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第一章 風呂好きに悪い奴はいない


 お風呂とは生き甲斐だ。お風呂とは人生だ。

 お風呂は一日の総決算の場である。終わりよければすべてよし、どれだけ悲惨な一日を送ろうとも、風呂に入って汚れと垢を落とし、嫌な思い出をお湯と共に流してしまえばまた明日を生きて行く活力となる。

 それが鵜飼高校二年生、鴨川静人の持論だった。

「はあ~~~~~~。いい湯だなぁ」

 熱い湯があまりに気持ちよくてついついおっさんのような声を出してしまう。でもそれだけ風呂というものは人間を無防備にするものだ。

 静人は風呂に入っていた。白を基調にしたタイル張りの清潔感のある浴室で、洗い場には大きな姿見が壁にかけられている。今日一日の疲れを癒すにはやはり風呂が一番だ。

(ほんと風呂は極楽だよ)

 浴槽は狭く、足を延ばすことができないが、むしろそれが居心地いい。大浴場で伸び伸び入るのもたまらないが、こじんまりとした浴槽も悪くない。幼い頃に段ボール箱の中に入り込んだ時のような妙な安心感があるのだ。

(これならあと一時間は入っていられるな)

 湯に身を預け、目を瞑りながら静人は一時の幸福を堪能する。

「鴨川君。入るぞ」

 ガチャリ、と突然浴室のドアが開かれた。

(今の声ってもしかして)

 恐る恐るドアの方へと視線を向けると、そこには全裸の美少女が立っていた。

 高級なシャンプーとコンディショナーを使っているのだろう、さらさらとした長い黒髪が艶やかに輝いている。

 強気な印象を受ける逆八の字の眉毛に、凛とした瞳。女剣士を思わせる丹精で整った顔立ちは目を奪われるほど美しい。

 何よりも目を引くのはそのプロポーションだった。

 タオルで体の全面を隠しているが、その下はまったくの裸だ。白い肌が大胆にも覗いている。彼女は身長も女子高生にしては高く、すらりと伸びた手足はまるでモデルのようだった。

(そにしても、やっぱりでかい)

 ゴクリ、と思わず生唾を飲み込んでしまう。

 タオルの下からでもはっきりわかるぐらいに、彼女が持つ二つの膨らみは大きくて豊かだ。まるでメロンのようにたわわに実っている。タオルの生地からはみ出して、わずかに横乳が見えてしまっている。

 おっぱい。それは男のロマンだ。夢だ。思春期の男子にとってある意味毒と言える存在がすぐそばにあるという現実に静人は顔を赤くしてしまう。

「ななななななな、なんで入ってくるんですか柚菜先輩!」

「決まっているだろう。わたしはキミと一緒にお風呂に入りたかったんだ」

 静人が咄嗟に湯船の中に顔を突っ込み、彼女――柚菜の裸体を見ないようにしていたが、平然と言ってのけた。

(俺と一緒にお風呂に入りたいだって! そんなバカなことがあるか!)

 高校生の男女が一緒に裸でお風呂に入るなんて不健全なことはない。いや、ある意味健全なのだろうか普通許されるわけがない。

 ましてや自分と柚菜は恋人同士というわけでもない。あくまで先輩と後輩の関係だ。

「さて、じゃあわたしは体を洗うから、まだ鴨川君はお風呂を出てはいけないよ」

 そう言って柚菜は長い髪を頭の上で束ねてゴムで止めた。綺麗なうなじが見え、その仕草に思わず胸がときめいてしまう。

 なんなんだよこの状況! 混乱した静人が硬直していると、

「何してるの静人! 据膳喰わぬは男の恥よ!」

 という声が聞こえてきた。

 直後、湯船の中から十四人もの小人が姿を現した。

 みな一様に同じ顔をした女の子で、身長は静人の親指程度しかない。彼女らは水面の上に立ってわーわーと騒ぎだした。

「こんな好機、二度とないわよ!」

「そうだそうだ。女の子に恥をかかせるな!」

「見てみなさい。あれは合図なのですよ!」

 小人の少女たちは面白半分に静人を煽り出っていた。

(こいつらこんな時にまで姿を現しやがって。しかも無責任なことを言ってばかりじゃないか)

