桜子さん30歳の誕生日
「ええと、御趣味は?」
「そ、そうですね。ゲームとか、ええと、読書、とか、映画鑑賞……とか?」
「ああ、良いですね。石蕗さんからお話は聞いていましたが、インドア派なんだ」
目の前に座るナイスミドルは、そう言って柔和な笑みを浮かべる。
歳の頃は40代後半といったところか。口元に蓄えた髭がよく似合う、中肉中背の男性。若くして外資系企業の重役で、事前に聞いていた通りの誠実そうな人柄だ。言外に含ませた意味を察しつつも、深く踏み込まず、特に敬遠する様子だって見せない。
この歳まで独身で、女性遍歴についても、特に浮ついたところはない。特定の女性と健全なお付き合いをして、健全なお別れをして、そして今は完全フリー。まごうことなき優良物件だ。少なくともアレだ。今の雇用主に比べれば、人間的にもよほどマシな人物に見える。
そしてこれが一番重要なのだが、顔が好みだ。
ただその件に関しては素直に喜べない。確かに自分はナイスミドルが好きだ。中年から壮年に足を突っ込んでいるくらいの男性が好みだと明言してきた。でも、ここまでドンピシャの人物をあてがってくるのは、流石にこう、あてつけのようなものを感じる。
いや、考えすぎか? 単純に自分がこのお見合いに前向きでないから感じているだけか?
「私も散々遊んできましたが、そろそろ身を固めないとと思っていましてね」
しかしナイスミドルは、そんなこちらの葛藤など知ったこっちゃないと、話を続ける。
正面からその顔を見るのはどうも気まずくて、視線は自然と、窓の外に広がる港区の夜景へと移ってしまう。
「ご、御立派なお考えだと思います……」
「まさか石蕗さんからこんな美しい方をご紹介していただけるとは。家庭的な方だと伺っておりますし」
「かっ、家庭的!?」
飛び出した言葉に、思わず手に持ったワイングラスを取り落としそうになった。
「いちっ……石蕗がそう言ってたんですか!?」
「ええ、お料理もお上手ですし、お掃除やお洗濯もすべて1人でやられているとか……。お恥ずかしい話なんですが、私はそのあたりがてんでダメでしてね。大田区の家にはほとんど帰らなくて、ホテル暮らしです」
そう言って、ナイスミドルはワインをひとくち。
「ああ、いえいえ。もちろん、家事をすべてあなた1人に押し付けるなんて、旧時代的な考えはいけませんね。私もできる限りお手伝いをしたいと思っています」
「いや、まあ、いいんですよ。私、家事は好きですから」
「なんだ、やっぱり家庭的な方じゃないですか」
「そう、なる……の、かな……?」
口元に浮かべた笑みが苦笑いにならないようにするには、ちょっぴり苦労を要した。
会話が弾んでいるようで弾まない。どうにも感情がぎこちない。
理屈で考えて、このお話を断る理由なんてどこにもないはずなのに、ああ、結局自分はこの人と結婚したいなどとは、欠片も思っていないのだ。そんな自分の気持ちに気づいてしまった以上、ニコニコと笑顔で相槌を打つ以上のことは、すっかりできなくなってしまった。
扇桜子、29歳。人生崖っぷちである。
『いやあ、どうやらダメのようです』
「そう?」
ホテル・グランドヒルズの駐車場。
ちょうどお見合いが終わったころだろうというタイミングで、一朗の携帯に電話がかかってきた。
場所も相手も気合を入れてセッティングした結果として帰ってきた言葉がこれでは、いささか拍子抜けする。ダメのようです、と語るナイスミドルの声は、存外に朗らかで嫌味がない。贔屓の野球チームが連敗続きだと語る時の声音に、よく似ていた。
『私としては是非にと思っていたのですが……。あまりこちらに気のないご様子でしたよ。御機嫌を損ねるようなことは、していないつもりなのですが』
「あなたが失礼を働いたとは僕も思わないけどね。まぁ、桜子さんもアレで意地を張るところがあるから」
