第1話・いつもの日常
夏の森は、うるさい。
木々のざわめきに、虫の声。遠くでは、獣の吠え声と、何か大きなものが木を倒す音。普通の人間なら、三歩も進めば「帰りたい」と泣きたくなる、そんな不愉快さと危険とが入り混じった気配が、そこら中に満ちていた。
――が。
「急げ! 遅れるぞ!」
「ひっ、ひい……! お、おおおおうじょ……さま、少し、休憩を……!」
その地獄みたいな森の中を、白いマントが一枚、突っ切っていく。
先頭を行くのは、陽光を反射してきらめく金髪を、高い位置でひとつ結びにした女。腰には細身の長剣、肩には軽いプレートアーマー。動くたびに、金属と革の鈍い音がした。
アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリス。
南の大国アウストラリスの第二王女にして、若き剣士にして、大陸屈指の魔法の使い手。
その背後で、護衛騎士たちが汗だくになりながら、ほとんど引きずられるように走っている。彼らだって名のある武勲を立てた精鋭ばかりなのだが、この森の中では、ただの「まだ生き残っている人間」に過ぎない。
「殿下っ、右から来ます!」
「分かっている!」
低木を裂いて、黒い狼が飛び出す。目が赤く光り、牙がぎらりとむき出しになる。その視線は、護衛たちの誰でもなく、真っ直ぐに王女を狙っていた。
刹那。
アウローラのマントが翻る。腰の剣が抜かれる音の前に、すでに一歩踏み込んでいた。振り抜かれた銀の軌跡が、狼の首をなぞる。
血飛沫。呻き声。地面に転がる影。
「……ふう。ここまで来ると、魔物も慣れたものだな」
「慣れたもの、ではありません、殿下……っ、はぁ、はぁ……」
肩で息をしながら、護衛の一人が涙目で抗議する。
だが、アウローラは気にも留めていない様子で、周囲を見回し、ふっと口元を緩めた。
「見えてきたぞ。ほら――」
木々の向こうに、ぽっかりとした「穴」が開いていた。
大樹たちが途切れ、陽光が素直に地面へと降り注ぐ空間。そこだけは森の重苦しい気配が薄く、よく耕された畑と、丸太で組まれた家が、静かに佇んでいる。
ログハウス風の家。その脇には、小さな畑。整然と並べられた野菜の列。畑の奥には、石を積んで作られた井戸。見ようによっては、田舎のどこにでもある小さな家だ。
――ただし、ここが人類未踏の魔境のど真ん中でなければの話だが。
「はぁ……着いた……」
「生きて……生きて辿り着けた……」
「毎回思うが、ここまで来られる我々は、もはや英雄では?」
「英雄なんて名誉はいらん。涼しい部屋と冷えた飲み物が欲しい」
護衛たちがそれぞれ好き勝手なことを呟く中、アウローラは胸いっぱいに、森とは違う空気を吸い込んだ。
よく乾いた木の匂い。麦と土と、水の匂い。どことなく、香ばしいような、懐かしいような匂い。
彼女は満面の笑みで、家のほうへ走り寄ると、そのまま玄関の扉をばんばんと叩いた。
「おーい! 有羽ー! 私だ―! 王女が来たぞー! 開けてくれー!」
森中に響き渡るような声。
護衛たちはそれを見て「ああ、始まった」とばかりに、誰一人止めなかった。止めたところで、彼女がやめるはずもないと知っている。
しばらくして、ギイ、と扉が開いた。
中から現れたのは、黒髪の青年だった。
年の頃は二十二。見慣れた地の民とも、王都の貴族ともどこか違う、妙に「整った」顔立ちと、ラフな服装。だらしなく肩まで伸びた黒髪をひとつに結び、半袖のシャツに、動きやすそうなズボン。
目つきだけは、やたらと眠たそうで、そして、ジトッとしている。
「何……また来たの? まだ一か月も経ってないじゃん」
世渡 有羽。
この大森林に、ただ一人で住み着いている、規格外の魔法使い。
この魔物蔓延る広大な樹海に引き籠っている、変人。
アウローラは、むうと頬を膨らませた。
「もう一か月近く経っている! 折角来た客人に、なんだその態度は!?」
「いや、別に来てなんて頼んでないでしょ……ホントに毎度毎度、飽きもせずによく来るよ」
「ふふん。飽きることなどない! 私の目的は解っているだろう?」
大きく胸を張る王女を無視するように、有羽は大きく息を吐いた。
「しょうがないなぁ……あー、護衛の皆さん。荷物は『いつものところ』に置いていいから。今、麦茶持ってくるよ」
護衛たちが一斉に顔を輝かせる。
「いつものところ、了解しました!」
「ああ、神よ、有羽殿よ……」
「今日の麦茶は何味でしょうかね……」
「味は麦だよ。麦茶だし」
ぼそっとツッコミを入れながら、有羽は扉の奥へと消えていく。
護衛たちは、すっかり慣れた様子で、家の脇に建てられた小屋へと荷物を運び始めた。簡素な作りではあるが、屋根も床もあり、雨風はしのげる。王都の宿屋より快適だと評判の、客人用小屋だ。
