並んで座っていた。
「――以上が、西の魔国との会談の結果ですわ」
報告を締めくくると、レジーナはぱちんと書類を閉じた。
「魔国との友好条約は変わらず。五年間の延長を得てきました。西の香辛料の取引も、これまでどおり継続。むしろ量を増やす方向で話が進んでいます」
そこで一度区切り、にこっと笑う。
「……まあ、ようするに、わたくし頑張ってきました! 褒めて褒めてお父様ー!」
両手を膝の上で揃えたまま、身を乗り出してくる第一王女。
国王フォルトゥムは、こめかみに手をやり、どこか遠い目をした。
(……少し前に、似たような光景を見た気がするな)
森から帰還したアウローラが、賢者との交流を語る時、同じ顔をしていたのを思い出す。
公式の場では凛とした王女。
家族の前では、年相応どころか、たまに年齢を逆行しているかのような娘二人。
父としては微笑ましくもあり、頭の痛いところでもあった。
とはいえ――。
「褒めるなと言うほうが無理であろうな」
フォルトゥムは、自然と口元を緩めた。
「他国との五年間の友好延長など、言葉にすれば一行だがな。これを平然ともぎ取ってくる外交官が、そうそう居てたまるものか」
しかも相手は、「魔国」。
南のこの王国とは違い、多種多様な亜人が暮らす西の大国だ。
エルフ、獣人、ドワーフ、少数ながらリザードマンまでもが籍を置く、多種族国家。
魔法技術も、軍事魔法に関しては王国より一歩先を行っている。
そんな国との友好条約は、値千金どころか、値万金の価値がある。
「さすがは我が娘よ。よくやった、レジーナ」
「ふふふ、もっと言ってもよろしくてよ?」
レジーナは、嬉しそうに胸を張る。
隣で、それを見ていた聖騎士――彼女の夫は、くすりと笑った。
「……ずいぶんご機嫌だな、レジーナ」
「当たり前でしょう? 魔国の食事、美味しかったのよ。あっちの香辛料の使い方、本当に見事で――」
「仕事の話より先に食の話が出るのは、どうかと思うがな」
フォルトゥムの苦笑まじりのツッコミに、レジーナは肩をすくめる。
「だって、大事なことでしょう? 西の香辛料は、我が国の食文化を確実に底上げしているのよ? うちの料理人たちも、魔国の宮廷料理人から学ぶことが多いって目を輝かせてましたもの」
「それ自体は否定せん」
フォルトゥムは、机の上の地図に視線を落とした。
南に王国。
中央に、巨大な円で描かれた「魔境の大森林」。
その西に、魔国。
樹海と魔国との間には、いくつもの古い記号や、魔法陣の記述も細かく書き込まれている。
「……ところで、だ」
国王の声色が、少しだけ引き締まった。
「アウローラの報告も聞いた」
「森の、ですよね」
「うむ。北、東、西。それぞれに賢者でも手を焼く難物が居るらしい」
森での滞在中、アウローラが賢者から何度か聞いた話。
大森林の北側には賢者すら厄介と称する魔物が。
東側には縄張りこそ広いものの、手を出さなければ安全らしい魔物が。
そして。
「西側には『会話の通じる魔物』が、樹海の西部を縄張りとしていると聞く――」
フォルトゥムは指で、地図上の「魔境」と「魔国」の境界周辺を軽く叩いた。
「魔国との関係はあると思うか?」
問いかけに、レジーナは表情を引き締めた。
先ほどまでの、はしゃいだ娘の顔は消えている。
そこには、魔国の宮廷で幾人もの要人と渡り合ってきた、冷静な外交官の顔があった。
「……おそらくは、あると思いますわ」
レジーナは即答した。
「魔国の王――エルフの女王は、確かに傑物です。魔法の実力も、政治の才も、両方を高い水準で備えた方」
細く長い耳を持ち、銀の髪を肩で束ねた、森の民の長。
冷静にして柔らかく、芯に鉄を秘めたような女王の姿が脳裏に浮かぶ。