『ははは。そうなると、私はあなたの使用人自慢に付き合わされたということに?』
「ん、まあそうだね」
最後の言葉に少しだけ棘を感じつつ、一朗はさらりと受け流す。
「あなたには世話になっているし、引き続き世話をできる人がいればと思うんだけど、あいにくそういった交友関係が広くなくてね」
『そうなのですか? こちらとしては、石蕗さんがご紹介してくださるならどのような方でもお会いしてみたくはあるのですが』
「桜子さんほど切羽詰まっている人はいないんだ。いや、1人いたにはいたんだけどね。それも2年前までの話だし。あとは別の意味で切羽詰まって生きている大学生か、自分の正義を信じて社会に噛みつき続ける狂犬しかいない」
『なるほど、魅力的な方々のようだ』
「わかるかい」
『わかりますとも。あなたが人をそのように紹介するときはね。ですが、確かに私の手にはあまりそうな方々です。石蕗さんに婚活の世話をしてもらうのは諦めましょう』
はははと笑うナイスミドルの声を聞き、一朗は静かに目を細めて、返事をしない。
その後、いくらかの雑談とビジネスの話をして、電話を切った。
それからしばらくもしないうち、パンプスのヒールがコンクリートを叩く音が、地下駐車場いっぱいに響いて聞こえてきた。ストールを片手に、バッグを持ったドレス姿の扇桜子が、こちらへずかずかと歩いてくるのが見える。髪はいつもと違う形にアップして、耳にはイヤリング、首にはネックレス。どこへ出しても恥ずかしくない恰好は、芙蓉めぐみに選ばせたものであるが、眉間にしわを寄せた桜子はその恰好自体がかなり居心地悪そうでもあった。
「すみません一朗さま、ダメでした!」
「ん、そのようだ」
「帰りは私が運転しましょうか!」
「いいよ、僕がやろう」
「でもそれだと一朗さまが私の運転手みたいじゃないですか?」
「今日に限っては、そういうことだね」
一朗は、黒いセダン――リンカーンの後部座席をゆっくり開けて、桜子に乗るよう促した。
桜子はやはりまた、若干居心地悪そうにして、促されるままセダンに乗り込む。一朗は桜子の手からストールとバッグを受け取った。
「彼とはウマが合わなかったかい」
運転席に乗り込んで、一朗は後部座席の桜子に尋ねる。
「そーゆーわけじゃないんですけどね……。いや、そうなのかな……。とにかくすみません、相手選びから、会場のセッティングまでしてもらったのに……」
「気にしなくていい。僕も好きでやっていることだ」
セダンを発進させる直前、バックミラーに映る桜子の顔が、窓の外から一朗の方を見たのがわかった。
「好きで……ですか? でも一朗さま、やってること完全に親戚の世話焼き婆さんですよ」
「ナンセンス」
それが否定を含めた言葉なのか、それとも単に『世話焼き婆さんの何が悪い』という意味合いで放った言葉なのか。それとももっと違った何かなのか。口にした一朗だけがわかっていることで、その言葉が出されては桜子も次を繋げなくなる。
「で、桜子さん、どうする?」
「あ、いや、引き続きお願いしますよ。7月まではまだ時間ありますし……。焦らずいきます」
エックスデーは、2017年7月20日。
その日扇桜子は、ついに三十路の大台を迎える。それまでにはなんとか伴侶を見つけておきたいという桜子たっての希望により、彼女の婚活はスタートした。『イマドキ30代で独身なんてなにも珍しくはないよ!』という一般論は何の慰めにもならない。少なくとも、その理屈に甘えて今と同じ生活を続けていれば、10年後にも同じ悲鳴を上げることは目に見えているからだ。
39で始めるよりは、29で始めた方がいくらかマシだ。誰にも反論をさしはさむ余地がない、完璧な理由と言えた。
で、だ。
