序
灰色のどんよりとした雲が空を覆う、薄暗い夕方時であった。熱帯性の低気圧は関東一辺に広がっており、蒸し暑い地上に今にでも雨を落としそうな様相を見せていた。
陸軍第一部第六課は大本営の庁舎の地下四階に設置されている。
前年の秋から始まったアメリカ戦略空軍による無差別爆撃は、半年が経過した現在ではすでに日常の如く行われており、日本の主要都市のほとんどが壊滅的打撃を受けている。その影響はこの戦争を統率する大本営でも受けており、電力の使用も制限されているのが実状だった。お陰で冷房は使えず、生暖かい空気がどこもかしこも支配している。
扇風機の無味乾燥な音の他に聞こえるものと言えば、課員たちがひたすら走らせるペンの音だけだった。第六課長である吉川正巳大佐は、戦局がもはや絶望であるという書類に目を通しつつ、沈黙だけが支配する空気に絶えられずに煙草に火を付けた。 主に欧米情報を扱う第六課ではあるが、戦線が本土である沖縄にまで迫っている現状を見れば、すでに意味を失っているのは明白であった。それでも六課が存在するのは、もはや人事というものに意味を見出している人間がいないからである。勇敢な軍人はもはや死に絶え、若者たちは体当たりによる自爆戦術によって希少となりつつある中、こんな部署にいるのは戦傷によって使いものにならかい者か、保身に長けている人間だけである。少なくとも吉川はそう思っていた。
煙草の灰を落としつつ、吉川は頬から首筋まで伸びる古傷をなでた。師団付の参謀としてあの悪名名高い『インパール作戦』に従事した際、吉川の師団は全滅した。すでに護衛の兵などなく、燃えさかる司令部を単身脱出した時、茂みで若いイギリス兵を殺した。吉川にはほとんど記憶はないが、敵兵の銃剣が頬を切り裂くと同時に銃把で相手の頭を殴りつけたのは覚えている。褐色の生暖かい血が顔に当たった次の記憶は、野戦病院で治療を受けた時のものだった。
この課にいる人間はだいたいそんな境遇の者たちであった。部隊も失い、幾多の戦友を残して生き残った、抜け殻のような軍人。そんな彼らの祖国も、近いうちに滅びる運命にある。
虚しいものだな……。思い返せばその一言につきる。誇りなどとっくの昔に消え失せた男にとって、現実などただの笑い種にしかならなかった。
「大佐殿」
その声でゆっくりと吉川は顔をあげた。対米諜報専門の二係の長でる綿貫重良大尉が茶封筒を持って立っていた。
「なんだ?」
「『マツ17』からの定期情報です」
『マツ17』とはハワイに飼っている諜報員である。ほとんどの諜報員が逮捕される昨今、『マツ17』が補足されていないのはその見かけであろう。七十過ぎの米原住民の老女がスパイとは、さすがのアメリカ情報部も気がついていない。
「興味のある記事はあるか?いまさら新型空母が入港、なんて聞いても戦局がかわるわけでもあるまい」
「興味深いものです。わが国の今後に関わる情報です」
綿貫は濁して言ったが、つまりは敗北の日付が近づいた、ということか。吉川は毒づきながら茶封筒を受け取り、中を開いた。
写真であった。真珠湾を出港する巡洋艦ーおそらくインディアナポリスであろう。併走する駆逐艦も二隻映っている。
「昨日撮られたものです。ラッパ隊も見送りもなしでの出港ということです」
「内密での行動ということか?」
「はい。どの通信隊もインディアナポリスの出港を確認していません」
「味方にも知らせず、か。実に興味深い」
「興味深いのはこの艦の積み荷です」
「……何を運んでいる?」
「おそらく、『癇癪玉』ではないかと」
綿貫の言葉に、吉川は背筋に寒気が走るのを感じた。―癇癪玉。半年前、ニューメキシコでアメリカ軍による実験が行われた、新型爆弾のあだ名。核分裂を利用した新兵器であり、調査の結果では都市一つを吹き飛ばすことが可能、ということだった。
その癇癪玉が本土からハワイ、そして何処かへ輸送される。実戦で使用するために……。
「確かなのか?」
「七割は固いです。この警戒は、それ以外には考えられません」
アメリカは恐らく、日本の降伏を認めないつもりであろう。リメンバー・パールハーバーから始まった不意打ちに対する仕返しの総決算。つまり日本人を一人として生かさないつもりだろう。
煙草を灰皿でもみ消しながら吉川は叫んだ。
「対策を立てる!参謀総長に知らせろ!」
額から古傷に流れる汗は興奮のためか、それとも冷や汗か。吉川には判断できなかった。