そして彼らは、荷物を置き終えると、誰ともなく家の軒下に腰を下ろした。
軒下には複数の椅子やテーブルが置かれている。護衛達の慣れ親しんでいる家具だ。
「ああ……生き返る……」
「ここだけ別世界ですよね、本当に」
「この森の難易度、明らかに調整ミスだろ……」
疲れ切った声があちこちから上がるが、有羽とアウローラは、もう見慣れすぎていて聞き流している。
「では、邪魔するぞ!」
アウローラは侍女たちを引き連れて、ずかずかと家の中へ入っていった。
途端に、彼女の顔がふわりと緩む。
「うーん、久々の『エアコン』は涼しいなー!」
室内には、冷たい風が一定の強さで流れていた。
窓は閉ざされているのに、空気は淀むことなく、さらりとしている。天井近くに設置された箱型の魔道具から、涼しい風が吐き出されていた。
侍女たちは最初こそ遠慮がちだったが、二度三度と来るうちに慣れてきたのか、今では控えめに、しかし確実に、その風の範囲内へと椅子を引き寄せるようになっていた。
「殿下、あまり前に座ると、他の者が……」
「よいではないか、私が先に来たのだ。先着順だ」
「……王女様の理屈、たまに庶民的ですよね」
こそこそ囁く侍女たちを横目に、有羽はキッチン……としか言いようのない謎の作業台の前で、何やらカチャカチャと器具をいじっていた。
しばらくして、トレーの上に、氷の入った水差しと、いくつかのコップ、そして焼き菓子が並ぶ。
「お待たせ。今日は麦茶と、クッキーもどき」
「もどき?」
「ベーキングパウダーとかないから、代用品で頑張ってるんだ。文句言うなよ?」
言いながらも、有羽はコップに麦茶を注ぐ。
氷がからんと鳴って、琥珀色の液体が波打った。室温との温度差が、コップの表面にうっすらと水滴を作る。
アウローラは、それだけで目を輝かせた。
「いただくぞ!」
ごくごく、ごく。
一気に半分まで飲み干し、ふぅ、と口から息を吐く。
「……生き返るな、これは」
「さっき護衛も同じこと言ってた」
「生き返るのに貴族も平民もない。冷えた飲み物の前では、皆平等だ」
「その名言、どっかの歴史の教科書に載ってたっけ?」
適当な相槌を打ちながら、有羽は焼き菓子を皿に並べていく。
侍女たちも、それぞれコップを手に取り、ありがたそうに口に運ぶ。その表情が、見る間に和らいでいくのを、有羽は横目で見ながら――ふと、王女のほうに視線を向けた。
「で? 今日は何の用? この暑い時期にわざわざ来るとか、何か用事?」
アウローラは、コップを置き、背筋を伸ばした。
そこでようやく、「王女らしい」顔になる。
「ああ、聞いてくれ! 実は、異国の船が港にやってきてな、今国は大騒ぎで――」
「……は?」
有羽は、手に持っていた皿を片手で支えたまま、瞬きをした。
「異国の船って、あの南の海の方? 交易国とかじゃなく?」
「見たこともない帆印に、見たこともない船の形、らしい。船体は黒く塗られ、船首には奇妙な獣の像。言葉も我らのものとは違う。通訳たちが苦労していると聞く」
アウローラの目が、少しだけ真剣な色になる。
その変化に、有羽はようやく「あー、これ割と大事な話か」と理解した。
「へえ……そんなイベント、ゲームでもだいたい国難フラグなんだけど」
「フラグ?」
「いや、こっちの話」
彼は皿をテーブルに置き、自分の分の麦茶を一口飲む。冷たさが喉を滑り落ちる間に、頭の中でいくつかの可能性を並べる。
「で、その異国人たちが、なんかやらかしたとか?」
「まだ何もしてはいない、らしい。だが……」
アウローラは言葉を区切り、テーブルの上で指を組んだ。
「彼ら、海図も、航路も、我らのものとはまったく違うものを持っていたという。その記録を見た学者が口を揃えて言うには――」
一拍。
「『この大陸の外に、もっと大きな世界が広がっている』可能性が高い、とな」
部屋の中の空気が、少しだけ重くなった気がした。
麦茶の氷が、からん、と鳴る。
「そりゃまあ、丸い星なら海の向こうにも大陸はあるだろうけど……」
有羽は肩をすくめる。
彼がこの『世界』に転移してから八年。星空は見慣れたものとは似ているようで違い、地図はこの大陸の外を「未記載」とだけ記していた。人類未踏の大森林と同じで、「ない」わけではなく「知らない」だけなのだと、頭では理解している。
だが、王女の話を聞いて、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
「それで?」
「国王陛下は、慎重に様子を見ておられる。だが、貴族たちは色めき立ってな。『新たな交易先だ』『友好関係を結ぶべき』『いや、逆に攻められるかもしれん』と、毎日会議が紛糾している」
「うん、まあ……人間ってそうだよね」
