名古屋城の研究2
そこから少し行くと直ぐに大津通へ出た。名城公園がよく見える。交差点を渡って今度はちょっと南へ、すると広いお堀と高い石垣が目の前に広がった。やっぱりこうでなくてはならない、ようやくお城らしくなってきた。そこでここから暫くはお堀端を対岸の石垣を眺めながら歩くことになった。
ただ藤棚がある遊歩道とお堀の間には大きな雑草がびっしりと繁っていて、向こうが良く見えない。そこで、お堀の縁の少し高くなったところにある細道を通ることにした。この道と遊歩道とは、本当は手入れされたつつじとか柳とかで綺麗に隔てられたところらしい、所々そういう痕跡がちらほらしている、けれどこの夏の間に雑草のジャングルに飲み込まれていき、こんなカオスな状態になってしまったようだった。だからこの道からもお城がよく見えない。そのことをお兄ちゃんに言ったら、お兄ちゃんは僕を担ぎ上げ肩車をしてくれた。そこからの眺めは、絶景だった。お兄ちゃんは照りつける太陽の下、むっとする草いきれの中、のっしのっしと歩いて行く。僕は快適に物見遊山だ。
なにしろ僕の視点は二・五メートルくらいの高さにある。だからお堀の水面から石垣の連なりから天守閣の上部から、全て広々と見渡せる。楽しい気分で風景を楽しみつつ進んで行った。でもこうやってお兄ちゃんに肩車してもらうなんて、何年ぶりだろう。僕がもっと小さいころはよくせがんでしてもらっていた。それは二階からの景色みたいだったし、馬に乗ってるみたいだし、大好きだった。そして実はこの時も楽しかった。流石に高学年になったらなかなかやって欲しいとも言えないもんね。この日は大義名分があった。そのため遠慮なく乗っけてもらえる。僕の目に映る風景は何故だか懐かしい感じがした。
こうして暫くのんびりとした散歩を楽しめた。その途中お兄ちゃんはいろいろと話してくれる。『あそこがな』と二の丸の石垣が途切れたようになっている部分を指さした。『さっき話した埋門がある空堀だわ、そこの堀に面したとこに船着き場があった、それから』と今度はその右側の土手を指し示して、『あそこは本丸搦手馬出というとこで、もともと石垣が組まれたれっきとした本丸の一部だったんだわ、けどが随分前に地震だか大雨だかで崩れてまった、ほいで今はあのざまだて、早よ直して欲しいが石の一個々々をそれぞれ元あったとこに戻さなかんで時間がかかるわな、ちなみにその崩れた石は全部に番号降って内堀に置いたるよ』と説明してくれた。『それから余談だがな』お兄ちゃんはあの土手の水際をまた指さして、『あそこに白鳥がおる』と言う。上の方ばっかり見ていた僕は視線を落としてみて、びっくりした。本当にいる。紛れもない、白鳥だ。何で?『昔どっかから寄贈されたんだと。一時は二十羽くらいおったらしい。けどが今じゃあの一羽だけになってまった。という話を、ほれ、ちょっと遠くに見えるあの年代もんの喫茶店、ぼろいけど廃墟じゃないに、その店のねえさんから聞いたわ』おにいちゃん、こんなところにも出没していたのか。僕はお兄ちゃんの頭越しに白鳥の写真を撮った。
それからちょっと行くと藤棚が大きく広がっているところがあり、僕の頭がつっかえそうになったので下りなければいけなくなった。そこはベンチとかがしつらえてあって、東屋みたいなところだった。そこで二人は(白鳥も観察しつつ)ちょっと休憩することにした。ここからは天守閣もよく見えた。てっぺんのシャチホコがきらきらと金色に輝いている。そしてその間に、お兄ちゃんが説明してくれた崩れてしまった何とか馬出の石垣もお城の縄張としては大事なところだ、と合点したので僕はその土手部分の写真を撮った。
