第五十話 絶体絶命の中で
「……う」
息苦しさと生臭い匂い、そして全身に蔓延るヌルヌルとした感触に苛まれて拳太は目を覚ました。
「…………」
拳太はほんの少し呆然とした後、自分がどうなったかを思い出し完全に意識を覚醒させる
周囲は暗くて殆ど見えないが、完全に光が無いわけでも無いらしく、血管などが虫のように蠢く赤紫の気味の悪い肉壁を薄く照らしていた。
「ぐっ……」
拳太は試しに電気を辺りに散らして見たが、特に苦しむような動きは無い、電気は問題なく発生していたため、恐らくこの自分と空間に満遍なく存在する粘液が電気を遮断してしまったのだろう
「っ! 段々と温くなってくる……!」
その時拳太は自分に纏わりつく粘液の温度が上がってきている事に気づく
いや、これは粘液の温度が上がったと言うより、自らの皮が薄くなってより粘液の温度を感じるようになってきたのだろう――つまり、拳太の消化が始まっているのである
「……少し前に食ってもうかよ!」
このままでは拳太の体は十分と持たずに粘液に溶かされ、混ざりあい、この造魔の栄養になってしまうだろう、そうなる前にどうにかして脱出しなければならないだろう
「『電磁装甲』は……ダメだ。反発力が足りねーな」
拳太の放つ磁力では入り口と思われる場所を開く事が出来ない、それに加えて、身動きが自由に出来ないので力も籠っていなかった。
「クソッ、ナイフは……まだあったか?」
拳太は何とか腕を己の懐に潜り込ませて中身を探っていく、目当ての物はすぐに見つかり、取り出したそれは動物や魔物を解体するための物だった。
「よし、あとは……?」
拳太はそれに電流を通し続けて熱のナイフにしようとしたが何か様子がおかしい、ナイフに電流は流れているのだが一向に熱が貯まらないのだ。
「電流が……弱くなってる?」
そしてそれに気づいたと同時、拳太の全身に倦怠感が訪れた。
覚えのあるその感覚は『魔力切れ』を知らせるためのものだ。
「なっ……もう、魔力が……?」
これまでの戦闘を振り返ってもまだナイフに熱を通した程度では魔力切れが起こるはずが無い、となれば思い当たる節はただ一つだ。
「この粘液……魔力まで……」
段々と息の荒くなってくる自分を奮い立たせるように原因を口にする
拳太は息苦しさが増してきた中でも必死で魔力をできるだけナイフに通そうとする、肝心のナイフの方は段々と熱を帯びてきたがこの肉壁を容易く両断することはまだ不可能だろう
「ぐ、ぅ……もう少し……もう少しで……」
感じる熱はもはや熱く感じるほどで、皮膚が溶かされ切るのも時間の問題、意識も朦朧とする中でもナイフに僅かな魔力を通し続ける
「ハァ……ハァ…………っ……」
いよいよ拳太の瞼が降り始めて、そして――――
「貴様……もう一度だけ言う、そこを退け!」
造魔の前にはレベッカを除いた拳太の仲間達とライオン女が一触即発の空気で佇んでいた。
両者から放たれるビリビリとした雰囲気は動物は勿論、小さな魔物さえ近づけない程の物だった。
「リヒテンを殺させる訳にはいかん、聞けないな」
「ならば……力ずくで押し通させていただきます」
ベルグゥは武術の構えをすると己の体が一気に膨張したと錯覚するほどの闘気を纏う、しかしそれにもライオン女は怯む様子はなく、寧ろ口元に楽しそうな笑みさえ浮かべていた。
「フン、やれるものなら――」
やってみろ、そう続けようとした瞬間に変化は起こった。
造魔の瞳から赤い液体が吹き出して、涙のように流れ始めたのだ。
そして瞳の造魔の体が段々と白色から紫へと濁り始める
「何……? 一体どうした!?」
「まさか、もう復活すると言うのか!」
造魔の挙動に一同が見守る中、肉と肉がキツくぶつかり合うような音を立てながら瞳の瞳孔を閉じたり開いたりを繰り返している、そして
「――アアアアアァァァ!!」
瞳からナイフを突き出した腕が飛び出し、そこから黒い服を着用した金髪の少年が産まれるように這い出てきた。
