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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第六章

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第99話・目を向ける②


 夜が明け、朝の空色が窓ガラスに薄く貼りついていた。


 会議室に残るのは、蝋燭の匂いと、冷めた茶の渋みと、乾きかけたインクの黒。机上に広げられた大地図は、もはや紙ではなく戦場そのものだった。角は重石で押さえられ、あちこちに小石や木片が置かれ、線が引き直されている。


 その地図を取り囲む影は、辺境伯領の軍部の骨格だ。

 バルドゥール・レオン・グラードライン辺境伯。

 対帝国の国境軍を束ねる将。

 魔物討伐と野盗掃討を主とする境界狩猟軍の将。

 そして両軍の部隊長、伝令統括、兵站、工兵、偵察、弓騎兵、そして――軍師達。


 全員が、目の下に隈を引いている。

 だが誰も欠伸をしない。誰も背を丸めない。眠気より先に、恐怖と責任が彼らの背骨を真っ直ぐにしていた。


 上座には、第二王女アウローラが座している。

 その膝には、子猫ほどの大きさのゴーレム――芽姫クロエ。

 いつもなら、誰かが頬を緩め、侍女がそっと髪を整え、セシリアが耐えきれず抱き上げたくなる。だが今は違う。クロエは静かに丸まり、硝子玉のような目を半分閉じ、ただそこにいるだけで部屋を緊張させた。


 可愛いからではない。

 クロエが、戦の形そのものを変えるからだ。

 芽姫の力が、戦の常識を覆すものだと、この場に集まった者は全員知っている。


 昨夜、談話室でクロエが硬直し、わたわたと手を動かし、アウローラへ情報を送った。帝国に潜む超常存在。星髪のアギト。レベル八十五。能力の断片。そして目的――神聖国の滅亡、光輝神の殺害。

 その瞬間から、夜は夜でなくなった。

 そしてその会議は夜通し続き――夜明けまで続いたのだ。





 ◇◇◇





 会議が始まったのは、真夜中。

 最初に口火を切ったのは、辺境伯バルドゥールだった。


「殿下。芽姫が届けた情報――真と見てよいのですね」

「真だ。理由は後で説明する。今は結論が必要だ」


 アウローラは頷いた。迷いの欠片もない。

 それだけで、全員が理解する。

 第二王女がここまで断じる以上、半端な疑いは不要。

 必要なのは疑うことではなく、動くこと。

 国境軍の将が、地図の北端――帝国側へ指を走らせる。帝都の位置を示す印に爪が触れた。


「問題は二つです。ひとつ、帝都に探査の目を向けるか否か。もうひとつ、国軍を動かすか否か」


 その瞬間、会議室の温度が一段下がった。

 探査を帝都に向ける。

 それは、情報を取るという意味で「攻め」だ。

 だが同時に、目を向けるという行為は、目を向けられる危険でもある。

 最初に反対を口にしたのは、工兵の統括だった。顔に煤がついたままのような男で、普段は冗談の一つも言う。だが今夜は違う。


「相手が人なら、見られたところで損得の計算がある。だが相手は……レベル八十五。常識が通じない。クロエ殿の探査に反応する仕組みが帝国にあるとしたら――その瞬間、こちらは蛇の巣を棒で突く」


 境界狩猟軍の将が、鼻で笑い飛ばしかけて途中で口を噤んだ。

 いつもなら一笑に付す。だが今夜は、笑えない。藪蛇という比喩が、本当に蛇そのものを呼び寄せる可能性があるからだ。

 軍師の一人が、羊皮紙をめくりながら言う。指先が僅かに震えている。


「帝国は銃と砲の国。もし探査を感知する術式や魔道具を開発していれば、逆探知のように追跡される危険もある。クロエ殿が無事でも、こちらの位置や指揮系統が割れる可能性があります」


 反対意見は、理屈として正しい。

 だが次の瞬間、その正しさを真っ向から叩き割る声が出た。


「だから何だ」


 アウローラだった。

 静かな声。

 しかし刃のように通る。


「待って勝てる相手か? レベル八十五――そんなものは「戦略兵器」だ。城壁も、魔力障壁も、準備した守りも薄紙になる。守っている間に踏み潰される。「待ち」を選ぶ余裕がない」


 国境軍の将が、苦い顔で頷く。

 彼も現場の人間だ。守りの限界を知っている。


「殿下の言う通りです。だが、こちらの動きが早すぎれば――帝国が先に動く可能性も」

「先に動かれたら終わる。だから先に知る」


 アウローラは、地図の帝都印に指を置いたまま動かさない。


「帝都に何があるか。アギトなる女がどこにいるか。帝王の隣か、軍部の中枢か、酒場か、それとも城の屋上か。まず、その位置すら測れていないのが私達の現状だ。それがどれだけ危険なことなのか、お前達は理解しているのか?」


