4.鼻水まみれのレディ
夕焼け空の真下には、瓦礫山と化した我が家。
瓦礫山の傍らには、巨大なストーン・ドラゴンがぐったりと身を横たえていた。琥珀玉のような瞳に生気はなく、口蓋からは真っ赤な舌がだらりと垂れさがる。岩石のような身体には、数十本に及ぶ剣と槍が突き刺さっている。
ストージニア王国の騎士団が、激闘の末にストーン・ドラゴンを討ち取った。今から15分ほど前の出来事だ。
そしてドラゴンの遺骸の周囲には、瓦礫に混じり無数の宝石が散らばっている。
ストーン・ドラゴンの食べ残し。
「あたしの十数年の努力が……大切なコレクションが……うええ、えぐ」
あたしはボロボロと大粒の涙を零れ落とす。
芝生の上に四つん這いとなったあたしの目の前には、涎まみれのティアラが落ちている。それは11歳の誕生日にギルがプレゼントしてくれた物、ひしゃげてスクラップのような有様だ。
「アリアンナ……」
あたしの隣では、ギルが慰めの言葉を探すように右へ左へと視線を泳がせていた。四つん這いのあたし、直立のギル。傍から見ればワンコと飼い主。
「ギルの馬鹿ぁぁぁ! あたしの心配は全部杞憂だって言ったじゃん! ギルに八つ当たりしたって仕方ないことはわかってるけどぉ……馬鹿馬鹿馬鹿っ! あうう……うえっ」
あたしは立ち尽くすギルの胸元に、ラグビー選手ばりのタックルをぶちかました。そのままギルの胸元に顔をうずめ、幼子のように泣きじゃくる。涙が涎が鼻水が、ギルの衣服の身頃を汚す。相手がギルじゃなければ「汚ねぇ!」と張り倒されているところだ。
けれども優しいギルは衣服が鼻水まみれになっても文句ひとつ言うことなく、黙ってあたしの背中を抱いている。
ついにはギルの衣服のすそで「チーンッ」と鼻までかみ始めたあたしの背後に、歩み寄る人影があった。
「ローガン家の関係者様でいらっしゃいますか」
低く掠れた男性の声。あたしとギルは同時にその声のした方を見た。
あたしの背後に立っていた人物は、年齢が20代半ば頃と見える青年だ。革鎧に包まれた体躯は大きくたくましく、鳶色の眼光は猛禽類のように鋭い。
嗚咽で話すことのままならないあたしの代わりに、ギルが代わりに口を開く。
「彼女はローガン家の者です。失礼ですが、貴方は?」
「私は騎士団の団長を務めておりますレドモンド・テイラーと申します」
「団長……? すみませんがどのようなご用件でしょう」
「そう警戒なさらず。民の生活を守るとともに、心の安定を保つのもまた騎士団の努め。涙を流すレディがおられるとなれば、放っておくわけには参りません。――ローガン家のお嬢様。ストーン・ドラゴンは我々が討ち取りました。神獣と呼ばれるドラゴンであっても、一度死ねば2度と起き上がることはありません。もう2度と、あの凶暴なドラゴンが貴女の心身を脅かすことはございませんよ」
「ええと……はい」
あたしは嗚咽交じりに返事を返す。どうやらレドモンドは、あたしの号泣の原因がストーン・ドラゴンに対する恐怖からくるものだと勘違いをしているらしい。
まぁ普通はそう考えると思うよ。勘違いしても仕方ないよ。
「家屋の損壊についても、国庫から一定額の補償金が支給される仕組みになっています。時間はかかりますが、元の生活に戻ることはできますよ。だからどうぞ泣くのはおやめください」
レドモンドが差し出したハンカチを、あたしは恐る恐る受け取った。泣きはらした顔面を、ちょんちょんと申し訳程度にハンカチでぬぐう。
本音を言えば、両鼻からダラダラと流れ落ちる鼻水をガッシガッシと拭いたいところ。しかしあたしの鼻水を受け入れてくれる奇特人など、ギルの他にはいないのである。
「レドモンド卿……アリアンナは大切にしていた宝石を、ストーン・ドラゴンに食い荒らされてしまったんです。泣いているのはそういう理由で」
と説明してくれる者は、噂の奇特人ギル。レドモンドは鳶色の目を瞬かせた。
「ひょっとしてローガン家の邸宅にあった宝石は、全てお嬢様の私物でございましたか」
「そう、そうなんです。アリアンナは宝石が大好きで、小さい頃からずっとコレクションを続けていたんです。補償金で家屋は再建できても、思い出の詰まったコレクションはもう戻らないでしょう」
「成程。そういう事情でございましたか……」
レドモンドは顎に指先をあて、ふむと考え込んだ。
そして数秒後には、あたしの顔を覗き込んで優しく笑うのである。
「ローガン家のお嬢様。騎士団を代表して貴女に一言お礼を申し上げたい。我々が1人の負傷者もなくストーン・ドラゴンを討ち取ることができたのは、ひとえに貴女のコレクションの犠牲があってのこと。空腹のストーン・ドラゴンが王都を襲わなかったのも、シルバ村の人々が無傷で済んだのも、貴女のコレクションがドラゴンを惹きつけてくれたお陰です。騎士団員に命じて、芝生に散らばった宝石は全て集めさせましょう。壊れてしまった宝飾品も、できる限り修復してお返しすることを約束致しましょう。貴女は王国の恩人でございますから」
レドモンドは芝生に落ちたティアラを優しく拾い上げた。ストーン・ドラゴンの涎を指先で払い落とし、まるで宝物のように懐にしまい込む。
騎士の名にふさわしい優雅な一礼を残し、夕陽に向かって歩いていく。
去り行くたくましい背中を眺め、あたしはほぅと息を吐いた。
「レドモンド様……」