有羽は、どこか醒めた目で笑う。
自分が前にいた世界のニュースも、似たようなものだったことを、ふと思い出した。
「それで、私は思ったのだ」
アウローラは椅子から少し前のめりになって、有羽をまっすぐに見つめた。
「こういう時に頼るべきは、宮廷魔導師たちでも、学者たちでもなく――」
「いや、まずそこ頼れよ。順番おかしくない?」
「――この森の奥で、一人で黙々と研鑽を続けている、世界一の魔法使いだろう、と!」
「おかしかったわ」
有羽は即座にツッコんだ。
だが、アウローラは気にした様子もなく、胸を張る。
「お前ほどの魔力と知恵があれば、異国の連中が何を考えているのか、きっと見抜ける。海の向こうに何があるかも、もしかしたら、分かるかもしれん」
「人を何でも鑑別機みたいに言うなよ……」
とはいえ、彼女の言わんとするところも分かる。
この八年で、有羽は見たもの聞いたものを片っ端から魔法で分析し、この世界の法則を自分なりに整理してきた。王都の研究者たちでは発想もしないような魔道具を作るたびに、いつの間にかアウローラに「世界一」だのなんだのと呼ばれるようになっていた。
本人は、ただ静かに暮らしたかっただけなのだが。
「それで、またスカウトしに来たってわけ?」
「もちろんだ!」
アウローラは、すかさず身を乗り出す。
「今こそ、王都に来るべき時だ。有羽。お前の力を、国のために――」
「やだ」
「有無も言わさずに断るな!」
即答。
しかも、一切迷いを感じさせない声音だった。
「だって、王都って暑いじゃん。人多いじゃん。面倒ごと多いじゃん」
「王都が泣くぞ、それは……」
「ここ涼しいし、静かだし、ネットもない代わりに魔術研究し放題だし」
「ねっと?」
「こっちの話」
有羽はテーブルに肘をつき、頬杖をつく。
「異国の船が来た? ふーん、まあ、すごいことなんだろうけどさ。俺は別に、世界の広さとか、どうでもいいんだよね。森から出なきゃ、世界がどんだけ広がろうが関係ないし」
「……それでも」
アウローラの声が、少しだけ柔らかくなる。
「この森は、いつか限界が来る。魔物が強くなりすぎるかもしれないし、瘴気が濃くなるかもしれない。海の向こうから何かが来て、この大陸そのものが揺らぐかもしれん」
「まーた大げさな」
「大げさかもしれん。だが、私は王女だ。最悪を想定して動かねばならん」
真面目な口調。
この二年間で、有羽もだいぶ慣れたが――それでも、時々こうして「王族の顔」をされると、少しだけ居心地が悪くなる。
「……で?」
「だから、せめて話だけでも聞いてほしいと思ってな」
アウローラは、ちょこんと頭を下げた。
王女が、森の奥の一介の引きこもり魔術師に頭を下げる。それがどれほど異常な行為か、護衛も侍女も分かっているはずだが、誰も口を挟まない。
彼らは皆、この光景を初めてではなく、何度も見てきたから。
「航路の記録も、異国の文字も、写しを持ってきた。お前なら、そこから何か分かるかもしれん。王都に来いとは、今すぐには言わん」
「さっき言ってたよね?」
「細かいことは気にするな。とにかく――」
アウローラは、にっと笑った。
「今日くらいは、麦茶を飲みながら、世界の話をしよう」
有羽は、しばらく黙って、麦茶の氷を指でつついていた。
カラン、と氷が揺れる。
森の外の世界。
大陸の外の世界。
自分が元いた世界とは違う、もうひとつの「未知」。
それは確かに、彼の好奇心を、かすかにくすぐった。
「……まあ、話聞くだけなら、別にいいけど」
ぼそっと、そう呟く。
「よし、決まりだ!」
アウローラは、ぱんっと手を打った。
護衛たちが、外から「始まったな」といった顔でこちらをちらりと覗く。侍女たちは、そっと筆記用具を取り出した。
同時に、テーブルの上に、新しく一束の紙が置かれる。
癖の強い曲線と点で綴られた、不思議な文字の列。
その横には、色鮮やかな布で描かれた服装図の写し。ターバンのような頭布、長い上衣、ゆったりしたズボン。腰には細い帯、耳や首には金属の装飾。
有羽は椅子に深く座り直し、麦茶のコップを片手に、紙束をぱらぱらとめくった。
「ほーん……」
視線だけが、紙の上をすばやく走る。
「……ヒンディー語に似てるな、こりゃ」
ぽろっと出た言葉に、侍女たちが一斉に瞬きをした。
「ひ、ひん……?」
「でぃー……?」
何一つ意味は分からない。
だが、分からない単語がすらすら口から出てくること自体が、すでに恐ろしい。
有羽は気にする様子もなく、次の紙へと視線を移した。
「で、異国人の服装は……ふんふん、成程。こりゃ海の向こうの国は、砂漠だね」
彼は服装図の写しを持ち上げ、軽く傾けながら続ける。