 小人たちの声にうんざりしながら、静人は湯船に顔を沈める。

 きっとこんな状況になったのもこいつらのせいだ、と静人は心の中で思った。そうだあれは高校に入学した時から始まった――



第一章 男涙の大浴場



「十三代目の門出の日に、バンザーイ!」

 まだ日が明けたばかりの薄暗い駅のホームで、大勢の人たちが一人の少年の旅立ちを見送りに来ていた。

 白線の後ろにずらりと並ぶのは旅館『鴨川温泉』と刺繍された甚平を着た老人と、着物姿の仲居さんたちである。『がんばれ十三代目』と書かれた旗を振っている者も中にいた。

「ちょっと、よしてよ源さん。他の客に迷惑だから」あちこちから痛い視線を感じ、静人は声を潜めて老人に言った。「気持ちは嬉しいけどこういう派手なのは……それにまだ俺は十三代目じゃないですし」

「何を言いますか坊ちゃん。あなたは今日都会の高校へと旅立ち、戻ってきた頃には立派な成人に育っているでしょう。その時はあなたが『鴨川温泉』の若旦那なんですから」

「俺は継ぐ気ないんだけどな……」ぼそり、と呟いたが誰も聞いてはいなかった。

 静人は駅のホームまで漂ってくる硫黄の臭いに鼻をひくつかせる。

(そうか。もうこの変な臭いともしばらくはお別れなんだ)

 ホームから静人は己の故郷を見渡した。

 生まれ故郷の鹿島浦は九州のド田舎にある温泉街である。源泉からしかれた温泉が人気で、多くの観光客に恵まれていた。

 数ある旅館の中でも静人の実家の『鴨川温泉』は一番人気で、江戸から続く由緒ある旅館であった。百人を超える従業員を雇い、森のさちをふんだんに使った料理は批評家の下をも唸らせて、浴室には十種類もの温泉が用意されている。

 鴨川家の長男として生まれた以上、この家を継がなくてはいけないと幼い頃から言われ続けてきた。だけどそんなのはごめんだ。こんな田舎で一生を過ごすなんて真っ平だ。そう思うと故郷を離れるという寂しさよりも、これから行く都会への期待に胸が高まる。

 この田舎から出て行き、煌びやかな青春を送るために静人は都会の高校を受験した。血の滲む受験勉強は今思い出すだけでも胃が痛くなる。

(そうだ。こんな硫黄臭いところには二度と戻るもんか)

 静人は決意を新たにして源さんにお別れを言った。

「ちょっと静人~~~~! そろそろ電車発車するよ~~~~~!」

 先に電車に乗っていた鹿目井奈琴がそう言った。

「わかってるよ。ちょっと待てよ」

「待てないわよ。置いてくよバカ!」

 プンプンと怒りながら奈琴は扉の際に立った。くりくりとしたアーモンド型の瞳に、赤毛かかった長い髪を頭の左側面で横ポニーテールにしていた。奈琴は静人の同い年の幼馴染で、これから同じ都会の高校へと向かうことになっているのだった。

「奈琴ちゃん。迷惑だと思うけど、うちのバカ息子のことは頼んだわよ」

 そんな奈琴に静人の母親が心配そうな顔で言った。がっしりと奈琴の手を掴み、懇願するような目で見つめている。

「はあ。大丈夫ですよおばさん」

「母さん! そういうのはいいから!」

「あなたも気を付けるのよ静人」と母は真剣な顔で静人に顔を向ける。「鴨川家に伝わる“力”のことは絶対に知られてはいけないわよ」

「……わかってるよ。じゃあ俺たちもう行くから」

「じゃあもう一度、十三代目の門出に、バンザーイ!」

 源さんと仲居、それに母親に見送られながら静人と奈琴は電車の座席に腰を下ろした。やがて扉が閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。

 流れていく故郷の景色を見ながら静人は期待と不安を抱いた。

(そういえば結局父さんは見送りに来なかったな)

 あれだけ都会に行くのを反対していたし、そりゃそうか、と静人は厳格な父の顔を思い浮かべる。もし自分が家を継ぐ気がないなんて言ったらどれだけ怒るだろうか。今から将来のことが嫌になってくる。

 ふと、窓から外の風景を眺めていると旅館『鴨川温泉』が目に入った。相変わらず無駄にでかい旅館だ。窓からはちょうど竹柵に囲まれた温泉が見える。

 その竹柵の上に小さな人影が見えた。

 ここからでは米粒程度の大きさにしか見えない。横並びに三十人程度立ち、こちらへ向かって手を振っているようだった。

(あいつら、俺を見送ってんのか)

