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人はいつ大人になるのかを考える話

作者: Eノ-ト

※本サイトページ→https://google-enote.blogspot.com/2021/02/when-a-person-becomes-an-adult.html


昔々、ある国では変わった儀式があった

男性は皆14、5歳くらいになると生きたヤギを抱え1人サバンナに出かけた

ヤギを餌にしてライオンをおびき寄せるのである

そしておびき寄せたライオンに対して槍などを使い戦った

ライオンを討ち取ると成功の証として、また御守りとして爪や牙を剥ぎ取って持ち帰り、

残った死骸はハイエナなど他の動物が食べて消えてしまう

この儀式をやり遂げてやっと立派な大人と認められたのだった

ライオンとの戦いを恐れ儀式を行えない者はいつまで経っても成人とは認められず結婚すら許されなかったそうだ

他にもある国では夢で神から啓示を受けたり、またある国では高さ2メートルの石の跳び箱を跳び越えたりと、世界には様々な成人の儀式がある

成人と認める条件、成人だと証明する方法は様々あるらしい

これは人がいつ大人になるのかを真剣に考える話


世間一般的に大人と言うとまず思い浮かべるのは国が成人と定めた年齢に達した人間なのではないだろうか

しかし成人と認められる年齢は国によって違いがある

世界の成人の年齢について調べてねみると次の様な違いがある


アルゼンチンは21歳

日本は20歳

世界の大多数は18歳

ネパールは16歳

プエルトリコは14歳

※2019年時点


最も年齢が高い国と低い国では7つ離れているそうだ

何故国によって違いがあるのだろうか

喩えば異星人が地球にやって来て

「君たち人間はいつ大人になるの」と聞かれたとしたら

「国によって違うんだよ」なんて答えるのだろうか

おかしな話である

人種の違いで身体の違いも多少あるだろう

育つ環境によっあて成長が左右されることもあるだろう

しかし問われているのは”人はいつ大人になるか”である

ヒナは飛び立つ瞬間に

オタマジャクシは尾を失った時に

生き物として「これだ」と言える大人と子供のはっきりとした境が人間にはないのだろうか

いっそのこと人間も今一度尾を生やしたほうがいいのだろうか


しかし喩えば「乳歯が全て永久歯に生え変わったら大人という事にしよう」と決めたとしたらどうなるだろう

身体の成長というものは個人差がある

人によっては一生永久歯に生え変わらない場合もある

毛も生え揃っていない幼子が大人とされる一方で、永遠に大人と認められない人もいるだろう

それに一人一人全て歯が生え変わったか確かめるのは甚大な労力になってしまう

対して成人の年齢は誰にも同じように訪れるものであり、年齢は誰もが平等に重ねるものだろう

そして年齢ならば証明することも管理することも容易である

つまり国が認める成人というものは個人差を度外視した平等で、国にとっても国民にとっても都合のいい大人の定義なのかもしれない

しかし我々人間が大人になるのはいつかという問いにおいて個人差が全く無く誰にも平等に訪れるものが答えであるはずがない

人はそれぞれ肉体や精神の出来が異なっているものだ