「布の重ね方と、露出の少なさ。それに、この頭んとこの巻き方。砂避けと日差し避け。で、胡椒とか積み荷にあったでしょ?」
ぴくり、と侍女の肩が跳ねた。
「こ、胡椒……ありました」
「他にも、香辛料の匂いが強くて、港の倉庫がしばらく大変だったとか……」
息を呑む音が、テーブルのあちこちから重なる。
ほんの少しの文字の写しと、服装の情報だけで――有羽は、異国の気候と、積み荷の中身にまで辿り着いてしまった。
アウローラは、感心半分、呆れ半分といった顔で口笛を鳴らす。
「流石。一を聞いて十を知る。まさに賢者よな。ますます我が国に欲しい」
「褒めても何も出ないよ」
有羽は、麦茶を一口飲みながら、ジト目でアウローラを見た。
「行かないよ? 俺は貴族とかそういう制度が嫌で此処にいるんだから」
「相変わらずケチな男よ」
今度はアウローラのほうが、じとりと細い目を向ける。
「第二王女自ら、栄誉と地位を保証すると言っておるのに」
「栄誉にも地位にも興味が無いから此処にいるの」
有羽は、渡された異国の資料をめくりながら、淡々と返す。
「それにしても、この文字……かなりインドに似てるな。宗教関連まで同じだった場合、結構不味いかも」
「インド?」
聞きなれない単語に、アウローラが片眉を上げた。
「海向こうの異国は、有羽の知ってる国か?」
「同じじゃない。でも、大分似ている」
有羽は紙から目を離し、窓の外にちらりと視線を投げる。
軒下では、護衛たちが椅子に座り、コップを手に「冷えた……」「うま……」と幸せそうにしていた。
「……ただ、俺が知ってる国は、宗教が生活に深く根付いてる国なんだ」
ぽつり、と言葉がこぼれる。
「食べ物に関する『禁忌』もかなりある。知らずに向こうの国の『禁忌』を食卓に出したら、殺し合いも起きかねないクラスの奴が」
侍女たちの喉が、一斉に鳴った。
ごくり、という音が妙に大きく感じられるほど、空気が一瞬で緊張する。
アウローラは、表情こそあまり変えないものの、その目だけは真剣に細めた。
「その辺りは王都の外交官が慎重に取りなしている。……とは言え、殺し合いレベルか。好き嫌いの上までいくか。流石に、そこまでは想定外だったな」
「王女さんの国は、食文化がすごく大らかだからねぇ」
有羽は肩をすくめる。
「獣でも魚でも、酒でも乳でも『美味ければよし!』ってノリでしょ。まあそのおかげ? というか、その所為? で俺の作る料理も、モリモリ食っていくんだけど」
「当然だろう!」
アウローラの顔が、一気にぱあっと明るくなる。
「有羽の作る料理は、大変美味だからな! それにここでなら、堅苦しい作法を気にする必要も無い! 夏も冬も快適な気温で……」
ぐいっと身を乗り出し、にへら、と笑う。
「むぅー、やっぱり来てくれんかなー? なー? お願いだよー。王都に来て、私の部屋にもエアコン作っておくれよー」
「やだ」
間髪入れずに、有羽はキッパリ断った。
「俺は自由が良いの。王宮暮らしとか、堅苦しい生活は嫌なの」
「有羽の自由は保証するからさー」
アウローラは、ずいっとさらに詰め寄る。
「特権あげるからー。いいだろー? 『王都内どこでも出入り自由』とか、『面倒な挨拶免除』とか、『食堂のメニューに有羽料理を優先採用』とか――」
「駄目」
ばっさり。
「というか、王女さんが、そういう事言うもんじゃない」
有羽は紙束をテーブルに置き、指で軽くトントンと揃えた。
「貴族制度そのものを崩壊させる危険性を生ませてどうする。例外を、王族が作っちゃ駄目。王族こそ、その辺はしっかりと」
淡々とした口調。
けれど、その内容は、王都の老貴族が聞いても唸りそうな筋の通り方をしていた。
「王族特権で、こんな若造を特別扱いしたら、絶対に反感買うから。『あいつは王女のお気に入りだから何でも有りだ』とかいう陰口、めちゃくちゃ増えるよ」
「……」
アウローラは、逆に呆れたような視線を向ける。
「有羽……お前、そういうところはしっかりしてるんだよな。お前のその考え、むしろ貴族的なんだが」
横で控えていた侍女たちも、こくこくと頷いた。
「確かに……」
「身分の線引きというか、役割というか……そういうものを大事にしているの、殿下より有羽様かもしれません」
「殿下はよく線を踏み越えられますからね……」
「おい、聞こえているぞ?」
アウローラが軽く睨むが、侍女たちは慣れたもので、すぐにしれっと表情を整える。
彼女たちは皆、思っている。
有羽は、決して地位や権力を欲しがらない。
けれど、地位や権力の重さをよく分かっている、と。
貴族が何のためにあるのか。
王族の特権は、いかなる時に振るうべきなのか。
それを、この世界の生まれ育ち以上に理解しているように見える瞬間が、確かにあった。
(……本当は、どこか遠い国の貴人なのでは?)
