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次の日からと言わず、即日、聖女のヴァルターに対する猛攻は始まった。聖女は有言実行の人である。とはいえ、他人から見れば大したことのないアプローチの数々だったが、ヴァルターは婚約者三人に裏切られてきた男で、女を見ても女と思わず個人として接してきた節がある。
そのためなのか、女に対する免疫が下がりきっており、聖女を女性として意識してしまうと些細な行為でさえ許容できなくなっていた。
「聖、女様……! はしたない行為はおやめください、と!」
「ええ? ちょっと触っただけでしょ?」
「男女間で触れ合うことは、はしたないことです!」
恋愛小説のように少し手が触れあったので、聖女がそのまま手を伸ばそうとしただけのことでこのざまである。今までだって段差があれば聖女に手を差し出し、いくらだって触れていたくせに、今は変な間をおかないと仕事でも許容できない有り様だった。
聖女はこの状況がまんざらでもないようで目を細めて楽しそうに笑いながら、とんでもないことを口にしてみせた。
「夜這いとかしたら言われてもいいと思うけど、」
「聖女様」
「ごめんって……そんな顔しないでよ」
ヴァルターが咎めるよりも早く、侍女が鋭い目つきで聖女を咎めた。夜這いなんて言葉は聖女でなくても女性が口にすべき言葉ではないのだ。
「大丈夫、そんなことはしないから。ヴァルターに嫌われたくないしね」
隠しもしない聖女の好意に、ヴァルターはいつもどうしたらいいかわからなくなる。はしたないけれど、身体的な接触はまだいい。はしたないと咎めればそれで流せるからだ。けれど言葉や視線にこもるちょっとした熱を見つけると、ヴァルターは本当にどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
聖女の望みはなんだって叶えたいと思う。それだけのことしてくれた彼女に、恩返しをしたいと思う。けれどそんなふうな心持ちでは、決して聖女の希望には添えなかった。
自然と気持ちが沈んでいくヴァルターとは反対に、侍女が朗らかな声で尋ねた。
「聖女様、ご質問してもいいでしょうか」
「うん、いいよ。どうぞ」
「聖女様はシーレンベック様のどこをお好きになられたのですか?」
口の中に何か入っていたら、ヴァルターは間違いなく噴き出していただろう。今だって何もしていないのに、空気が気管に入って咳き込んでしまったくらいだ。どうして本人の前でそんなことを聞くんだと責め立てたい気持ちを抑え込んで、ヴァルターは立ち上がった。
「自分は外で待機しております」
「いえ、シーレンベック様が席を外すようなことではございません。そうでございましょう、聖女様」
「そうだね、ヴァルターもここにいてよ」
しれっと侍女に逃げ道を塞がれて、ヴァルターはぎこちない動きで席に座りなおした。これから自分のことを好きな少女の思いを目の前で聞かされるかと思うと、気が遠くなるような気がした。
「好きなところねぇ、まず性格かな。気が利いて、丁寧で、優しくて、誠実で。もちろん私が聖女だからっていうのはあるんだろうけど、いつも気を遣ってくれるのがわかるの。手を差し出すときに壊れ物扱いはやりすぎだろうけどね」
聖女だから、という言葉に、ヴァルターは少し胸を痛めた。それが事実だからだ。見知らぬ少女だったら、ここまでの献身はしなかった。それさえ理解して自分を好いてくれている聖女に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「それから表情の作り方かな。私にはわかりやすい方がありがたいし、たまに笑う時に普段はきりっとしてるのに緩んだ顔するのが可愛いよね」
「か、かわいい……」
年下の少女から言われた言葉に半ばショックを受けて、ヴァルターは口を挟むつもりなどなかったのに呟いてしまった。少女という生き物は可愛いものを好む生き物だということは百も承知だが、そんなふうに言われて喜ぶ男などあまりいないだろう。
「あとは、……言葉にするのは難しいんだけど、一緒に過ごしていく中で、好意的に思うことがたくさんあってね。それが積み重なって、好きになったの。特別なことなんて、なかったとしてもね」
真正面からの言葉に、ヴァルターは何も返すことができない。そうでございますか、という侍女の声を聞いても、黙り込んでいることしかできなかった。
「……よっし! ヴァルター、中庭に行こう。着いてきて」
「はい」
突然のことに理解が追い付かなかったが、立ち上がり歩き出した聖女の後を追い、ヴァルターも中庭へと向かった。中庭には立派な庭園があり、その一角には薔薇園もある。聖女も薔薇が好きなのだろうか、と考えながら廊下を進んでいると、あっという間に中庭に着いた。
前を歩く聖女のあとを着いて行く。先ほど考えていた薔薇園の方向だった。
「聖女様は、薔薇がお好きですか?」
「薔薇? 薔薇かぁ……綺麗だけど、あれは毛虫が付くんだよね……」
女性といえば薔薇が好きなものだと思っていたヴァルターはにわかに驚いた。今の言葉尻だと嫌いではなくとも好きではなさそうだった。そのため不思議でならなかった。好きでもない薔薇園に足を運ぶ理由がてんでわからなかった。
「では何故、薔薇園の方へ?」
「なんか薔薇園ってデートっぽいでしょ」
予想してもいなかった言葉に目を瞬かせている間に、聖女は振り返りヴァルターの傍に寄って来るとするりと腕を絡ませた。
「聖女様……!」
「ははは、よいではないか。よいではないか」
「よくないです!」
聖女はそこまで力を入れていたわけではない。ヴァルターが彼女の腕に手を掛けると、自分から腕を外して、いたずらっ子のような顔で楽しそうに笑っていた。
「いやぁ、焦ってくれて嬉しいなぁ」
「……からかうのは意地が悪いですよ、聖女様」
「からかってなんかないよ。腕を組みたいから組んで、相手の意思を尊重しないのはダメだから離しただけ。嬉しいのはヴァルターが意識してくれたからだよ」
まっすぐな言葉に息がつまりそうで、ヴァルターはまた何も言えなくなった。最近はずっとこうだ。彼女の好意を感じるたび、罪悪感や申し訳なさのほかにも色々な感情が複雑に入り混じって、そしてそれは言葉にならずに胸の奥に沈んでいく。
「ヴァルター」
呼ばれて、聖女の顔を見る。彼女はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「ちゃんとお話ししようか」
その目はどこか、悲しそうに濡れていた。