休憩を終えて出発することになり、さっきの物見遊山に味を占めた僕はお兄ちゃんに再び肩車を要求した。ちょっと呆れ顔で承知してくれたんだけど、その口元には微かな笑みが浮かんでいたからきっとお兄ちゃんも懐かしく感じてくれていたに違いない。
こうして再び楽しい乗馬旅が始まった。お城の縄張りの構成が凸凹しておりお堀の方もそれに合わせてあるから、本丸正面の休憩所からお堀沿いにお城に背を向けて北へ向かわなければならない。でもそれも少しばかりの時間のこと、直に西に折れてまたお城を左に見ながらの道になる。動く展望台に乗っているようなもんだから結構なことこの上ない。水面の小さな揺れにお日様の光がきらきらしている向こうには大きなどっしりとした石垣が続いている。その上に松の木がずらりと並んで繁っている。それからその松の木には白い花々が咲いていて‥‥‥えっ、花?松の木に?いや、よく見たらシラサギだった。でもあんなに、十何羽かはいるよ。これはお兄ちゃんに確認しなくては。
『ああ、あのコサギか、ようおるよ。ここにはようけ鳥めらがござるで。比較的大きいのだとアオサギ、カワウ、ユリカモメ、カルガモ‥‥‥水鳥ばっかだな。小っさいのだとシジュウカラ、カワセミ、ヒヨドリ、ムクドリ、ツグミ、ハクセキレイ、メジロ‥‥‥こっちは今歩いとる歩道や街路樹にようおるで、今日も見るかも知れん』とお兄ちゃん。
『それもええけど、今日はお前、名古屋城の勉強の日なんだで、お城の方もちゃんと見なかん。堀の向こうにあるのが御深井丸、難しい読み方だで後で漢字調べとけよ。この曲輪は本丸を守るために埋め立てて造成したらしいで。つまりあそこはもともと今歩いとるここと同じくらいの高さだったんだわ。この曲輪がないと本丸の北面と西面がむき出しになってまうでなあ。ご苦労さんだし大したもんだわなあ。ほいであの隅に見えるのが乾櫓又は西北櫓、通称清州櫓、この名古屋の町は清州越しっつって、清州の城下町をそのまま人間もろとも引っ越させて作った町だで、その清州城の天守だか小天守だかをついでに持って来たんだっちゅう話だが、本当のところはよう分からん。けどが、あの櫓は元は別の場所にあったものがここに移築された、ということは確からしいわ』僕を肩車して歩きながらのお兄ちゃんの説明は続く。僕はこの件の櫓も写真に収めた。
そうやって進んで行って、さっき話に出た道路の向こうにある年季の入った喫茶店を通り過ぎると、お堀が南へ折れ曲がる角に出た。歩道も左へ折れる。僕らも進路を南へ変える。清州櫓の今度は西面を眺めながら進む。『名古屋城はもともと熱田大地の地形を利用して作ったもんだ。熱田大地っつうのは、丁度この名古屋城から熱田神宮までの長細い、象の鼻みたような格好した大地でな、お城の本丸、二の丸、西の丸が北端になっとる。そっから北は低湿地帯だった、今は名城公園になっとる。名城公園におふけ池ってあるだろぉ、ありゃぁその名残かも知れん。だでその台地の北端に石垣組んで、その前に堀を掘りゃあ城の北の防御は完璧だわ。お堀の向こうは湿地なんだでな。後はでかい三の丸の西南東を空堀と土塁でぐるりと囲んでまえば、万全だがね。まあ言うのは簡単だけどが、どえらい工事だったはずだて。ほんとにご苦労さんなことだし大したもんだわさ』確かにその通りだ。ただ歩いて一周するだけでも大変なのに。今は背負ってもらってるんだけど。
『その熱田大地だがな、大昔は象の鼻みたいな格好の半島だったらしいで。大昔っつってもせいぜい千数百年前くらいだけどな。そん頃は周りは海だった。当時この半島だったのは熱田の北半分、中、東くらい、これが大きい陸地だった千種、守山の東半分、名東、天白、昭和、緑あたりから象の鼻みたいににゅうと海に突き出とったと、そんな話だわ。ほんだもんで最近までの尾張の町の名前を見てみると、飛島とか津島とか枇杷島とか中島郡、海部郡とかがあるし、江とか崎とかが付いた内陸の地名が多かったりするわけだて、さっき言った半島、陸地以外のとこは海か島だったんだわなあ』へえ、そうだったんだ。これはなかなか興味深い。それに名古屋城が熱田大地とやらの北の縁っぺたにあるというのも面白いことだ。このことは自由研究の項目に入れるとしよう。
