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聖典のファルザーン  作者: ササキ カマノ
第2章 荒野西行 編
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第2章 Ⅱ節 バグダラートへの道 3

   3


 翌朝も隊商は50ジグアリフ(キロ)ほど進んで野宿をし、その次の日も、ひたすらに荒野を進んで次の町を目指した。


 だが、進む道の順調さとは裏腹に、隊商の先頭を行くカイマルズの隊が次の7日の間で何度も進路の変更をしたために、商人の間で不和が生じはじめていた。


「次の町までゆくのに、なぜこんな隘路(あいろ)を進まなきゃならんのだ」


「もっとまっすぐで近い道があっただろう」


「あいつら、やはり俺たちから便乗料を取れるだけ取っていきたいんだな」


 そして商人たちの疑惑は、シーラーズを発ってから4日目で反感へと変わった。隊商の後方に居た商人たちが、列から外れていったのである。


 そうなれば、隊商の瓦解は時を追うごとに速まった。


 ファルシールたち一行の周辺からも、午前には先頭側にも後方側にも連なるほどの人が居るが、午後には各々別の道を探して引き返したり、そもそも途中で別れる予定だったりして、ぽっかりと隊列に穴が生じるようになった。


「なんだか列が寂しくなりましたねぇ……」


 一行の予備の馬を引きながらシグルディが言った。


「これさ、俺らも離れた方が良いんじゃないか……?」


「なりません」


 与一がこっそりとファルシールに耳打ちすると、聞いてきたイグナティオが遮った。


「なんでですか? もともと、離れて別の隊商に乗り換える予定じゃなかったですか?」


 イグナティオは与一の前を進みながら答えた。


「ここは恐らくキルグ平野の終端あたり、都市バスラのやや北方です。ならば、そろそろ山をひとつ越える必要があります」


「山越えにこの隊商が要るんですか?」


「今この隊商が向かっている方角から察するに、谷から山を抜ける道を考えているのでしょう。過去に2度ほど通ったことがありますが、狭く、岩肌が脆いので、とても私たちだけで通れる所ではありません。必ず支援が必要になります」


「そんな危なそうなとこ通っちゃうなら、こっから引き返すのは?」


「それも現実的ではないでしょう。ここから4日かけて戻り、さらに7日かけて山地を迂回せねばならないのは」


「それは出来ぬ」


 ファルシールの意図を最大限に汲んだイグナティオの論には誰も反論はなかった。


「では行くしかありませんな」


 ただ、イグナティオはファルシールらにはそう言っておいて、隊商に付いていくべき別の理由を脳裏で付け加えておいた。


(大戦(おおいくさ)に徴募されたのは何も都市の駐屯兵だけではないだろう。早馬駅の駐屯兵も軒並み引き抜かれている。そんな状況で、野党の出かねない大きな通商行路を少数で護衛もなしに行くなど、襲って下さいと言っているようなものだ)


 この時期、イグナティオは明らかに警戒を強める村々を幾つか見かけた。村の周りを高い柵で囲い、若い男たちが棒切れを持って警備している様子は、駐屯兵の不在を知れる悪い兆候でもある。


 そうして構成員を減らしつつ隊商はキルグ平野の端の岩山に行き当たった。


 山に入る手前で先頭の方からこちらに隊列を遡ってくる黒い馬が見えた。ケイヴァーンである。ケイヴァーンはそれとなくファルシールの横に馬をつけた。


「アルメス殿、お変わりなく」


「そちらも」


「すぐに戻らねばなりませんので手短にて失礼します。この先の谷合いの道は両岸が高く、道も険しゅうございます。私が前方にて警戒はしておりますが、万が一の場合は、構わず馬を駆けて谷を抜けて下さい。お側に在れないことをお許し下さい」


「わかった。気をつけて」


「は」 


 ケイヴァーンは短く答えて一礼すると、与一に、頼んだ、と一瞥した。イグナティオには事務的に伝えて、すぐに先頭へと戻っていった。


 ケイヴァーンとイグナティオは相変わらず険悪だなままである。


 隊商は岩山の渓谷に突入した。


 起伏の激しい岩場の道で、両側には鉄砲水で削れて脆くなった岩壁がせり立ち、低い日の光は谷底まで届かず陰になっている。それでも"道"と呼べるのは、この場所を通る者が居て、地が固まっているからであろう。


