表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

車軸

作者: 雨森 夜宵

 段差も何もないところで転ぶ、そういう時がある。転んだだけで何かが砕けてしまって、身を起こすことすらままならなくなる、そういう時がある。きっとその時、僕らの心は静寂に犯されているだろう。僕らの中に潜んでいた真っ暗な何かが、奥深くの巣穴から顔を出すのだ。それは唐突に意識の中で目を開き、それからゆっくりと、僕を飲み込んでいく。少しずつ、少しずつ。そして霞がかった理性の片隅で僕は、それが何者であるかを悟る――――。


 ――――降り出した夏の雨は、そう簡単に止まない。


   *  *  *


 もう、起き上がるだけの気力は残っていなかった。

 雨の中、不思議と冷えていく体の中で、思い切り打ち付けた膝と肘だけが熱を持って疼いている。それはまるで下に敷いた歩道、その舗装の硬さを思い知らせるかのようだった。俯せの左頬に、決して細かくはない小石が食い込む。けれど、別段それを痛いとも思わなかった。僕の中でそれは、本当に取るに足らない些細なことだったのだろう。僕はぼんやりと遠くを眺めた。降り止まない雨の向こうにその景色は霞んで、どこか幻想的な雰囲気さえ漂う。ただ、そこに行くためには立ち上がらなければならないことも、ぼんやりと分かっていた。あくまで、ぼんやりと。


 これじゃ、たどり着けない。


 僕は直感的にそう悟っていた。僕には起き上がる気力すら、体温とともに抜け落ちて残っていないのだから。枯れ果てた心の奥の奥が、どこまでも続く空洞になっているような、そんな光景を想像した。まるでうさぎの穴だ。これを落ちるところまで落ちきれば、きっと何処か遠くの、素敵な不思議の国に行けるに違いない。そんな戯言も、脳裏にこぼれ落ちる。

 じわりと染みてくる雨水が、少し不気味なくらい生温かった。降り注ぐ雨は一向に止もうとしない。その真っ只中に降り込められながら、僕は唐突に、自分の鞄の中に大切な書類が入っていることを思い出していた。

 もちろん、濡れたら面倒だ。頭では分かっている。けれど、体はなかなか動いてくれようとしなかった。大気全体が僕を押さえつけにかかっているような、そんな気さえしてくる。伸し掛る湿気。篭もりきった空気。心なしか、息が苦しい。そこから逃れようとほんの僅か身じろぐと、縮めた右手、その指先に、何かが引っ掛かった。ゆっくりと首を伸ばせば、濡れた視界の片隅に、僕の使い慣れた古い鞄が見える。防水加工のしてあるそれは、一応役目を果たしているらしい。幸か不幸か、ずっしりと詰め込まれた中身を吐き出せないまま、中途半端な顔で口を噤んでいる。その萎れきった姿は今の僕と重なって、なんだか、どうでもよくなってしまった。


 心の中の暗雲が、どこかへ消えてなくなった。

 ――――その代わりにほんの少し、泣きたくなった。

 

 俯せは少しばかり苦しくて、僕はごろんと、左側に体重を預けて空を仰いだ。湿りきった大気を、静かに肺へと送り込む。僅かに開いていた口、そこへ雨粒が転げ落ちて、それから何をするわけでもなく僕の中へと消えていった。僕は小さく嘆息した。その小さな一粒に言いようのない憐れみを覚えて、僅かに震える。それは水滴の行く先を憂うというよりも、むしろ、虚無感。それが強い強い振動で僕の心を揺さぶるような、そういう震えであるように思えた。今の僕には、きっと何かが足りないのだ。

 僕はそっと目を閉じた。ただ何をするともなしに、びしょびしょに濡れた石畳に転がる。頭上に広がっているのは、隙間なく広がった灰色の空だ。目を閉じても描けるほどに何の変哲もない、とにかく一面に輪郭のぼやけた暗雲。そして、降り注ぐ雨。それしか、無い。暗いわけでもなく、色のないわけでもなく、ただひたすらに灰色の、寂しい景色。

 それが、そこにある全てだった。


   *  *  *


 粘るような時間の流れ。まるで大気自体に雨雲が飽和しているような、そんな雰囲気を纏った日だ。

 もうかなり長いこと、こうしてひっくり返っているような気がしてきていた。びっしょりと濡れて重みを増した髪が、頬に張り付いて動こうとしない。その輪郭は雨でぼかされて、なんだかはっきりとはしなかった。

 散り散りになった世界の欠片が、どんよりとした重さを伴ってそこに満ちている。そんな感じがした。重力が僕に向かってくる、なんていう想像が浮かぶ。それはどうも的を射ているように思えて、僕は僅かに顔を歪めた。どこか楽しむような気分にさえなった。最早ここが雨天の歩道だなんていうことは、どうでもよくなっていたのだ。染み入る雨に溺れる。目を閉じ、僕自身を閉じ、自分と世界の境界線をぼんやりと感じる。

