物語前のディアドコイ戦争を解説してみた。
ディアドコイ戦争は面白いのに、余り知られてない気がするので解説してみました。間違いがありましたらご指摘ください。
まず、興味を持ってもらうために有名な話を幾つか伝えよう。一つ目はディアドコイ戦争の最終的勝者はローマ帝国であるという事実である。アンティゴノス朝、セレウコス朝、プトレマイオス朝、エピロス王国などのディアドコイ国家は全てローマ帝国に滅ぼされ吸収されているからだ。因みに、アレクサンドロス三世と同じく世界史の大英雄であるユリウス・カエサルの時代にプトレマイオス朝エジプトが存在しており、このプトレマイオス朝エジプトの最後の女王が有名なクレオパトラである。
二つ目に有名なのがアレクサンドリア図書館、ロードス島の巨人像、ファロスの灯台などのシヴィライゼーションシリーズでお馴染みの世界七不思議建造物もディアドコイ達の遺産である。
三つ目に第二次ポエニ戦争でローマを苦しめた大英雄ハンニバルの師匠が本作の主人公ピュロスである。ピュロスはアレクサンドロス三世の戦術を継承し、今は失われてしまったが…ハンニバル時代には現存していたピュロス作の著作物は極めて実戦的な戦術が書かれていたと言われている。これでハンニバルは勉強したのである。後にカエサル、そしてナポレオンが手本としたハンニバル大先生はピュロスが育てたと言っても間違いないのである。(因みにローマのキケロ大先生などの有名な法学者や文学者がピュロスの著作物を褒めているので相当、政治的文学的にも優れていたようである。)
これらで少しは興味を抱いてくれる幸いである。
では、ここからはディアドコイ戦争を語る上で知っておかなければいけない重要人物を紹介しよう。
アレクサンドロス三世
言わずとも知れた世界史の超有名人、アレクサンダー大王、イスカンダルなど正式名称以外にも超有名な呼び名が多数ある。父方の祖先はギリシアの大英雄ヘラクレス、母方もギリシアの大英雄アキレウスというギリシアで最も有名かつ偉大な血筋の生まれである。本人は特にアキレウスに心酔していたらしくアキレウスに関する逸話を幾つも残している。彼が成し遂げた偉大なる功績は世界史上に燦燦と輝く一番星の一つに数えられるアケメネス朝ペルシア帝国という大帝国を滅ぼしたことである。
アケメネス朝ペルシア帝国と戦争中は、ことごとくペルシアの都市を略奪し、破壊して回ったアレクサンドロス三世であったが…途中から考えを改めたのか逆に積極的にペルシア帝国の文化や伝統を重んじるようになった。
理由は様々だが最も有力な説としては神をも凌ぐと言われるほど強大だったペルシア皇帝の権力を目の当たりにしてギリシアの政治制度よりもペルシアの政治制度の方が自らの権力を強めるのに役に立つと考えたからだと思われる。そう考えたからこそ首都をバビロン(現バグダット近郊)に移し、ペルシア皇帝の娘と結婚し、家臣やマケドニアの貴族たちにペルシアの貴族の娘と結婚するように強要したりした。遂には自らの衣装や立ち振る舞いをペルシア風にし、自らを神だと主張し始めたほどであった。
こうしたペルシアとの融和政策はギリシア文化を愛し、ペルシアに圧勝したことで奢れるギリシア人達には理解されず、次第に大王と部下との溝は深まる。大王生前に既に公然と大王を批判する家臣まで現れたほどだった。そうした中で大王は32歳という若さで突然死んだために今だに暗殺説が根強い
彼の偉大さを示すエピソードとしてエジプトのアレクサンドリアに彼の墓があり彼の墓をローマ帝国は破壊せずに帝国が崩壊するまで保存していたほどである。
※現在最新の研究ではベネツィアのサン・マルコ寺院に収められている
聖者マルコは実はアレクサンドロス三世ではないかと噂されている。ベネツィアの使っている国旗やマルコを象徴する紋章が何れもアレクサンドロス三世の象徴であり、聖マルコの殉教地と彼の墓の出現時期がアレクサンドロス三世の墓の消滅と重なり、しかも同じ場所であると言われているためである。
これは一説には偉大なるアレクサンドロス三世の遺体がキリスト教徒に荒らされるのを恐れて彼をキリスト教の聖者だと偽ったためだと言われている。
ペルディカス
有名な戦いで重装歩兵隊を率いた将軍、千人隊長の地位について大王に次ぐナンバー2になる。大王が死ぬ際には指輪をペルディカスに渡したために彼が事実上の帝国の責任者となる。主君の子供を王として自らが摂政に就任する。
アンティゴノス