「なんかここ怖いよな。暗いしでこぼこしてっし…おわっと」


 与一は大岩を乗り越える馬に合わせて大きく揺れさぶられながら、後ろを進むファルシールに言った。


「道を選んで進め。馬がすぐに疲れてしまう」


 ファルシールは器用に行きやすい道や隙間を見つけて馬を進めている。谷底の道に入ってから急激に疲れた与一とは違って、さすがに涼やかである。与一が四苦八苦している間に、ファルシールは与一の前に躍り出た。


(さっすが。馬の扱いがお上手で)


 与一は心のなかで悔しがった。


(それにしても、周りの岩、ほんとに脆いな道以外に足を掛けたら、滑って倒れそうだ。気のせいかさっきから俺たちが進む振動で上から小石がぱらぱら降ってきてる……)


 渓谷に進入してより1刻が経過して、道の様相はだいぶ変化した。先ほどまで岩だらけで通りにくかった地面は、今は平坦な砂地の固い道に変わり、両岸の岩壁は心なしか緩やかになり、多少硬そうな岩盤には地層が虹を描いたように覗いている。


「やっと半ばまで来ましたな」


「ええ……。ここでまだ半ばなんですか……」


 イグナティオの言葉に与一は愕然とした。前半の荒い道のりで、足腰はとうに声にならない悲鳴をあげている。


(休憩させてくれぇ……)


 しかし、与一の疲れをよそに、前に居たイグナティオが唐突に馬を止めて、背を伸ばして周囲に耳を立てた。


「まずい……っ!」


「え?」


 物静かで強かな商人の権化のような男イグナティオが、目を見開いて発した言葉は、一閃の羽音によって瞬時に忘れ去られた。


「おわっ!?」


 一本の矢がイグナティオの頬をかすめて、与一の乗馬の足元に突き刺さった。馬が驚いて前脚を大きく跳ね上げた。


「野盗だ!! 野盗が出たぞぉお!!」


 先頭の方から声が上がった。声は状況の変化と恐怖を波のように広げ、瞬く間に谷間の隊商を駆け抜けた。


「逃げろ!!」


「押すな!」


 谷底の一本道は洪水のような勢いで逃げ始める人の群れでさながら鉄砲水のような怒涛となった。


「ちょ?! うわっ!!」


 道の先から押し寄せる人の波は、与一たちを後方へ押し流す激しさで、人と人とがぶつかり合い、我先にと出口へ駆けはじめた。


 混迷を極める商人たちの成す濁流は、狭い谷底に幅を狭められ、勢いをそのままに人と人とを削りあって氾濫している。後ろから押し倒された者は踏まれ、岩に阻まれて止まった者は背後から眼窩や耳を引き千切られ、足掛けにされて流血した。


 実際に野盗の放った矢はさして多くはなかったが、各々が狭い空間と伝染する恐怖で本能のままに動いたために惨状が拡がった。


「邪魔だ! どけ!! ──っ」


 一人の男が与一の馬にぶつかり、吐き捨てるように言って与一を睨んだが、次の瞬間、シュっと歯触りの悪い音を立てて、一矢がその男の喉を後ろから貫いて一瞬のうちに絶命させた。


「ひゃっ!?」


 与一は、すでに冥界に魂を持ち去られた屍が、自らの脚に寄りかかるように倒れてきて、発したこともない悲鳴を上げた。己の脚に血のりが塗りつけられ、気が動転した。


「あ、兄貴ぃい!!」


 シグルディの声がして与一は後ろに振り向いた。予備の馬を引いて地面を歩いていたシグルディは馬ともども蹴散らされ、いち早く異変に気づいたはずのイグナティオもすでに人渦の中の枯れ葉のように揉まれていた。


(孤立する……っ!)