 雨音が、奇妙なほど静かに僕を包む。包んで、そして、滑るように遠ざかる。酔いの回るように、強いながらも心地いい倦怠感が、次第に全身に満ちていった。

 本当に、どうだっていい。まるで言い聞かせでもするように、そんな言葉を呟く。


 ――――ぱしゃ、「からん」――――。


 雨の向こうに別の音が聞こえて、僕は咄嗟に目を開いた。途端に雨粒が目を射る。反射的にもう一度閉じた瞼の裏にもう一度、その音が描き出された。


 ――――ぱしゃ、「ころん」――――。


 水たまりと、そしてそれを踏み分ける、下駄の音。


 それは僕の考えうる限り、確かに下駄の音だった。あくまでも落ち着き払った速度で、音はちょうど僕の頭上から、徐々に進んでくるように聞こえた。

 からん。ころん。喚く水たまりの声に紛れるように、下駄が歌う。それはとても美しくて、僕はいつの間にかそれに聞き入ってしまっていた。凛と澄んだ、美しい歌。それは僕の中に静かに満ちて、ほんの少しだけ、気怠さを紛らわせる――――。

 直後、視界が急に暗くなって、それが誰かの傘の下に入ったからだと気付くのに数瞬を要した。


「よう、小僧。生きてるか」


 少し嗄れた、しかし張りのある声が、雨音の下から聞こえた。

 視界に飛び込んできたその立ち姿は、傘の主が今時珍しい着流し姿であることを物語る。その人はどこか面白がるように僕の顔を覗き込み、僅かに首をかしげて佇んでいた。


「大丈夫か。どっか打ったのか」


 僕は微かに首を横に振る。


「――――へっ、そうかよ」


 それを見た傘の主は、ほんの少し笑ったようだった。どこか不自然な感じのする笑い方。それでもどこも作った様子のない態度に、今更ながら違和感を覚える。

 その人は小さく肩をすくめて、それから、徐に右手を差し出した。逆さまに差し出されたその手の意味を、ぼんやりしていた僕の頭は捉え損ねる。数瞬、場を満たす雨音。それを感じ取ってか、傘の主はさも心外といった様子で、首を逆向きに傾げ直した。


「なんだ、変な顔しやがって。俺はな、てめぇに暇潰しをやろうってんだよ。……そんなところにすっ転がってるよりは、まだマシだろ」


 随分と横柄な言い方だった。なんなんだこの人はと、一瞬反抗心のようなものが浮かぶ。けれど、僕は傘の主に興味と、そして好意とを持ちつつあった。彼の傘がかかる場所が、雨を受けずに済んでいたからかもしれない。彼の言う暇つぶしの内容は分からなかったが、それでも僕は、無意識に彼に付いていくことを決めてしまっていた。このまま帰ったところで、誰か待つ人がいるわけでもない。

 風に揺れる墨色の裾が、僕を誘い込む。

 ほんの少しの後に、僕は傘の主の手を取った。長い年月を感じさせるような、使い込まれた手だった。


「――――そうこなけりゃなあ」


 彼はにやりと笑った。それの終わらないうちに、強い力で僕は引き上げられた。驚くほど簡単に体が持ち上がる。萎れた僕のうちに何かが流れ込むのを、僕ははっきりと感じた。びしょ濡れの体の隅々にまで満ちていくそれは、彼の下駄の声にも似た、凛と澄んだ力で。

 今なら何処かへ行ける、そんな気がした。

 立ち上がった僕の両足が、ぐっと地を踏みしめる。それは先程までと全く異なる、しっかりとした硬さだった。


   *  *  *


 彼は目的地へ向かう間、全くもって僕を傘に入れようとはしなかった。とはいえ、ただ一度だけ、僕をあそこから引き上げてすぐに、傘の有無だけは訊かれた。けれど、僕が持っていないと答えると、そうか、とだけ返して、それ以上は傘にも雨にも触れようとはしなかった。僕は傘を持っていないし、雨はその強さを変えない。そうして僕の体を打ちすえる雨は、ただ静かに、僕の輪郭を浮かび上がらせた。

 下駄は歌うが、語らない。そこにあるのは沈黙だった。

 それに耐え切れずに、何処へ行くのかと、僕は彼に尋ねた。思ったよりも数段ほど、掠れた声が出た。


「あぁ。俺の家よ」


 こちらを見ることすらせずに、彼は傘の下で口角を吊り上げる。それは親しげに笑うというよりも、まるでその手の内に賽を転がすような、そんな楽しげな表情だった。日に焼けた肌と灰色の髪、墨色の襦袢。ほとんど同じ高さにある横顔はどこか刃物のように鋭く、切れ長の双眸は刺すような眼差しで僕を見る。

 一瞬強烈な既視感を覚えて、僕はとっさに小さく頭を振った。


「ちょうど若けぇ奴の手が欲しかったのさ」


 へっ、と彼は笑みを歪める。結局それ以上言葉が付け足されることはなく、僕はもう一度雨音の中に放り出された。盗み見た横顔は固く閉ざされていて、これ以上詳細なことは語りたくないのだろう、と思えた。何にせよ、いずれ分かることではある。僕は訊くことを避けた。言葉のない空間に雨粒が落ち、その隙間を埋めるように、からん、ころん、と下駄が歌う。それは彼が喋らなくとも、その存在を僕に感じさせた。