そんな疑念は、侍女たちだけでなく、外の護衛たちの間でも、密かに共有されている。
これだけの知識。
卓越した魔術の腕。
そして、凶暴な魔物が蔓延る森の中で、呑気に暮らせるほどの「強さ」。
どう考えても、ただの村出身の一般人ではない。
だからこそ、アウローラは執拗にスカウトを続ける。
――他の国の人間に、渡したくないから。
「ま、俺が王都行かない理由は、貴族制度がどうこうってよりも――」
有羽は、麦茶を飲み干し、新しく氷を追加しながら、ぼそりと続けた。
「単に、めんどいからなんだけどね」
「最後の最後で本音が台無しにしたな!?」
アウローラが即座にツッコむ。
侍女たちから、くすくすと笑いが漏れた。
外では、護衛が空になったコップを掲げている。
「すみませーん、おかわりあったら……!」
「さっきから『ここに住みたい』しか感想が出てこないんだが……」
エアコンの風は涼しく、麦茶は喉を潤し、森のざわめきだけが遠くで鳴っている。
まさか、この青年が「異世界から転移してきた日本人」だとは、誰も思っていない。
それは流石に、彼らの想像の外側にある出来事だった。
ただ一つ言えることは――
海の向こうから来た異国の船も。
王都で紛糾する会議も。
砂漠と禁忌の宗教も。
そのどれもが、今この瞬間だけは、「世界一の引きこもり魔法使い」と「第二王女」と「侍女たち」の、夏の昼下がりのおしゃべりの、ちょっと不穏で、ちょっとわくわくするネタに過ぎない、ということ。
ひととおり話し終えたところで、テーブルの空気が少しだけ落ち着いた。
侍女たちはそれぞれ、膝の上に板を置き、さらさらとペンを走らせている。
そこに書かれていくのは、異国の注意点の数々だ。
「ええと……『彼らの神は一柱。唯一の神を崇める可能性がある』」
「『複数の神を祀るのは間違いと受け取られる場合あり』……ですか」
「『国によっては絶対に食べてはいけない家畜がいる』……ふむ……」
食べていい肉と、絶対にダメな肉。
触ってはいけない動物。
男と女の距離の取り方。
祭りの日と、その意味。何を祝っていて、何を悼んでいるのか。
有羽が強く念を押したのは、その辺りだ。
「念のため言っとくけどさ」
コップを指先でくるくる回しながら、有羽が言う。
「自分の国の『当たり前』は、他人の国だと全然当たり前じゃないからね。どころか――」
彼は少しだけ声を低くした。
「こっちで一番神聖で『いいこと』ってされてる行いが、向こうだと『やっちゃダメなこと』の場合もある。逆も然り」
「逆も、か」
アウローラが小さく復唱する。
侍女の一人が、思わず顔を上げた。
「そんなに、ですか?」
「うん。こっちで『お祝いだー!』って出す料理が、向こうからしたら『殺意か?』ってレベルの禁忌、ってパターンもある」
侍女たちの手が止まる。
「……殺意、ですか」
「食卓で、ですか」
「こわい……」
「でも、あり得る」
有羽はきっぱりと頷いた。
「宗教に絡むタブーって、感情が直結してるからさ。『好き嫌い』の上の段だと思っておいたほうがいい。知らずに踏んづけたら、火がついた藁束みたいに一気に燃えるよ」
室内の空気が、すこしだけ重たくなる。
アウローラは顎に手を当てながら、静かに言った。
「我が国の常識が、そのまま海の向こうにも通じるとは限らん、か」
「ていうか、ほぼ通じないと思ったほうが安全」
有羽は肩をすくめる。
「仲良くできない可能性も、そりゃあるよ。信じてるものも、守りたいものも違うんだから。でも、最初から『違う前提』で慎重に接すれば――少なくとも、変な誤解からの戦争はだいぶ避けられる」
その言葉に、侍女の一人が、ペンをぎゅっと握りしめた。
「……血が流れるのを、減らせる」
「うん。それだけで十分でしょ」
有羽は、あっさりと言う。
その声は、妙に軽いのに、妙に重かった。
(この森に引きこもっているくせに……いや、だからこそか)
アウローラは、ふと口元を緩めた。
(まるで戦場を見てきた者の言葉だな)
やがて、侍女たちが書き終えた羊皮紙の束をまとめ、机の端に寄せた頃。
有羽はパン、と手を叩いた。
「よし、一段落。じゃ、そろそろ昼飯の準備でもするか」
ぱっと場の空気が軽くなる。
最初に反応したのは、やはり侍女たちだった。
「今日は暑いから……んー、『ざるうどん』と『野菜のかき揚げ』でも作ろうかな?」
途端に目が輝く。
「有羽様のうどん!」
「あれ好き! 柔らかいのに、ちゃんとシコシコしてて、のど越しが最高なんですよね!」
「うんうん! 作り方教えてもらって、王都でも流行ってますけど……有羽様ほどのうどんには、まだ巡り合っていません! 王都の料理人も、まだまだです!」
きゃあきゃあと、年頃の娘らしい声で騒ぎ出す。
アウローラはというと、「ざるうどん」という単語で一瞬頷きつつも、別のほうで引っかかっていた。
「……かき揚げ、とな」
ランランと目が光る。
「確か、あれだな? 細かく刻んだ野菜をまとめて油で揚げる、あの『サクッ』とした揚げ物の! 『天ぷら』の仲間の!!」
以前、有羽の天ぷらを口にしたときの記憶が、鮮明によみがえる。
外は軽く、内はふわり。噛めば、熱と香りと旨味がじゅわっと広がる、あの不思議な料理。
(あれを初めて食べたとき、私は本気でこの男を拉致して王都に連れ帰ろうとしたな……)
