第10話 その頃の侯爵家3
ナンス・モロー子爵にここまで言われたリヒトは、何も言えなくなった。
「そんなバカなことはない!」と、叫び出したいのをこらえていた。
そして、ナンス・モロー子爵はリヒトをもう『温厚な紳士』などとは思っていないこともわかった。
その証拠に、再び深いため息をついたナンス・モロー子爵が自嘲気味につぶやいた。
「……実の娘にそこまで悲観され別の婚姻を急がせたのは、リヒト様の評判に踊らされ娘の言い分を信じなかった私の落ち度でもあります。もう少し、噂を否定するように動けば良かったのですが……時、既に遅しですね」
こう言われたリヒトは笑みを浮かべてナンス・モロー子爵を見つめた。
「遅くはありません。今からでも謝罪の場を設けていただければ、噂の払拭と誤解を解けるかと思います。……私のどんな評判に踊らされたのか存じませんが、私もまだ子どもですので、他愛ない軽口ややりとりなどはするのですよ。――ロゼももう少し軽く捉えてくれていると思っていたのですが……実際、仲の良かった子爵令嬢がたとはそういったやりとりをされていたのをこの目で見ましたし、私ともそういう気やすい関係だと私自身は思っていたのです」
今度はナンス・モロー子爵が詰まった。
……実際のところ、子どものおふざけ程度だろうと言われればそうなのかもしれない。
周りが〝温厚な紳士〟というレッテルを彼に貼り、勝手に勘違いしただけ。
自分は普通の子どもだと言い張られればそれ以上は言えない。
だが。
侯爵家という家柄は、それを許さないだろう。上位貴族同士でならその話は多少通用するかもしれないが、婚約者でもない子爵令嬢と、侯爵家嫡男とでは立場が違いすぎる。
確かに子どもだ。
そう考え、ナンス・モロー子爵も笑顔を作った。
「いいえ。残念ですが、手遅れです。……そのお話は学園に入る前にしてほしかったですな。そして、せめて学園の周りの反応を見て侯爵家嫡男であるリヒト様ご自身の行動を省みてほしいと切実に思います。……なんでも、娘に下女と同じ事をやらせていたそうですな? しかも、娘より下位にいる平民上がりの男爵令嬢まで使い、彼女の下着を洗わせていたとか。娘の手を見て仰天いたしました。まるで、平民のように荒れており、とうてい子爵令嬢の手とは思えませんでしたから。……娘は屈辱に震え、それほどまでに怨みは深いのかと嘆き、リヒト様以外ならばどこでもいい、それが無理ならば勘当してくれ、とまで言われたのですよ」
リヒトは、嘘をつくなと内心で吐き捨てつつ、悲しげな顔を作り反論した。
「もちろん、誤解を招いたことは謝罪いたします。誠心誠意ロゼに尽くし、互いに気のおけない関係をより深めたいと願っております。ですので」
「そこで、ちょうど舞い込んできていた辺境伯当主の後妻を薦めたのですよ」
リヒトに皆まで言わせずかぶせてナンス・モロー子爵は言った。
非礼は承知だが、ナンス・モロー子爵も我慢の限界だった。
娘を信じず周りを把握していなかった自分も悪い。
だが、その元凶となったのは誰もが口を揃えて褒めたたえる寄親の侯爵子息だ。
もし知っていたとしても子爵当主の立場からすれば、「我慢しろ」と言うしかないではないか。
さらにひどいのは、この目の前の侯爵子息は反省していると言いながら、まだ絡んできているのだ。
これで怨みはないなど信じられない。
娘の言うとおり、リヒトの夫人になったらさらに輪をかけてひどい目に遭い、数年経たずに『不慮の事故もしくは病死』で、死に顔も見られないまま闇に葬られるだろう。
冗談ではない。
いくら上位貴族に逆らえない下位貴族の立場とはいえ、当主にだって人並みの父親としての情はある。
なぜ『寄親の子息』というだけで、最悪の未来もわかっていて、かわいい娘を生贄として差し出さねばならぬのか。
リヒトは婚姻先を聞いて顔色を変えた。
ようやく手が出せないと思い知ったかとナンス・モロー子爵は内心で吐き捨て、念押しで言った。
「辺境伯当主。肩書きは伯爵、貴族位では侯爵家と同等になりますが、権力と実質的な地位で言うと王家に次ぐ、魔境の森の護り手の貴族ですな。娘はそこの後妻に望まれ、すぐに向かいました。……先ほど『無事婚姻の届けを出した』という手紙をちょうど受け取ったところです。『非常に良くしていただいている』と、喜びの言葉も添えられていまして、父親としてもホッと胸をなで下ろしました」
ナンス・モロー子爵はリヒトの執着を切り捨てるように言い切った。
心配し動揺しているような表情を作り、リヒトはナンス・モロー子爵に訴えた。
「……そんな……! 貴族令嬢の彼女がそんな危険な場所に嫁ぐなんて……何を考えてらっしゃるんですか!? 彼女の身に何かあったらどうするんです!? 今からでも遅くはありません! 呼び戻してさし上げてください!」
そんなリヒトをナンス・モロー子爵は不思議そうに見る。
「確かに辺境は子爵領に比べれば危険でしょうが、どのみちどこかの令嬢が嫁ぐことになったのでしょうし、それが娘だっただけのこと。娘も喜んで嫁いで行きましたし、辺境伯当主にとっても娘にとっても良縁だったと私は思います。……それに、娘が帰ってきたいと思えばいつでも帰ってこれますよ。前辺境伯夫人の離婚理由は、『辺境に嫌気が差した』ということでしたから」
リヒトはとうとう攻め手を失った。
ナンス・モロー子爵は立ち上がり、笑顔で伝えた。
「では、侯爵に近いうちにお詫びに伺いますとお伝えください。本日はわざわざお越しくださり誠にありがとうございました」
リヒトは歯ぎしりしながら立ち上がり、ゾッとするような目つきでナンス・モロー子爵を一瞥すると無言で去った。
次回、侍女視点になります。