そして不思議なことに僕は、彼の存在に微かな安堵さえ覚えていたのだった。


 暫くしてから彼は、唐突に僕の名を訊いた。僕がそれに答えると、何を思ったのか、彼は一瞬遠い目をした。


「――――ほう。立希、な」


 たつき、と彼は響きを味わうかのように繰り返して、そして、一瞬僕に目線を投げた。けれど、どうやらその目に僕は映っていないようだった。だったら今、彼は何を見ているのだろう。そんなことを考えてはみるものの、やはり僕には霞みきった景色しか見えない。きっと、今の僕では見ることのできない何かなのだろう。明確な答えを得られないまま、僕はただ足を動かしていた。とにかく彼についていくことに意味があると、無意識のうちに言い聞かせる。そしてそんな自分が、段々不思議になってくる。

 よくよく思えば初対面の相手だ。それも雨の中転がっていた見ず知らずの自分を、家に招こうとしている。

 僕はこんなにも、彼の存在に期待を寄せている……?


「ほらよ」


 彼の言葉は唐突だった。

 慌てて飛ばした視線の先で、立ち止まった彼はくいっと顎をしゃくる。その先をたどれば、いかにもきいっと鳴りそうな金属製の門。その奥ではこれまた軋みそうな木製の引き戸が、曇りガラスの目をこちらに向けて佇んでいた。少しばかり古風な、それでいて整った構え。覆い被さるように迫る瓦屋根が、その重みを空間越しに伝えてくる。その縁から滴る雨は大きく、一際目立つ音で存在を誇示した。放っておいたら蔦でも生えそうな、そんな趣。

 古びたその家から仄かに甘い香りがした気がして、僕はそっと目を閉じた。鼻腔を抜けていくそれは静かに、澱んだ肺の中身を入れ替えていく。

 なんだか、とても懐かしかった。


「広くはねぇが……まぁ、狭くもねぇはずだ」


 ため息でもつくように彼は言う。僕が目を戻すと、彼はひとつ頭を振って、懐から小さな鍵を取り出した。かちゃりと、控えめな音。続いて彼が手をかけて、門を開ける。予想通りというか、やはりそれは全力で鳴った。ただ、不快ではない。それはどこか笛の音にも似て、実に心地よく鼓膜を揺さぶった。

 その先に並ぶ飛び石を辿って、引き戸の前まで進む。そこは屋根が大きく張り出していて、僕は思わずほっとため息を漏らしていた。


「そこで待ってな」


 彼は傘を畳むと、その言葉だけで僕を制した。ふと目に止まったそれも、古風な和傘だ。どこまでも筋の通った彼の佇まいは、これがきっと粋というものなのだろう、と思われた。

 彼は同じように鍵を開ける。引き戸もまた、違う音質で大きく軋んだ。通ってすぐに扉が閉められ、それに続いて下駄の音が止む。張り出した屋根を支える柱、その一柱に背中を寄せて、僕は無意識のうちに雨と向き合っていた。服を絞る。髪の先から雫が落ちる。先程まで雨に紛れていたはずのそれははっきりと、僕の身体を伝って流れ落ちていった。


 雨から、救い出された。


 その奇妙な実感を、僕は静かに噛み締めた。嬉しいような残念なような、中途半端な感覚がその中に存在していた。僕はその意味を想う。けれどやっぱりその答えは、雨の向こうに霞んでいた。曇り空は相変わらず重い。覆い被さるような雨雲はその身を削って、小さな雫を重ねていく。そうやって少しずつ、自らにかかる重力を解き放っていくのだ。

 雨が落ちていくのは寂しいだろう、と僕は思った。そして雨を落としきった雲はきっと、心の底に穴でも空いたような、そんな気分になるのだろう……。

 ――――瞬間、扉が思いっきり軋んで、僕は冗談なしに飛び上がってしまった。


「おう、悪い」


 またも口元を歪めて彼は言う。どこまでも楽しげなその表情が、ほんの少し不気味でさえあった。本当にこの人は何者なのだろうと、もう何度目かの質問が脳裏を掠めて行き過ぎる。


「まぁ入れや」


 それをどこかへ押しやって、彼に促されるまま、僕はその敷居を跨いだ。玄関の真正面に対の引き戸が開け放たれ、その向こうに大きめの部屋が広がっている。やや薄暗いその空間が居間であることを認識するのに、少し時間を要した。篭った空気は僅かに暖かくて、僕は少しばかり安堵する。

 全体にこぢんまりとした佇まいだった。板張りの部屋の中央には飴のように光沢を帯びたちゃぶ台が置かれ、その直上にはほんのりと橙を帯びた蛍光灯が灯されている。左奥にテレビ、右の隅には綺麗に重ねられた緑色の座布団。整った部屋だ。ただ何故か、そこはあまりにも何もないように、僕には感じられた。本当に微かな、しかし確かに漂う、空白の匂い。それはびしょ濡れの僕からも、微かに漂うように思えた。