中年でも子供だと言われる人間もいれば少年でも大人だと言われる人間もいる

成人というものはあくまで社会的に大人と認められただけの人間である

もし国が「100歳になれば成人とする」とすれば世の中の人間は100歳になってようやく人は大人だと見るようになるだろうか

そんな何処かの誰かが勝手に決めたルールや決め事が大人になるということではないだろう

子供が大人に「どうすれば大人になれるの?」と尋ねた時に聞きたい答えはそんなものではないはずだ

成人とはルールや決め事でありそれ以上の意味はないものだろう

つまり社会的意味の大人はあくまで社会的意味でしかない


ならば生物学的意味の大人はどうだろうか

大人の定義を考える際、こんな風に考えたことはないだろうか

「人間が生物学的に大人になるのはいつなのか」

生き物として大人になるのがいつなのかが分かればそれが人が大人になる時と言えるのではないか

そこで生物学的観点から見た大人について調べてみた

生物学的に言えば”次世代を生み出すことができる生殖可能な状態、成体になれば大人”なのだそうだ

人間の場合、栄養状態や個人差はあれど女性なら初潮が有り妊娠可能になる年齢である10歳あたりから成熟個体になる

つまり小学4年生で立派な大人ということである

男性の場合女性より遅く変声期が訪れ、陰部に毛が生え夢精等が起きる15歳前後で成熟個体になる

つまり中学2年生で大人の仲間入りである

10歳〜15歳で人は大人になるそうだ


少なくとも現代の感覚から言えば「そのくらいの歳で大人と呼ぶには早すぎる」と考えるのが一般的だろう

加えて「こんな基準で大人ということになるのか」とも思える

数ある基準のひとつとしては良くとも、これが大人になる事そのものだとするとかなり無理があるだろう

生殖機能で大人と子供が決まるなら生まれながらその機能を持てない人間もいるだろうし途中で不能になる人間もいる

そういった人間は歳をいくつ重ねていても子供という事になってしまう

それに喩えば犬や猫など動物を見た時に、その動物が大人かどうかを生殖機能で考えるだろうか

普通その個体の成長度合いが判断基準となるのではないだろうか

つまり身体が出来上がっているかどうか

”既に成長を完了しているのなら大人”

”まだ成長を終えていなければ子供”

という認識が一般的ではないだろうか

生殖機能の完成と成長の完了は同じとは限らない

人間で言えば個人差はあれど生殖機能は10歳から15歳で確立されるが、大体の成長が止まるのは20歳くらいなのだそうだ

生殖機能より成長の程度の方が世間一般的に表現する大人の意味に近いのではなかろうか

専門的な研究を行う学問に対して一般論を持ち出す事自体おかしな話かもしれないが


しかしいずれにしても重要なのは世の中の人間がどういう人間を大人と認識しているかである

大人という言葉において身体の出来という意味はほんの一部でしかないのではないか

喩えば「貴方は大人ですね」と誰かが言ったとして

それが「貴方は生殖機能が確立されていますね」

だとか「貴方は身体の成長が完了していますね」

という意味で受け取る人間がいるだろうか

身体の出来という意味で大人という言葉を使うのは喩えば、「本棚の一番上の棚にある本は子供の身長では届かないから大人が取ってあげるべきだ」など身体的な話をしている時に使うものだろう