 しばらく連中ともお別れなんだな。まあ、きっと向こうでも会うことになるんだろうけど。さほど名残惜しくもなく、静人は小人たちから目を逸らした。

「これから新幹線に乗り換えて、そこからまたあっちの電車に乗り換えてバスに乗り換えて歩いて学校へ向かうんだから、今の内に体を休めておいた方がいいわよ」

 雑誌を広げながら奈琴が言った。そんなこと言われるとどっと疲れてくるからやめてほしいと静人は思った。


     ○


 静人が入学する私立鵜飼高校は一二を争う名門校である。

 近代的デザインの巨大な校舎に、広大な敷地。勉学だけではなくスポーツにも力を入れていて、野球部などは甲子園の常連だった。こんなレベルの高い学校に静人が入学できたのは奇跡だった。

「今日からあなたたちは鵜飼高校の生徒として、節度を守り、勉学や運動に励み、将来の糧となるよう、この学校の恥にならない生活を送ってもらいたい」

 でっぷりと太った校長先生が壇上で祝辞を行っていた。

 校長の話はもう三十分以上続いており、体育館で話を聞いていた新入生たちは緊張と尿意との戦いにげっそりとした顔をしている。

 鵜飼高校へ無事やってきた静人と奈琴は入学式の退屈さを味わっていた。

「ちょっと静人。寝ちゃダメよ」

 隣に座っている奈琴がコックリコックリと船を漕いでいる静人を肘でつついた。

「んあ……」

「だから言ったじゃない。電車で寝ておきなって。ほんとダメ静人ね」

「うう。しょうがないだろ。眠れなかったんだから。それにしても奈琴、お前その制服……」

 静人は奈琴の姿をじっと見つめる。中学の時は指定のやぼったいジャージ姿ばかり着ていた奈琴であるが、今は鵜飼高校のセーラー服だった。黒を基調にしたデザインで、絵里は白。大きなリボンがついていて可愛らしいデザインである。スカートもチェックでオシャレだった。

「え?」と静人の視線に気づき奈琴は顔を赤くする。「似合ってる?」

「馬子にも衣装だな――げほっ!」

 強烈なエルボーが横腹に放たれた。口は災いの元である。

「そういうあんたは学ランで代わり映えしないわね」

「男は黒の学ランでいいんだ」

 校章以外は中学の頃とデザインは変わらないが、それでも新しい学生服に身を包んでいると気が引き締まるような思いである。

「以上、校長のありがたいお話でした。続きまして在校生代表による新入生の歓迎のお言葉です」

 パチパチパチと拍手が響き渡る。

「まだ続くのかよ入学式」

 うんざりしながら俯いていると、わあっという歓声が新入生の中で上がった。

(なんだ?)

 何か珍しいことでもあったのか。ついつられて静人は顔を上げる。そして他の生徒と同じように「おお」と声を出してしまった。

「わたしは明日から二年に上がる芹沢柚菜だ」

 緊張で張りつめた体育館に、凛と澄んだ声が響き渡った。柚菜と名乗った女子生徒はマイクを使っておらず、素の声だけで一番後ろの席まで声を届かせている。

 新入生たちは柚菜が持つ美貌から目を離せなくなっていた。

 長い黒髪はときりっとした眉は大和撫子を思わせる美しさを持ち、腰の高さが他の人たちとは違い、すらりと黒タイツが穿かれた足で壇上を上っていく。スレンダーな体型の中で胸だけがセーラー服の生地を押し上げてぷるぷると揺れている。

 男子は心を奪われ、女子たちは憧れを抱いた。

 静人も例外ではなく、柚菜の激励の言葉に耳を傾けながらも目が離せない。さきほどまでの眠気や退屈なんて嘘のように吹っ飛んでしまった。

「へえ。すごい綺麗な人だね」

「あ、ああ」

「何よ。惚れたわけ。そんなに顔真っ赤にしちゃって。無理よ無理。こういう挨拶する人って大抵テストで学年一位とかでしょ。釣り合わないわよ」

「わかってるよ。そんなこと望んじゃいないって」

 奈琴にからかわれてムッとしたが、図星だった。

 少しぐらいそんな妄想に浸ったっていいじゃないか。これから楽しい高校生活が待っているというのに嫌なことを言う奴だ。もしもあの人と恋人になれたら、それはきっと人生が光り輝くだろう。