 またほんの少し、寂しくなった。


「ほらよ」


 彼はそう声をかけるなり、手に持っていたバスタオルを投げてよこした。少しばかり色の抜けた、深緑。ぼふんと胸に飛び込んだそれは、柔らかい感触で腕の中に収まった。


「そのまま上げるわけにはいかねぇからな……荷物は無事か」


 そういえば、と僕は慌てて鞄を開けてみたが、幸いなことに中身は全くの無事だった。書類や、果ては財布の中身も確認してみたが、どれもがしゃっきりした状態でそこにある。小さく頷くと、彼は少しばかり表情を緩めたようだった。


「何よりだな。ま、取り敢えず土間に置いとけ」


 僕は言われるままに荷物を置いて、髪を軽く拭い、そして上から順にタオルで触れていった。厚手のタオルは瞬く間に重みを増していく。そのまま靴を脱ごうと足を引いたら靴下まですっぽ抜けて、落ちたそれはぐしゃりと嫌な音を立てた。取り敢えずそれは置いたまま、足の裏まで念入りに拭き取って、そっと板の間へ上がった。そしてうっかり飛ばしてしまった靴下を拾い上げて、タオルの中へそっと包み込む。板の間は少しひんやりとして、僕自身の熱を意識させるような感じがした。

 それを確認した後で、こっちだ、と彼は歩き出す。下手な動きをするとどこからか水分が絞り出されてしまいそうな気がして、恐る恐る彼の後についていく。


「……てめぇ、着物は着れるか」


 歩きながら、肩ごしに彼は訊いた。僕ははっきりと首肯する。

 母方の祖父は和装を好み、日々を和装で暮らしている人だった。その影響もあって幼い頃から着物を着せられ、見よう見まねで祖父の手つきを覚えた。小学校に通いだしてからは洋服が基本になり、着る機会はほとんど無くなってしまったが、それでも休日になると祖父のもとへ行って和装をせがんだりもした。無論その感覚は、祖父が他界した今でもこの手に残っている。


「そいつぁいい。……うちには洋服はねえんだ」


 彼の声に、どこか苦笑じみたものが浮かんだ。勿論僕がそう感じただけなのかもしれないけれど、その声音に引っかかったせいで、言葉の意味を飲み込むのが遅くなってしまう。驚こうと開けた口は喋るタイミングを見失って、やむなくもう一度閉じられることになった。この時代に洋服がないなんて、珍しいにも程がある。僕はますます首をかしげることになった。

 そんな間にも彼は滑るように進んで、玄関を入って右の突き当たり、その正面にある引き戸を開ける。そこが風呂であろうことは、流石に流れで分かった。そして予想通りに、目の前に現れた洗面台が正解を物語る。


「乾燥機はねぇが、ドライヤーならある。下着だけどうにかしな。でもってあったまってこい。服は洗濯機に入れとけ、代わりにうちの着物を貸してやる」


 僕がお礼を言うと、彼はまた顔を歪めるように鼻で笑って、そのまま居間へと引き返していった。タオルは左の棚だ、と付け足す声が、空間の向こう側から聞こえてくる。それにもお礼を言って、僕は洗面所に入った。

 正面に洗面台と、その左に備え付けらしい棚。洗面台の上には、どこか古ぼけた質素なドライヤーが置かれていた。取り敢えずタオルをもう一枚借りようと、言われた通りに棚を開ける。そこには今僕の抱えているタオルと同じ素材のものが、きっちりと畳まれて積まれていた。無地ながら、青、緑、紫、茶、と色とりどりのそれらが目に眩しい。けれど、一番僕の目を惹きつけたのは、その一番下に潜むようにして積まれているタオルだった。それは少しばかり薄手なのか、他のタオルに比べて明らかに小さかった。上に乗っているタオルの山を、そっと持ち上げる。


 ――――その下にあったのは、白の地に、男の子が喜びそうな戦隊もののキャラクターが描かれたタオルだった。


 僕は僅かに首を傾げた。どう見ても彼の使いそうなものではないだろう。比較的最近アニメで放映していたはずのそのキャラクターに、孫、という存在が僕の中に浮かび上がる。

 そうか、と服を脱ぎながら僕は納得していた。脱いだそれをつまみあげて、洗濯機へ放り込む。いきなり見ず知らずの人間に、それも雨天、地面に転がってる奴に話しかけるなら、もう少し距離を取って当たり前だ。もしその距離が何かしらの理由で縮められるとするなら、恐らくそれは、誰か身近な人を投影している時になる。少なくとも僕ならそうだ。


 そして孫という存在は、きっと僕の存在に近い。


 ただ、そのキャラクターの中途半端な新しさだけが、微妙に僕の中で引っかかっていた。どこか、ぷつりと断ち切られたかのような違和感。さっき感じた空虚感がこのタオルと結びつく前に、僕は急いで風呂場へ動いた。蛇口を捻る。

 最初冷たかった水滴は見る見るうちに温かくなって、僕の全身を撫ぜた。じりじりとつま先が炙られるような感覚。温かい、と僕は零す様に呟いていた。その言葉にも温もりが宿っているように思えて、僕はゆっくりと息を吐く。

 浴室はあっという間に湯気に満たされ、空間全体が熱を帯び。ゆっくりと巡るそれを目一杯感じながら、僕はほんの少し耳を澄ました。シャワーの音に混じって、微かに雨の音が響く。けれどそれはあまりにも遠くて、ほとんど気になりはしなかった。