大人と子供では身体の出来が異なるため、その違いを大人という言葉で表現出来るだけ

身体の出来そのものが大人の意味ではない

つまり局部的意味である

そもそも最初に生物学的大人とは”成体”になる事であると語った

成体と大人が別である事は考える必要も無い事だったかもしれない

生物学的意味の大人もやはり生物学的意味でしかないだろう


社会的意味も生物学意味も”人がいつ大人になるか”という答えにはならない

大人を意味しているにも関わらず

何が問題なのだろうか

おそらく原因はこの問いの定義不足だろう

実は大人という言葉にはいくつも意味があり人はそれを自然と使い分けているのではないだろうか

成人することも社会的には大人になることであり

成体になる事は生物学的に大人になることと言える

どちらも大人になる事には違いない

だが言葉とは面白いもので言葉足らずだからこそ伝わる意味がある

抽象的に表現してこそ抽象的意味が伝わるというものだ

この問いに対し社会のルールとして、ヒト科としての意味で大人という言葉を捉え即答する人間は少ないだろう

何故なら問われているのは”人間として大人になるのはいつか”なのだから

「人はいつ大人になるのか」と問われると人はもっと抽象的な意味の大人を考える

それが一般的ではないだろうか

つまりこの問いの正しい問い方は

「世の中の人間が抽象的意味で使う”大人”になるのはいつか」なのではないか

そして抽象的意味の大人とは世の中の人間にとっての大人という概念や認識でありそれが一体どんなものであるか、それが答えだろう


問題の問題を解決したところである思考実験をしてみよう

喩えば「完璧に前世の人間の記憶と人格を持った子供が居たとして、その人間は大人と子供のどちらだろうか」

無論前世の記憶は大人として、前世なんてものがあるか無いかは省略の上である

要は精神が大人で身体は子供の場合大人と子供どちらなのかという話


「そんなもの決められる訳がない」と言われてしまうかもしれないが、決められないならば決められないという事を決めるべきである

まず身体は子供なのだから戸籍上の年齢は子供だろうし肉体的にも未成熟であることは間違いない

だが肉体的能力が幼かったとしても精神や頭脳が成熟していればそれはただの小柄な大人なのではないだろうか

一般常識があり冷静な判断が出来、計画性があり建設的で合理的な考え方が出来るならば大人と同じことができるのではないか

ネクタイを締め出勤しデスクワークで働いて小柄な身体でも快適に過ごせる生活空間を確保すれば子供の身体で大人の生活を送ることができる

多少身長が足りなかったり体力が足りなくともそういったハンディキャップがある人間と考えれば大人として見ことが出来るのではないか

実際子供のような姿のまま大人になる人間が存在する

小人症、侏儒症という症例で多くは成長ホルモンの分泌不足が原因で子供の姿のまま成長が停止してしまうそうだ

彼らは見た目が子供でも年齢を重ね内面が成熟していれば誰からも大人と認められることだろう

ならば身体が子供でも精神が大人なら大人と言えるのではないか

もしかしたらそうなのかもしれない

だがやはり何か違いがあるように感じないだろうか

小人症の人間は身体の成長が止まっていてもそれが彼らの大人の姿なのであり、そういう人間なのだと思えるだろう

一方前世を引き継いだ子供の身体は大人に成長していく

そこに大きな違いがあるのではないか

確かに精神が大人、身体は子供という人間がいたなら周囲の人間はその者を大人として接するのだろう

どんな姿であろうと、もしそれがサイボーグだろうとただの鉄箱だろうと中身が大人ならば人は大人として接するものだ

喩えば自分の親が記憶も人格もそのままに子供型のサイボーグになったとしら子供として接するだろうか

「大人か子供かの前にそれは人間なのか」と言うべきところだが、そこは省略しておこう

人と人が出会った時に相対するのは肉体ではなく人格なのではないか

だがしかし人格の認識とどういう人間であるか、どんな存在であるかの認識は別物である

大人として接しはするが、だからといってそのまま大人だと認識するわけではないだろう

人格はその人間の一部だが大人か子供かの認識はその人間の全貌という巨視的な視点で判断するものではないだろうか


精神が大人、身体は子供なら人はそれを”大人か子供か”ではなくただありのままに

”精神が大人、身体は子供の人間”として認識するのではないだろうか

それは何故か

おそらくそれが普通の人間だからである

「何を言っているんだ」と思われるだろう

もちろん精神が大人、身体が子供というこの組み合わせ自体は普通あり得ない

可能かどうかも疑わしい

だが大人の精神は大人の数だけ存在し、子供の身体は子供の数だけ存在する

組み合わせは尋常ではないが一面ずつはごく普通の人間である

先にもしサイボーグだろうと鉄箱だろうと中身が大人ならば人は大人として接すると語ったが、この場合人間の部分は中身だけであるから大人か子供かの認識材料と出来るのは中身だけである