ほぼ懇願に近い形でスカウトをかけた日のことを思い出し、アウローラは小さく咳払いをした。
家の外でも、敏感な者たちの耳がぴくりと動く。
「……今、かき揚げって聞こえたか?」
「聞こえた。天ぷらの親戚だ」
「今日は絶対に、残りを分けてもらう……!」
護衛たちの腹が、想像だけで鳴り始める。
そんな気配を背中に受けながら、有羽は苦笑しつつ腕まくりをし、台所へ向かった。
◇◇◇
台所――というより、この世界の人間から見れば「謎の工房」である空間には、ふたつの異様な存在が鎮座していた。
一つは、木と金属で作られた箱。
扉を開けると、ひやりとした空気が流れ出てくる。《魔導冷蔵庫》と有羽が呼ぶ代物だ。
もう一つは、火がないのに鍋が熱くなる、平たい台。《魔導コンロ》。
アウローラは何度見ても、眉間に皺が寄る。
(どうやって、一定の温度を保っているのか、さっぱりだ……)
ただ凍らせるだけなら、氷の魔法でどうにでもなる。
だが、食材を「凍らせずに冷やし続ける」などという器用な真似は、簡単ではない。そもそも、何を基準に温度を管理しているのか見当もつかない。
(魔力の流れ方も、我が国の魔道具とは明らかに違う……。というか、魔力の『概念の組み方』からして異質だ)
王国でも指折りの魔法の使い手である彼女でさえ、原理がまるで掴めない。
そんな彼女の悩みをよそに、有羽は慣れた手つきで冷蔵庫の野菜室を開けた。
そこには色とりどりの野菜が、ぎっしりと詰まっている。
「……相変わらず、すごい光景ですね」
侍女の一人が、ぽつりと漏らす。
夏だというのに、萎びることもなく、瑞々しさを保った葉物たち。
根菜も、果物も、まるで収穫したてのような張りをたたえている。
「これだけの種類、王都の市場でも日を選ばねば揃いませんのに……」
「それを森の真ん中で常備しているのがおかしいのよね……」
史実に残せば、一冊の農業革命書になりそうな光景を、彼女たちはただ「すごい」と眺めるしかない。
「さて、と」
有羽は、籠いっぱいに野菜を取り出して、まな板の上へと積んだ。
玉ねぎ、にんじん、葉物、きのこ類。多種多様な野菜が入り混じっている。
「じゃ、ちゃちゃっとやるか」
彼は小さく息を吸い込むと、呟いた。
「加速」
その一言とともに、空気がぴんと張り詰める。
次の瞬間、有羽の姿がふっと霞んだ。
いや、正確には、動くたびに残像が残る。
包丁が走る。
まな板の上で、野菜が細く、一定の太さで刻まれていく。
玉ねぎが、にんじんが、葉物が、きのこが、あっという間にかき揚げ用の細切りへと姿を変える。
「出た、『いつもの高速有羽様』……」
「速い……いつ見ても速い……」
「あの速度で手を切らないの、本当に凄い……」
侍女たちは、もう驚く段階を通り越して、「お約束」として受け止めていた。
アウローラも、この光景は見慣れている。
見慣れてはいる――が、慣れたからといって怖くなくなるわけではない。
(……相変わらず、人間の動きじゃないな)
彼女は一歩引いた位置から、その様子をじっと見つめる。
(あの速度で襲われて、生き残れる戦士が、我が国に何人いる?)
頭の中で、騎士団の顔が次々と浮かび、そして散っていく。
(……いや、一人もおらんだろうな)
アウローラ自身も、その誰かに含まれている。
もし、有羽が殺意を持ってこの加速を戦闘に使ったら――。
一分もかからずに、この軒下にいる護衛たちも、侍女たちも、そして自分自身も。
全員、例外なく斬り殺される。
(そんな魔法、私には扱えん)
彼女は苦笑しそうになる口元を、ぐっと引き締めた。
(組み立て方も分からんし、たとえ分かったとしても、試す度胸が出るかどうか……。制御を誤ったら、身体が真っ二つどころか、引き千切れるのが目に見えておる)
軽い調子で「アクセル」と呟いているが、その実、これは戦場で軍を一つ消し飛ばしかねない魔術だ。
有羽は、そんな周囲の緊張など気にしていない様子で、刻んだ野菜を大きめの鉢に入れ、粉と水を混ぜていく。
魔導コンロの上では、寸胴鍋に張られた水が、ぼこぼこと音を立て始めていた。うどん用の湯だ。
乾麺の束が解かれ、手際よく鍋の中へ入れられる。
別の鍋には、絞った植物油が注がれ、コンロの魔法陣に触れた瞬間、静かに温度を上げ始めた。
「油の温度も、一定に……」
アウローラが、また頭痛を覚える。
(この温度管理も、さっきの冷蔵庫と同じく、よく分からん……)
その間にも、有羽の手は休まらない。
加速したまま、衣をまとわせた野菜をお玉の中ににまとめ、油の中へそっと落とす。
じゅわぁぁっ、と音が弾けた。
香ばしい匂いが、台所から一気に広がる。
「……っ!」
侍女たちの顔が、一斉に輝いた。
「来た! この匂い!」
「もう美味しい! まだ食べてないのに美味しい!」
「外の護衛様たち、今頃悶えてますね……」
確かに、外から「うおおおお……」と小さな唸り声が聞こえてきた気がする。
うどんも茹で上がり、水で締められる。
冷たくしめられた麺が、ざるの上で白く光る。つやつやとした表面が、見ているだけで喉を鳴らせる。
かき揚げは次々と揚がり、網の上で油を切られていく。
表面はカリッと、内側はほどよくふんわり。重なりあった野菜たちの色が、衣の隙間から覗いている。
全部を、加速状態のまま、ほとんど無駄なくやり切る。
(……やっぱり、戦場で使わせたら、兵器だな)