   *  *  *


 どの位経ったか、全身に体温が戻ったところで僕が浴室を出ると、彼の宣言通り、着物一式が先程の引き戸のフックに下げられていた。長衣は濃い緑に細い白の縦縞、帯は青みを帯びた紺、とでも言うべきか。その下には黒足袋が、これも綺麗に揃った状態で置かれていた。揃えられたそれらはどこまでも整っていて、彼が丁寧に手入れをする様子が目に浮かぶようだ。出しておいたタオルに手を伸ばす。そしてそれを取ろうとしたところで初めて、そういえば服はびしょびしょなんだった、と思い出した。

 洗濯機の中から下着をつまみ上げ、空いている左手にドライヤーを取る。なめらかな触り心地のするそれは、しっかりとした重みを持って僕の手の中に納まっていた。スイッチを入れると、僅かに焦げるような臭いがしてきて、なにか小さな不安が脳裏をかすめる。とはいえ、もともと乾きやすい生地だったこともあって、本当に瞬く間に下着は乾いていった。

 そして適度に温まったそれを着て、僕は着物に向き合う。祖父が後ろで見ているような気がした。長襦袢をハンガーから外して、久しぶりの感触に僅か微笑みながら、ゆっくりとそれを纏う。


 祖父は怒らない人だったが、代わりに笑うこともあまりなかった、と思う。僕が自分で着物を着ると言い出すと、祖父はいつもうん、とだけ言う。それから僕の隣を離れて、背後に立って静かに見ていた。途中で着方を間違えれば、何も言わずにただ黙々とそれを正すような、そして終わればもう一度背後に戻ってしまうような、そういう人だった。

 それでも、初めて自力で着付けを出来た時には、驚くほど優しく笑っていたことを、覚えている。

 僕が見た祖父の笑顔は、本当に数えるほどしかない。それもはっきりと思い出せるのは、初めて着付けに成功したあの時と、そして一年前、病室で最後に会った、あの時と――――。


 ――――ふっと振り返ったそこにいたのは、鏡の向こう側で中途半端な顔をした、あの時より背の伸びた僕だけだった。


   *  *  *


 装いを整えて、そこを後にする。一歩一歩進む度になめらかな衣擦れの音がして、少し遅れて裾が脚を撫でる。僕はそれを味わった。それはまるで、しばらく忘れていた何かが僕の中でくしゃみをするのを聞いたような、なんだかそんな感覚だった。

 そのまま、居間へと戻る。彼は何かを持て余すかのように座布団に座って、点いてもいないテレビをぼんやりと眺めていた。

 日々こうしているのだろうかと、少し思う。


「……おう。なかなか合うじゃねぇか」


 僕の姿を見つけるなり、彼はまた、口の端を釣り上げるようにして笑った。先程浮かんだ祖父の笑顔を思い出して、ちくりと胸が痛む。雨は相変わらず凄まじい勢いで叩き付けている。

 その音に潰されるように、僕は彼に向かって頭を下げていた。


「――――何の真似だ?」


 彼は怪訝そうに言葉を零す。刺さりそうなほどに鋭い眼差し。無意識のうちに、背筋が緊張を帯びる。どこか遠回しにしてきた事実が、やっと心に染み込んだ。

 そうだ。彼は、「祖父」ではない。そう思い知った。


「俺はてめぇを働かすために拾ったんだ。そんな勘違いしてる暇があんなら、さっさと働いて帰れ」


 はっきりとした冷たさを帯びて彼は言った。まるで僕という邪魔者を押し退けるような、そんな調子だった。

 かと思えば、次の瞬間には相変わらずの不自然な笑いを浮かべて、彼はゆっくりと立ち上がる。


「来いよ」


 そう一言だけ置いて、そのまま居間を出ていく。僕は慌ててその後を追った。近寄るなとでも言いたげな背中は、それでもどこか寂しそうに見えて仕方が無かった。今や僕は、はっきりと彼に期待している。降りしきる雨の音が、僕にそれを痛感させた。

 洗い流されて空っぽになった自分に、彼が何かを与えてくれる。元々持っていたものに匹敵する以上の、何かを。僕ははっきりと――それどころか切実に――、それを欲していた。

 甘ちゃんだな、と僕はひっそり自嘲し、ひっそりと笑う。


 今度は洗面所と逆方向に廊下を進み、突き当たりで右へ。その左側には三つの引き戸が、均等に間隔を空けて並んでいた。彼はその三つ目の戸の前に立った。一瞬、躊躇うように動きを止めてから、それを静かに開ける。


「……ここだ」


 彼の肩ごしに覗き込んだそこは、至って普通の「誰かの部屋」だった。デスクに、スタンドライト。在り来りなものだ。そしてその右の壁には、今にも天井まで届きそうなほどの大きな棚が置かれていた。しかもそこへびっしりと、大小さまざまな本が並んでいる。並々ならぬ威圧感を、僕はその棚に感じた。ベッドは見当たらなかったが、左手には本の間に隠れるかのような押し入れがある。今にも誰かが出迎えてくれそうな、普通の部屋。