機械には大人も子供もない

中身は大人の脳であるから、”ただの大人”となる

つまり喩えば前世を宿した子供がもし永遠に歳を取らない身体だったならば

身体はもはや普通の人間ではないから、認識の材料は精神だけになる

故にこの場合は、大人ということになる

普通の人間部分だけを汲み取り認識するのが人間の人間に対する概念なのではないだろうか

よって普通の人間であるということは大前提だろう


前世を宿した子供は身体も精神も普通の人間であるから両方とも認識する材料になる

そして普通の人間部分だけが大人や子供と認識できるのは、先にあったように大人や子供とは世の中の人間にとっての概念や認識だからであって

つまり世の中の人間の常識であったり普通の人間を中心にした観念だと言える

精神と身体の年齢に相違がある人間は常識的でもなければ普通でもない

故にそういった人間に対しこれといった位置付け、概念、認識は用意していない

例えば男性でも女性でもなければトランスジェンダーだったり

ライオンでもトラでもなければライガーだったり

魚類でも爬虫類でもなければ両生類だったり

そういった「A」でも「B」でも無い存在が確立されれば、人は新たに「C」という概念を作り出す

もし中身が大人で身体が子供の人間が世の中に溢れれば新たな概念が生まれるのだろう

しかし現代にそんなものは無い

大人と子供、この二者だけである

用意していないから既存の概念だけで認識しようとする

故に大人の精神と子供の身体を両方とも認識材料にすると”精神は大人、身体は子供”とそのままの状態をそのまま認識することになるのではないだろうか

前世の記憶を持つ子供は大人と子供どちらと言うことは出来ない

どちらでもある


そして当然この思考ゲームは逆の場合も考えられる

即ち「精神が子供で身体が大人の人間は子供なのか大人なのか」

前世を宿した子供が”大人と子供どちらでもある”から、その反対の場合も同じくどちらでもあると考えるのが自然ではある

だがそう単純だろうか

大人である証明に肉体が果たす役割などたかが知れている

「重い物を持ち上げられる」

「長い距離を歩いたり走る事が出来る」

「高い場所に置いている物に手が届く」

そういった肉体差、体力差というものは知恵で埋める事が出来る

重い物を持ち上げる時はそれを持ち上げる道具を使えばいい

長距離を走れなければ乗り物を使えばいい

高い場所に手が届かなければ足場になる物を持ってくればいい

知恵があれば身体的差異を無くす事が可能である

しかし反対に身体能力で知恵を補える部分は非常に少ない

「腕力で数式は解けない」

「足の速さで柵からは逃れられない」

「跳躍力で人生の壁は超えられない」

つまり精神が大人で身体が子供なら、大人と同等の事が出来るが

精神が子供で身体が大人だと、文字通り子供に毛が生えた程度という事だ

大人の部分と子供の部分をそれぞれ汲み取るのが人間の認識だと結論付けたものの、こちらの場合では余りに人間的性能として子供部分が勝ち過ぎている

故にただ大きいだけの子供と言うべきかもしれない


”精神は大人身体は子供”と言えばしばしば小人症の人間が挙げられるが、実はこの対極にあたる”精神が子供身体が大人”の人間も現実に存在する

それは記憶を失った人間である

記憶喪失と言えば事故の前後の出来事だったり、自分の事や身の回りの事は忘れてしまうが、一般常識や知識は保持されるというイメージが強いかもしれない

だが実際には症状はさまざまである

ある二十代の女性の場合、事故で頭を強打し記憶喪失になってしまった

失ったのはそれまで生きてきた記憶の大半、十数年分である

何と彼女は4歳児の記憶にまで戻ってしまったそうだ

身体は大人でも頭の中は幼児であるため、一人で食事をしたりお風呂に入ったり、文字の読み書きや自転車の乗り方など

本当に4歳児の子供が大人から教わる様に一から覚え直したそうだ

まさしく”精神は子供で身体は大人”の人間である

このような年単位の記憶を丸々失う症例は兎角珍しいという訳ではないらしい


想像してみよう

「もし自分は子供で、朝目覚めると急に大人の姿になっていたなら自分の事をどう思うだろう」

”大きいだけの子供”