 誰かが唾を飲む音がした。

 軍師達は、アウローラの言葉の裏を理解する。

 人の戦争の常識が、通じない戦い。

 戦力、兵站、砲撃、城壁――それらをすり抜けて戦況を変える駒が、帝国側にいる。

 その駒が、今は神聖国を睨んでいる。

 神殺しを考えて、北の大地に敵意を向けている。

 だが、次にどこを見るかは解らない。


「私が怖いのは帝国の砲ではない」


 アウローラは淡々と言った。


「砲は避けられる。銃も対策できる。だが、神殺しを掲げる者など対策の範囲外だ。それは恐怖だ。だが、怖いからこそ知る。知る以外に手がない。知ることさえ恐れていたら辺境だけではなく――国ごと踏み潰されて終わる」


 反対派が沈黙する。

 理屈で勝てないのではない。理屈の土台が崩れているのだ。


 その後、議論は枝分かれした。

 探査を帝都へ向けるなら、頻度はどうする。

 一度の探査で調べられるのか。それとも浅く細かく刻むか。

 探査の「目」を隠す工夫は可能か。

 クロエの疲労はどうなる。

 万一、反応された場合の遮断手順は。

 帝都側で逆探知が起きた場合、辺境伯領のどこまでが危険に晒されるか。


 目印の糸が地図の上に張り巡らされ、線が増え、針が刺さる。

 兵站担当が倉庫の在庫を書き出し、工兵が河川の架橋箇所を指さし、偵察隊長が撤退路の林を示す。

 誰もが自分の領分で、必死に現実へ引き戻そうとする。


 だが議論は、何度も同じ場所に戻ってしまう。

 レベル八十五。

 その数字が、すべての前提を食い破る。

 議論が熱を帯びれば帯びるほど、最後にその数字が冷水を浴びせた。


「防壁は意味がないのか」

「意味はある。相手が人なら」

「相手は人でない」

「もしも相手が帝国に全面協力していたら――」


 言葉が途切れるたびに、蝋燭が短くなった。

 夜が深くなるにつれ、声音は荒れた。

 怒鳴り声も飛んだ。机が鳴った。拳が地図の端を叩き、重石がずれる。慌てて戻す侍従が、震えた手を隠すように袖で拭う。

 辺境伯バルドゥールが一度、厳しく言った。


「感情で議論するな。恐怖で喋るな。だが――恐怖を無いものにするな。恐怖は警告でもある」


 その言葉で、部屋が少しだけ整う。

 整って、また荒れる。


 夜明け前、二つ目の論点へ移った。

 国軍の招集。

 今すぐ王都へ早馬を走らせ、増援を呼ぶべきか。

 だが、動けば帝国が勘づく。王国が軍を動かすということは、南の港からの物資の動きも変わる。商人が嗅ぎつけ、噂が流れ、帝国の耳に届く。


 刺激するか。

 しないか。

 ここでも意見は割れた。

 国境軍の副将が言う。


「増援が来るまで時間がかかる。だが、来れば士気が上がる。備えが形になる。民の避難計画も動かしやすい」


 軍師が言う。


「逆に、増援は帝国への宣戦布告に近い。帝国は銃と砲の国だ。備えを見せれば、こちらが整う前に先手を打つ可能性がある」


 境界狩猟軍の将が吐き捨てるように言う。


「だったら、先に打たれないように準備すりゃいい。いつまで怯えてんだ」


 その瞬間、別の部隊長が硬い声で返した。


「怯えているのは帝国ではない。アギトなる存在だ。この存在が帝王の隣にいた場合、帝国の意思だけで戦が決まるとは限らなくなる」


 言い返した本人も、口にしてから自分の言葉の重さに気づいたのだろう。会議室が静まり返った。

 帝国の意思で戦が始まるのではない。

 超常存在の気まぐれで、戦が始まるかもしれない。


 だからこそ、王国の軍の動きは慎重であるべき――という理屈が立つ。

 だが慎重すぎれば、初動が遅れる。

 遅れは死を呼ぶ。

 アウローラはその沈黙を、切り裂いた。


「結論は一つだ」


 疲れを感じさせない声だった。

 いや、疲れていないはずがない。彼女もまた夜通し喋り、考え、聞き、決断の刃を研いできた。

 それでも声が揺れていない。

 それは、揺れればこの場が崩れると感じているため。


「軍は動かす。だが、動かし方を選ぶ」


 彼女は地図の端、王都へ伸びる街道に指を滑らせる。


