第10話・第一王女レジーナ②
静かになった姉の部屋で、ティーカップの触れ合う小さな音だけが響いた。
紅茶の表面には、窓から差し込む夕焼けの光が、ゆらゆらと揺れる。
アウローラは、カップを両手で包み込むように持ちながら、どこか落ち着かない様子で俯いていた。
一方でレジーナは、そんな妹を正面からじっと眺めている。
頭のてっぺんから、爪先まで。
視線を滑らせるように観察し――改めて、ため息をひとつ。
(……ほんと、どうしてこれで落ちない男がいるのかしら)
妹は、十分どころか、過分なほど美しい。
明朗活発。
太陽みたいな笑顔。
戦場では雷鳴のごとき魔力と鋭い剣閃を振るいながら、民や侍女と話すときには、目線をすっと同じ高さに落とす。
王女として、時折やりすぎなところもある。
だが、それもまた「愛嬌」として受け入れられる程度だ。
剣も魔法も一流。
むしろ、王女としての資質より、騎士や魔導師としての能力の方が突出している。
それでいて――。
「姉上、これで合っていますか? あの、その……この場面での立ち居振る舞いが、まだ不安で……」
かつて、夜会の作法を何度も習いにきたことがある。
足りないところを自覚し、埋めようとする素直さ。
自分が持っていないものを、誰かに教えを乞う事で、得ようとすることのできる柔らかさ。
(……可愛いところ、いっぱいあるのに)
正直――そんな妹に何度も勧誘されて、頷かない男がいることが、レジーナには不思議でならない。
王族としての身分を抜きにしても、だ。
何か根本的に、アプローチの方法を間違えている気がする。
そんな考えが、レジーナの頭の片隅にあった。
(……まぁ、わたくしにも解らないことはあるのだけれど)
森の賢者が、別世界からの転移者だなんて、想像すらしていない。
二度と帰れぬ故郷を持つ者だということも。
有羽の心がどこで折れたのか。
何を諦め、何を切り捨てて、あの森の奥で「引き籠る」道を選んだのか。
そこまでは、レジーナにも見えない。
ただ――。
アウローラの話を聞く限り、賢者は彼女には随分と心を許しているように思えた。
頑なに王都には来ようとしない。
だが、森へ赴くアウローラを拒絶しなくなって久しい。
わざわざ客間まで建て。
食事を振る舞い。
危険な帰路には、守護魔法をかけて送り出す。
(もう少し……何か、賢者様の心を引き寄せる「きっかけ」があれば)
そこで、レジーナの脳裏にひとつの考えがよぎる。
やがて、ふっと口元をゆるめると、妹へと視線を戻した。
「ねぇ、アウローラ」
「は、はい?」
アウローラは、背筋を伸ばして顔を上げる。
完全に「姉に叱られる妹」の姿勢だ。
「賢者様の意志を無下にするのは良くないわ。それは、わたくしも同意見」
レジーナは、落ち着いた声で切り出す。
「陛下も、『力尽くで連れて来い』なんてことは仰っていないのでしょう?」
「い、いえ、先程、その提案を受けました」
「え? 陛下が言ったの? 本当?」
「はい。……ただお父様も、一応聞いてみただけだったみたいで……力で押さえつけるのは駄目だと、すぐに解ってくれました」
「でしょうね」
レジーナは頷く。
「森の賢者様の力も知識も、国にとっては喉から手が出るほど欲しいものだけれど、それを奪おうとした瞬間、すべて失う可能性が高いもの」
「……そう、思います」
アウローラは、ぎゅっとカップを握りしめる。
「だから、私は。あくまで『友人』として。『協力者』として。森に通うことしか、できません」
「ええ、それでいいのだと思うわ」
レジーナは、そこで一拍置く。
「でもねぇ……」
わざと、少し言葉を濁してみせる。
「でも……いいの?」
柔らかい声色のまま、目だけが鋭く光った。
「そんな素晴らしい知識を持った賢者様なんだもの。他の国から勧誘があるかもしれないわ」
「……!」
アウローラの肩が、びくりと揺れる。
大森林は、大陸の中央にある。
南の王国だけの土地ではない。
北の神聖国。
西の魔国。
あるいは東の帝国。
アウローラと同じように、命懸けで魔境を踏破し、有羽の住む場所へ辿り着く者が、いつ現れてもおかしくない。
「……あの森の中、あそこまで来れる人なんて、そうそう……」
「いないとは言ってないわ」
レジーナは微笑を崩さない。
「世の中には、貴女みたいに無茶をする人が、意外といるのよ?」
アウローラの脳裏に、遠い国の見知らぬ冒険者や貴族が浮かぶ。
有羽は中々気を許さないが、懐に入れた相手に対しては甘い。
故に、場合によっては自分よりも親しくなる可能性だって――。
(……いや、いやいや! 有羽は、そんな簡単に懐柔できる男じゃない)
ちょっと怖い想像をし、すぐに頭を振って追い払う。