確かに言い方一つでそう結論付けられるかもしれない

だが身体は確かに大人である

ただ身長の高い子供とは訳が違う

顔つきが変わり、筋肉がついて逞しくなり、体毛が濃くなり、声変わりをし、生殖機能も確立される

もし”身長の高い子供”が”大人の身体を持った子供”と体格が同じであっても質や機能や能力などは大きな差がある

それは精神や知能と同じ事である

確かに人の知恵が可能にする事柄の幅は身体能力が可能にする幅の比ではない

しかし知恵が全てを可能にする訳ではない

重い物を持ち上げる時に道具が無ければどうなるのか

長距離を走らなければならない時に乗り物が無ければどうするのか

高い場所に手が届かない時に足場になる物が無ければどうなるのか

”大きいだけの子供”などは単なる表現の一つでしかない

身体が大人なら”身体は大人”だと認識すべきである事は当たり前である

故に”精神が子供で身体が大人”の場合もそのままの状態をそのまま「精神が子供で身体が大人の人間」となるのではないだろうか


大人の意味について思索し抽象的意味が求める答えに相応しいと至り、そして抽象的意味が差す大人とは肉体なのか精神なのかという問いも決した

後は抽象的意味の大人とは何かという問題についてである

大人とは何だろうか

よくあるのは次のような意見である


「大人とは自分の言動に責任をとれる者だ」


「責任」、これが大人の定義だとされる事は多い

自身の言動に責任を取れる人は大人だ、というのは確かに正論である

子供は常識や経験、自律や分別が足らず、責任ある言動や責任を真当する能力が未熟なもの

自分の感情や都合を押し付け喚いて強請るのは子供の特徴だろう

しかしこれには必然出てくる疑問がある

「責任をとれる人間が大人なら元々自身の行いに責任をとる気がない、俗に言う悪人達は皆大人じゃないということになるのではないか」という点である

聖人君子だろうと歴史的大犯罪者だろうと大人は大人である

喩えば「小学校の教室に生徒が数十人、中年教師が一人」

この場合誰しもが沢山の子供の中に大人が一人と数えるだろう

その教師の責任能力を考慮したりはしない

他にも似たようなところで、

「人を思いやることができる」

「人を許すことができる」

「分別がある」

というような意見も多いが、これらも一般的に悪人と呼ばれる者は皆大人ではないことになってしまうだろう

加えて少年少女で既にできている者は大人とされてしまうし、中年高年でもできない者は子供とされてしまう

数々の大人を子供にしてしまい、数々の子供を大人としてしまうだろう

故にこれは大人の定義にはならないだろう

もう一つよくあるのが次のような意見である


「自立と自律が大人の条件である」


「自立」、こちらも特に定義として挙げられる事が多い

自立して自力で生きていけるのは大人、というのも確かに正論である

子供は自力で生きていけるだけの知識や経験や思慮が足りない

生きていく上で突き当たる困難や苦難を乗り越えられる精神力や体力

そういったものが未熟だから誰かの力を借りねばならない

それが子供の権利や宿命かもしれない

しかし当然疑問が出てくる

自立している人間を大人とするなら、実際例えば十代半ばくらいなら普通大人とは見られない年頃だろうが、既に自立し生活している人間は広い目で見れば沢山いるだろう

彼らは皆、道ですれ違う人間から大人と見られるだろうか

自立しているかどうかは赤の他人には知り得ない

もちろん自立とは生活だけでなく精神的なことも含まれているのだろう

しかしいずれにせよこちらも少年少女で既にできている者は大人とされてしまうし、中年高年でもできない者は子供とされてしまう

大人の定義として相応しいとは言えないだろう


他にも「社会性」や「常識」や「自制心」など様々なものを定義とする意見があるが、そういった意見を挙げたところで結局子供でも既に獲得していたり、大人でも持てていなかったりして定義として瓦解してしまう