 与一は回らなくなった頭で、焦りだけをはっきりと覚えた。知らない場所で一人になり、盗賊に襲われて、もしかしたら殺されているかも知れない。あるいは死んだことすら気づかずに絶命するかもしれない。先程自身の脚に倒れ込んできた男のように。


 だが、馬が人波に怯えて暴れ仰け反った時に、腰に結んでいた短剣が金属音を立てた。


 上がりきった心臓の拍動が、その音で()めた。


 《──殿下を頼む》


「ファル!」


 与一はすぐさま周りを見回して、ファルシールを捜した。


「ヨイチ! ここだ!」


 ファルシールはつい先程まで与一の近くに居たが、与一が人波に押し流されて後方に引きずられ、今や先頭の方に遠く離れていた。ファルシールは小高い岩の上に器用に乗り上げることに成功したが、成すままにされる与一はただ遠ざかるファルシールを捉えるだけで必死であった。


「ファルシール! 先に谷を抜けろ!! ケイヴァーンと合流して先に!!」


 与一は声を荒らげて必死であった。本当はすぐにでもファルシールの元に寄っていって一緒に逃げたかったが、流れに逆らうことが出来ず、瞬時に別れることを選んだ。野盗と十中八九はち合わせるファルシールの方が危険度が高かったが、与一は反射的にそちらの方が良いと思ったのだった。


「そなたは!?」


「なんとかする!!!」


 根拠のない宣言である。


 ファルシールの方は、野盗が迫り人群れの少なくなった谷を抜けケイヴァーンと合流出来れば良かったが、与一は追われるまま谷の入り口に戻り、そこから何とかしなければならない。


「……先で待っているぞ!! 必ず来い!」


 ファルシールはそう叫んで、すぐさま馬を返して先頭の方向へと駆け出していった。


 残された与一は、ファルシールが崖の影に消えていくのを何とか見届けたあと、こちら側に残っていた仲間たちを集めにかかった。


「イグナティオさん! シグルディさん! こっちに来れますか!!」


「私ぁ無理でさぁ~!!」


「来れるわけないだろ! っ!」


 シグルディは下馬して歩いていたために、すでに遠く後方の人混みに消えかけている。


 イグナティオはそれに比べれば与一の近くに留まっていたが、様子が変わっていた。返答は全く余裕を感じさせず、感情的で怒りを含んでいる。それもそのはずで、この時イグナティオは腕に矢を受けて痛みを堪えるので必死だったのである。


 与一はやや少なくなった人波を何とか掻き分けて馬を進めイグナティオの元までたどり着いた。


「腕に矢が!? 血が出てるっ!」


 矢じりが上腕の反対側から飛び出し、切り裂かれた傷口からイグナティオの馬革の外套に血が染みだしている。


「当たり前なことを言うな! それよりさっさと逃げる方法を考えろ!!」


 普段から想像出来ないほどイグナティオの語調は強く、与一は少し気圧されたが、すぐに周りを見回して逃げ道を探した。


 固い岩肌を擁する岩壁は足を掛ける場所もないため崖の上に登るのは良策ではない。それに上には野盗が居る可能性もある。かと言って流れに逆らってファルシールの向かった方へ突き進むのも困難を極める。


(そういえば、少し戻った所に脇道みたいなのがあったな……!)


 岩壁に走った亀裂をそのまま押し広げたような裂けめで、人ひとりがやっと通れるほどの広さはあったように与一は覚えていた。


「道を少し戻りましょう! 脇道があったはずです!!」


 与一は馬の腹を力強く蹴って駆け出した。イグナティオは苦悶の表情で頷くと、与一と共にすぐさま馬の頭を返して来た道を戻りはじめた。


「シグルディさん! 何とかそこで堪えて待てますかぁ!?」


「無理だぁ~!! 私ぁ私で何とかするんで、そっちはそっちででうまく逃げてくだせぇ~!! おわぁあ~っ!!」


 シグルディはついに人混みの中に消えた。


「……わかりました!! 気をつけて!」


 与一はシグルディの無事を心中で祈って、無心に駆けた。


 後ろから迫る野盗の上げる砂煙が目前に見えて、雄叫びと馬蹄の轟きが谷底にこだました。


(ファルシール、大丈夫だよな……)


