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『ふたりの男とひとりの女』『ギリーは首ったけ』評

作者: 仁

1.『ふたりの男とひとりの女』

ファレリー兄弟、色々と観ていて、どれも心に優しく、そして不躾に刺さってくる映画揃いで気に入ってるのだけれど、特にジム・キャリー主演のマスクと良く似た設定のやつ『ふたりの男とひとりの女』が琴線に触れてしまう。その導入から普通じゃない凄い話(結婚当日に小人症の黒人に妻を寝取られた哀れな男の話で、白人の夫婦にどう見ても黒人の三人の子が生まれるという壮絶な導入。そして間もなく妻はその浮気相手と出ていき、三人の子供達だけが男の下に残る。おかげで街中に揶揄われ、投石されている。それでも主人公と三人の黒い肌の子供達は仲睦まじく暮らしている。ここで既に自分は泣かされた)なのだが、何と言っても、中盤、『ホワイティ』登場の場面が泣ける。黒い肌とスラム上がりのラッパーの様な口の悪さを持つ子供達と対照的な、アルビノの白人というキャラクター(そして実際にアルビノの役者である)だ。彼は、その肌の白さを有色人種に対する優越として歴史的に振る舞いがちだった白人種の中でも、一際白い。そして白人より白い事もまた、黒人が黒い肌なのと同様に差別の対象になるのである。こんなに馬鹿げた、喜劇としか言いようのない不条理もない。

泣けると言ったのは、「素朴に謝る場面」があるからだ。この映画はジム・キャリー演じる先述の不遇さに見舞われた男が、粗暴な別人格を生み出してしまう物語だ。そして粗暴な人格は、この『ホワイティ』にもその身体的特徴をあげつらって接する。だがこの生まれたての人格は、それが相手に悪い事なのだとも分かっていないのである。

何か身体的特徴の顕著な人に、差別的発言をする。実はその発言した方も、相手がどのくらいのショックを受けたのか、一般的に言って本当には知り得ないのだが、我々は知っていて当然の様な顔をして暮らしている。そう振る舞って暮らす事を社会から要求されている、と暗に、また明にも思い、そしてそれ故に他者がその要求を無視する様に振る舞うと許せなくなったりもする。そこでは表面的には「彼の気持ちを考えてみろ」と叫ばれる。だが往々にしてその言葉は、未熟さ故という事なのだろうか、「俺の気持ちを考えてみろ」という叫びと、段々と区別つかなくなっていく…。そんな事の繰り返しで摩耗したのか、自分と違う者に対する同情自体に虚しさや欺瞞を表する人達さえ近年は増えてきた。


この映画が凄いのは、それを当人に聞いてみるシーンがある。

「あんた俺の言った事で何か不快に思った事があったか?」

「悪いけどあんたの言った事全部が僕にとっては不快な事だったよ」

現実では政治的なパワーバランスが作用する為に、殆ど起こり得ない様な極度に単純な、純粋すぎる会話である。その単純さ、素朴さは、ユークリッドの幾何学の議論のそれとも似ていると思う。このありえない素朴な会話を形に出来るのが、喜劇というジャンルの持つ懐の深さであると考える。

そして、聞いてみたのみならず、聞いた相手の言葉に心からショックを受けるのである。ここが大事だ。こここそに人間と呼ぶに値する、この社会では蔑まされがちな“感情”というものの真価が込められている。ここにはなにか、「ポリコレ」という(蔑称化しつつある)四文字の蓋の内側に押し込められて忘れられつつある、何か大事な核がある気がしてならない。それに触れる時我々は「我々はそれほど賢くない」という正気を思い出す。

そして喜劇は、物語のレールに乗せられて最高の理想へとひた走っていく。白人仲間から『ホワイティ』とあだ名されながら暮らしていた彼は、自分の反論にショックを受ける主人公に感動し、同行する様になる。そして最後は、白い肌から生まれない筈の黒い肌を持つ三人の子供達と共に、不遇続きだった主人公の闘いの加勢に駆けつける。


2.『ギリーは首ったけ』

ファレリー兄弟『ギリーは首ったけ』を観た。これが『ふたりの男とひとりの女』と同じ位琴線に触れる映画だった。(牛が出てくる所でもその共通性を思ったのだが、『ふたりの男~』よりはその扱いが倫理的にドぎつくはない。精々「牛の人工授精師を馬鹿にしてんのか!」という程度の批難しか来ないだろう)


今まで観たファレリー兄弟のコメディの中でも、一番入門としてふさわしい映画かもしれない。理由としては主人公が随一の只の良い奴だったりする事や、着せられる汚名(しかもファレリー作品に珍しく法的にも濡れ衣だ)が「近親相姦」という、我が国ではキリスト教圏より同情の余地の大きそうな罪である事。

神道を背景にすると宗教的禁忌の度合いが曖昧だという姑息な理由も上げられようが、その文化的土台から一歩進んで、一応生活上は紛れもなく禁忌であるが故に、しかし却って同情の対象にも容易に反転するというアンビバレンスな民族的心理の方が大きい様に思う。そこへの言及は、一時代の芥川賞文学にも見てとれるが。尤も、宗教的に頑固な禁忌であるからこそそのテーマが鋭く倫理の隙間を突く、という効果は薄れてしまうだろう。

何にしろ、勧善懲悪な性格(パパとママの立場が、身体的障害という境遇を鏡面にして、最終的に反転してしまう様などもその類に感じる。尤も、冒頭ではパパとママはいがみ合いながらも共にギリーに残酷に当たっているので、どちらも善なんぞではないが。ギリーには理解者が不在だったところに、パパがある種の日和見的に理解者としてちゃっかり納まってしまっている様子は、まあリアルな勧善懲悪だと言えなくもない。この映画全体に一貫する「家族内の歪んだ政治性」というテーマの、シビアな結論という感じもある)の大きい所が入門的な様にも思い、またこれが原因となって『ライラにお手上げ』の様な、倫理的にはより複雑な作品を試みる理由にもなっているのだろう、とも邪推する。

しかしより単純なものが、より劣っているとは限らない。寧ろ芸術においては優れた美徳だとされる単純さの方が専ら多い様に思う。

勧善懲悪という観念については置いといても、この『ギリーは首ったけ』の山場、恋人がギリーだと思って棄てた遺灰の中から生きてるギリーが登場するハッピーエンドは、俺には好ましい単純さだ。それは童話だ、と思う。

或いは、世界で最も有名な古典的文学の一つ『ロミオとジュリエット』の進歩的反転だ、と感じ入る。人がすれ違いの果てにお互いに絶望し、そして死んでしまうという悲劇の反転。それが、すれ違い続けた人々が再び出会う、そして死んだと思っていたあの人が帰って来てくれる…という形の喜劇に変わったとすれば、それは人類の進歩でなくて、一体何であろうか?

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