愛なんかわからなくたっていいよ
聖女から答えを求められた翌日、ヴァルターは酷い顔色をして聖女の部屋の前に立っていた。何せ一晩中思い悩んでいたせいで、一睡もできていないのだ。挙句その答えを出せていないのだから、己の無能さに辟易とするばかりだった。寝不足では護衛としても無能だし、答えに窮するのは男として無能だろうと嘆息する。
起床時間はとっくに過ぎており、ノックをしてもいいことは分かっていた。だが一歩、足が前に出ない。考えがまとまらず、思考能力も低下している。戦争時であればもっと酷い状況であることなどざらだというのに、なんとも情けないざまだった。
「おはようございます、シーレンベック様」
「……おはようございます、侍女殿」
ノックをする前に扉は内側から開いた。当然、開けたのは侍女だった。彼女の目はどこか緊張したもので、聖女の立場が今日で決まることを理解しているのだろう。そしてそれが、ヴァルターの返答次第で決まるということも。
部屋に招き入れられて、部屋の中を見る。聖女はいつものように椅子に腰かけて紅茶を飲んでいた。ヴァルターに気付くと、心配そうに瞳を細めてくれる。
「おはよう、ヴァルター。……ひどい顔色だね、ごめん」
「聖女様が謝られることではありません。これは自分の不甲斐なさゆえ。責められるべき相手がいるのならばそれはヴァルター・シーレンベックに他なりません」
答えを出せずにうじうじと悩み続けた男らしくなく、決断できない性格がよくないのであって、聖女が謝るようなことは何一つなかった。聖女はヴァルターがそう言うことを見抜いていたのか、驚くようなことはなく、ただ小さな微笑みを浮かべた。苦みを含まない、好意的な笑みだった。その笑顔に途端、悲しみが滲む。
「嫌な話は早く終わらせちゃおうね」
子どもに優しい言葉をかけるときのように、聖女の声は柔らかだった。その分余計に言葉が刺さるように感じてしまう。
ヴァルターが冷静に受け止めることのできるいつもの精神状態であったのなら、聖女に対し頭を下げて謝ったはずだ。そんなことを言わせてしまい申し訳ないと、自分の態度が煮え切らないばかりに聖女を嫌な目に遭わせたと、真剣に謝って、先を考え、王と幸せになってほしいと酷い言葉を口にしたかもしれない。
しかし今のヴァルターは冷静とは言い難かった。悩みに悩んで、自分でも考えのまとまらない感情に一晩中振り回されて、ぐちゃぐちゃになった思考が翻って単純化される程度には。だから、そうはならなかった。
「ヴァ、ヴァルター!?」
情けないことに、ヴァルターの瞳からはボロボロと涙がこぼれ落ちていた。聖女がぎょっとするほどの滂沱の涙で、たかが一晩悩んだ程度でヴァルターは感情が制御できなくなっていた。
涙には色々な理由がある。地獄の戦場に聖女を呼び出したこと。聖女という重責を負わせたこと。聖女に辛いことを言わせてしまったこと。自分の態度で聖女を傷つけてしまったこと。そして――これから途方もなく、自分勝手なことを言うこと。
「……聖女様、申し訳ありません。これから、とても酷いことを、言います」
「……うん」
ヴァルターの滲んだ視界の中で、聖女が諦めたように微笑んでいた。反対にヴァルターは全く笑えなかった。自分の考えが最低だと理解していたからだ。それでも隠すべき、恥ずべき考えを、言ってはいけない言葉を、聖女に向かって口にした。
「あなたに、王の隣で、幸せになってほしくない」
思ってもみない言葉だったのだろう、聖女が息を呑んだのがわかった。実際、冷静であったならばヴァルターは絶対に口にしなかったはずだ。聖女にふさわしい人間であるために、ことさら誠実に行動していた。この言葉は誠実さとはあまりにも不釣り合いな言葉だ。
「王から、話を聞きました。自分と婚姻を結ばない場合、王の側室として迎えられると。それを聞いたとき、許せませんでした。たとえ想像の中であっても、誰かの隣に立つあなたを、許せなかった」
「……それ、って」
「他人の隣であっても幸せになってほしいと願ってくださった聖女様とは、まるで正反対の醜い気持ちです」
それが聖女とただの人間であるヴァルターの差なのかもしれないし、単純にヴァルターの心が醜くできていて、どうしようもない人間性を持っているという可能性もある。きっとこれは埋められない差だった。
「この気持ちは、あなたの純粋な好意とは、きっと違います。男女の情とも違うかもしれません。罪悪感も一生、付きまとうでしょう」
ヴァルターに愛だの恋だのという感情はわからない。ただこの気持ちが世の中の想い合う恋人たちから非難され、後ろ指を差される感情であることは、なんとなくわかっていた。
「それでも、あなたを誰にも渡したくない」
言い切った頃にはどうにか涙も止まっていた。すこしだけ晴れやかになった視界で、今度は聖女が涙ぐんでいる。けれど、今度の笑顔は心の底から喜んでいるものだった。
「……はい。それでいいよ。それでいいから、お嫁に貰ってください」
はい、とヴァルターは言葉を返して、椅子から立ち上がり飛びついてきた聖女を抱きしめた。柔らかい身体と優しい香り。あたたかなこの人が自分だけの人になる。そんな汚い考えに自嘲して、けれども決してヴァルターは腕を緩めることはしなかった。