 ただ、やはりこの部屋も、空白の匂いがした。


「この部屋の本を、奥の書庫へ運ぶ」


 彼は事も無げにそんなことを言う。書庫のある家など初めて見た。思わず呆気にとられた僕を置いて、彼はまた歩を進めた。僕はその後ろを、慌ててついて行く。

 突き当たりは庭に面していて、戸のついた縁側のような空間になっていた。どうやら居間を中心に廊下が一周している、珍しい間取りらしい。晴れの日なら、きっと一面戸を開け放って夕涼みと洒落込むのだろう。団子を作ってお月見もできるかもしれない。そんな情景に、ほんの少し心が浮かぶ。

 けれど、やはり外は霞んだような灰色で、僕はそれをとても冷めた気持ちで眺めた。


 もう一度突き当たり、正面にある戸を彼は開ける。その奥には、戸と窓以外の壁面ほぼ全てを、本棚で埋められた部屋があった。埃と紙とインクの匂い。それが閉じていた部屋から滑るように溢れ出して、僕の鼻腔へと抜けていった。なるほど書庫らしい。とはいっても、本棚自体が埋まっているのは右手の壁面だけだ。後はそこそこの空きがある。それこそさっき見たくらいの量の本なら、比較的あっさりと収まってしまいそうだった。


「ここに全部入れちまうまでが仕事だ。てめぇは取り敢えず運べ……そいつが終わったら、棚入れだ。いいな?」


 一応疑問文ではあったが、この服装で断れるわけもない。小さく頷いて、僕は先ほどの部屋へ戻る。

 彼は後ろから付いてきて、淡々と指示を出してくれた。それを参考に、用意されていた小ぶりの段ボール箱に本を詰め、ずっしりと重くなったそれを抱え上げる。雨音の満ちる廊下を渡り、書庫の適当な位置に箱ごと置いて、そしてもう一度、廊下を通って箱を取りに行く。単純な作業だ。そんなに長い距離でも、そんなに重い荷物でもない。というのに、ほんの数往復目で僕はうっすらと汗をかいていた。外の湿気がそのままある廊下を往復しているのだから、無理もないだろう。

 遠く激しい雨音を背景に、僕の足音がぺたぺたと湿る。


 最初の部屋に戻る度、彼は空間と僕とに背を向けて、ただ黙々と本に向き合っていた。本を詰める手付きは呆れるほど丁寧なのに、あっという間に箱が埋まっていく。そうして詰め終えた箱を彼は、こちらを見ることすらせずに押してよこすのだった。僕からかける言葉はなかった。無い方がいいのだと思った。聞きたいことはいくらでもあったけれど、彼はそんなもの求めていないだろうと、ただ静かにそう思ったのだった。

 箱の中の本は、僕も知っているものが多かった。有名ではないが僕の好きな作家のものも、いくつか目に入る。どれもいい雰囲気のする本ばかりで、なんだか趣味が合いそうな気がした。


 ――――けれど、これは誰の本なのかと、少しばかり疑問に思う。


 「本を全部移動する」。それも引越しなどではなく、書庫へ。自分の本なら、最初から書庫に置くんじゃないか。けれどもし彼の本じゃないなら、何故彼がそんなことをしているのか――――?

 ――――気付けば目の前で、彼が本に向き合っていた。


「――――あの」


 考えるよりも先に、僕の声が滑り出る。そしてそれは飲み込む間もなく、まっすぐに彼の鼓膜を震わせてしまっていた。


「なんだ」


 相変わらず振り向きもせずに、彼は問う。

 少しだけ、悩んだ。繊細な問題がその先に構えているような、そんな気がした。


「その――――いい、趣味ですね」


 僅かに濁ったその言葉に、彼は一瞬動きを止め。


「この本か?」


「はい。……とてもいい本ばかりだな、と」


「――――へぇ。そうかい」


 答える声には笑いが混じっているのに、その背中は何かを押さえ込むように小さかった。その余韻の中で、彼の作業は再開された。本と段ボールのぶつかる音が、限りなく静かに鼓膜を擦った。

 遠くに、雨音が聞こえる。


「……俺はまだ、この部屋の本を読んだことがねぇんだ」


 その意味を受け取った瞬間、僕の背筋が震えた。どこか、知っていたような気のする答えだった。小さく、後悔が芽を出す。


「倅がな。古本屋やら古書市やらで買ってきちゃ、そのままここに並べる……おかしなもんだ。そもそもあいつ、子供が生まれてからは、この家自体に寄り付かねぇのに」


 彼は例のごとく、引きつったような不自然な笑い方をした。やっぱり孫がいたのかと、あのタオルを浮かべて僕は納得する。


「……これ、全部息子さんの本だったんですか」


「そうよ。――こいつらみんな、倅の本「だった」のさ」


 押しつぶしたように平らな声で、彼はそう零した。


「あの馬鹿、小さなガキ抱えておきながら、てめぇ勝手に首くくって死にやがったのよ。――――ちょうど一ヶ月前の、あのアホみてぇな大雨が降った日だ……」


 相変わらず、彼はこちらを見なかった。きっと本棚の、彼の息子が集めた本たちの向こう側に、その雨音を聞いているのだろうと思った。段ボールと本が擦れる。その中に、僕は軋むような音を聞いた。