「ですが、あの方だけで、あれほど多様な種族を完全に制御できるとは、とても思えません」
「ふむ」
「魔国は、王国と同じく国家として安定しています。内乱の火種がないわけではないでしょうが、表にはそうそう出てこない。……それが、遥か昔から続いている」
言葉に重みがあった。
「エルフも、獣人も、ドワーフも。寿命も、価値観も、尊ぶものも違う。それぞれがそれぞれの神々を祀り、独自の誇りを持っている」
それでも、魔国はひとつの「国」としてまとまっている。
それはつまり――。
「見えないところで、何かが全体を押さえている、そう考えたくなりますわ」
レジーナは視線を上げ、国王と目を合わせた。
「そして、それは森と無関係ではないでしょうね」
隣の聖騎士が、静かに口を開いた。
「陛下」
「うむ。お前の感覚も聞いておこう、聖騎士」
レジーナの夫――この国最優の聖騎士にして、次期国王候補と目される男。
黄金の瞳は穏やかだが、その内側には剣を握る者特有の鋭さが宿っている。
「森に『何か』が居るのは、間違いありません」
聖騎士は、短く断言した。
「我が聖剣を持ってすら、太刀打ちできぬような何かが」
「……そこまでか」
フォルトゥムの眉がわずかに動く。
「森の中で、戦ったのか?」
「いいえ」
聖騎士は、静かに首を振った。
「戦いなど、恐ろしくてとても」
穏やかな口調のままだが、その言葉には冗談の気配が一切なかった。
「魔国へ赴く際、森と魔国の境界付近を通りました。そのとき、はっきりと感じたのです。樹海の西部に、強大な意思のようなものがあると」
彼は少し言葉を探したあと、続けた。
「……あれは、そうですね。巨大な樹木に見下ろされているような感覚でした」
「樹木?」
国王が首をかしげる。
「はい。威圧というのとも違う。邪悪な波動も、一切感じない。ただ、あまりにも大きすぎて、存在に気付いた瞬間、膝を折りそうになる」
それは、恐怖というより畏怖に近い感覚だった。
「魔国全域に及ぶほどの何かです。樹海の西側を越え、魔国の森にも、街にも、その気配の影のようなものが伸びていました」
レジーナは、魔国の街並みを思い返す。
多種族が行き交う賑やかな市場。
神殿区で祈りを捧げるエルフの長老たち。
夜、屋敷の窓から見えた、遠くの山並みの黒い影。
(……そう言われてみれば)
あの国には、独特の落ち着きがあった。
種族ごとの小競り合いは少なからずあるが、大きな争いにはならない。
人間が獣人を、獣人がエルフを、エルフがドワーフを、根本から憎んでいるような空気がない。
互いに警戒し、慎重には接するが、その裏にあるのはどこか諦観にも似た受容だった。
まるで、「そういうものだ」と、皆が理解しているかのように。
「……森の西側の『会話の通じる魔物』」
フォルトゥムは、机をコンコンと指で叩いた。
「アウローラの話では、『こっちから攻撃しない限り襲ってこない』と言っていたな」
「はい。言葉も通じるようですね」
レジーナが相槌を打つ。
「報告書には、『あっちはあっちで、あの森を守る理由があるみたいで……それ以上は教えてくれなかった』とありました」
「守る、か」
「ええ」
聖騎士が続ける。
「魔国の女王とも話しましたが、あの方も森の西部については多くを語りませんでした。『古くからの取り決めがあるだけです』とだけ」
「取り決め?」
「はい。森の西部には、魔国の軍を大規模に送り込まないこと。樹海の奥に、勝手に祭壇や神殿を築かないこと。代わりに、森の声を無視するような開発はしないこと」
そこまで言ってから、聖騎士は苦笑を浮かべた。
「……申し訳ありません。正直、抽象的すぎて、わたしも完全には理解できておりません」
「いいや、十分だ」
フォルトゥムは首を振った。