そんな風にお兄ちゃんの蘊蓄を拝聴しながら、また広いお堀と高くて長い石垣を眺めながら炎天下の中進んで行ってキャッスルホテルを過ぎると、漸く水堀の南の終わりに着いた。ここでお堀からはおさらばだ、同時に『まあ、ここまででええだろ』ということで肩車も終了となった。ここから両側の石垣の間を通ってお城の正門へ行けるんだけど、どうやらそうは問屋が卸さないらしい。『こっからまた西側南北の外堀だわ、張り切って行くぞ』と僕に鞭をくれる。また自分で歩かなくてはならない。外堀に行くため、一旦堀川を渡って二十二号線の交差点へと迂回しなければならない。自分で歩くとなるとこういうちょっとした大回りも辛いものだ。しかもこんな片側四車線もある道路上なんて、上からの直射日光と下からの照り返しで両側から焼かれることになっちまう。オーブントースターの中の食パンじゃあるまいし。
苦労して行った名古屋城三の丸西外堀、のはずだったんだけど、僕らが通る木挽町通からは残念ながらほとんど見えなかった。この通りには、やっぱり右左とも二階以上の家屋が建ち並んでいたんだから。それでも時折空き地や駐車スペースなんかがあったので、そういうところで写真を撮った。そうやって歩いて行って、再びスタート地点の名古屋高速高架下の景雲橋小園に到着した。
『ご苦労さん、丁度折り返しくらいだわ』お兄ちゃんが何気に怖ろしいことを言う。まだ半分なのか?お兄ちゃんは僕の気持ちを察したように、『まあこれからは所謂お城らしいとこを通るでな、きっと楽しいぞ』と汗だくの顔でにかっと笑った。僕も仕方なく汗にまみれた顔で大きく歯を見せて笑った。けれど決してやけくそで笑ったのではない。
僕らはまた歩き始めた。始めは前と同じ様に東の方へ向かい、途中で御園橋を渡って樹の生茂る図書館を抜けて行く。それから伏見通に出て炎天下の道路を歩かなければならなかった。『所謂お城らしいとこ』はまだまだらしい。普通の大通をひたすら北上する。道路の右手はひたすら官庁街が続く。左手はさっきの図書館から中学校、NTTの大きなビルと多様な場所が入れ替わり現れる。でもここで東西の比較的大きな道路と伏見通が合流しているところに出た。向こう側に渡るために歩道橋を渡ることにする。階段はしんどかった。それでもこの歩道橋の上からの眺めは大変良かった。北の方にはお城の天守閣、東の方には市役所、南の方には御園座のビルが見える。そして西の方には―――NTTのビルが邪魔で見えないけど名古屋駅が見えるはず。
道路を渡ると加藤清正の銅像があった。天守閣の石垣を作った人だからこうして顕彰されているんだろう。この人は何と言っても熊本城を作った人だ。あの西郷隆盛をして、自分は官軍に負けたのではなく清正公に負けたのだ、と言わしめたお城を作った人なんだ。(と前にお姉ちゃんが教えてくれた)当然ここの天守台もとても頑丈に違いない。強い日差しのもと、清正公のはるか後方にはその天守閣が望まれる。
そこから少し西の方へ、さっきちょっと辛い大回りをした交差点の方へ向かった。その道はなだらかだけど下りになっていた。やっぱりお城の東北西は低くなっているようだ。そして交差点の手前で、今度は堀川を渡ることなく木挽町通に入り北上、左右に石垣がある東の方への緩いカーブの坂道を上る。昔は門があったのかも知れない。西の丸の石垣と空堀を左手に見ながらえっちらえっちらと上って行く。段々正門が近付いて来るので元気が出てきたような気がした。