アウローラは、ごく自然な動きで、壁にもたれた。
(こんな魔法を使える者を、放置……できるわけがないだろう、有羽)
口には出さない。
出したところで、有羽にはまたあっさり断られるだけだ。
(スカウトされたくないのなら、少しは力を隠してくれ、と言いたい)
だが、彼は隠すという発想がない。
料理を作るのに便利だからと、殺戮用にもなる魔法を平然と使う。
(見てしまった以上、王族である私が、お前のスカウトを諦める未来はないぞ)
例え、一生実らないとしても。
この力だけは、絶対に敵に回してはならない。
そう心の中でぼやきながら、アウローラは、揚げたてのかき揚げが載った皿に視線を落とす。
「……というか、むしろ私の胃袋が口説かれているのだがな」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
その瞬間。
「おーい、うどんと揚げ物、完成ー。王女さんたちは中で食べていいけど、護衛の分は外で配るから、誰か運ぶの手伝ってー」
有羽ののんきな声が響き、台所の熱と香りに、夏の森の昼下がりは一気に「ご馳走タイム」の色を帯びていく。
そして手際よく、各々の前に料理が配膳された。
揚げたての、綺麗な色合いのかき揚げが、僅かに湯気を放ち食欲を誘う。
純白のうどんの麺が、きらきらと輝いて、見る者の唾を飲み込ませる。
もう堪らない。有羽以外の全員が、皆我慢できない幼子のように、料理に手を付けた。
サクサク、と心地よい音がする。
箸先で割られたかき揚げが、つゆを少しだけ吸って、衣の内側から湯気と香りを立ちのぼらせる。ひと口頬張れば、外はまだ軽く、内側の野菜は甘い。
「俺、野菜は嫌いだけど、このかき揚げは別だ……」
「分かる。最高だよな……うめぇ」
軒下で、護衛の一人が噛みしめるように呟いた。
テーブルに置かれた器の上では、透き通るような白いうどんが、きらりと光っている。つゆにつけて、ずるりと啜れば、喉を滑る感触がたまらない。
「冷たくて美味しい……」
家の外でも、家の中でも、同じような声があちこちから漏れている。
最初、有羽と出会った頃には、誰も彼もが箸の扱いに苦戦していた。
麺はすべり落ちるし、具材は飛ぶし、器はひっくり返しそうになるしで、悲鳴と笑い声が混ざっていたのだ。
だが、今では――皆、見事に箸を操っている。
「ほら、そこ力入りすぎ。指のこの辺で支えてさ……」
「こう、ですか?」
「うん、それそれ。あんま挟もうと意識しないほうが、結果として挟めるから」
有羽の実演指導の成果もあって、今では侍女も護衛も、自然に箸を使っている。匙やフォークとは違う、細かい動きができるおかげで、「むしろ万能では?」とさえ思い始めていた。
最近では王都でも、少しずつ「箸」が広まりつつある。
格式高い晩餐会ではまだ出番はないが、日常の食卓には「箸」を使ってみる貴族も増えているらしい。
そのことを報告したとき、有羽は肩をすくめて言ったのだ。
『別に好きに広めていいよー。俺が考えたもんじゃないし』
あっけらかんと、それだけ。
発明品の権利を丸ごと投げ渡すその気楽さに、アウローラは何度も頭を抱えた。
(もう少し、権利に貪欲ならなぁ……)
本気でそう思う。
(「箸」一つでこれだけ便利になるのだ。魔導冷蔵庫やエアコンや乾麺の技術まで、権利を握る気があったら……いくらでも口実を作って王都に呼べるのに)
そんなことを考えながらも、口は止まらない。
ズルズル、と、うどんを啜る。
冷たい麺が、つゆの香りとともに口の中を通り抜けていく。
舌に残るのは、深い旨味と、控えめな塩気、そして豆から造ったという「醤油」の香り。
(……やっぱり、特に「つゆ」が凄いんだよな)
アウローラは、箸を持つ手を止めずに考える。
ベースは「醤油」という謎の液体。
豆を発酵させて造る、と聞いた時点で理解を諦めた代物だ。
そこに、「出汁」と呼ばれる、これまたよく分からない旨味の素が加わる。
乾燥させた魚や、海藻や、きのこを組み合わせて取るらしく――説明は何度か聞いたが、王族の舌を自称してきたアウローラでさえ、その理屈をまるで掴めていない。
(食の常識が、根っこから違うんだよな、有羽の料理は)
材料そのものは、実のところ特別なものではない。
うどんの生地も、王都で手に入る小麦粉と水と塩。だからこそ、王都でもすぐに真似できた。
だが――この食感は、まだ誰にも再現できていない。
(そもそも、この「乾麺」ってやつの出来が良すぎる)
混捏工程だの、ロール工程だの、熟成工程だの、圧延工程だの。
有羽が楽しそうに語っていた工程は、どれもこれも聞き慣れない言葉ばかりで、途中から頭が悲鳴を上げた。
極めつけは、あの一言だった。
『切り出された直後は、三五%程度の水分だけど、最終的に一四・五%まで下げて――』
何故、麺の水分量をそこまで正確に把握しているのか。
どうやってそこまで細かく調整しているのか。
(あの時点で、私は完全に理解を諦めたな……)
麺を乾燥させる、その工程一つに、尋常ではない繊細さとこだわりを込めている。
その緻密な作業を、有羽は魔法で当然のように成し遂げているのだ。
(料理を作るために、超高難度の魔術式を組み上げる男……)
宮廷魔導師がこの事実を知ったら、全員卒倒するだろう。