「つまり、魔国は森の何かと、古くから共存の契約を結んでいる可能性が高い、ということだ」
「かと」
レジーナも頷く。
「魔国の王は、自国の守護を『森』にも求めている。逆に、森の側も、魔国を通じて、この大陸西部の均衡を保とうとしている――そんな構図が見え隠れしますわ」
「南の我が国は、『森の賢者』か」
国王の言葉に、部屋の空気が少しだけ変わる。
中央の魔境の南側。
そこは今、黒髪の賢者――世渡有羽の縄張りだった。
学も地位もないはずの、一人の男。
しかし現実には、王国の生活水準と外交の視野を、ゆっくりと、しかし確実に押し上げている存在。
「西には会話する魔物。南には世捨て人の賢者。北と東にも、何か居るのかもしれんな」
「……賢者殿は、ご自身のことを『ただの引きこもり』と仰っているようですが」
聖騎士が、苦笑混じりに言う。
「森に何年も籠もり、文明を一人で再現し、竜を撃ち落とせる『ただの』など、聞いたことがありません」
「全くだ」
フォルトゥムも、思わず同意していた。
しばし、三人とも黙り込む。
静けさの中で、部屋の隅に置かれた魔道具時計の針の音だけが聞こえた。
「……陛下」
先に口を開いたのは、レジーナだった。
「森の南側の『守護者』である賢者様と。西側の何かと関係する魔国と。北や東の勢力と」
視線を地図の中央に落とす。
「いつか、この全てが一枚の盤上に乗る日が、来るかもしれません」
「……否定はできん」
フォルトゥムは、ゆっくりと頷いた。
「だからこそ、今は――」
「焦らず、関係を育てていく時期ですわね」
レジーナが言葉を継ぐ。
「魔国とは、これまで以上に丁寧に。賢者様とは、アウローラを通して信頼を。北と東には、余計なちょっかいを出さない」
「それでいて、目だけは逸らさない、か」
「ええ」
聖騎士も、静かに頷いた。
「樹海の西部のそれも。森の南部の賢者殿も。こちらが無礼を働かぬ限り、一方的に牙を向いてくる存在ではない――その感触はあります」
ただし、と続ける。
「逆に言えば、一度でも信頼を違えるような真似をすれば、その瞬間、取り返しのつかぬ亀裂が走るでしょう」
それは、アウローラが何度も口を酸っぱくして言っていたことでもあった。
「だからこそ、アウローラを止めることもできんか」
フォルトゥムは、苦笑とも溜息ともつかない息を漏らした。
「森に通い続けることを、お前も賛同する口か? レジーナ?」
「はい」
レジーナは、どこか柔らかな笑みを浮かべる。
「……あの子、賢者様の話をするとき、とてもいい顔をするのですよ」
「そうか」
「ええ。昔の、まだ夫を失う前の頃のような、屈託のない笑い方で」
レジーナの声には、姉としての情がにじんでいた。
「だから、わたくし個人としては――賢者様のこと、できるだけ信じたいのです」
フォルトゥムは、視線を落とした。
アウローラが森へ向かった最初の日。
そして、ぼろぼろになって帰ってきた日のこと。
憎悪と虚無で自分を支えていた娘が、今は森と王都を行き来しながら、少しずつ笑顔を取り戻している。
その変化を支えた存在が、あの森の賢者だということは、疑いようもない。
「……そうだな」
やがて、フォルトゥムは静かに頷いた。
「魔国と同じか」
「と、申しますと?」
「魔国は、森の西側の何かと、古くから取り決めを交わしてきたのであろう?」
「ええ。おそらく」
「南の我らは――森の賢者と、これからゆっくりと取り決めを編んでいく時期なのかもしれん」
「随分と気まぐれな、賢者様との交渉になりそうですけれどね」
レジーナが肩をすくめる。
「その窓口をアウローラに任せている時点で、だいぶ特殊な交渉形態ですね。ふふ」
「言うな。父として頭が痛いところだ」
三人の間に、柔らかな笑いが広がった。