 与一は野盗が居る方向に駆けていったファルシールが気がかりになった。


(ケイヴァーンの元に行ければ安全だと思って咄嗟に向かわせたけど、やっぱまずかったんじゃねえかな……)


 いまだに野盗の姿を見ていないのも、さらに与一の想像力を悪い方へ掻き立てた。


 そうして不安を募らせつつ500アリフ(メートル)ほど駆け戻ると、左側の壁に亀裂の隙間が見えた。与一は迷わず手綱を引き、馬一頭ぶんの幅しかない亀裂に飛び込んだ。


「よし!」


 亀裂は最初、上の岩盤を割っていたため曇り空が覗いていたが、次第に隙間が狭くなり、やがて暗闇の洞穴に変わった。


 不規則な曲がり角を幾つか経るうちに、入ってきた光は薄められ、視界はもはや無くなった。馬だけがそれでも辛うじて道を感知しているためにしばらくは走れたが、ついに馬が足を止めた。


(これ以上は危ない、よな……)


 与一は先の道を探るべく馬を降りた。


「おいお前、この洞穴が行き止まりだったらどうする気だ!」


 すると後ろをついてきていたイグナティオが悶絶するほどの痛みを怒りに乗せて与一に思いきりぶつけた。


「……は?」


「お前、行き先に確証もない道へ飛び込んだのか!? バカにも程がある!」


「……そんなこと言われても解んねえよ! 確かめる余裕なんてなかったろ!」


 与一もイグナティオの責めるような言い草に思わず怒鳴り返した。


「これだからガキは嫌いなんだ」


「……っ! はぁああ!!? あんたが逃げる方法考えろって言ったから、こうやってあんたのこと引っ張ってやってんだろ!?」


「あとさきくらい考えろ!」


「……っ!」


 与一はそう言われて言葉に詰まった。


 確かに今までの一連の判断は、あとさきを考えずに行動した結果であった。ファルシールは与一の言葉を聞いて野盗の居る方向へ駆けていったし、この洞穴に逃げ込んだのも、脇道に逸れれば逃げられると思ったからである。つまりはその先を全く考えていなかったのだ。


 与一は何も言えずに俯いた。


「う……っ。クソっ! ボンボンが……っ」


 イグナティオは怒鳴った勢いで傷口が広がり、めまいを覚えてその場に座り込んでしまった。


(……)


 地面には腕を伝って滴り落ちた血で血だまりが出来ていた。与一は、洞穴の入り口から来る微かな光を紅い粘液が照り返しているのを見て、イグナティオへの怒りは収まらないが、この場は助けるより他の道はないと思った。


(応急処置の方法か……下手に矢を抜かずに腕を縛って傷口を胸より上に置いて……でも血を止められる訳じゃないから、いずれは……。それに、すぐに助けが来るとも思えないし)


