後編
一方、エリナを探しに印刷室に行ったイクだったが、そこにはすでに誰もいなかった。
仕方なく一人で帰ろうと、駐輪場に向かうと、自転車の鍵を外すエリナの姿。
イクに気づくと、エリナは伏し目がちに挨拶をする。
近づくにつれて、彼女の目が赤い事にイクは気づいた。
「…どうしたの、なんかあった?」
自転車の鍵を外しながら、イクはそうっと聞いた。
エリナは黙ったまま、唇をかむ。
それに気づいたイクは、苦笑いを浮かべながら、謝った。
「あ…言いたくないなら、別にいいよ」
一匹狼で、いつも凛としている彼女は同性にも人気があった。
そのエリナが、今にも崩れそうになっている。
イクの言葉に、エリナは泣きそうな声で呟く。
「私ね…一年前だけど、アキと付き合ってたの」
イクは立ち止まりそうになった。が、ぐっとハンドルに力を入れる。
……驚きと納得。
アキラとエリナの距離が近いことに、イクは前から感づいていた。
「でも、あいつが好きだったのは、お姉様だった。
いまでもそう。
…もう叶わないって分かってるのに…」
さらさらと風に揺れるエリナの髪。
背を向けているが、イクには泣いているのが分かっていた。
「馬鹿だよね…でも、私も馬鹿だった。
もっと、前に気づければ良かったのに…」
自転車が止まる。
エリナは指で涙を拭きながら、慌てて振り向いた。
「ごめんなさい、こんな話…迷惑だったわね」
いつもの無表情。
でも、今のイクには、彼女が少し照れてるように感じた。
「イクさんだって、アキのこと好きなのに。
気が利かないわね、私は」
「え! あ、いや!違うし!!」
否定するイクだが、その声は上ずっていた。
ふふと笑うエリナ。
それは普段めったに見せない、彼女の笑顔だった。
「イクさんて不思議。
アキが大切にするのも、少し…分かる気がする」
「え?」
それじゃあ、とエリナは自転車に乗って分かれ道を曲がってしまった。
「なんだかなぁ…」
イクは自転車を押しながら、エリナとは反対の道を曲がり、踏切で止まる。
鳴り響く踏切の音が、しばらくイクの心を真っ白に揺らしていた。
「…雪原、やっぱエリナちゃんと付き合ってたんだー…」
じわじわとその言葉がイクの心を締め付ける。
片思いは不安と自分との戦い。
彼女はまさにその戦いのさなかにいた。
アキラが自分のことを好きだと思っていないことは、イクも分かっている。
だから今、想いを伝えても、その結果は残せない。
でも、
『もっと、前に気づければ良かったのに…』
イクはエリナの言葉を思い出していた。
伝えられなかった思いは、自分の心の中で長い時間をかけて消化していかなければならない。
費やした時間に比例して。
そのことに気づいた時、イクは急に実感した。
……ああ、もう終わりなのだと。
同じ空間から、それぞれ新しい人生に分断されていく。
イクの前に広がる選択肢。
それに戸惑っているのは、イクだけではないだろう。
「雪原がはっきりしないから甘えてたのかもな、あたし」
電車が通り過ぎる。
夕焼けが引いていく夜の空には、たくさんの星が控えていた。
そして、文化祭当日。
美術部は喫茶店も同時に運営したので、忙しいことこの上ない。
人が引いてきた午後、美術部三年はようやく昼ご飯にありつけた。
イクと椎野はジュースを買うためにカフェテリアに来ていた。
「惠地、なに飲むんだ」
「あ、一緒に買ってくれるの?
