引き際の見極めは難しい
薔薇園の中心にある椅子に座り、話をする。本来ならロマンチックな場面に使われるべきその場所で、聖女はいつもの穏やかな笑みに、少しの陰りを乗せていた。ヴァルターが護衛のために座ることを固辞したため、彼女はヴァルターを見上げ、そしてためらうことなく、本題へと切り込んでいく。
「ヴァルター。私はたしかにあなたが好きだけど、あなたに好きになって欲しいけど、別に思いを返す義務はないんだよ」
言われて、ヴァルターは小さく頷く。義務感や罪悪感で好きだと言われることを望んでいないことはわかっていた。ヴァルター自身も嘘を吐きたくないと思っているし、罪悪感もなくただ好きになれたらどれほどいいだろうと思う。
「ごめんね。私がちょっかいかけるたび、あなたが苦しんでるのはわかってた」
「それはすべて、自分の責任です。聖女様のせいではございません」
「ううん、違うよ。あなたの罪悪感を刺激するようなことを言わなければよかったのに、つい言っちゃったから」
それはあの夢の話を言っているのだろうとヴァルターは思った。すぐに思い当たるということは、実際に罪悪感を抱いている証左でもあるだろうが、それでもヴァルターは首を横に振った。聖女が謝ることではないのだ。聖女は悪いことなど何もしていない。
聖女は少し視線を落とし、黙り込んだ。それからゆるりと視線を上げて、ヴァルターの目を見る。綺麗な目は、やはり悲しそうに見えた。
「私はあなたを幸せにしたい」
まっすぐで、偽りのない言葉に、ありがとうございます、と返すのが精いっぱいだった。
「でもヴァルターが幸せになれるなら、別に幸せにするのは私でなくてもいいとも思ってる」
相手を思いやるというのは、こういうことを言うのだろうか。ヴァルターにはうまく理解できなかった。恋愛などした覚えがなかったとしても、ヴァルターはもし好きな人がいて、その人が幸せになるのなら自分の手で幸せになってほしいと思う。他の男に幸せにしてもらっても、きっと素直に喜ぶことも祝福することもできないだろう。
その狭量さが普通の人間で、その心の広さが聖女たる由縁なのかもしれないと、他人事のようにぼんやりと思った。
「好きになれないなら、それでいいよ。私の思いが重荷ならそれでいい。あなたにお嫁に貰ってほしいと言ったけど、貰ってもらわなくても生きていくことはできるから、それだって考えなくていい」
ヴァルターにとってその言葉は思ってもみなかったことだった。聖女からの気持ちを重荷だなんて思ったことはない。たしかに落ち込んだり、焦ったり、苦しかったり、痛かったりすることはある。どうしたらいいか分からずに返事に窮することも、反応を返すことができないこともある。けれどそんなふうに思ったことは、一度だってなかった。
「聖女様の思いを、重荷に思ったことなどありません!」
「優しいなぁ……ごめんね、迷惑かけて」
「迷惑などとも思ったことは……!」
「あなたは、私を好きになる努力をしなくていいの」
努力、と言われて、ヴァルターは動きを止めた。好きになる努力など微塵もしていなかった。なるべく罪悪感を覚えないように努力する気はあっても、そんなふうに気持ちを捻じ曲げようとしていると思われているとは、考えたこともなかった。
「時間がなくて困ると思うけど、明日、ヴァルターの正直な気持ちを聞かせてほしい」
会話を打ち切るようにそう言われてしまえば、ヴァルターは頷くほかなかった。立ち上がった聖女は、もうヴァルターを見ていなかった。前を向き、ぽつりとつぶやいた。
「付き合わせてごめんね。明日まで、お願い」
その言葉を最後に、聖女は道中何も話さなかった。明日までお願い。諦めたような言葉に、ヴァルターは何故か憤慨するような気にもなるし、落ち込むような気にもなった。どうして聞きもしないうちからそんな言葉を。ああ聖女様にそんな言葉を言わせてしまった。どちらもヴァルターの本心だった。
部屋に戻るなり、聖女はヴァルターに今日はもういいと時間を与えてくれた。考えをまとめるためだろうとはわかっていたが、昼の間はいつも聖女の傍にいることが当たり前になっていたせいで、どうにも手持無沙汰になってしまう。
かといって王城に与えられた部屋に留まるのも落ち着かなかった。何せ壁を挟めばすぐ隣に聖女の部屋がある。気にならないわけがない。
そうやってふらふらと歩いた先にあったのは、先ほどの中庭だった。ふらついていても問題ない場所がとっさに中庭しか思い浮かばなかっただけかもしれないが、聖女の言葉を思い出すと頭が痛んだ。
どういうふうに言葉を尽くしても、自身の気持ちを伝えられない気がした。好きとはいったいなんだ。どういうことだ。どうしてこんなことになっているんだ。
「おお、ヴァルター。なんだか久しいな」
椅子に座り込み頭を抱えていたヴァルターに、威厳ある声が降って来た。慌てて顔を上げ、椅子から降りて跪く。
「へ、陛下におかれましては、」