「応急処置はできるけど、それじゃああんたは助からない、と思う」


 イグナティオは間隔の短い呼吸を整えながら与一を睨んで棘のある言葉を返した。


「はっ。助ける気は、あるのか?」


「助けようとしてんだから黙ってろよ」


 イグナティオは虚勢を張っているように見えた。少しずつ力が抜けていくように呼吸も浅くっている。急がねばならなかった。


「今から多分すげえ痛い事するけど、それしかないと思うから我慢してくれよ」


 イグナティオは静かに言った与一を一瞥して、諦めたようにひとこと言った。


「……勝手に、しろ」



   。。。



 数百の野盗が徒党を組んで押し寄せた渓谷は、冬の空に似つかわしくない砂ぼこりと混乱を満たして暗い影を落としている。


 逃げ遅れた者は斬り倒されて身ぐるみを剥がれ、暴れるラクダは片足に縄を掛けられて背に乗せてある荷を引きずり降ろされた。


 同道していた商人の家人は女と見るや奪われ、子と見るや枷をはめられた。野盗にとって一家総出の逃避行ほど良い獲物は他にないであろう。


 唯一、誤算であったのは隊商に雇われた用心棒の強さを見誤ったことである。


「あ、あいつを早く殺せっ!!」


 薄汚い格好の野盗たちは湾刀を鞘走らせ、ひとりの薄い金髪の若い偉丈夫を取り囲んでいた。しかし、誰ひとりとして頭領の発した命令に従おうとはしなかった。


 取り囲む男の回りには、それまでその男に斬りかかり、斬り結ぶ間もなく一刀に絶命せしめられた同族たちが、うず高く積み上がっていた。


 野盗たちが成し遂げた事といえば、せいぜい男の乗っていた栗毛の年老いた馬を斬り倒したことぐらいで、それ以外にはこの男に対して何の成果も上げられていない。


 まさに死闘が始まろうとしていたその時、白銀の髪の少年の操る一騎が、野盗の群れに飛び入ろうとしていた。


 隊商の後列から駆け上ってきた銀髪の少年は、囲まれている男を遠くに捉えると、馬の速度を上げた。


「ケイヴァーン!」


「……!? 殿下!」


 銀髪の少年はケイヴァーンと呼んだ男を囲む野盗に向けて突進しつつ、馬に掛けたイチイの木でできた弓と白羽を巻いた矢を取り出して(つが)え、対峙する野盗とのすれ違い様の一瞬で引き絞って放ちやった。


「うおっ」


 弱い弓であったが、少年の放った矢はその野盗の鎖骨の上から心臓を鋭く射抜き、息絶えさせた。


 少年は、怯んだ野盗たちを蹴散らして飛び込み、囲まれた男に手を伸ばした。


「乗れ!」


 男は瞬時に少年の差し出した腕を掴み、疾走する馬の勢いに乗せて鞍の後ろに飛び乗った。


 少年はそのあと、阻もうする野盗たちを勢いに任せて圧しきり、あっという間に後方へ置き去った。


「殿下、よくぞご無事で。助かりました」


「そなたこそ!」


 ファルシールとケイヴァーンである。


「それより、これからどこへ向かえば良い!」


「は。谷を抜けて平野を進むとすぐにバスルの城市が見えるはずです。そこに逃げ込めば、追ってはこれません」


「しかし、ヨイチたちがまだ後方に居る。それに、谷の出口で待つと約束した! 置いてはゆけぬ!」


御身(おんみ)が最優先です。一度バスルにお入りになられ、あとのことはそれからお考え下さいますよう」


「だが!」


 ケイヴァーンは主君が悩む顔を見て、手綱を後ろから奪い取った。


「ケイヴァーン! 何を」


「お許しを」


「放せケイヴァーンっ!!」


「できません」


 ファルシールはケイヴァーンの腕の中で抵抗したが、力の差の前には檻の中で暴れる猫同然であった。


 ケイヴァーンにしてみれば、主君は守らねばならぬし、ましてやそれ以外の者に気を懸けている余裕はない。与一の事も惜しく思うし、うまく逃げていてほしいとは思うが、主君の危機は一国の大事である。天秤に掛ければ、躊躇いなく主君を選ぶ。


 主君にしても、自身の身の安全のことは考えてもらわなければ、守る側も危険となる。第一、貴い身分の者はそうあるべきだし、今までもそうであった。いずれにしても、若き主君のわがままを聞き入れる訳にはいかなかった。


 そうしてケイヴァーンが馬を操り、渓谷の出口に差し掛かった。


 その時、ファルシールはケイヴァーンの腕の隙間に身体を滑り込ませて、倒れるように馬を飛び降りた。


「殿下!?」


 ファルシールは勢い余って砂の上を転がった。ケイヴァーンはすぐさま馬を止めて主君を引き戻そうとしたが、ファルシールはよろめきながら立ち上がるとケイヴァーンに(すご)んだ。


「ここで待つと約束した! 私は約束を違えぬ!」


 熱い風が吹いたようであった。


 ケイヴァーンは主君の剣幕に一瞬気圧された。それと同時に高揚にも似た衝動が全身を走った。衝動は馬にも伝わり、馬は前足を蹴り上げた。


(なんだ今のは……。俺は、この言葉を望んでいたのか……?)


 二人の上に雲は切れ間なく垂れ込め、寒さが一層増した。今にも雪が降りだしそうな気配があった。








初めてなろうで投稿するシリーズものです。更新は遅めですが、ぼちぼち気軽に覗いて下さい。


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