「全面招集はしない。今はまだ、帝国へ向けて明確な歯を見せない。だが、いつでも噛める顎を作る。つまり、段階的な準備を進める」


 軍師が眉を寄せる。


「段階的、とは」

「名目を分ける。魔物討伐の増援。野盗掃討の再編。補給線の訓練。冬越えの備蓄。表向きの理由はいくらでもある。国境に兵が増える理由を、戦とは別に作る」


 辺境伯バルドゥールが、静かに笑った。

 正確には笑うというより、納得の息。


「殿下らしい。王都も動かしやすい名目だ」

「そして――」


 アウローラは、膝の上のクロエを見下ろした。

 クロエは眠っているようで、眠っていない。小さな体は柔らかいのに、芯が硬い。芽姫は戦の道具であり、同時に家族のように抱かれる存在でもある。



「クロエの探査結果次第で、次を決める」



 そこだけは譲らない。

 この夜の議論の果てに、最終的に全員が飲み込まざるを得なかった一点。


 知る。

 知ってから動く。

 ただし、動ける準備だけは先に整える。

 誰もが反論しない。反論できない。

 ここで反論するということは、無策で夜明けを迎えるということだ。


 その瞬間、窓の外が僅かに明るくなった。





 ◇◇◇





 夜が終わる。

 だが平穏が始まるのではない。

 ただ、次の段取りが始まるだけだ。


 アウローラは立ち上がった。

 その動作ひとつで、全員の背がさらに正される。


「いいか。今日この瞬間から、辺境伯領は戦時準備に入る。ただし表向きは、平時の延長だ」


 国境軍の将が頷く。


「了解。巡回を増やし、検問を増やす。だが、戦の匂いは出さない」


 境界狩猟軍の将も頷く。


「狩猟軍は名目通り、魔物と野盗を片付ける。民に不安を広げない」


 軍師が言う。


「兵站は備蓄の動きを前倒しに。王都へは、名目を分けた増員要請を送りましょう。情報統制も必要です。噂は早い」

「噂は止められない」


 アウローラは冷静に言った。


「ゆえに噂を薄める。別の噂を流せ。野盗が増えた、魔物が活発化した、冬の備えが必要――嘘ばかりを混ぜるな。真実の断片を使え」


 軍師達が心底嫌そうに、しかし感嘆を隠せない顔をした。

 王族の政治は、時として戦場より薄暗い。

 最後に、アウローラはクロエの頭を撫でた。


「クロエ。今日、帝都を見れるか?」


 クロエがぴくりと葉のような髪を揺らし、硝子の眼を開いた。

 眠そうに、だが確かに理解している目。


【~~……】


 小さく頷いたように見えた。

 その姿に、会議室の全員が息を止める。

 可愛いからではない。

 その小さな頷きが、国の命運に直結するからだ。


 クロエが会議室のテーブルの上に乗る。

 そして大陸の地図を見つめて、淡く光り始めた。

 外の朝日に負けぬように――先を照らす光。


 会議室の重鎮達は、その芽姫の光に背筋を正す。

 芽姫の目が、帝都ヴァリエントへ向けられている。


 国境は、静かに戦場へ姿を変えていくのであった。





 ◇◇◇





 ――端的に言うのであれば、運が悪かった。


 あらゆる面で、運が悪かった。


 最悪の時に、最悪の条件が噛み合ってしまった。


 これは、そんな話の一幕。





 ◇◇◇





 帝都の朝は、戦いの匂いがする。


 北の要塞から戻って数日。城壁の上に立つ衛兵の数は減っていないのに、笑い声だけが減った。帝国はいつだって戦の国だが――今は、戦が「次に続く」匂いをしている。


 帝城の廊下を歩く兵の足音は規則正しい。

 だが、その規則正しさが、今は重い。戦と血の気配は、帝国兵全員が感じている。

 だから動きに、自然と重さが加わる。


 そんな中を、ひとりだけ、ふわりと歩く影があった。

 星空の髪を揺らす少女――アギト。

 今日も彼女は、城内の空気を軽くして歩いていた。少なくとも、本人はそういう顔をしている。口元は柔らかく弧を描き、足取りは跳ねるように軽い。煌めく星のような髪が、朝日を受けて眩く光る。