超常の、最高峰の魔術式の結晶が、「乾麺作り」に便利に使われている。
その現実に耐えられる魔導師が、この国に何人いるか――。
(多分、いないな)
初めてその話を聞いた時、アウローラ自身も意識が遠のいたくらいだ。
あまりの常識外れに、逆に笑うしかなくなったのを覚えている。
けれど。
けれども、このうどんは、美味い。
色々と思うところは山ほどあるが――美味いものは、美味い。
かき揚げも、美味い。サクサク、チュルチュル。止まらない。
「……ふう。限界まで食べた……」
「もう入らない……でも、もう一杯いける気がする……」
「人は、美味な麺を前にすると、胃袋の容量が伸びるのね……」
外の護衛たちも、器を空にして、背もたれにぐったりと寄りかかっている。
「ごちそうさまでした、有羽殿……」
「生きてて良かった……」
家の中も状況は同じで、侍女たちがうっとりとした顔で胸を押さえていた。
「こんなに食べたのに、まだ『明日も食べたい』って思えるのが罪……」
「王都でもうどん屋を作ってほしいですわ……」
「有羽様の分身が十人いれば可能かもしれません……」
「その発想が一番怖い」
食後の麦茶をすすりながら、有羽がぼそりと言う。
やがて、全員の器がきれいに空になったところで、有羽が腰を上げた。
「お粗末さまでした」
いつもの一言。
その声に、全員がほぼ同時に「ごちそうさまでした!」と頭を下げる。
さすがに片づけを全部任せるのは気が引けるので、侍女たちはすぐに立ち上がった。
「では、片づけは我々が」
「洗い物はお任せください」
手分けして食器を集め、流し場へと運ぶ。
水瓶から水を汲み、魔導コンロの隅で温度を調整し、その湯に「食器用洗剤」を数滴垂らす。
白い泡が、柔らかく広がる。
(……もう、この程度で驚かなくなってしまったな)
アウローラは、半ば諦め顔で、その光景を眺める。
この「洗剤」も、有羽が造り出した特別品だ。
油汚れがするりと落ちる液体など、王都の錬金術師が聞いたら興奮のあまり倒れるだろう。
だが、この家の中では、それも「いつものこと」の一つでしかない。
(見渡すものすべてが、王都の技術を凌駕している家、か……)
もう洗剤くらいでは驚かない。
驚き疲れた、と言ったほうが近いかもしれない。
満腹感が、じんわりと身体を重くしていく。
エアコンの涼しい風。
満たされた胃袋。
遠くで鳴く鳥の声と、食器が触れ合う音。
ゆるゆると、意識が眠りに引き寄せられていく。
「……ふぁぁ……」
アウローラが、小さくあくびを噛み殺した。
侍女たちも、洗い物をしながら目元がとろんとしている。
そんな様子を見て、有羽が呆れた声を上げた。
「おーい。ここで寝るな―」
腰に手を当て、客たちを睨む。
「外の客間に行け、客間に……王女さんの為に、わざわざ作ったんだからな、アレ」
窓の外を指さす。
広場の一角には、小さなログハウスが建っていた。
本宅より一回り小さいが、それでもしっかりした造りで、屋根も壁も綺麗に手入れされている。
アウローラ専用の客間。
何度も何度もスカウトに来る王女たちを、最初は「知るか」とばかりに野営させていた有羽が、ついに根負けして作った建物だ。
雨の日も、風の日も、彼女たちは来た。
最初の頃、有羽は本気で無視していた。
だが――冬の日。雪がしんしんと降る中、震えながらも笑って「王女が来たぞー」と叫ぶアウローラ一行を見て、瞬時に造り上げた家。
あの時、僅かとはいえ、有羽が『折れた』。
だから、作った。簡易的とはいえ、暖炉も寝具も揃った客間を。
ある意味、根気勝ちしたアウローラの勝利と言えなくもない。
……それでも。
肝心のスカウトだけは、未だに実らない。
有羽が、王都に来る気配は、まったくない。
アウローラは、眠たい目をこすりながら、椅子から立ち上がった。
「ふぁ……」
ふらり、と一歩よろめき、それからぐっと姿勢を正す。
その顔は、やたらと真剣だった。
「有羽」
「ん?」
コップを片づけていた有羽が、振り向く。
アウローラは、ぐっと眉を寄せて、真面目な声で言った。
「夕食は肉がいい」
一拍。
「本当にふてぶてしいな、おい!?」
厨房と居間に、有羽の絶叫が響いた。
侍女たちが、ぷっと吹き出す。
護衛たちも、外で腹を抱えて笑っている。
「殿下、さすがに図々しすぎでは……」
「でも、言ってくれて助かりました。肉、食べたいです」
「俺も。今日くらいはハッキリ言ってくれる殿下が好きです」
「お前たちもか!」
有羽の抗議は、笑い声にかき消された。
アウローラは、にっと口元を吊り上げる。
「朝から森を突っ切ってきたのだ。昼にうどん、夜に肉。これくらいのご褒美があっても罰は当たるまい?」
「いや、罰とか以前に、俺が晩飯用意する必然性は……?」
「私は客人! 有羽は家主! ならば馳走せよ!!」
「どういう理屈だよ!」
いつものように噛み合わない会話。
いつものように飛び交うツッコミと、本気か冗談か分からない要求。
ここでは、それが当たり前の光景だった。
世界一の引きこもり魔法使いと。
世界一物怖じしない第二王女と。
その取り巻きたちの、見慣れた夏の日の一場面。
外の森では、相変わらず魔物たちの咆哮が響いている。
けれど、この小さなログハウスと、その隣の客間のあたりだけは――
今日も、平和で、のどかで、そして少しだけ賑やかだった。