そしていよいよ正門だ。僕は人々で賑わう正門への大きな橋へ行こうとした。ところがお兄ちゃんは、そっちじゃないと言いながらそのまま真直ぐ歩いて行く。何処へ行くんだ、もう外周を一回りしたはずだと僕が抗議すると、二の丸の南半分が先だからと言う。『昔県の体育館があそこに出来よってな、おかげでお城の展示が二の丸をぶった切る格好になってまったんだわ。後で行ってもええんだけどが、物事には順番というもんがあるで。』
仕方がない。僕もお兄ちゃんの後について行った。けれどその道は案外楽しめた。左手に大きな空堀と石垣が続いている。石垣の上には桜や松、空堀の底には外堀ほどではないけれど雑草が繁っている。この単調さが面白い。それに烏がやたらといた。鳴く声もうるさい。ところが不思議なことにこれらも雰囲気がある。地面を歩く姿は踊っているようだし、鳴き声は遠く高く響くようだ。繁華街や住宅街にいる連中とちょっと違う。
やがて二の丸大手門に突き当たる。ここからは二の丸の石垣だ。門には入らず右折して更に堀巡りを続ける。今度は二の丸をぐるりと回る。似たような風景が続くんだけど、規模は随分大きくなった気がする。石垣は心持ち高いように見えるし、堀も広く深いように見える。その分迫力が増した。また南に面した出来町通は大きくて車の往来も激しい。通りの向こうは官庁街だ。誠に騒々しい。ただこの騒々しさはお城巡りの雰囲気にはそぐわない。さっきの烏どもがしっくり来ていたのとは違うようだった。
そのうちに右前方に市役所が見えてきて、大津通との交差点に来た。そこを左折してお堀沿いの歩道をなおも進んで行く。言い忘れていたけど、これまでも要所々々で写真をとっておいた。一応自由研究であることは忘れていない。お兄ちゃんも大事なところをその都度教えてくれた。そうこうするうちに二の丸搦手門に到着しここから二の丸に侵入した。
橋を渡って門があった石垣の間を通る。名古屋場所のとき太鼓櫓が建つところ。防御用に石垣でカクカクと折れ曲がった道を抜けると広い二の丸に出た。体育館がちょっと邪魔だけど確かに広い、それでもこれで半分なのかと大いに感心した。前に有料エリアへの東門があるんだけど当然ここからは入らない。お兄ちゃんに促されて二の丸の内周を回るコースを取った。とは言え石垣の内側は土が高く盛り上げられているので大きな土手を見上げながら歩いているみたいだった。そうやってこの土手を眺めながら、これの向こうは確かに石垣だった、三の丸から今いるこっちを見た時そこの地面よりも高くて見上げるようだったから、なら石垣の内側にこの土手を盛ったことになる、その土はどうしたんだろう、周囲の空堀を掘ったときに出た土をここに盛ったのかなあ、それとも二の丸の地面の表面を削って低くして、そこから出た土を周辺の石垣縁に盛り上げたのかなあ、とか考えた。そこでこのことをお兄ちゃんに尋ねてみた。『面白いこと考えやぁすな、ここが上田城みたいになっとるかも知れんっちゅうことか。ほれだと外と内の地面の高さがどうなっとるかっつうことになるけどが。外から内に入るとき特に高低差はなかったし、この二の丸の北半分との高低差もない。だでまず間違いなく内堀を掘って出た土を盛ったもんだと思うわ』上田城みたいと言われても知らんのだけれど、北の方を見てもここいらが一段低くなっているようには見えないし、お兄ちゃんの言う通りきっと内堀堀りで出た土なんだろう。
僕らは二の丸南半分をこの土手に沿って歩いて行き、そのまま二の丸大手門を出た。そうしてまたさっき通った西の丸南側の道を通って、今度こそいよいよ正門、正確には榎多門へと向かった。
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