「長々と語ることはない。わたしがきみたち新一年生に言いたいことはただ一つだ。きみたちには輝かしい高校生活が待っている。臆することなく何事にもチャレンジし、悔いのないように青春を謳歌してくれ! 以上!」

 校長とは異なり、スパッと話を切り上げて柚菜は切れのある動きで壇上から降りていった。わずか数分の歓迎の挨拶だったが、彼女の強気な声と美しさは誰の心にも刻まれていたのだった。

「続いて新入生宣誓――」

 入学式はまだまだ続いたが、静人は柚菜の顔が頭にちらついて先ほど以上に集中することができなかった。


     ○

 

 入学式が終わった後、新入生たちは各々のクラス割が発表され、それぞれの教室へと向かっていった。

「まーたあんたと同じクラスじゃない!」

 クラス表に二人の名前を見つけ、奈琴は心底癒そうな顔をしてみせた。うんざりしていたのは静人も同じである。これまでの小学校の六年間、中学での三年間までずっと奇跡的に同じクラスであったのに、まさか都会に出て高校に来ても、こいつと同じクラスになるなんて信じられないことだった。

(発酵する勢いだぞこの腐れ縁は)

 しかも鴨井と鹿目井と名前順の席では奈琴が後ろに座ることになる。これでは今までも何ら変わり映えしない。

「でもまあ、ちょっとホッとしたわ」

 窓際の席に座った奈琴は、髪の毛をくるくると指で丸めて顔を赤くしながら呟いた。

「なんで?」

「なんでって……不安じゃない。いきなり知らない子ばかりの教室に入るなんて」

「へえ」いつもつんけんしている奈琴がそんなことを言うなんて珍しい。思わずニヤニヤしてしまう。「お前でもそういう気持ちになるんだな」

「当たり前でしょ! あんたみたいな能天気バカと違ってあたしは繊細なの。乙女なの。べ、別にあんたがいて嬉しいってわけじゃないからね。ただ最初ぐらいは知り合いがいたほうがいいなーってぐらいで」

「わかったわかった」

 奈琴の気持ちは静人もわかった。確かに誰も友達のいない教室よりは、腐れ縁だろうと知り合いがいる方がよっぽどましだ。特にこの学校に通う生徒たちは都会の子がほとんどであろうし、田舎者の自分がどこまで馴染めるかわからない。

「おーいお前たちちゃんと席につけー」

 そうこうしている内に担任教師が教室に入ってきた。男勝りな印象を受ける眼鏡をかけたジャージ姿の女性だった。まだ若く、まだ二十代のようである。

「あたしは笹島笹子。今日からお前たちの担任の先生だ。担当は数学だ。ビシバシ厳しくいくからな。よろしくなー」

 美人な先生だなーっと静人が頬杖をついていると、

「しずと~~~~~~~~!」

 という頭が空っぽのような阿呆みたいな声が響き渡った。

「げっ!」と突然の大声に思わずビクリと体を撥ねさせてしまう。

「どうしたー。そこの奴?」声を上げた静人に笹島が言った。

「す、すいません。なんでもないです」

 静人は嫌な予感がしつつも声のする方向、窓を見た。

 まさか。嘘だ。ここは学校だぞ。あいつらがいるわけがない。そんな風に考えても、先ほどの声は間違いなく奴らだった。

「しずと~~~。こっち向くのだ~~~~!」

 窓の向こう側には小人がいた。

 人形のようなおかっぱ頭の女の子で、その愛くるしい容貌は人間の顔をデフォルメしたらこんな間抜けな顔になるんだろうなと思わせる。彼女は丈の短い浴衣を身に着けており、手ぬぐいを羽衣のように首からかけていた。

 小人は窓に顔を張りつけながら静人の名を呼んでいる。

(な、なんで。なんで学校に“湯の神”がいるんだよ)

