第98話・目を向ける①
長くなったので2話に分けます
帝国の首都――帝都ヴァリエント。
その帝都には、現在緊張があった。
正確には、その緊張感は「北」の地から続いているものだ。帝王が軍を率いて北に向かい、そして帰還した時から続いている緊張感。
言うなれば空気が違う。
気温ではない。北の大地は冷えるが、帝都の空は暖かい。
北の冷えが移った訳ではない。
しかし――胸の奥が重い。
神聖国の小隊を殲滅した。
だが「終わった」のではない。
むしろ始まったのだと、誰もが分かっていた。
あの小隊だけで終わるはずがない。加護持ちを小隊規模で運用した国が、たった一度の威力偵察で引き下がるはずがない。北の山脈の向こうで、次の刃は研がれている。
将兵は沈黙する。
騒ぎ立てる者はいない。余計な言葉は命を削る。
帝王を護衛する兵達の足音も、いつもより揃っている。揃えようとしているのではない。揃わざるを得ない緊張がある。
街道沿いの風景は穏やかだ。農地。小さな集落。
そして帝都には活気がある。金属を叩く音。河運は活発で、商人たちの声も激しい。
子供達も常に騒いでいる。賑やかで、帝都全体がつねに呼吸している。
それが、帝都の日常。
――そんな日常が、妙に脆く見えた。
この脆さを、神聖国が踏みにじる。
その可能性が現実になった。
北部から帝都に帰還してからも、その重さは消えない。
帝城は巨大で、頑丈で、威圧的。帝国の象徴として隙のない要塞であるはずなのに、今日の壁はどこか薄い。石の厚みの向こうに、見えない牙がある気がする。
謁見の間を通り過ぎても、回廊を歩いても、兵が敬礼しても、いつもより音が少ない。
――帝王が帰ってきたのに、喜色が薄い。
分かっている。
喜んでいる場合ではないからだ。
そしてもうひとつ。
全く別の緊張が、城内に刺さっている。
帝王ウィルトスは、執務室の窓辺に立つ背を見つめていた。窓から射す陽が、星空のような髪を淡く照らす。頬杖をつき、外を眺める少女の横顔は、どこまでも無邪気に見える――はずだった。
だが今日は、違う。
静かすぎる。
動かなすぎる。
アギトは城に戻ってから、気が付くと外を眺める時間が増えた。
笑っていないわけではない。
喋らないわけでもない。
ただ――近寄りがたい。
冷たい気配が、刺さる。
帝王の傍には、剣聖ハガネがいた。黒い鞘を腰に差し、壁にもたれ窓辺の背を同じように見ている。いつも通りの無愛想な顔だが、今日に限っては口数がさらに少ない。
そして、帝王と剣聖が――ひそひそと。
この世で最も似合わない行為……「ひそひそ話」をしていた。
「ぬぅ……おいハガネ。お主、何か知ってるか?」
ウィルトスが声を落とす。
豪快な帝王が「声を落とす」だけで異様だった。
「知らん」
ハガネは即答する。
即答するほどに解らないということだ。
「そういう貴様こそ、何か心当たりはないのか?」
「余に聞くな。余にも解らんわ」
「……蛇娘め。何に気を荒立てている?」
ハガネの言葉が、妙に重い。
気を荒立てている――確信がある言い方だ。
ウィルトスは苛立つでもなく、むしろ困っていた。困り方が、敵前での困り方ではない。理解不能な生き物の機嫌を損ねたくない時の顔。
「北の帰り道から、ずっとあんな感じだよな……むぅ」
ウィルトスは顎に手を当て、思考を巡らせる。
「考えられることは……神聖国関連か?」
「それくらいしかないだろうな」
ハガネが言う。だが、すぐに首を傾げる。
「だが、戦っている時は特に変わっていなかったぞ。むしろふざけた態度で敵を引き裂いていた」
「……飯や酒が不味かったか?」
「あやつは、飲み食いできるものなら何でも喜んで食うぞ。蒸かしただけの芋でさえ、笑いながら貪り食っていたわ」
「となると……解らん」
帝王が「解らん」と口にするだけで、帝国は揺らぐ。
だが今、揺らいでいるのは帝国ではなく帝王の理解の範囲だった。
ウィルトスもハガネも、アギトの機嫌が悪いことは感じ取れる。
感じ取れる。だが――理由が解らない。
「本人は普段通りに振る舞ってるつもりだろうがな……どう見ても気が立っている」
「もしもあの蛇娘が癇癪を起こせば、この帝国で止められる者はいないぞ。どうするつもりだ帝王?」
「どうするって……言われても、なぁ」
ウィルトスが、がしがしと頭を掻いた。
アギトは帝国に来てから、基本的に大人しく過ごしていた。
少なくとも「害」を与えていない。
盤上遊戯で遊ぶ。
酒宴を楽しむ。
兵の愚痴を聞いて笑う。
馬鹿話をして「ぎゃおー」と冗談を言う。
帝都の建物を壊した報告はない。
民に危害を加えた話もない。
――噛みつく真似はしているが、実際に噛んだのは基本的に肉と芋と酒だけだ。
人に寄り添う形で、あまりにも自然に日々を過ごしている。
だからこそ、今の苛立ちは「異様」に見える。
そして、その異様が怖い。
アギトの力は、人とは隔絶したものだ。解らないままにするのは恐怖でしかない。
しかし拘束などできない。
できるはずがない。
拘束しようとする発想自体が、刃を自分の首に当てる行為。
「……まあ、とりあえず話を聞くしかあるまいて。ほれ、いくぞハガネ」
「待て。儂もか?」
「当然よ。余一人で死地に向かわせるな。帝王には供回りが必要だ」
「勝手な事を……」
ぶつぶつ言いながらも、ハガネは足を動かした。
二人が近づくと、アギトはすぐに気づいた。
背中に目でもあるのか、とウィルトスはいつも思う。
振り返った少女は――普通に笑った。
「およ? どしたの、おじさんにお爺ちゃん。お仕事忙しいんじゃないの?」
きょとんとした顔。
澄んだ声。
冗談めいた口調。
外側だけ見れば、いつも通り。
だから余計に、背筋が寒い。
ウィルトスは慎重に言葉を選んだ。強く出るのは悪手。弱く出ても悪手。笑って誤魔化すのも悪手。帝王の交渉術が、戦場より難しい局面で試される。
「あー、そのだな……アギトよ。お主、最近何かあったのか?」
「何かって……何? え? アタシ変な所でもある?」
アギトは自分の体を見渡した。手の先、足の先、髪の毛の先。なにもない。汚れも乱れもない。むしろ完璧すぎるほど整っている。
ウィルトスとハガネは、同時に視線を交わした。
やっぱり気のせいか?