どうして答えにならないのか

それはこれらの意見が”大人が持つべきもの”を挙げているだけであって”大人が何か”という答えにはなっていないからである

そこをはき違えてしまうと定義に大きな穴が出来るのである

大人が何か、それを考えるとしかし曖昧になり過ぎることもある

例えば次のような意見がある


「子供のころに戻りたいと思ったら大人」

「大人を演じるのが苦痛でない人が大人」

「周りから大人と言われれば大人」


誰しも自分が大人になった瞬間など分かりはしない

気付けば大人になっているものである

いつの間にか成っているのだから逆算して子供ではなくなったのがいつか考えれば人がいつ大人になるのかが分かる、という考えだろう

しかしこれでは子供の頃に戻りたいと思わなければ誰も大人ではないことになってしまうし、大人を演じるのが苦痛ではない子供もいれば、周りから大人だと称される子供もいる

だがそんなことよりも問題なのは主体性の無さである

これらはつまり「赤色とは何か」と問われて「人が赤色だと認識すれば赤色だ」と言っているようなもの

当たり前のことであり、何の説明にもなっていない

大人が何かを答えているのではなく、大人と認識している人間の認識方法を答えているだけである

答えるべきは「子供の頃に戻りたい」と思えるのは子供の頃とどう違う存在なのか

「大人を演じる人間」はどんな人間を演じて、何故それが苦痛ではないのか

「周りから大人と言われる人間」はどんな人間なのかということである

そうすると多くの場合、定義として挙げられるのは人間性である

例えばこんな意見である


「器が大きい人」

「子供の手本であるべき存在」

「共同体の中にあって目指すべきもの」


大人とは社会の中に生き、社会を支え、社会を守り、社会を作ってゆくものである

故にそれとなく大人にはあるべき姿というものが世の中全体に存在しているのは確かである

しかし大人というものを理想像のように捉えると現実にそれを否定されてしまう

例えば「大人気ない」「大人らしくない」

こんな表現があるが、これは大人であるにも関わらず大人にあるべき言動や態度、振る舞いではないという意味である

しかし裏を返せばその人間が大人である事を認めているという事になる

「大人のくせに」「大人なのに」と言えるのは相手が大人であるからに他ならない

大人に求められる理想像も大人かもしれないが、理想通りになれなくとも大人は大人である

人は大人になりたくなくても大人になってしまう

努力などしなくとも大人になるし人から大人であることを求められる

努力さえしなければずっと子供のままでいられるなら誰も苦労はしないだろう

大人という意味全てを総括し定義しなければ定義した事にはならない

加えて、こんな人間であるべきというものに元より興味のない人間達は皆大人ではないことになる

理想像だけで語ると沢山の大人と認識されている人々を大人でないことにしてしまうだろう

そしてこれとは対照的に大人を悲観的に捉えた意見もある

例えば次のような意見である


「裏表のあること」

「色々なことを諦めること」

「建前で人と付き合えること」


大人とはいろんな顔を使い分け、現実を知って様々な事に折り合いを付けるもの

といえばもちろんその通りだろう

しかし当然ではあるが、そうでない者もいる

大人でも裏表のない者はいるし、諦めない大人がいるからこそ人類は進歩するのであり、建前が苦手あるいは興味の無い者もいる

大抵の者が該当するであろう事を定義にしようとしても必ずそれに該当しない少数者がいるのだから定義にできる筈はない

悲観的に捉えようと理想像だろうとどちらにしても偏った見方であり定義にはならない

だがそれならどうすればいいのだろうか

どんな人間かを挙げたところで、そもそも人間とは色んな者がいるのだから何を定義にしようとしても必ずそれに当てはまらない者達がいる

どうすれば定義できるのか

このように考え至ると人は往々にして次のように結論付ける


「大人とはこれだと一概に言える定義など無い

所詮は人々がそれぞれ勝手に創りだした大人像があるだけである

成人になったら急に世界が変わるわけでも大人に変身するわけでもない

いくつになっても大人ではない者もいるし、幼くとも大人な者もいる

境界線などというものはどこにも無いのである

故に定義など無い、定義など出来ない」


あちらを立てればこちらが立たず、何かを立てても何かが足りない

そんなことを繰り返す内に定義など無い、と考えるのは自然なことかもしれない

しかし定義できないものなどこの世にあるだろうか

人それぞれの視点によって変わる、などというのは定義できない根拠でも何でもない

それを言うならこの世の全てが視点によって変わるのだから

定義とは、その定義の内容に合致した特定の視点を定義してこそ出来ることである

特定の個人的見解ならその個人の視点から、人類全体の概念なら人類全体の視点からである

ただその視点を厳密に定義出来ていないから人それぞれの意見や考えに振り回されてしまうのである

ならば一体どんな視点から定義すればいいのか

少なくとも人間性という視点から大人を定義出来はしない

人間性を挙げたところでそれは人間の中身の一面でしかないのだから


一体大人とは何だろうか

分かっているようで分からない

分かろうとすると余計に分からなくなる

そんな命題である

しかしそれでも答えは存在する

ここからが結論である


”大人とは何か”という問いに対し数々の意見を否定してきたが、実のところ部分的な答えとして答えていたならば全て正論だと言える

部分的というのは例えば主観的に見た場合だとか、重要とされている点だとかである

「定義など無い」という意見だけは除いておきたいところだが

大人という意味全てを引括めたり、大人を一概に一言で言えばこれが定義だという意見に対し否定しているのである

既に語ったことだが、”大人という言葉には実はいくつも意味があり人はそれを自然と使い分けている”