一朗の用意したお見合い相手は実により取り見取りと言えた。日本人に限らず、提示された年齢層も幅広い。みんながみんな、一流企業に勤めるトップエリートであったり、国家の未来を担う官僚であったり、アスリートや映画俳優であったり。少なくとも、同年代の女性に提示されるであろう物件と比較しても、跳びぬけて優良なものばかりだ。
なんとなく実感が沸かなくて選べずにいた桜子に代わり、一朗が『彼なんかどうだろう』と連絡をつけ、あれよあれよという間にセッティングを終え今回のお見合いにこぎつけた。が、結果は御覧の有り様だ。
「………」
桜子は、窓の外を流れる港区の夜景――ホテルのレストランで見たものと同じはずのそれを眺めながら、溜息をついた。
結婚は、したい。
いや、したいわけではない。ただ単に、機を逃したら結婚できなくなるのではという焦燥感があるだけで、多分自分自身そこまで結婚願望があるわけではない。ウェディングドレスが着たいわけでもない。もちろん白無垢が着たいという話でもない。子供が欲しいわけでもないし。
ただ、正月に実家に帰ると両親からその話を突き付けられるのにも、うんざりはしていた。
もうすぐ30ということは、一朗の家で住み込みを始めてから10年ということになる。彼氏イナイ歴を算出するとそれよりもうちょっと長い。これは由々しき事態ではないか。人生の3分の1、出会いの極端に少ない職場で働いている。これじゃあ男性とのお付き合いなど望むべくもない。
「焦らない……まだ焦らない……。まだ大丈夫……」
呪文のように繰り返す桜子。その様子を、一朗はバックミラーでちらりと見て、相変わらず涼やかな笑みを浮かべているだけだった。
そんなこんなで気が付けばもう7月19日である。桜子は頭を抱えていた。
これまでに一朗がセッティングしてきたお見合いの数は50をくだらないが、それでも結局、桜子は丁重にお断り続けてきてしまった。どれもこれもみんな良い人だった。将来性豊かな男性だった。家庭を築けばひとかどの幸せが約束されているに違いなかった。
「女の幸せって……何なのかしら……」
リビングのソファに腰かけて、とうとうそんな独り言まで口走るようになったのだから、いよいよもって末期である。今日は一朗は家にいない。桜子の仕事としても非番の日なので、特に使用人らしいことをする必要もないのだが、いつもの癖で簡単な掃除を済ませてしまったし、いつものようにメイド服に身を包んだ状態でいる。
7月19日。7月19日なのだ。なんと今日が、20代最後の日! 扇桜子、20代最後の日だ!
思えばこの20代は激動の10年間であった。短大を卒業後、桜子はアジア旅行に出かけたのだ。ひとりで。理由は簡単である。東南アジア全域は08MS小隊の舞台となった地域だし、タイはサガットの出身国だったからだ。
桜子はチベットを観光し、その後インドにくだり、タイに行き、カンボジアに行き、またインドに行った。カレーにとり憑かれたのはこのころだ。あの旅はあの旅で楽しかった。チベット仏僧のテンジン、ムエタイの師匠クロムルワン、英国海軍退役軍人ハーバード大佐、みんな元気にしているだろうか。
そして21歳の誕生日を目前にして、桜子は日本に帰国した。
そこで彼女はある事件に巻き込まれ――それでまぁ、気が付けばここにいたわけだ。一朗の気まぐれに付き合わされて、深夜に北海道へイカ釣りに行ったこともあるし、いきなり日本国外に連れ出されたこともある。
一朗が急にVRMMOに興味を持って、『こちら側』の世界に飛び込んできてくれたのはもう4年前! あれもそこそこ大変な騒動で、でも、この10年で一番多くの得難い友人を作れた時期でもある。
去年の夏は、東京をちょっぴり騒がせた謎の生物騒動に巻き込まれたし、この10年で起きた『ちょっと変わった出来事』を数えようと思ったら、両手10本の指では足りそうにない。
そんなこんなをしている間に、もう7月19日! 20代最後の日というわけだ!