「ふんふんふーん♪」


 鼻歌も、いつも通り。

 笑顔も、いつも通り。


 ――だが、心だけが違う。


 北部の要塞で、古参兵が鎮魂酒を注いだ夜。

 笑いながら、目尻だけ光らせていた夜。

 その光が、アギトの胸のどこかに、針みたいに刺さっている。

 あの針が、抜けない。


(……神聖国。どうしてやろうか)


 その感情が、彼女の中で「目的」に変わった。

 ただの気まぐれだった外出が、ただの暇潰しだった手が、今は明確に「敵」を定めている。


 欲望。殺意。激情。哀悼。憤怒。

 人間たちが抱く「ソレ」は煙みたいなものだった。風が吹けば散る。酒を飲めば忘れる。どうせ皆、長くは生きない。だから放っておけばいい。


 ……そんなふうに思っていたのに。

 今のアギトには、その煙が、無視できない。


 ふと、彼女は何でもない廊下の曲がり角で立ち止まった。

 窓から差し込む光が、星髪を一瞬だけ白く縁取る。

 顔は笑っている。

 だが、目の奥が笑っていない。


「…………」


 耳を澄ます、ではない。

 彼女は「世界」を澄んだ知覚で感じ取る。


 空気の密度が、ほんの僅かに変わる。

 遠くで誰かが息を止めたような、そんな感覚。

 そして――薄い糸が、帝都の上に伸びてくる感触。


 南。

 帝国の南。

 王国の方角。


(……覗いてる)


 それだけなら、以前の彼女は笑っていたはずだ。

 ふーん誰か見てるなぁ、と軽く流して。

 そう言って蜂蜜酒を飲み、次の日には忘れていた。

 そもそも視線に気付かなかった可能性さえある。

 それくらいに、薄く細い視線。


 だが今は違う。

 アギトの気は荒ぶっている。

 殺意の牙を研ぎ澄まして、その感覚はおそらく過去最高の純度。

 気付けぬものさえ感じ取るほどに――今のアギトは戦闘態勢を維持していた。


 そんな、今のアギトにとって、覗き見は「邪魔」だ。

 癪に障る視線。じろじろと覗き見る乱入者。

 神聖国を潰す――そのために自分が動くと決めた矢先、横から手を突っ込まれるような不快感。


 しかも覗き見の糸は、ただの人間のものではない。

 薄いのに、強い。

 遠いのに、真っ直ぐ。

 丁寧に、帝都の隅々まで覗こうとしている。

 ――それが南から伸びる、クロエの目。


(……目障り)


 その言葉が、胸の奥で舌打ちのように鳴った。

 自然と、アギトの髪が揺れる。

 星空が小さく波打つ。

 その波と同じように、彼女の内側の殺気が波打つ。


(――叩き潰す?)