「口上など構わん。顔を上げよ……なんだ、今にも死にそうな顔をしとるなぁ」
戦場にいたときより酷い顔だ、王が笑えば、周りにいた側近や護衛官たちがヴァルターに心配そうな視線を向けて来た。よっぽど酷い顔をしているのだろうと思い、御前に出たことを謝れば、気にするなと軽い調子で返された。
「聖女からなんぞ言われたか」
「な、何故それを……」
「昨夜少しな。今後について話し合ったのだ」
「夜に、ですか」
ヴァルターはそのことを知らなかった。その日の護衛が終わってから、王が部屋に訪れたということになる。思わず王に厳しい目を向けてしまい、苦笑いを返された。
「いや、お前の言いたいことはわかる。女の部屋に私が訪れるのはまずい。しかも夜となれば勘繰られる。わかっている。だがな、問題はない」
「……ございますでしょう」
王に対してこのような物言いは不敬だと分かっていた。けれど、王の寵愛があると思われては、聖女にとって不名誉な話だ。聖女の名に傷がつくことなど、ヴァルターは許せなかった。しかし王はヴァルターのじっとりした視線など気にすることもなく、再度同じ言葉を口にした。
「問題はな、ないのだ。なくなると言った方がいいか」
「……どういうことでしょうか」
もったいぶった言い回しの中に、何かしらの含みがあった。王はヴァルターにニンマリとした笑みを作って、とんでもないことを口にした。
「お前が貰わないのなら、私が側室に貰うことになった」
「…………は?」
あまりにも不敬なヴァルターの対応に、側近や護衛たちの目線が厳しくなるが、そんなことなどヴァルターは構わなかった。今王は何と言ったのか。衝撃的なことを言われるたびに理解の追い付かなくなるヴァルターではあったが、今度ばかりは理解したくなかった。金槌で殴られたような衝撃で、頭が鈍っていた。
「なんだ。聖女は言わなかったか」
「……聞いておりません」
「来月には聖女が来てもう一年になる。そろそろ身の振り方をはっきりさせんとな」
だから、と王は続けた。
「お前が貰わんのなら私が貰う。聖女はおいそれと外に出せるものでもなし、と本人も納得済みだ。正妃になりたいとでしゃばることもせず、己の立場も弁えている」
「聖女様が、そのような……」
「お前でなければ誰でも一緒ということだろう。それくらい察しろ」
言われて、自分は何もわかっていないことに今更ながら気が付いた。ヴァルターがわかっているのは、聖女が自分を好いてくれていることと、好いてほしいと思っていることと、最早諦めようとしていることだけだ。彼女がどういう気持ちで、どういう立場に立たされているかを考える余裕などなかった。
「罪悪感につけ込んで、王の嫁になりたくないと泣いて縋れば、お前は容易に頷くだろうにな。馬鹿な女だ」
「あの方はそのような方ではございません!!」
「だから馬鹿だと言っているのだ。妻の立場を手に入れてからだろうが、気持ちなどいくらでも手に入れられるというのに……まあ、あれはそういう初心なところが可愛いのだが」
ヴァルターの不敬な態度を戒めることもなく、王はただため息を吐くだけに留めた。護衛たちが顔を顰めていようが、ヴァルターはまるで気にならなかった。今この場で切りかかられたとしても、聖女に対する暴言だけは聞き入れられないのだから。
「言っておくがな、これは私の立場でも同じだ」
「……どういうことでしょうか」
「今はお前に心を傾けていても、結婚し、足繁く通えば、情に厚い聖女は必ず私を受け入れる。特にお前を見習って誠実な対応をすればなおさらな」
王は呼吸を一拍入れて、ゆっくりと目を細めた。
「もし聖女を手に入れたいのであれば、許すのは今だけだ。そうでなければ私が手に入れる。――心せよ、ヴァルター。いつまでもお前の元にあるとは思うな」
言いたいことはすべて言ったのか、その言葉のあとに続けられるものはなく、王は踵を返して護衛たちと立ち去っていった。
ヴァルターは金縛りにでもあったように跪いたまま、動けなくなっていた。
聖女の隣に誰かが並び立つことを、ヴァルターは今まで一度だって想像したことはなかった。いつだって自分が傍にいるから、なんていう陳腐な理由ではなく、単純に帰ると思っていたからだ。そう考える反面で、ヴァルターは帰還後に誰かと添い遂げることも想像したことはなかった。家族と共に過ごして、穏やかに暮らして欲しいと思ってはいたが、それだけだ。異世界のその先なんて、想像しようもなかった。
だが聖女は帰らないと決めたのだ。彼女はここに残る。そして地位や身分だけでなく、本人の偉大さゆえに、王は聖女に相応しい相手だろう。王の傍にいれば、本当に聖女も心を許すかもしれない。そうなれば彼女を幸せにしてくれるはずだ。
王の隣で、聖女は幸せになれる。
それを想像して、ヴァルターは動けなくなった。
ショックだったからではない――認められなかったからだ。想像のなかでさえ、王の隣に立つ彼女を許せなかった。