これまでにあったお見合い50回以上。その中で、素敵な男性を1人でも見繕ってくっついておけば、今ごろこんな焦燥感には包まれずに済んでいたのだろうか!? それはそれで酷いマリッジブルーに苛まれていたような気もする!
それに何しろ、そう、何しろ、この10年、過ごしてきた時間というのが、それがなかなか、悪くない!
同じ月日がずっと続けばいいのにと、そう願ってやまないのだけれど。
結局そういうことなのだろう。今の居心地の良い環境から、桜子は離れたくないのだ。これまでの10年と同じ10年を、これからも続けて行きたい。その中で生じる小さい変化。そのくらいなら桜子だって耐えられる。
でもきっとそれは無理なことなのだ。残念ながら自分は歳を取る。
気持ちだけを今この瞬間に置き去りにして、同じ10年を過ごそうとしても、10年後には気づくはずだ。置き去りにした感情との間に開いてしまった、決して埋められないであろうその距離、その時間に。この10年に起こる変化は、きっと、これまでの10年に起こったものとは比べ物にならないはずだ。そこから目を背け続けることなんて、できやしない。
だが今、というかここ1年。ずっと自分に突き付けられている課題は、それは、平然と飲み込むにはあまりにも、アレだ。ちょうど去年の今日、一朗だって言っていたではないか。『関係に決定的な変化が生じることは間違いない』と。
一朗のふてぶてしさを、今このときほど、羨ましいと思ったことはない。
あの男は変化に対してどこまでも寛容だった。何かが変わることを恐れもせずに前に進み続けていた。4年前の夏だって、石蕗一朗は不可逆の選択を躊躇なく実行した。一朗は例え、桜子が誰かと結婚しここを離れることになったとしても、その変化を受け入れるのだろう。
それができる一朗が、羨ましい。羨ましいし、恨めしい。
一朗が、いや、彼でなくても良い。誰か1人が言ってくれれば、桜子はそれに甘えることができる。
変わらないままが良いと。これまでの10年と同じ10年が、この先も続いてほしいと。
でもきっと、それを言ってくれる人はいないのだ。
みんな変化を受け入れていく。彼らとは違う方向を向いて踏みとどまるだけの勇気は、桜子にはない。
もちろん、変わらなければならないのが今というわけではない。5年後でも間に合うだろう。10年後でもなんとかなるかもしれない。でもその議論はすでに済ませた。その頃にできるであろう距離を直視することは桜子にはできないし、今変われなければ10年後だって変われやしない。
「とは言っても、もう19日……。泣いても笑っても、あと18時間で30歳か……」
残りたったの20時間足らず。変わるには遅すぎたのだろうか。
桜子は、ぼんやりとそんなことを考えながら、急な眠気に襲われて、ゆっくりとソファに横になった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
気が付けば周囲は薄暗い。ごそごそという物音で、桜子は目を覚ました。
なんだか妙な夢を見ていたような気がするが、内容に関しては、よく思い出せない。
まだ眠い目をこすり、暗闇に慣れない目を細めると、その中で1人立っている石蕗一朗の姿を発見した。
「おはよう、桜子さん」
「あ、おはようございます……。何してるんですか? 電気もつけずに」
「桜子さんが寝ていたから、起こさないように気を使ったんだけど」
一朗はいつものような涼やかな態度でそう言ってから、部屋の明かりをつける。ぱっ、と灯った蛍光灯に、桜子は思わず目を瞑った。
「あ、いま、何時ですか?」
「夜中の10時。あと2時間で誕生日だから、ワインとか買ってきたけど」
「あー……」
桜子は額を押さえて唸った。そうか、20代最後の時間を、自分はそこまで無為に過ごしたのか。この自分の醜態は問題を先送りにしようとしてきたこれまでの10年間そのものだ。誰もおまえを愛さない。
「一朗さま、そのワイン、あけちゃいましょう。グラスください」