けれど、その笑いの奥には――いずれ来るかもしれない「大陸全体の均衡」の揺らぎを、皆がどこかで感じていた。
魔国。
異国の船団。
魔境の大森林。
森の西の何か。
森の南の賢者。
そして、北と東に潜む、まだ見ぬ力。
そのどれもが、今はまだ、かろうじて静かに共存しているだけだ。
だが、少なくともこの王国の中には――それをただ眺めているだけで終わらせるつもりのない者たちが、確かにいた。
張りつめた空気は、一時緩やかなものに戻る。
そこでレジーナが、紅茶をティースプーンでくるくる回しながらぼやいた。
「……しかし、本当に、今回はタイミングが悪かったわねぇ。わたくしが魔国に行くタイミングで、異国の船が港に来るなんて」
「確かにな」
フォルトゥムも、苦笑して頷く。
聖騎士も、少し肩をすくめた。
「どちらも、陛下としては外せない案件でしたからね。魔国との条約更新も、海の向こうから来た異国の使節も」
「ええ。魔国との会談を投げ捨てて、急遽わたくしを港に向かわせるわけにもいきませんでしたし」
レジーナは、あきれたように、しかしどこか楽しげに続ける。
「かといって、異国の使節団を下っ端だけで対応しろなんて言ったら、それはそれで大問題でしょう? 『王国は我らを軽んじた』って、向こうの誇りを傷つけかねないわ」
「そのあたりは、アウローラがよくやってくれた」
フォルトゥムは、素直に娘の名を口にした。
「魔境の森まではるばる行って、森の賢者から助言を受けてきてくれた。あの助言がなければ、晩餐会の席で血が流れておった可能性もある」
「……正直に言いますと」
レジーナは、軽く息を吐いた。
「わたくしも、さすがに「食材が殺し合いの火種になる」視点は持っておりませんでしたわ」
普段なら、「作法の違いによる不興」までは当然予測する。
ナイフとフォークの持ち方、杯を掲げる順序、席次の決め方――そのあたりの行き違いで交渉が決裂することなら、いくらでも想定に入れる。
「食事のマナーの違いが原因で、交渉がうまくいかない、くらいならまだ理解できるのですけれどね」
レジーナは、カップをそっとソーサーに戻した。
「海の向こうの、砂漠の国では――牛が神に仕える神聖な生き物だ、と伺った時は……さすがに言葉を失いましたわ」
牛が主菜どころか、崇拝側の存在である国。
牛を屠り、肉を焼き、客の前で切り分ける行為が、「最大級のもてなし」ではなく「最大級の冒涜」になる土地。
聞いてみれば、「なるほど」と頷ける理屈だ。
だが、誰かに指摘されない限り、一生気づかないまま終わってもおかしくない。
「私たちの国は、食に大らかすぎるのかもしれませんね」
聖騎士が、静かに言葉を挟んだ。
「家畜は家畜。狩った獣も育てた家畜も、「命をいただく」という扱いで、特定の動物だけを極端に神聖視する発想が、まるでない」
「ええ。大らかさは美徳でもあるけれど……同時に、自分たちの常識が世界の常識ではないという当たり前を、見えにくくしてしまうのね」
レジーナは、自嘲気味に笑う。
「常識を疑う心。賢者様は、それを当たり前のように口にされたそうですけれど……」
アウローラの報告が脳裏によみがえる。
『自分の国の当たり前ほど危ないもんないよ。だって、簡単には疑えないからこそ常識なんだからさ』
腹立たしいくらい、的を射た言葉。
「その危険性を、森の賢者は指摘してくれたわけです」
レジーナは、カップの中の茶を見つめる。
「……本当に、一度お会いしてみたいのですけれどね」
「それは、私も同感だ」
聖騎士が、わずかに身を乗り出した。
「政務の都合もありますが――何より、力のほうを、騎士としてこの眼で見定めてみたい」
その瞳に宿る光は、決して敵意ではない。
ただ、強大な力を持つ者を放置しない。
