イリヤのペースは、私が乱す
私が起き上がれるようになって、1週間が経とうとしていた。
車椅子生活は続いているけど、もう筋肉痛も成長痛もない。だから、こうやってお父様とお母様からいただいた机でお仕事ができるの! 万年筆の重みが、とても嬉しい。
「イ、イリヤ……」
「はい! なんでしょうか、お嬢様ァ!」
「……えっとね、うんとね」
あれから、夢は見ていない。
サルバトーレ・ダービーにも会っていないし、変わったことといえば、お仕事を少しずつ任せてもらえるようになったくらいかな。それに……。
「私の胃袋の量って知ってる?」
「はい、大変良く存じ上げておりますぅ」
「……そう」
絶対わかってない!
目の前には、3時のおやつがある。
それだけなら良いわ。お茶と一緒にいただくだけだから。でも、そうじゃないの。
「クッキーにシフォンケーキにカップケーキ、チョコレートにドライフルーツ、ナッツ、クラッカーとジャム……。私、こんな食べられないわ」
「いいえ」
「……いいえ?」
「いいえ、食べられます。食べられないと思うから食べられないのです! イリヤは2周できます」
昨日、やっと普通食にして良いとアインスからの許可が出た。
それを聞いたイリヤが、ザンギフをはじめとした料理人を前に「お祝いだ」と騒いでしまって今に至るの。本当は、イリヤが作ろうと思って調理場に立ったんだって。それを見つけたザンギフが全力で止めたとか。
この顔は、何か食べるまでここに居座るつもりだわ。
「じゃ、じゃあ、このクッキーだけいただこうかしら」
「あ、それイリヤも手伝いました。コネコネブゥンって」
「ブゥンって何?」
「オーブンの音です。イリヤが予熱をしました、ふふん」
「……そう、ありがとう。でも、やっぱり胃にはドライフルーツが良いかしら?」
アインスからもらった許可には、続きがある。彼は真顔で「普通食をお召し上がりになって大丈夫です。しかし、イリヤの料理だけは胃に悪いので止めるように」と、釘を刺さしていったのよ。
アインスが言ったことだからね、うん。守らないとね、うんうん。
「ドライフルーツとナッツは栄養価も高いですし、片手でお召し上がりいただけます。執務の合間にも良いでしょう」
「私もそう思っていたの!」
「でも、クッキーも片手で「イリヤ、この書類って期限いつまで!?」」
なんなら、小麦粉は胃に優しい食材よ! わかってるわ!
でも、怖いもの見たさじゃないけど、一度で良いから食べてみたい。胃が良くなってからね。
私は、イリヤが指差すクッキーを見ながら話題を変える。
「それは、来週までです」
「直近の締め切りはどれ?」
「その、来週までのものです。お嬢様の捌くスピードがものすごいので、もうお仕事がありません」
「え? そんなにやってないけど……」
「やってますよ。旦那様が「ベルは寝てるのか?」と心配なされておりましたし」
「ね、寝てるわよぉ」
「ほっぺ膨らませても、イリヤは騙されません」
「ムー」
一昨日、ちょっとだけ夜更かししたのがバレてるわ。
でも良いじゃないの。久しぶりに、作物の収穫予想とそれに関わる肥料の量の計算をしたんだもの。とっっっっても楽しかったわ。
このままいくと、石灰質土壌用の肥料が底を尽きそうだから、新しく作らないといけないことがわかったの。金属系の肥料って高いのよね。
まあ、あとはこの一帯を管理するガロン侯爵の考えることだから、私が悩んでも仕方ない。
にしても、次の日ちゃんと起きたのに、なぜわかったのかしら?
「今、お嬢様がすべきことは、お仕事でも婚約者を気にすることでもありません。自分を大事にすることです!」
「みんながしてくれるわ」
「それじゃダメです! じゃないと、イリヤが0から作ったカップケーキをお口にねじ込み「だだ大事にするわっ!」」
「なら、よろしいです。ご褒美にクッキーを差し上げましょう」
逃げ場をください!
イリヤ、わかってやってるわね……。このニヤニヤした顔! なんだか、遊ばれている気がしてならない。
万年筆を置いた私は、ドライフルーツを手に取りポシポシと噛んだ。少しだけ周囲にお砂糖がまぶしてあるみたい。フルーツの甘さとお砂糖の甘さが身体に染みるわ。
「イリヤも食べて」
「え?」
「はい、あーん」
「……うっ」
これぞ、反撃!
最近わかったのだけれど、イリヤってこういう不意打ちに弱いみたいなの。顔を真っ赤にさせて、私を睨む目がクセになりそう。
屈んだイリヤに桃を近づけると、吸い込まれるように口内へと入っていく。なんだか、小動物に餌付けしてるみたいだわ。
「……あとは、お嬢様がお召し上がりください」
「はあい。いただきま「ベル! 聞いてくれ!」」
イリヤの言葉に頷きオレンジピールを口にした時、ドアがバーンと大きめの音と共に開き、頬を紅潮させたお父様が入ってきた。……の、後ろからアインスも来たわ。
アインス、なんだか飽きれた顔してイリヤを見てる。どうしたのかしら? でも、その前にお父様ね。
「何かしら、お父様?」
「先週提出した水道計算と土壌調査の土台作成が、ガロン侯爵のお目に止まったらしいんだ! 来週、宮廷にて詳細を詰めたいと連絡が来た!」
「良かったわね、お父様! これで、爵位が守られるでしょう」
「それもそうだが、そうじゃなくてそうなんだ!」
「落ち着いて、お父様」
良かった。これで失敗したら、爵位剥奪と噂されていたみたいだったから。子爵のままで居られるわね。
にしても、お父様ったら。嬉しすぎてなんだかよくわからない言葉をはいているわ。
「これが、落ち着いていられるか! 宮廷なんて、私たちの爵位じゃ入れないんだぞ! フォンテーヌ家の先代だって、式典でしか入ったことはない! あ、入っているな」
「ふふ、お父様ったら。……じゃあ、お父様が宮廷でお仕事なさっている間、お家のお仕事は私が「何を言っているんだ?」」
「え?」
お父様は、まるで行進曲でも鳴り響くのでは? と思うほど軽快に私の方へと寄ってきた。そして、机を隔ててある対面する。
「水道計算も土壌調査の土台作成も、ベルがやったものじゃないか! 宮廷に行くのはベル、君だよ!」
「……え?」
「ほら、アインスも連れてきたから計画を立てよう。ガロン侯爵も、ベルの体調を気にしていらっしゃってね。無理のない予定を複数提出するよう伝達されているんだ」
「え?」
「ああ! ベル、君は本当にフォンテーヌ家の誇りだ!」
「……え?」
私は、壊れたように「え?」を繰り返す。だって、それ以上の言葉が出なかったから。
お父様の言葉を理解するまでに、舌の上に僅かに残っているオレンジピールの味を堪能し、「ほおおお」と変な声をあげるイリヤを背中で感じ、お父様の後ろでニコニコするアインスを見るといった過程が必要だった。……それでも、まだ理解が追いつかないわ。
しまいには、目の前にあったナッツを食べて、
「……ナッツ、美味しい」
なんて、イリヤみたいなことを言う始末。
待って待って!
宮廷にお仕事をしに入るのって、伯爵より上の爵位でしょ!? 王族の生活する宮中なら話はわかるけど、違うみたいだし!?
私、子爵令嬢だけどガロン侯爵はわかっているの!?