幾千の死を超えて 3
「どれ、これで・・・どうじゃ?」
波立つ地面は水面にも似て、水面が如く位相を溶かして沈んでいく。
またも滴った汗が地面へと染み込むのと同じ速度で、ダミアンの突き出した両手が魔方陣へと沈んでいく。
それは彼が施した術法が、周辺の世界の法則を書き換えた証左だろうか。
ダミアンはそれでも渋い表情を崩さずに、まだも何かを探すように両手を動かし続けていた。
「ぐぅ・・・硬いのぅ。この年寄りに力仕事をさせるとは、酷な話じゃて・・・」
ダミアンは溶かした地面に両手を浸しては、その中で何かを掴んでそれを捻じ曲げようともがいている。
法則を溶かした先にある何かとは、世界と似た名前のものであろうか。
その何かを捻じ曲げようと力を込めるダミアンはしかし、ビクともしないそれに段々と消耗していく。
物理現象を越えた先にあるものを動かすのに必要なのは筋力ではない、ではその代わりに彼は何を犠牲にそれを為すのか。
少なくとも、彼がそのために命を削っていることだけは確かであった。
「えぇい、これでどうじゃ!!」
消耗も限度を超えれば、抗う力すらも失ってしまう。
その期限がもうすぐそこまで迫っていることを悟ったダミアンは、一声気合を込めると残った力を振り絞って両手に力を込める。
振り絞った全力はぐるりと彼の全身をも回し、彼の両手はそれとは反対方向へと捻じ曲がっていた。
それは、彼の身体が限界を迎えた事を示すものだろうか。
いいや、違う。
ドクンと脈打つように胎動した世界は、放った光が引いたラインを境にはっきりと景色を変えている。
波打った鼓動が世界を書き換えているスピードならば、それは一瞬で終わったことを示し、ダミアンはそれを確認することもなく、確信と共にゆっくりと身体を横たえていた。
「ふぅ・・・何とかなったか。後は任せたぞぃ、雛鳥共よ・・・」
溶けた地面から引き抜かれた彼の両腕がまだ繋がっていたのは、それが通常の空間の出来事ではなかったことを示している。
しかしそんな事とは関係なく、彼の命は今にも消え去ろうとしていた。
遺言めいた言葉を残すダミアンは、一人洞窟の地面へと横たわる。
そこに、ゆっくりと近づいてくる足音があった。
「やれやれ・・・ちと、遅かったのではないか?」
「そうかい?僕は、君が早すぎるのだと思うけど?」
それはダミアンと良く似た、若い一匹の猫であった。
霞んだ目で彼の姿を捉えたダミアンは、そちらへと顔を向けると皮肉げな笑みを浮かべる。
そんなダミアンに対してその猫は二本足で立ち上がると、彼とそっくりな仕草で肩を竦めてみせていた。
「ふむ、違いない。年を取ると、時間の感覚が変わってしまって敵わんな・・・ふぉっふぉっふぉ、げほっ、げほっげほっ!!?」
若い猫の言葉に機嫌良さそうに表情を歪めたダミアンはしかし、呼吸もまともに整わない身体に思わず咳き込んでしまう。
それはその身体が、もはやまとも生きる事も叶わないという事を示しているのだろう。
彼のそんな姿に、その傍らへと佇む若い猫は、どこか無関心にその姿を見下ろしていた。
「もう、時間がないようだね」
「ひゅー・・・ひゅー・・・どうやら、そのようじゃな・・・では、頼んだぞ」
苦しむダミアンの姿を見下ろす、若いの猫の視線は変る事なく冷たい。
それはまるで、感情というものを理解していないような振る舞いであった。
そんな彼の姿にも苛立つ事なく、ダミアンは自らの最後を彼へと託す。
ゆっくりと目蓋を閉じたダミアンは、もはやそれが必要とないばかり乱れた呼吸も置き去りにしてしまっていた。
「言われるまでもなく、そのつもりだよ」
ダミアンの命の灯火は後どれほど残っているだろうか、少なくとも地面へと横たわる彼はもはや呼吸もしていない。
彼の最後の頼みを聞き、最初からそうつもりであったと呟いた若い猫は、彼へと覆い被さるとその口を開く。
それはやがてその体積を無視した大きさにまで広がり、一息でダミアンの身体を飲み込んでいた。
「うぇっぷ・・・やれやれ、何度やってもこれは苦しいな」
ダミアンの身体を飲み込んだ若い猫は、苦しそうにお腹を押さえると、一度大きくげっぷを漏らしている。
彼のお腹は、自らとほとんど同じ体積のものを飲み込んだとは思えないほどになだらかだ。
そのつやつやとした体毛を撫でつけていた彼は、その手触りにある違和感を感じると、そっと自らの身体を眺めていた。
「あぁ、この身体では駄目なのか・・・ではこれで、どうかな?」
その若く健康的な身体に、問題のある部分など皆無だろう。
しかしそれでは駄目だと呟いた彼は、その場で軽く身体を回している。
するとどうだろう、彼の身体は見る見るうちに年老いたそれへと変わっていき、気付けば先ほどまでそこに横たわっていたダミアンそっくりの姿へとなっていた。
「良さそうだね。やれやれ・・・年老いた身体というのは、何かと不便だというのに・・・」
若く、健康的な身体から一気に年老いた身体へと変わったためか、その場で立っている事も辛くなってしまったその猫は、その場に腰を下ろしてはぐちぐちと文句を漏らしている。
その声すらも、今やダミアンのものとそっくりであった。
「これだから、年を取るというのは面倒なものじゃて」
そう呟いた、若い猫であったダミアンは、もはや自分の仕事は終わったとそこに佇み続けている。
彼が再びその場から動き始めるのは、もうしばらく後の事になるだろう。
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