隻眼という異名をもつ、アレクサンドロス三世の父フィリッポス二世と同年齢で王と共にマケドニアの快進撃を経験する。アケメネス朝ペルシア帝国との戦い時はギリシア同盟軍の司令官として活躍する。現在のトルコの要衝フリュギアの総督に任命される。小アジアと言われる重要地域の統治に大きく貢献し、ペルシア軍残党を倒したりしていた。
アンティパトロス
王国の重臣、大王が本国マケドニア不在時の代理支配者としてマケドニア及びギリシアの統治を担った。戦争中に増援部隊を送る。スパルタが反乱した時にはスパルタ軍を破ったりしている。大王の母親であるオリュンピアスと仲が悪く、大王はアンティパトロスを解任しようとバビロンに呼び出すが直後大王が死去したために現在も大王暗殺の首謀者として名高い
カッサンドロス
アンティパトロスの息子、大王暗殺をした張本人と呼ばれることがある。父親とは仲が悪い
セレウコス
大王より少し年長、中央アジア方面の戦闘で頭角を現す、大王に強要されてペルシア貴族と結婚する。異例にも生涯連れ添った。ペルディカスの直属の部下として国王を守る立場になる。
プトレマイオス
大王の側近、父はマケドニア王国の大貴族で重臣だった。主にエジプト攻略を担当しエジプト総督に任命される。
エウメネス
マケドニア人ではないし、貴族でも無い人、文章力に優れ教養が高かった。そのことが見込まれたのか大王の側近となる。石田三成みたいな人と言えば大体伝わると思われる。アンティゴノスとは親友である。
これで、とりあえず物語が始まる前のディアドコイ戦争の主役達が出揃ったと思われる。
ディアドコイ戦争のディアドコイとは『大王の後継者』という意味である。このディアドコイ戦争の発端は大王の死だが…その前に予兆が起きていた。上記のアレクサンドロス三世(大王)の項目で大王が融和政策をしていたと書いたように融和政策に対するディアドコイ達の姿勢は異なっていたのである。この融和政策の背景には大王自ら獲得した広大な領土の直接支配を大王が目指し、そのためにアケメネス朝ペルシア帝国の伝統と文化を利用しようとしたために融和政策を実施したのである。つまり中央集権化のために融和政策を行っていたのである。
この中央集権化の過程で幾つかの粛清劇が起きている。パルメニオンというアンティパトロスと同じマケドニアの重臣がいた。パルメニオンはアレクサンドロス三世のマケドニア国内における敵の排除に活躍し、アケメネス朝ペルシア帝国との戦い時には遠征軍のナンバー2として指揮にあたった。有名な戦いでは全てにおいて左翼部隊の指揮を任されていたほどであったが…遠征が勝利に向かう中でパルメニオンの力の増大を恐れたアレクサンドロス三世の命令で息子が謀反の疑いで処刑された後に暗殺されている。このパルメニオンの暗殺も大王の死に深く関わっていたとみられる。というのもパルメニオンの次に一族で勢力を誇っていたのがアンティパトロスの一族だったからである。
こうした粛清劇と大王の融和政策への反発が帝国内の貴族の間に不穏な空気を作り出していた。このした不穏な空気の中での大王の死は家臣達の争いを強めるだけだったのである。
大王の死後、権力を最初に握ったのは帝国摂政のペルディカスだった。ペルディカスの真意は不明だが…彼が権力を握ると同時にアンティゴノスがペルディカスの野心を主張し始めた。つまり「ペルディカスは自らが王になろうとしている!」という主張である。この主張に乗る形でアンティパトロスとプトレマイオスがアンティゴノスと共に決起し反ペルディカス同盟を結成した。
この時点でペルディカスの力は圧倒的で支配領域は現在の国名で言うとシリア、イラン(ペルシア)、イラク、ヨルダン、レバノン、イスラエル、パレスチナ、トルコの大部分だったと見られる。特にシリアは当時世界で最も繁栄する地域であった。イラクもバビロンなど有力な都市があった。レバノンには現在のニューヨークにあたる都市があったりした。まさに最強だったのである。
そんな最強のペルディカスだったが…大きなミスをしてしまう。その最初がアレクサンドロス三世の遺体を奪われたことであった。奪ったのはプトレマイオスである。プトレマイオスは遺体を奪うと首都のアレクサンドリアで大規模な大王の葬儀を行った。実は大王の葬儀はマケドニアで行う予定にしていたらしく、今だにしていなかったのである。この隙をついてプトレマイオスは葬儀を行うことで自らを大王の後継者、つまりディアドコイだと宣言したのである。