いや、気のせいならいいが……。
そんな会話が、目だけで交わされる。
気のせいならそれが最良だ。
気のせいであってほしい。
そんな祈りを鼻で笑うように。
アギトが、ふいに口を開いた。
「ところでさ」
声は軽い。
まるで雑談の導入のように。
ウィルトスは、自然に応じた。
「おう。どうした?」
「この国の南ってさ、確か王国だよね。三年前に戦争したとかいう」
「うむ。今は停戦中だがな」
ウィルトスの脳裏に、南の記憶が立ち上がる。
焼けた地面。落ちる稲妻。轟く風。
南王国の第二王女が放った、禁呪級の大規模殲滅魔法
砦が潰れた日。部下を――死なせた日。
「かつての戦では多くを失った。余の帝国も、相手も等しくな。いずれ決着はつけなければならん」
言葉が、自然に出た。
憎しみではない。責務だ。
あの日の借りを返すことは、帝国の意地だ。
その隣で、アギトがぽつりと呟く。
「……帝国の兵も、いっぱい死んだんだ」
「ああ。死んだ。大勢な」
ウィルトスは頷く。
そして、少しだけ呼吸を整えた。
「余の不明である。……だが、それはそれとして、向こうの第二王女には借りを返さねばならんと思っているがな」
帝王は不敵に笑った。
己の失敗を認めた上で、なお敵を敵と定める。
それが帝王ウィルトスの性分だ。
――だが、次の瞬間。
「――――へぇ」
アギトの声が落ちた。
たった一言分の音。
だが、それは音ではなく――温度だった。
底冷えのする冷たさ。
氷に触れた時のような、芯にくる冷え。
そして、刃のように鋭い何か。
ウィルトスは呼吸が一瞬遅れた。
ハガネの指が、鞘に触れる。
剣聖が無意識に「いつでも抜ける」位置へ手を置くほどの圧が、そこにはあった。
慌てて隣を見る。
アギトの顔は、変わっていない。
きょとんとした目。
笑いを含んだ口元。
無邪気な少女の表情。
――表情だけは、平常のまま。
ウィルトスは、冷や汗が背中を伝うのを自覚した。
帝王が冷や汗を自覚する。
それは戦場でも滅多にない。
(今のは、何だ)
ウィルトスはハガネに目を向けた。
ハガネもまた、同じものを感じたのだろう。目が細まり、額にわずかな汗が光っている。
やはり――何かを抱えている。
だが、二人はまだ答えに辿り着けない。
あまりに単純すぎる答え。
単純だからこそ、想定外の答え。
アギトの中に芽生えた怒りは、理屈ではない。
国と国の因縁でもない。
権力の損得でもない。
もっと近い。
もっと小さい。
もっと鋭い。
身近な者を悲しませた、という個の感情。
ウィルトスは気づけない。
ハガネも気づけない。
彼らは「大勢の死」を見過ぎて、たった一つの悲しみに焦点を合わせる感覚を、いつの間にか遠ざけてしまっている。
だから、見えているのに見えない。
彼らは多くの死と遭遇した。
多くの怒りを胸に抱いた。
怒りの理由など、ありふれていると知っている。
それゆえに、気づけない。
まさか、あの数百年を生きた少女が。
あの途方もない存在が。
――初めて怒りを知ったなどと。
帝王と剣聖の世界には、そんな「幼い怒り」は存在しない。彼らは怒りの扱い方を知りすぎている。戦場で怒りを燃料にする方法も、怒りを鞘に納める方法も。長年で慣れすぎた。
慣れていない者の怒りに、寄り添う術を持たない。
アギトは窓の外へ視線を戻した。
帝都の空は穏やかだ。鳥が飛び、雲が流れる。
だが彼女の瞳は、空を見ていない。
もっと遠くを見ている。
南。
王国。
そして――その先。
彼女はいつも通りの軽い声で言う。
「ま、いっか。今は北の方が大事だし」
笑ってみせる。
冗談めかす。
その言葉の裏に、何が隠れているのかを悟らせないように。
ウィルトスは喉を鳴らし、できるだけ平然を装った。
「……そうだな。今は北だ」
帝王の声が、少しだけ硬くなる。
ハガネは何も言わない。
ただ、窓辺の少女を見ている。
剣聖の目は、敵を見ている目ではない。
災厄を見ている目だ。
星髪の少女は、帝都の空を眺めている。
風に髪が揺れる。
蜂蜜酒の甘い匂いが、どこかから漂う。
いつも通りの、穏やかな日常の匂い。
――その奥底に、凍て付く殺意を沈めたまま。
帝王と剣聖は、その殺意の意味をまだ知らない。
知らないまま、帝国は次の戦いへ向けて歩き出している。
知らないまま――それこそが最も危険だということに、まだ気づかずに。