 答えはすぐ出る。

 出るが――それを即座に実行しない程度の理性は、彼女にもあった。


 ここは帝都。

 帝王ウィルトスの国。

 彼女が「面白い」と思っている舞台。

 この舞台を壊したくないと、そう思える感情がある。


 だからまずは――帝王に、話を振る。

 アギトは軽い足取りで、帝王の執務区画へ向かった。彼女が通ると、兵達が自然と道を空ける。最初は怯え、次に恐れ、今は「触れちゃいけない猫」を避けるみたいに。

 猫に似ている。

 だが、この猫が爪を立てたら、国が裂ける。


 執務室前の控えの間。

 扉の向こうでは、紙をめくる音、報告を読む声、筆が走る音。忙しない帝王の朝。


 扉が開く。

 護衛が一瞬ぎょっとして、すぐに諦めた顔をした。アギト相手に「通すな」は通用しない。帝王も、彼女が入ってくるのを止めようとはしない。


「およ? 忙しい?」


 軽い声で、アギトが顔を出す。

 執務机に肘をついたウィルトスが、眉を上げた。豪放な帝王の顔。だが目の下の影は濃い。北部の戦の後、会議続きの目だ。


「忙しい。だが、お主が来たということは面倒事の匂いがするな」


 ウィルトスは笑う。いつだって笑って押し通る。それが帝王の癖。

 アギトもにこにこする。にこにこしながら、真っ直ぐに言う。


「ねぇおじさん。南の方……王国の方から、こっちを覗いてくる奴がいるんだけど……ちょっと見に行ってみない?」


 言葉は軽いが、内容は重い。

 そして、裏の鋭さは尋常ではない。

 ウィルトスの表情が変わった。

 怒りではない。警戒の顔だ。帝王の顔から陽気が引き、戦の顔になる。彼は机の上の書類を指で押さえたまま、目だけを細める。


「……覗く? いつからだ」

「さっき。ほんと今。少しだけちくっとした」


 アギトは自分のこめかみを指でとんとん叩いた。可愛い仕草のはずなのに、仕草の奥にあるものが可愛くない。帝王はその違和感を見逃さない。


「人の魔法か? 王国の魔道具か?」

「どっちでもないと思うよ」


 アギトの笑顔が、ほんの少しだけ歪む。


「とんでもない高位の『誰か』が覗いてる。この帝都を、遠くから見通そうとしてるよ」

「高位、だと?」


 低い声。

 帝王の声は、軍を動かす際に低く沈む。


「どこだ。南、というのは……国境線か? それとも王都の方角か?」

「方角は南としか分かんない。糸はそこから伸びてきた。……結構遠い。多分国境の辺りかな?」


 アギトは正直だった。

 彼女にとって距離は曖昧だ。人間が「百里」と数えるものを、彼女は「一息」と数える。覗き見の糸がどこから伸びたか――方角は分かる。だが、誰が何処から伸ばしているのか、正確なことまでは解らない。


 だから――見に行こうと誘った。


 ウィルトスは机から立ち上がる。

 椅子が軋む。重い体格が動く。帝王の体が、迷いなく「前」へ出る。


「……ハガネを呼べ」


 護衛が即座に動く。

 その瞬間、アギトが笑った。

 いつもの可愛い笑い方。

 なのに、どこか冷たい。


「行くんだ」

「当然よ」


 ウィルトスは短く言い切る。


「帝国を覗く目を、見逃すほど余は寛大ではない。まして今は、神聖国相手に国が揺れている。王国が動くなら、尚更な」


 アギトは、そこで何かを確かめるように首を傾げた。


「ね。ならさ――南の目、潰しに行こっか?」


 彼女は、可愛い声で言う。

 対してウィルトスが、刃物みたいな笑みを向ける。


「潰すかどうかは相手を見てからだ。だが、見に行くのは決定だ」


 その言葉に、執務室の中の全員が理解した。

 帝王が決めた。

 剣聖が来る。

 そして――星髪の少女が笑っている。

 その三つが揃うとき、帝国の行軍は嵐になる。

 ほどなくして扉が開き、黒鞘を腰に差した老人が入ってきた。

 ハガネだ。眠気など欠片もない目。剣士の目。状況を一瞬で読み取る目。


「呼んだか、帝王」

「ああ。南に不穏な目がある」


 ウィルトスが言い、アギトがにこっと笑う。


「覗き見だってさ。やーだねぇ。礼儀知らずって嫌い」


 可愛い言葉に、可愛くない空気が乗る。

 ハガネが一瞬だけアギトを見る。長年の修羅場の勘が、彼女の「今」を察する。だが、察してもなお解らない。なぜ苛立っているのか、その芯が掴めない。

 ただ、危険だということだけは分かる。


「……蛇娘。やはり貴様、機嫌が悪いな」

「えー? そんなことないよ?」


 アギトは首を振る。

 笑っている。

 笑っているのに、目の奥が冷たい。

 ウィルトスが、短く命じた。


「出るぞ。今度は南だ」


 その言葉が、帝都の朝の空気をさらに重くした。

 兵が動く。伝令が走る。馬の準備が始まる。地図が運ばれ、報告が束ねられ、護衛が増える。


 全てが迅速。

 全てが慣れている。

 帝国は戦の国だ。


 だが、今回の迅速さは、いつもより危うい。

 理由は一つ。

 帝王の傍にいるのは、ただの兵ではない。

 ただの将でもない。


 世界の縁を噛む蛇の「手」が、苛立ちを抱えたまま南を見ている。


 アギトは廊下に出ると、もう一度だけ南を感じた。

 糸はまだそこにある。覗き見の気配は消えていない。むしろ、こちらの反応を測っているようにさえ思える。


(……邪魔くさいなぁ。神聖国の前に、そっちから潰すよ?)


 彼女は笑う。

 奥底の極寒を感じさせないように、陽気な鼻歌を再開する。


「ふんふんふーん♪」


 ……そう。端的に言って運が悪かった。

 いつものアギトなら。怒りを自覚する前の少女なら。

 視線のひとつやふたつ、笑いながら受け流せていた。

 

 けれど、今は違う。

 可愛らしい少女の姿のままで。

 帝都の人々が見たら、ただの軽快な美少女の姿のままで。


 ――その内側で、国を滅ぼす牙を研ぎ続けているのだから。



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