しかしレジーナの言葉は、そこで終わらなかった。
「いいえ、国じゃなくてもいいの」
レジーナはカップをソーサーに戻し、指先で軽く音を立てた。
「他の女性から、言い寄られることがあるかもよ?」
「――――」
アウローラの呼吸が、ぴたりと止まる。
突然の予想に、頭の中が真っ白になる。
だが、レジーナは、追い打ちをかけるように問いかけた。
「それでも、いいの?」
その瞬間。
アウローラの頭の中で、何かがぱんっと弾けた。
森に迷い込んだ、どこかの国の女戦士。
行き倒れかけたところを、有羽に助けられて――。
彼の作る料理を食べ。
あのふかふかのベッドで休み。
魔法で髪を乾かされ。
気がついたら、彼の隣が当たり前の場所に――。
そこまで想像してしまった時。
言葉が、考えるよりも先に口からこぼれ落ちる。
「――やだ」
ぽつり、とこぼれた声は、自分でも驚くほど幼かった。
赤ん坊の我儘でも言うような、むくれ声。
けれど、それは紛れもない本心だった。
「……っ」
沈黙。
レジーナは、一瞬目を丸くし――次の瞬間、頬まで真っ赤に染めた。
(……なんて、素直で、可愛いのよ、この子は)
嫉妬。
独占欲。
そんな感情を、取り繕うこともなく、まっすぐ「やだ」の一言で表す妹。
あまりにも、愛おしい。
思わず、胸のあたりを押さえた。
「…………」
アウローラは、はっとして両手で口を押さえる。
「い、いまの無しです! 聞かなかったことに――!」
「しません♪」
即答が帰ってくる。
レジーナは、わざとらしく咳払いし、わずかに身を乗り出した。
「アウローラ」
「は、はい……」
背筋を伸ばす。
耳まで、真っ赤だ。
「次に森に行くとき……綺麗な服も用意して持っていきなさい」
「――へ?」
あまりに予想外の言葉に、素っ頓狂な声が出た。
「き、綺麗な服って……あの、動きにくいドレスは、森では危険ですし、その、裾も引っかかりますし、無駄に目立ちますし――」
「わたくしが言っているのは、『戦うための服』じゃなくて、『見せるための服』よ」
レジーナは、くすっと笑う。
「森の中では、いつも動きやすい服装を選んでいるのでしょう? それ自体は正しいわ。でも、一日くらい。夜だけとか、室内だけとか――少しおめかしした姿を、賢者様に見せてごらんなさい」
「お、おめかしって……」
アウローラの脳裏に、「有羽のログハウスの居間で、ドレス姿で座っている自分」という、現実味のない映像が浮かぶ。
(似合わない……いや、似合う似合わないの問題じゃなくて、場違い感すごくない?)
顔の熱が一向に下がらない。
「きっと、違った反応があるはずよ」
レジーナは、自信たっぷりに言い切った。
「わたくしの、可愛い可愛い妹がね――心を込めて着飾った姿を見て」
指先で、アウローラの金髪をつまむ。
森の空気と有羽の魔法で、艶やかさを増した髪。
その一房を、愛おしげに撫でながら。
「少しも心が揺れない男性なんて、居るはずがないもの」
「で、でも……その……」
「王都の夜会用じゃなくていいのよ?」
レジーナは、具体的に補足した。
「動きやすいけど、ラインの綺麗なワンピースとか。森の緑に映える色合いの布地とか。肩を出しすぎない程度に、でも少しだけ普段と違う印象を与える工夫とか……いくらでも方法はあるわ」
「……そういうもの、ですか?」
「ええ、そういうものよ」
レジーナは、悪戯っぽく片目をつぶってみせる。
「賢者様は、賢い人なのでしょう? その賢さを、少しだけ惑わせてあげなさい」
アウローラは、ぐるぐると頭の中が回る感覚に襲われながら、ぎゅっと膝の上で手を握りしめた。
有羽が、自分の姿を見て、どんな顔をするのか。
驚くだろうか。
笑うだろうか。
それとも――少しだけ、言葉に詰まるだろうか。
(……見てみたい、かも)
そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。
「ど、どんな服が、いいでしょうか」
気がつけば、口からそんな言葉がこぼれていた。
レジーナの顔が、ぱっと華やいだ。
「任せなさい!」
まるで、待ってましたとばかりの声。
「わたくし、妹をおめかしさせるのは大得意よ? 森でも動きやすく、でも一目で『特別』だと分かる服。賢者様の目を引いて、でも引きすぎない絶妙なライン――全部考えてあげるわ」
そこから先は、姉妹だけの、ひそやかな相談の時間となった。
どんな色が、アウローラの瞳と髪に映えるか。
どの丈なら、森の中でも危険が少ないか。
装飾は控えめに、しかし質の良さが伝わるものを――。
第一王女と第二王女による「賢者攻略作戦会議」は、夕鐘が鳴り終わっても、なおしばらく続いたのだった。