「誕生日用にと思って買ってきたものだけど」
「どうせあと2時間もしたら、祝う気なんかなくなるんです……。20代の若かった私の送別会にしてくれませんか」
「ん」
一朗は小さな相槌をしてから、2つのワイングラスとコルク抜きを持って、桜子の座るソファまでやってくる。
2つのグラスに注がれる赤ワインをじっと眺めた後、桜子はそれを手に取って、一朗のグラスと静かに掲げ合う。
「献杯」
「誰に献るの」
「いやもう、これから消えていく20代の私に……」
「そうなんだ」
一朗は相変わらずだ。桜子はやさぐれた態度を取る自分がだんだんとばかばかしくなってくるが、それでも、心の底によどんだわだかまりは、そうそう振り払えるものではない。
「一朗さま、私はね」
「うん」
「変わりたくないんですよ」
「うん」
「一朗さまの考え方とはたぶん、違うんじゃないかなって思うんですけど。一朗さまって、停滞とかしないタイプじゃないですか。アイリスもそうだし、キングもそうだし、がむしゃらに前に進んでいく人じゃないですか。でもたぶん私、そうじゃないんですよね」
置いていかれたくなくて変わろうとしたが、本心では変わりたくない。
これまでの10年と同じ10年をこれからも過ごしたいのが本音なのだ。それでも、月日の経過と共に変わっていく自分から目を逸らすことができない。
変わりたくはないが、変わらないのは怖い。ひょっとしたらそれは、『結婚』という形でなくても良いのかもしれないが。たぶん、そんな手っ取り早い結論を求めてしまったのは、世間の目とか、親の圧力とか、そういうので。ああでも、それだってきっと一朗からすれば『ナンセンス』な話なのだろうな、とか。
「そうだね」
一朗は桜子の言葉が終わるのを待ってから、頷いた。
「僕は変化を常に許容する。それは、どれだけ変化しても僕自身は変わらないという自負があるからだ」
「私はそこまで強くはなれませんよ。私は簡単に変わっちゃいます。たとえば暗黒課金卿とかに」
こんな吐露になんの意味があるのか。結局のところ、一朗が今まで親身に世話してきてくれたことを、すべてぶち壊す発言でもある。
もう10年近い付き合いだ。そんなことで一朗が怒るとは思わないし、変化を許容できない桜子に対して失望するなんてこともないだろうこともわかる。だから言えるだけのことは言っておきたかった。少なくとも今はまだ、未来に対して恨み言を紡げるのだから。あと2時間で、それも難しくなる。過去を悔やむだけの女になるのは、さすがにみっともないではないか。
「なるほど」
空になったワイングラスを揺らしながら、一朗は言った。
「でも裏道はあるね」
ごく当たり前のように。確認を取るでも、含みを持たせるでもなく。
桜子がそれを知っていて当然だとでも言うかのように。
そして、裏道。その言葉の意味するところを桜子は当然のように理解する。
考えたことがないわけではなかった。というか、意図的に考えないようにしていた。順当に行けば簡単にたどり着く答えのひとつではあったが、それでも桜子は意識的に選択肢から除外していた。
なぜならば、
「……いや、それ、……ズルくないですか!?」
「ナンセンス。桜子さんがどうしたいかだ」
「そのフリもズルいですよ! 一朗さまはどうしたいんですか!?」
一朗はそれには答えない。部屋の中には静寂が訪れて、秒針の時を刻む音だけが無情に流れていく。次第に、桜子が20代でいられる時間が削られていく。これはなんだ。持久戦か? ならばタイムリミットのある桜子が圧倒的に不利ではないのか!?
その裏道を通るのは実に簡単だ。求められる変化は最低限で済む。
しかしそれはあまりにも単純に過ぎはしないか。手の届く範囲に手っ取り早い正解を作って喜んでいるだけではないのか。確かに桜子の悩みはおおよそ解決するが――それは、自分の中の何か大切なものを、サックリと譲り渡すことになっていたりはしないか! 具体的に言えばプライドの問題だ!