 痛みに悶えるような音。

 悲しみに叫ぶような音。

 天井から吊り下げられた縄が、誰かの命を喪わせまいと必死に身を捩る音。

 或いはその命が途絶える、その瞬間の――――。


「……ほらよ」


 彼は、箱を押してよこしていた。僕は何も言えずに、ただそれを受け取った。ふらりと廊下に出る。何もかもが重くまとわりつくような感じがした。機械的に脚を動かし、逃げ込むように書庫へ入る。ここへ来てやっと、僕は小さく息を吐いた。

 とんでもないところに踏み込んでしまった。嫌な汗が背中を伝った。僕は彼を傷つけただろうか。そうでないにしても嫌な思いをさせたに違いない。僕の思考がぐちゃぐちゃになっていく。取り敢えず箱を下ろす。見知った本も知らない本も、一様に押し黙って僕を見上げていた。そして、ふと思い当たる。


 これは、彼の息子の着物なのではないか。

 僕が彼に何かを、かつて失った何かを期待したように、彼もまた、かつて失った何かを期待していたのではないか。


 僕は暫くその場に立ち尽くしていた。今浮かんだ考えについてじっと考え込んで――――けれど、その件に関して僕のできることは、何一つないような気がした。

 今の僕はただ、彼という人間に興味があるだけなのだ。僕が最も欲しているものは、彼どころか、この世界の誰にも肩代わりできないものだと、思い出したから。それは、彼の欲しているものだって同じことだ。僕が意図的にできることはない。

 だから僕に出来るのは、僕を選んだ彼を信じるだけだった。


   *  *  *


 最後の箱を詰め、それを書庫へ持ち込んで、更に本棚の空きに詰め直す作業を始めても、互いに口を開こうとはしなかった。それどころか目線すら合わせないまま、ただ本と向き合う。そんな状態のまま、空の箱は最初に運んだものの半分ほどを数えた。

 先程の――――彼の息子の部屋。そこより庭が近いせいか、雨音はよりはっきりと、僕の耳を弾いていった。雨音と、そして段ボールと本の擦れる音。本棚と本の触れ合う音。そのどれもが、僕の胸を掻きむしっていく。

 箱から取り出した本を、ただ彼に手渡していくだけの作業。それを、淡々とこなす。背後に気配があった。「それ」は微動だにしないまま、僕を静かに見ているような気がした。

 どうしたらいいのだろうと、僕は途方に暮れていた。途方に暮れながら、僕は本を渡し続けた。

 ひとつ、またひとつと、箱が開けられていく。


「……倅――――未来はな」


 唐突な、語り出しだった。

 一瞬体が凍りついたのを、どうにかこうにか誤魔化しながら、僕はまた本を手渡す。そして、彼は何事もなかったように、それを受け取る。


「――――未来は、昔からアホみたいによく笑う奴だった。うちには漫画もゲームもねぇのに、欲しいなんざ一度も言ったことがねぇ。……その代わりに小遣い全部つぎ込んで、こうして本を買ってきちゃ、そりゃあ楽しそうに中身を話してくれたもんだ」


 一冊一冊を慈しむように、彼は渡した本を棚へ入れていく。


「妹が生まれた時も、あいつはアホみたいに笑ってた。顎の関節おかしいんじゃねぇかってぐらい、だらしなく口広げてよ。あいつが笑わなかったのは……母親が死んだ時か。それでも、本当にそれだけだった」


 あいつは母っ子だったのさ、と彼は静かに付け加え、それから徐に、あの不自然な笑いを浮かび上がらせた。口の端が、病的に引き攣る。


「おかしいじゃねぇか。「未来」だぞ。小さい時からずっと――あれだけ楽しそうに笑って生きてきた、あの未来だ。それが、自分の部屋で、たった一人で首くくるなんて、どうしてそんな……そんなアホみてぇな、一番しょぼくれた死に方を――――」


 彼の手が、止まった。

 ――――いや。小刻みに、震えていた。

 そして僕の手までもが、微かに震えだしていた。


 押し殺すような吐息の音だけが、そこにあった。


「――――言っても仕方ねえか」


 長い長い暫くの後、彼はひとつだけため息をついてから、そんなことを言った。半ば引っこ抜くように、本を受け取る。

 微かに触れた手は、もう震えてなどいなかった。


「あいつはもういねぇ。部屋もさっぱり空けて、本も売っぱらっちまうつもりだった……なのにだ。こんなにあるってのに、どうしても売っちまう気にはなれねぇのさ」


 甘ちゃんだな、と彼は笑みを歪める。それを見て、僕はやっと気付くことができた。

 彼は最初から、代わりなど求めてはいなかったのだ。彼は、二度と戻らないものを求めるほど、弱くない。それが、よく分かった。そして僕の勘違いはとても失礼で、恥ずかしいものだということも、とてもよく分かった。