ありがとっ。えっと…ストロベリーラテかなー…うわぁっ」
急に、後ろから強く肩を掴まれた。
「ちょっと付き合え!」
「え、雪原っ?」
そのまま腕を掴まれ、誰もいない音楽室に連れ込まれた。
「な、何よー、急に」
鼓動が早まるのを抑えながら、イクはその場に座り込む。
……体が熱い。
きっと夏の名残りだ。
一方のアキラは、イクの隣で同じように座りながら、スマホの番号をゆっくり押している。
「わり、ちょっと側にいてくれ…」
驚くイク。
「え、何で……」
「マジ、お願い」
アキラは強く、泣きそうな声でイクの腕を掴んでいた。
数分、沈黙が続く。
二人は息を潜めて座り、じっと待った。
『―――Hello?』
綺麗な、澄んだ女性の声。
イクはようやく電話の相手に気づいた。
「ご無沙汰してます、雪原です。
…はい、そうです。
急にすいません…
本当はこんなこと、今さらなんですけど…」
イクが初めて聞く、アキラの敬語。彼の手は震えていた。
思わずイクはその手を握る。
意を決して、アキラは息を吐く。
「俺、あなたのこと…今まで、ずっと好きでした」
沈黙。
『—————。——、——————…』
電話の向こうからの返事は、イクには聞こえなかった。
アキラはうつむいたまま、頷いていた。
「…大丈夫ですよ。
俺、あなたのことをちゃんと忘れますから」
電話向こうの声は、優しそうに笑っている。
それじゃ、と言って、アキラは電話を切った。
イクには彼の瞳が、どこか澄み切っているように見えた。
「あー、やっと言えたー」
晴れやかな笑顔。
「区切りって、付けるまでが痛ぇんだよな」
イクには分かった。
彼が傷ついていないことを。
彼はずっと我慢してきて、耐え続けてきたのだろう。
自分の気持ちに。
好きだという叫びから。
「ありがとな、恵地。助かったぜ」
つないでいた手を、アキラはそっと離す。
イクはそれを眺めながら、心の中で呟く。
この手を、再び握る日はいつ来るのか—?
また、握れると思っているのか?
「――――――好き」
突然の告白に、少し驚くアキラ。
イクは必死で貯めていた想いを吐き出す。
「あたし、雪原が好き。
でも…アンタが、あたしのことを好きじゃないってのは分ってる。
……だから、」
泣きそうになったイクは、ぐっと目に力を入れる。
まるで睨みつけてるように。
「あたしのこと、ちゃんとフッて」
アキラは驚いていた。
だが真剣な表情で口を閉じる。
イクは拳に力を入れた。
返事などずっと前から分かっている。
…それほど彼女は夢みる少女ではない。
もう夢をみる年齢でもなかった。
現実を受け止め、その痛みに耐え、傷を塞ぎ、前を見て生きねばならない。
「………俺、お前のことは好き、じゃないよ。ごめん」
アキラは頭を垂れる。イクの拳から力が抜けた。
「でも、お前の友達にはなれるよな」
顔を上げ、アキラはありがとう、と笑う。
「じゃ、俺、もうすぐ出番だから。
俺様の最後の晴れ舞台、絶対見に来いよ」
片手を振りながら、アキラは音楽室を出て行った。
ばたんという扉が閉まる音が、イクの頭の芯まで響くようだった。
……まだ痛い。
少しの後悔と、いっぱいの開放感。
イクは息を吐きながら、伸びをする。
途端に、涙があふれ出てきた。
「雪原からお願いされたの、初めてだったなぁ……」
泣きながら、苦笑するイク。
止まらない涙。
泣きすぎて、鼻が詰まってきていた。
「は、はんかち、もってくるんらった」
突然扉が開かれる。
イクが振り向くと、目の前にはタオルハンカチ。
「………し、しいのくん」
「使え。足りないならティッシュもやる」
「だ・だいじょうぶでふ……」
イクは慌ててハンカチを受け取る。
涙を拭くイクの隣に、椎野が片手にジュースを持って座る。
「落ち着いたら、……ストロベリーラテ、飲めよ」
「あ、ごめん…つーかきゅうけいすぎてるし! …ごめん」
別にいいだろと椎野。
「もう卒業するんだ、泣く暇くらいもらえるだろう」
そう言って、椎野は黙る。
イクはどうしても止まらない涙を、椎野のハンカチで拭った。
「…終わったのか、やっと」
「おわった…、やっとね」
小さく頷くイク。
椎野はそうか、と立ち上がる。
「それなら、…もう遠慮することはないな」
小さく呟いて、椎野はイクを見つめた。
イクはハンカチで口を覆いながら、首をかしげた。
「なんか、しいのくん、うれしそうらね」
「俺も男だからな」
イクは再び首をかしげた。
そんな彼女を笑う椎野。
「……うわ、しいのくんが、わらった!」
「嬉しい時に笑って悪いか、さっさとラテ飲め。泣き虫」
照れたのか、椎野はイクにストロベリーラテを放り投げた。
――さよなら、私の想い。
――さよなら、愛しいあなた。
繰り返すさよならの隙間に、凍っていた未来が滲んでくる。
切り離した痛みを、やってくる希望が緩やかに包んでいく。
僕らは痛みを知っている。
私たちは悲しみを知っている。
少年少女たちはそれぞれ少し悲しそうに笑い、
少し嬉しそうに泣いた。