これが答えを出す上で重要な点である


社会的意味、生物学的意味が、問われている事とは意味が異なると感じ、大人には様々な意味があるのだと知った

だがこれは実は正確ではない

人が抽象的に認識している大人とはとても意味が広く、社会的、生物学的意味もその一部なのだろう

数多の意味が内包された概念、おそらくそういうものなのだろう

”大人とは”と問われると、例えば人は以下のような事を思い浮かべるのではないだろうか


「精神的」

落ち着きがある

理性的である

忍耐力がある


「肉体的」

生殖機能の確立

身体の大きさ

身体の成熟


「体力的」

力がある

持久力がある

身体能力が高い


「頭脳的」

思慮分別がある

考察力がある

理解力がある


「社会的」

常識がある

責任能力がある

自立の力がある


「理想的」

威厳がある

博識である

経験豊富である


あくまで思い付く限りだが、少なくともこのような意味があると考えられる

この中のどれか一つを答えとして答えれば、矛盾が生まれてしまったり何か足りないと感じてしまうのだろう

子供に対して「大人だね」と賞したり、いい大人にも関わらず「子供だ」と批判されたりするのは大人には多くの意味があるからで、部分的な意味を部分的に使っているのだろう

人それぞれ大人な部分も子供の部分もあるのは当然なのだから矛盾などしていないのである

このような問いに対し人は往々にして何か核心を突いた一つを答えとして据えようとする

例えば”人”だとか、”国”だとかもそうだろう

だが様々な要素で構成される概念ならばその全てを総合してこそ定義になるのではないだろうか


大人とはとても意味の広い言葉である

そもそも、成長の分別は大人か子供かしかない

つまり大人とは「子供以外」ということ

故に意味は広くて当たり前である

しかしこれまで挙げた大人の意味をまとめ、一言で表すことが出来る

もし”大人とは”と問われその問いの意味を「世の中の人間が抽象的意味で使う”大人”とは何か」と定義し答えるならばそれは


「十分に成長した人」である


拍子抜けな話ではあるが、これは辞書に載っている言葉をそのまま引用しただけである

しかし実に無駄がなく適切な表現と言える

”十分に”と言えば身体の成長、精神の成熟、責任能力や自立できる力、その他大人に必要とされる力を大人と言える水準まで達していることを包括的に表現する事が出来る

意味の広い言葉を一言で表すのだから多少曖昧な表現になってしまうのは致仕方ない

その分いくつかの補足を語ってゆく

大人と言える水準とはどこなのか

一部は大人でその他の部分は大人ではなかったらどうなるのか


まず例として身体的基準を挙げる

身体的には成長を完了した者、完了に近い者が大人と言えるだろう

おそらく大人と子供の線引きは四捨五入のような感覚で、一が子供で十まで辿り着けば大人に変わるというものではなく

ある一定の領域までは子供で、ある領域を超えるともう大人同様と認識されるのだろう

喩えば小学生と高校生が殴り合いの喧嘩をしたとしたら、それを所詮子供同士の喧嘩と吐き捨てられるだろうか

これでは体格的にほとんど大人対子供ではないだろうか

既に大人と認識されている者に迫る程に成長していればその能力はもはや大人と言える

こんな線引きになっているのではないだろうか

もちろん大人と呼ぶには腕力だけでなく、その他大人に求められる能力が全体的に必要である


例えば生物学的には生殖機能の確立している者が大人と先述したが、これもやはり部分的な成長と言える

思考実験でもあったように一部分が成熟していても部分的に大人と言うだけで、完全に大人と認識されるには全体的に成熟していなければならない

それは大人という意味の一部においても言える事で

身体的成長においても全体が重要

ならば身体全体の成長が重要だと考えられる

生殖機能、声変わり、体毛、筋力、骨格、体力、などの全体の成長が必要なのである

因みにあくまで現代においてだが、具体的な数字を挙げるなら、人間の成長が止まるのは大体20歳頃であるとされているそうだ

故に現代では身体的には20歳を迎えた者、20歳に近い者を大人と言えるかもしれない

現在世界で一番多い成人年齢は18歳なので、この事から見ても妥当な推論なのかもしれない


他の、大人に必要な能力も同じ事である

例えば精神面でも愛情だけが成熟していても大人とは言えない

愛情だけでは自分の情を他人に押し付けるばかりである

認知、理性、自制、自立、自我、社会性、人に備わるそれら精神的機能が全体的に成熟していなければならない

そして精神的にも既に大人と認識されている者に近い成長をしていたり、もはや子供と言えない程の成長をしていると大人と言える

例えば小学生は1人でおつかいが出来るが、大学生なら1人で旅行が出来る

小学生は1人で留守番が出来るが、大学生なら1人で暮らしていける

小学生は友達を作る事が出来るが、大学生なら家族を作れる

精神的な成熟が大きく違いを作る

これらは大人と子供と呼ぶべき違いだろう

精神的成長は身体的成長とは違い、一生涯成長するものともされる

故に具体的に精神的に大人になるのはいつかと言われれば”成長の完了”ではなく”成熟しているかどうか”となるだろう

これもあくまで現代においての話だが、一般的に人は思春期に心身共に子供から大人に変わるとされている

発達心理学的にも思春期が終わる頃には精神が全般的に発達し成熟が見られるそうだ

全般的に発達し大人に近く、子供と呼べない程成熟しているのなら人は思春期の終わりに精神的に大人になると言えかも知れない