その正体を知り、必要であれば、国としての対応方針を決める。
それは、侯爵として、聖騎士として、当然の責務だった。
「竜を一撃で墜とし、森の魔物を眠らせ、結界であの樹海を切り取る力……」
聖騎士は拳を握る。
「もしも、その力が王国に牙を剥いたならば、我らはどうするべきか。逆に、その力が味方として立ってくれるならば、どこまで世界を変えうるのか」
それは、単なる好奇心ではない。
国を守る者としての、冷静な関心だ。
「気持ちはわかるが……やめておけ」
フォルトゥムが、苦く笑って手を振った。
「賢者殿への交渉は、アウローラに一任しておる。おそらく、それが一番うまくいく」
「……宮廷の一部には、いまだに不満を漏らす者も多いですがね」
聖騎士が、肩をすくめる。
「第二王女直々の勧誘を、何度も断り続ける無礼者――と」
「普通なら、斬首ものですものねぇ」
レジーナが、さらりと言う。
「王国民なら、確実に処罰対象ですわよ? 王族に口答えする平民なんて、悪い見本にされかねませんもの」
「だからこそ、賢者殿は王国民という枠に入れておらん」
フォルトゥムの声は、静かだが明確だった。
「彼は森の中の独立者。いずこの国籍にも属さぬ、辺境に隠棲する知恵者として扱う」
そう扱うしかない、とも言えた。
あの男を「王国の臣民」と定義してしまえば、第二王女を何度も門前払いにする行為は、明確に王権への挑戦になる。
だが、彼は王都にも町にも領地にも住んでいない。
どの領主とも臣従関係を結んでいない。
王都の戸籍にも名を連ねていない。
(――そもそも、どこから来たのかすら、定かではない)
レジーナは、指先でソーサーの縁をなぞった。
「そのあたりを含めて、森に住まわれているのでしょうね」
ぽつりと呟く。
「おそらくは、遠い異国の貴人」
レジーナの声音に、確かな確信が滲んだ。
「魔法の腕は、この際、いったん無視して構いません。問題は他の部分。賢者の知識も、物事の考え方も、明らかに高度な教育の土台がありますわ。言葉の端々に、それが透けて見える」
制度の話をしたとき。
貴族制度の利点と欠点を語ったとき。
税制や土地制度の質問をしたとき。
彼の返答は、庶民のそれではなかったらしい。
「ただ本を読んだだけでは身につかない思考です。日常的に国家や階層というものを意識しなければ出てこない、そんな話し方をなさる」
レジーナは、くすりと笑う。
「『特権階級だから偉いのではなく、優秀だからこそ特権階級という仕組みが成立した』――なんて言い切る方、そうそういませんわよ?」
それは、皮肉にも、貴族制度の根幹を正しく理解した言葉だった。
「土地所有権、税の管理、軍事指揮権。それらを束ねるのが貴族だと、きちんと理解していらっしゃる。にもかかわらず、『特権なんて、いらないよ』と、笑って森に引きこもっている」
そこがまた、厄介でもあり、魅力的でもある。
「ただの隠者の教養ではありませんわ。本来なら、どこかの国の中枢で重用されて然るべき方です」
「……年の頃は、アウローラとさほど変わらんのだろう?」
フォルトゥムが、少しだけ目を細めた。
「アウローラの話が真実ならば、そうですわね。仕草や喋り方からして、老境に入った者のものではありません。若くして他を圧倒する頭脳を持つ、奇妙な賢人」
レジーナは、そこで言葉を切る。
続きは、国王の口から紡がれた。
「国の懐が深ければ、そういう者は重用されよう。多少の無礼も、異能の者だからと飲み込める」
しかし、とフォルトゥムは続ける。
「もし逆ならば――」
「排斥されてしまう」
レジーナが、その先を穏やかに継いだ。
「愚かな国もあったものですわね。どこの国か存じ上げませんが」
冗談めかした口ぶりだが、その奥にあるのは本気の嘆息だ。