「あの」


「なんだよ」


 そしてそれが分かったから、僕はずっと引っかかっていたことを、聞いておくことにした。


「――――どうして、僕をここへ招いたんですか」


「そりゃてめぇ、面白そうだったからな」


 当たり前だろう、とでも言いたげに彼は僕を目線で刺す。詳細を訊こうとした僕を、彼は口の端の動き一つで制し。


「冗談だ。……てめぇが未来に、「全然似てなかった」からよ」


 急に出た発言に、思考回路が欠片も追いつかなかった。


「なんでだか知らねぇが、あいつはこの世を見限った。そしてそのまま、そこを去るという方向に動いたのよ……だがてめぇは、あんな変なところにすっ転がってた。しかもあれだけぐっしゃぐしゃに濡れて、それでも微動だにしなかっただろ。――あいつなら多分、死に物狂いで雨宿りをするだろうさ」


「……僕だって、普段なら雨宿りします」


「だが、今日ばかりは雨宿りをしない気分だった。そうだろ」


 しどろもどろに返事をした後でそう言われて、押し黙る。すると、彼はそんな僕を小さく鼻で笑った。相変わらず妙に不自然な笑顔。それでも、その歪みの示すところは、今の僕にも十分分かっていた。これが正しいのだ。僕は彼から、それ以上に明るい「普通」の笑顔を、もらうべきではないのだ。

 受け取り手は、もっと別にいる。


「しかしよ。てめぇ、なんだってあんなところに転がってたんだ」


 ちょうど最後のダンボール箱を開けたところだった。


「いや……理由は、なかったんですけど」


「無いわけはねぇだろ。道理を通しやがれ」


 僅か呆れたようにそう言われて、僕はあの雨の感覚を思い出していた。

 強弱の失われた灰色の空。

 車軸の向こう側に霞んだ世界。

 萎れ切った鞄。

 徐々に染みてくる雨水。

 僕を取り巻き、押さえつける重力。

 心に空いたうさぎの穴。

 あの時僕を取り巻いていたそれらは、あの時何故か僕を引きつけて離さなかったそれらは、一体何だったんだろう。


「――――きっと、寂しかったんでしょう」


 口をついた言葉は、道理というには幼稚すぎるものだったけれど。


「…………そうかよ」


 彼は相変わらずの表情で、それだけを答えた。


   *  *  *


 気付けばあっという間だった。

 僕の仕事はその後すぐに終わってしまい、それを隣で見届けた彼は即座に、早く帰るよう僕を促した。これだけの雨が降っているのに信じがたいけれど、本降りは今日の夜なのだという。仕事も終えた今、借りた着物を無為に濡らす訳にもいかないだろう、と僕は言い聞かせるようにそんな論理を組み立てた。どこか名残惜しい気もしながら、ゆっくりと下駄を履き、濃紺の和傘を受け取って、使い慣れた鞄を持ち上げる。

 彼は彼で、どこまでも静かに構えていた。まるで思案に暮れるような、どこか遠い眼差しが、僕を掠めて行き過ぎる。


「服と靴はどうにかしといてやる。別に急ぐわけでもねぇし、それ一式返すついでにでも持っていけばいい」


 靴箱に肘をついて、彼は事も無げにそう言った。少し、気だるさを帯びているようにも見えた。疲れているのだろうか、と僕は思う。よく考えると驚くほど彼の世話になっていたのだと、今更になって実感が湧き出した。

 その感情のままに、そっと頭を下げようとする。

 ――――そしてその瞬間、また彼の鋭い制止が入った。


「……馬鹿野郎」


 刺さるような視線が僕に向けられていた。


「そいつはものが全部元あったところに戻るまで、暫く取っとけ」


 今まで見たこともない、ぶっきらぼうな返事だった。ほんの少しだけ戸惑う。けれど、何故か引っかかるものは少なかった。


「――――それとな」


「はい」


「もう道にすっ転がんのはやめとけ。……どうしても転がりてぇなら、うちには庭があるからよ」


「――――はい」


 小さく笑って、僕は彼に背を向けた。彼自身が土間に降りる様子はなかった。敷居を跨ぐ。扉を閉めようと振り返れば、彼はいつもの歪んだ顔で、ほんの少し眩しげに僕を見据えていた。


「じゃあ、また」


「――――おうよ」


   *  *  *


 やはり、引き戸は猛烈に軋んだ。

 降り注ぐ雨は激しさを増して、叩かれる飛び石が騒々しく喚いていた。けれど、それももうほとんど気にならない。和傘を押し開けば、それも何処か遠くのことのようだった。雨の中へ踏み出す。誘うように下駄が歌う。

 相変わらずよく鳴る門を越えて、ぼくはそっと目を上げた。

 霞んでいたはずの雨の向こうの世界は、今鮮やかな色彩を伴って、僕の目の前にあった。雨の向こうに見えるもの全ての中に、あの凛とした力を感じる。それは元からそこにあったのだと、今この瞬間に知った。

心の穴は塞がらない。けれど、それを塞いでくれる人は、意外と近くにいたりするものなのだろう。


 もう大丈夫だ。僕も、そして彼も。

 誰かに背中を叩かれたような、そんな気がする。


 僕は一歩を踏み出した。下駄がまた、歌った。





 そう――――止まない夏の雨は、ない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