そして具体的に思春期がいつからいつまでなのか数字を挙げるとすれば、

これも諸説あるため大まかになるが8歳〜12歳頃に始まり17歳〜20歳頃に終わるようだ

故に現代において精神的には17歳〜20歳頃に人は大人になると言えるのかもしれない


他の、頭脳や体力や経験などの大人に必要な能力も既に大人と認識されている者に近かったり、もはや子供と言えなかったりするとその能力は大人と認識される

そしてその大人に必要な水準の能力の数々が全体的に備わっているならば大人である

これが”十分な成長”である


水準についてはもう少し詳しくしておかなければならないだろう

”大人に近く、子供から遠い”では少々曖昧である

大人の水準とはおそらく人間という生き物として”最低限の完成”をしている事ではないだろうか

人間の身体は20歳くらいで大体成長が完了するが、20歳以降にも成長する部分はある

思春期を終えても、社会に出ればまだまだ精神的に未熟で足りないものは多いだろう

しかし人間として最低限完成すれば大人と同様の事が出来、子供には出来ない事が出来る

子供は生き物として未完成であるから完成形の大人が保護し育てなければならない

だが自立したり自分の力で生きていけるようになれば完成形と同じ事が出来る

同様の事が出来ているならそれは完成形と同じ、大人と言える、大人と言う他ない

故に”最低限の完成”を遂げた者が大人の水準を満たした者なのだと考える


因みに、大人の基準や水準に例として具体的な数字を挙げはしたが「あくまで現代において」と前置いたのは、時代により大人と子供の境は変化してきたためである

常識や価値観とは時代によって移り変わるものであり固定的ではない

”現代において”大体20歳くらいで身体的成長は完了するとされているだけであり、”現代において”思春期の終わり頃に精神的に成熟するとされているだけである

時代によって、あるいは国によって「十代半ばでも身体的にも精神的にもそこそこ出来上がっているのだから、十分に成長していて最低限完成している」と捉えていたりもする

どこまでを”十分な成長”、どこまでを”最低限の完成”と見るかは時代や国によって変化するものである


ここまで辿り着くのに意味の広さや意味の曖昧さに翻弄されたが、これで本題の答えを出す事が出来る

大人とは=十分に成長した者

なら”人はいつ大人になる”のか

それは『十分に成長した時』

以上が結論である


ここからは少し余談となる

”人はいつ大人になるのか”については答えを出したがしかし、まだ大人という意味全てを語れたわけではない

大人という言葉にはまだ他にもこんな使い方がある

こんな会話を耳にした事はないだろうか

「ブラックコーヒーを飲めるなんて大人だね」

こんな他愛のない場面でも大人という言葉が使われる

考えてみれば確かにその通りである


例えば

「舌が大人」

「表情が大人」

「振る舞いが大人」


こんな些細な意味の大人もある

勿論これも”十分な成長”の一つと言える

だが大人とは何かと問われてこんな解答をする人間はいない

大抵、能力であったり身体の成長だったり精神の成熟などを考えるだろう

大人という意味の一部というより細部のように思える

この違いは何だろうか

それはおそらく

「大人そのもの」と

「大人びたもの」ではないだろうか

もちろん舌が大人などという些細な意味でも大人の意味である事には違いない

だが大人そのものかどうかの認識の基準の根本的、本質的意味に比べると関連が薄い

このような些細な意味の大人を一言で言うとつまり


”老成”である


実はこれも辞書に載っている言葉である

辞書で大人の意味を調べるとこうある

・十分に成長した人

・老成している人、その様

・成人している人

・考え方や態度が十分に成熟していること、思慮分別があること


因みに老成を辞書で調べるとこうある

・大人びている事

・経験、年功を積んで熟達している事


無論ここで言う老成とは前者の大人びているという意味だ

詰まる所、大人という意味全てをまとめると

「十分な成長」

「大人びている」

この二点に集約出来るだろう

子供に対して”成長の速度や、人間的な成長が著しい部分がある”という”褒め言葉として”大人という言葉を使うのも、

大人に対して”人間的により成長し、より大人らしい”という”褒め言葉として”大人という言葉を使うのも、

大人という言葉に大人びているという意味があるためである

「広義としての大人」と言っていいかもしれない

ならば「大人=十分な成長と説いたのは間違いなのか」と言うとそういう訳でもない

「大人とは何か」という問いは

大人である者、大人そのものが何であるかを問うているのであり

大人びたものを問うているわけではないと考える

つまり「大人とは」という問い方を今一度詳しく修正するならば

「世の中の人間が抽象的意味で使う大人、且つ大人びた人間ではなく大人そのもの、という意味での大人とは」ではないだろうか

実際はここまで口にせずとも人は無意識に意図を汲み取り自然と答えているものである


”十分成長した人”

”老成した人”


結局は辞書に載っている通り、これが大人という意味である

分かり易く例えるなら、

人の中には何本もの木が立っていて

その木々の高さ、太さ、青さなど全体の成長が十分か否か、それが「大人そのもの」=「十分な成長」

その木々の中の一本だけを見たり枝一本だったり葉の一枚だったりを見て表現するのが「大人びたもの」=「老成」

これが大人という言葉の全貌ではないだろうか

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