蠢き、捩り、もがき続けて瞳を破壊しながら地面へと落ちる
造魔も瞳を壊されたせいか液体を吹きながら一気に体積が萎み、萎れたカブのようになってしまった。
「ケンタ様っ!!」
バニエットはその姿を見て一目散に駆け寄る、ラビィ族の強靭な脚力でたった二歩で拳太の元へとたどり着いた。
「ケンタ様! ケンタ様!」
バニエットが呼び掛けても目の前の少年は言葉を発しない、息が荒いので生きてはいるのだろうが、まるで熱湯を浴びたかのように指先まで真っ赤な皮膚を見ているととても無事とは思えない
「ううっケンタ様……どうしよう……」
「バニエットちゃん! 私が応急処置をするのです! ちょっと横に逸れてください!」
やって来たアニエスの指示に従い、バニエットは処置がしやすいように拳太の側を少し離れる、アニエスは杖の先を拳太に向けると淡い光を走らせて治療を開始した。
「ベルグゥ! 治療のしやすいように服を脱がせろ!」
「畏まりました!」
ベルグゥはレネニアの指示が出されると同時に拳太の衣服を刺激しないように取り払おうとする、だが拳太の学ランが異様に膨らんでいるのを見てそこを剥がして中を確認する
「こ、これは――」
「リヒテン!? ……間違いない、リヒテンだ! コイツはリヒテンだ!」
拳太が持っていたのは中が透けて見える紫色の繭だった。
その中にはバニエットと同い年位の少女が胎児のような格好で眠っている
「少年が引きずり出したようだな、あの中でよくやる……いやそうせざるを得ない状況だったのか?」
思案するレネニアを他所にライオン女は繭を大切そうに持ち上げて目元に涙さえ潤ませている
「そいつを持って離れろ、邪魔だッ!」
「あ、ああ!」
レネニアの気迫に押されるようにライオン女は繭を抱えたまま拳太の側を離れる
「よし、シスター! そのまま治療を続けてくれ!」
「分かったのです!」
治療を終え、拳太の容態は取り敢えずは落ち着いた。
現在は残ったメンバーで集まり、話し合っている
「リヒテンを助けてくれて、本当に感謝する」
「それは少年に言うべきだな、私たちはその子を殺そうとした」
と言っても先程の不穏な空気は大分と和らいでいた。
未だにレネニアは勿論、バニエットやアニエスもライオン女にはあまり友好的ではないがそれは仕方がないだろう
「……わかっている、その者には我が国が可能な限り最適な治療を施そう」
「そうこなくてはな」
ライオン女の提案にようやくレネニアはその表情を普通に戻しベルグゥの肩に飛び乗った。
「では早速出発するとしよう、丁度従者も到着したようだしな」
とレネニアが言い終わると同時、大量の足音と荷馬車の音が遠方から鳴り響く、たどり着いた兵士達は大急ぎで来たのか全員が疲労した様子だった。
「お、王女様……もう少し遅めに行ってください……」
「馬鹿者、貴様らがもう少し速くなればいいだけの話だろう」
ライオン女の理不尽な物言いにも兵士達は苦笑で返す、きっといつもの事なのだろう
「さて……早くその者を連れていくぞ、アドルグアの城へと案内しよう」
レネニア達は拳太とレベッカを丁重に馬車に乗せると、ライオン女率いる兵隊達へと着いていった。
馬車を走らせて数日後、レネニア達はアドルグア自然国の首都『グリーン・ネプチューン』にたどり着いていた。
その間にレベッカの意識は回復したが、拳太は未だに眠ったままだ。
「すごい人だかりですね……」
「きっとリヒテンって人が助かったからじゃないかな? ボクはよく覚えてないんだけど……」
レベッカはまだ気だるい体を伸ばしながら漠然と集まっている人だかりを見る
集まった民衆は誰もが笑顔を浮かべており、その歓声は一番遠くにいる彼女達にさえ騒音に聞こえる程だ。それだけでこの国がどれだけ固い結束で結ばれているのかが伺える
「この光景は……さ、きっとケンタのおかげなんだよね」
レベッカの呟きにバニエットは顔と耳を彼女の方へと向ける、レネニアとベルグゥも、振り返る事はしなかったがレベッカの言葉に聞き入っていた。