そのことにより、実はペルシアの支配から解放したということで大王に与えられていたファラオの称号がエジプトの神官たちによりプトレマイオスに与えられたのである。これによりプトレマイオスがエジプトの正当支配者となったことが確定してしまう。
これにブチ切れたペルディカスはプトレマイオス討伐を開始する。しかし、エジプトの川であり、エジプト文明発祥の川であるナイル川が氾濫してペルディカス軍の行く手を阻んでしまう。これを天からペルディカスが見捨てられた証だと考え、ペルディカスに付き従っていた諸将達はペルディカスを見限った。その結果、ペルディカスは暗殺されてしまう。
この暗殺により、ペルディカスの地位を再び誰が就くかで帝国内で話し合いが行われた。話し合いの結果、アンティゴノスがペルディカスの代理という形になってしまうのである。これに反発したのがエウメネスである。
エウメネスは元々アンティゴノスの親友であったが…小アジアのカッパドキアの制圧のために親友のアンティゴノスに支援を要請したにも関わらず、アンティゴノスはエウメネスが力を付けることを警戒して支援を拒否してしまう。そのせいで途方に暮れたエウメネスを助けたのがペルディカスであった。このことを恩に感じていたエウメネスはアンティゴノスに戦いを挑むのである。
しかし、既にディアドコイ達は帝国の分割を進め、帝国の私物化を進めていた。その流れの中でエウメネスは邪魔になっており、他の多くのディアドコイはエウメネスを支援するのに消極的であった。さらに言えばエウメネスがマケドニア人では無かったことも災いした。それでもエウメネスは各地の反アンティゴノス派と手を組んでアンティゴノスに対して戦いを挑み、互角以上に渡り合うのである。
当初、文官で戦は得意ではなく、マケドニア人でも無いエウメネスがアンティゴノスに渡り合ったのは驚異的なことであった。このことに最も驚いたのはアンティゴノス本人だったかも知れない。そのためアンティゴノスは謀略を駆使した。つまりエウメネス配下の武将達を寝返らせたのである。この寝返りでエウメネスは妻子を人質に捕られてしまい降伏を余儀なくされる。結果、アンティゴノスはエウメネスを捕え、自らの家臣にしようとするが…元々アンティゴノスの親友であり実力もあるエウメネスが出世することを恐れたアンティゴノスの部下達によりエウメネスは密かに殺されてしまう。
エウメネスを下し、カッパドキアなどを支配したことによりアンティゴノスがディアドコイ最有力者となる。強大な力を手に入れたアンティゴノスであったが…この頃、バビロンの太守に就任し、頭角を現してきていたセレウコスの力を警戒したのかセレウコスと関係を悪化させる。
このアンティゴノスの動きを察したセレウコスは先手とばかりにプトレマイオスと同盟を結んで反アンティゴノス同盟を結ぶ、これに激怒したアンティゴノスはバビロンを攻撃して陥落させるもペルシア貴族の娘と離縁しなかったセレウコスを支持していたペルシア人達からセレウコスは絶大な人気を得ていたためにバビロン陥落後もセレウコスはペルシアにおいて戦いを継続した。
アンティゴノスがプトレマイオス、セレウコス同盟と戦っている間、マケドニアではアンティパトロスが死去する。アンティパトロスは死去後の後継者に息子のカッサンドロスを指名しなかった。このことに激怒したカッサンドロスはアンティゴノスの支持を背景にマケドニア国内の敵対勢力を駆逐して自力でマケドニアを支配する。
このカッサンドロスの動きを恐れたアレクサンドロス三世の母親オリュンピアスは大王の息子であるアレクサンドロス四世と王妃ロクサネを守るために自分の実家であるエピロス王国に助けを求める。この助けに応じたのが物語の主人公ピュロスの父アエアキデスである。アエアキデスはすぐさまマケドニアに遠征を開始するが…遠征中にエピロスの民衆に反乱を起こされたのが原因となり、カッサンドロスとの戦いに敗れてしまう。この敗北により、大王の母親、正統後継者のアレクサンドロス四世と王妃ロクサネの三人は仲良く処刑されてしまうのである。その後、カッサンドロスは大王の血を引くものを見つけ出して殺し、自分だけは大王の血筋の娘と結婚することで唯一の大王の血筋となりマケドニアの王を自称した。
このカッサンドロスの暴挙に各地のディアドコイは反発し、各地のディアドコイも便乗する形で自らを王だと自称し始めたのである。ここにディアドコイ戦争の第一幕の終焉と第二幕の始まりを宣言するのである。
以上を物語の導入とします。
戦国時代など他の争いとも共通点が沢山ありますね。
感想等お待ちしております。