「おかげで、賢者様は、我が王国に近寄ってすらくださいません」
レジーナの唇に、苦笑が浮かぶ。
「どれだけ貴族社会で嫌な目にあったのかしら。地位を求めず、名声を嫌い、富にも興味を示さない。そういう方が、何度も何度も、権力者の都合で振り回され続けたとしたら――」
「森の奥に退く、という選択も、理解できてしまうな」
聖騎士の言葉は、どこか同情に満ちていた。
騎士として、貴族として。
彼自身、権力の陰と光を見てきたからこそ、そう思うのだろう。
「アウローラの報告を聞くだけでも、賢者殿の異常さは否応なく伝わってきます」
聖騎士は、ゆっくりと指を折った。
「魔物の生態を把握しつくし、森の中に農地と住居を築き、井戸を掘り、風呂を整え、気候に合わせて冷房と暖房を使い分ける」
「化粧品にしても、そうね」
レジーナが、身を乗り出す。
「石鹸、化粧水、乳液、……あらゆる美に関する知識が、恐ろしいほど系統立っているの。配合を少し変えただけで、香りの持ちと保湿力がどう変化するかを、「感覚」ではなく「理屈」で説明なさるのよ?」
それを再現できない王国側が、現在進行形で頭を抱えているのだが。
「そんな方が、どこかの国でただの平民でいられるとは思えませんわ」
レジーナの結論は、そこに至る。
「だからこそ、遠い異国の貴人と見るのが、一番しっくりきますの」
フォルトゥムも、ゆっくりと頷いた。
「我らの知らぬどこかで、若くして突出した才覚を持ち――」
「そして、どこかの時点で、貴族社会そのものに嫌気がさした」
レジーナが、静かに締めくくる。
「あるいは、命を狙われたのかもしれません。あるいは、功績を横取りされ続けたのかもしれない。あるいは、権力争いの道具として弄ばれたのかも」
どれも、貴族社会では珍しくない話だ。
だからこそ、想像が容易だった。
「だから賢者様は、どこの国にも属さない。どこの領地にも住まない。ただ、森の中で、自分の「王国」を作って生きている」
森の畑。
ログハウス。
井戸。
湯気の立つ風呂。
魔法で整えられた住環境。
アウローラの報告を聞く限り、それはもうひとつの「小さな国」と言っても過言ではなかった。
「……我らから見れば、喉から手が出るほど欲しい人材ではあるが」
フォルトゥムは、椅子の背に体重を預け、天井を仰いだ。
「あまり欲を出せば、逃げられるだけだろうな」
「ええ。今はまだ、「森に通う娘」という距離感が、ぎりぎり許されているだけでしょう」
レジーナの声は、どこか愉快そうで、どこか寂しげだった。
「賢者様の常識の外側の知恵は、どれもこれも魅力的ですわ。食に関しても、魔導具に関しても。……でも、その根っこにある世界が、あまりにも違いすぎる」
有羽が本当にどこの出身なのか――そんなことは、誰も知る由もない。
ただ、この世界のどの国にも属さない異質な常識を持っているという事実だけが、じわじわと浮かび上がっていた。
「だからこそ」
レジーナは、ゆっくりと微笑んだ。
「アウローラには、どうか大事にしてもらいたいのです。賢者様との距離も、賢者様の「心」も」
「……姉として、か?」
「第一王女として、でもありますわ」
レジーナは、茶を飲み干し、カップを静かに置いた。
「愚かな国が手放した宝ならば――」
視線は、机の上の地図の中央、魔境のあたりに落ちる。
「今度こそ、ちゃんと守って差し上げないといけませんもの」
国王は、娘の横顔を見つめ、ふっと目を細めた。
聖騎士もまた、静かにその言葉に頷いていた。
窓の外では、王都の塔の鐘が、ゆっくりと時を刻む。
樹海の深部で暮らす森の賢者の正体を、誰も正しく知らないまま――。
王国の上層部だけが、少しずつ、少しずつ、その存在の重さを理解し始めていた。