「でも、その真実を伝えても……ここの人たちは、信じてくれるのかな?」
レベッカが何を言いたいのかなんとなく察したのか、レネニアは静かな口調で口を開く
「まず、不可能だろうな……この国の王が言ったのなら話は別だが、素直に納得してくれるかは別だ」
「そっか……」
レネニアもレベッカも、その静寂な姿勢を崩さない、それは何でもないように見えて、何かを凌ぎ、耐えているようでもあった。さながら、川に削られていく石のように
「ボク……さ、前からずっと思ってた事があるんだ」
誰に言うでもなく、独白のようにレベッカが呟く、民衆に向かって伸ばした手は何を掴むでもなくゆったりと下ろされる
「ケンタはさ……バニエットに優しくしたり、アニエスとその神父さんを助けたり、瀕死のボクの力になってくれたじゃないか」
アニエスも治療を続けつつも、顔を俯かせて聞いている、未だ目覚めないボロボロの少年を見ながら
「悪い事はしてないのに……何でケンタはいつも誰からも誉められないのかな……それどころか、罵声を浴びせられて、挙げ句の果てには指名手配までされてさ……」
レベッカは微笑みを浮かべていた。だがその笑顔は悲しみを隠すための仮面である事は誰の目にも明白だった。
なぜならその笑顔は泡のように儚くて、すぐに砕けてしまいそうだったから
「今回だってそう、危うく造魔に殺されそうになって、死にかけて、こんな状態になっても賞賛はあの王女様だけだ。ケンタには何もない、集まった人達のたった一人にさえ感謝の一つもされない」
何故レベッカが今、この事を話し始めたのかは分からない、拳太が死にかけたのが原因か、それともその時何もしてやれなかった自分に対する叱責なのか
「いつもいつも、ケンタは報われない……こんなの、あんまりじゃないか……!」
肩を震わせるレベッカに誰も何も言わない、民衆の騒音さえ切り離された沈黙のなか、一人の少女の口が動いた。
「……信じればいいんですよ」
口を動かしたのはラビィ族の少女、バニエットだ。
彼女は自分のかけ換えの無い少年の手を握ってその瞳に少年の顔を映す
「私にはアニエスちゃんのように治療は上手く出来ませんし、レベッカさんのように剣を自由自在に操ったり、レネニアさん程魔法に詳しい訳でも、ベルグゥさんよりも力がある訳でもありません」
その言葉を言うのは、一体彼女にとってどれだけの勇気がいるだろう、己のコンプレックスを、その本人達の前で晒すのだ。
「でも、そんな私でもケンタ様を信じる事はできます、私たちがケンタ様の側にいて、どんな宝でも与えられないような幸せを、分けてあげればいいんです」
バニエットの言葉に、一同は思わず同時に一つ笑いを漏らす、その様子を見てバニエットは何か間違ったことを言ったのだろうかと顔を真っ赤にさせる
「え……ええっ!? 私、そんなに変なこと言いました!?」
「いいえ、バニエットちゃんは何にも間違っていないのです」
アニエスは優しい顔で拳太を見つめる、翡翠の瞳が穏やかに揺れていた。
「そうですよね……簡単で、当たり前の事なのです。例え千人の人がケンタさんを憎んでも、それを上回るほど愛すればいいのですよ!」
力強く握り拳を作るアニエスに、レベッカは眉をハの字にしながら苦笑する
「アニエス、その言い方だとまるで奥さんみたいだよ」
レベッカとしては軽口のつもりだったのだが、アニエスはその言葉に一気に耳まで赤くして、両手を頬に当てて何を考えたのか首を振っている
「しかし、あながち間違いでも無いかもな? それはまるで家族が身内に対する愛情の様なものだ」
「ホッホッ……それでは祖父が私で、祖母はレネニア様と言ったところですかな?」
「なッ……! 私はまだ若いぞ!」
レネニアとベルグゥを始めとし、馬車の中にも和やかな騒ぎが広まる、そしてその中の全員が奇しくも同じことを同時に思っていた。
――この少年を愛そう、例え世界が敵に回っても……と
遠藤拳太の仲間達が、より深く拳太の『味方』となった瞬間でもあった。