だんまりを決め込む一朗に、怒りに近い苛立ちを覚え、桜子は酔いも手伝ってか噛みつくように叫んだ。
「どーなんですか一朗さま! なんなら私結婚しますよ! 最初のナイスミドルのオジサマと! そして堂々とここを寿退社しますよ! まぁこれ明らかに一時の感情に流されてるだけなんですけど!」
それはスニーカーの靴紐を結ぶような簡単な問題ではない。
その決定権をこちらに丸投げしているのだとすれば腹立たしいことだし、あるいは、『そこまで重要な問題ではない』と考えているのだとすれば、それはもっと腹立たしい。そんな意思表示をされるのであれば、桜子もあてつけがましい寿退社を辞さない。
せめて真意を問いただしたいのだ。
「ふむ」
一朗は空のグラスを机に置いて、それから天井を眺めた。
「桜子さんは僕のこと、けっこう正確に理解していると思うんだけど」
「はい」
「それでも幾らか認識にズレがあるので、そのうちのひとつを訂正しておきたい」
人差し指を立てて語り始める一朗を見て、相変わらず回りくどい言い方をする人だと思う。
桜子のタイムリミットは徐々に迫りつつあるというのに。見ればいつの間にかあと1時間を切っている。
「僕はね、桜子さん。ローズマリーのことも、あざみ社長のことも、音桐さんのことも恨んだことはない。だけど、もし、4年前の夏、何事もなく平穏にあの夏が終わっていたら――」
そう言って天井を眺める一朗の目は、桜子でも見たことのないような色が浮かんでいた。
「――今も、ナロファンを続けていたと思うよ。1ユーザーとしてね」
「………」
これで話はおしまい、とでも言うように、一朗はいつもの涼やかな笑みを桜子へと向ける。
「……結局、」
それからしばらく秒針の音だけが流れていたが、克明に過ぎていく時間に耐えきれなかったのは、桜子の方だった。
「結局、そういう意思表示の仕方しかできないんですか? 一朗さまって」
「ナンセンス。なるべく誤解をはさまないよう、正確に自分のことを説明したつもりだ」
「……まぁ、わかりました。わかりましたよ。私も一朗さまも、考えてることは同じみたいですし!」
唇を尖らせる桜子に、一朗は再びワインを注ぐ。桜子はそれをぐいっと飲み干す。
「――使いますか、裏道を!」
「ん」
「三十路前の勇気ある決断……。時間ギリギリだけど、私の人生なんとか及第点ってところです、か!」
結局は致命的な変容、不可逆な変化を受け入れざるを得ない決断ではあるが。
それは社会通念上のものであって、実際はなにひとつ変わらない。これまでと同じ10年を、この先10年も続けることになる。みっともない停滞かもしれないが、まぁひとまずは良いだろう。あの一朗が、本当は自分も停滞していた方が居心地が良いのだと、そう意思表示をした以上は。
「これで明るい気持ちで誕生日を迎えられそうかな」
「そうですね! 一朗さま、欲しいプレゼントも決まりました」
「ん、なんだろう」
「大筋合意には至りましたが、はっきりと一朗さまからひとこと、いただきたいですね」
時計をちらりと見ると、扇桜子29歳の時間は、そろそろ終わりを迎えようとしている。桜子の意図を組んだ一朗は一瞬、動きを止めるが、ここを譲るつもりは桜子にはない。こちらは決断をしたのだ。それくらいはしてもらわないとつり合いが取れない。
桜子は了解の言葉を待たず、グラスに3杯目を注いで口をつける。
残りは誕生日を待っても良いかと思ったのだが、ま、こだわらなくたっていいだろう。
やがて3つの針は、勢ぞろいに頂点を向く。
「桜子さん、」
「あ、はい」
一朗は、別段気負うでもなく、いつもの調子で桜子の名を呼んだ。なので桜子も、いつもの調子で返事をする。
これまでの10年と同じ、新しい1日の始まり。石蕗一朗は口を開いて、桜子にこう言った。
「――――――」