 思わず彼女から目を逸らしてしまう。するとちょいちょいっと後ろの席の奈琴がつついてきた。

「ねえ、どうしたのよ。まさかアレがいるの?」

「ああ。いるんだよ。そこの窓に“神様”がな」

 深い溜息を吐きながら静人は頭を抱える。なんでここまで来て連中に呼び出されなくちゃいけないんだ。

 無視だ。無視。あとで罰が当たっても今はとにかく学校の方が大事だ。

「しずと~~! 無視はいけないのだ。とにかく大変なのだ」

「大変って何がだよ」

「あっちで女の子が倒れているのだ」

「え?」小人の言葉に静人は真顔になる。「それほんとか?」

「ほんとなのだ。とにかく来てほしいのだ」

 小人は落書きのような顔のままだが真剣に訴えている様子である。構って欲しくて嘘を言っているようではないようだ。

「…………」

「早く! 早くするのだしずと~!」

「………………………………」しばらくの間静人は考え込んだ。そして意を決し、教師が話をしている途中に思い切り手を挙げた。「先生!」

「はあ。またお前か。次はなんだ?」

「うんこ行っていいですか!」

 教室が凍りつくのを静人は感じた。


     ○


 江戸の世から続く旅館『鴨川温泉』。代々鴨川家の長男には不思議な力が宿った。

 それは“神との対話”である。

 日本には八百万の神々が住んでいるという。万物のあらゆる物に神が宿っているという概念である。その八百万の神の内、『お風呂を司る神』――すなわち“湯の神”を視ることができ、会話をすることが鴨川家の人間には可能だった。

 湯の神の力を用い、鴨川の温泉は繁栄したのである。

 それは静人も例外ではない。

 静人もまた全国、全世帯に存在する湯の神を“視て”“話す”ことができる。

 もっとも、静人はその力を鬱陶しがっていた。



「しずと。こっちなのだ!」

「こっち、こっち」

「遅いのだ。走るのだ!」

 トイレへと行くふりをして教室を飛び出し、校舎を抜けた静人を待っていたのは宙を浮かびながら待ち構えていた何十人もの小人――湯の神たちだった。

 湯の神たちの容姿は全員同じで、浴衣の色や模様はそれぞれ個性があった。彼女たちは意識や記憶も全員共有しているのか、静人のことを知っているようである。

 地元を離れても結局湯の神からは離れることができず、入学初日からこんな目に合うなんて本当についていない。

 湯の神は群れになって人文字のように矢印を作り、静人の進行方向を指していた。

(それにしても広い敷地だな)

 パンフレットで確認はしたものの、実際に走り回ってみると鵜飼高校の敷地面積は相当なものである。植物園みたいなものばであり、静人は木々が生い茂る自然の多い敷地を走っていた。やがて「ここ! ここなのだ!」と湯の神が指した方向に建物を発見する。和風な印象を受ける造形で、屋根は瓦で出来ていた。茶道室か何かだろうか。

「この中で人が倒れているのだ」

 湯の神は集まってわーわーと騒いでいる。

「よし。わかった」静人は小屋の引き戸に手をかけた。だがピクリとも動かず、どうやら鍵がかかっているようだった。「ちっ、どうすれば」

「しずと、こっち。こっち」

 湯の神は静人の袖を引っ張り、反対側へと連れていく。そこには格子のついた窓があったが、当然鍵がかかっている。しかも生地の厚いカーテンが閉められており、中の様子はまったくわからない。

「しずと。この中、お風呂なのだ」

「この中が風呂ぉ? 都会の高校って学校に風呂があんのか?」

 シャワーならともかく風呂があるなんて知らなかった。でもこの先が風呂ならば、手はある。

「おいお前たち、風呂の中の奴らに言ってカーテンを開けさせてくれ」

「わかったのだ」

 湯の神たちは一斉に目を瞑り、拝むように手を合わせた。恐らく風呂の中にいる湯の神たちに今の言葉を送っているのだろう。やがてシャっとカーテンが開かれ、中にいた湯の神が姿を現した。

「しずと、あの子なのだ。早く助けるのだ」

 静人は格子に握り締め、中の様子を覗いた。

 そこには裸の女の子が浴槽の中でぐったりとしながら意識を失っていた。

 裸体の彼女の肌は赤くなっており、顔も真っ赤だ。湯船からは湯気がモクモクと立っており、どうやら熱い湯に浸かりすぎてのぼせてしまったのだと静人は判断した。

「やばいぞこりゃ」初めて見る女性の裸に興奮している場合ではない。どうしたらいいのだろう。「おいお前たち、頼む。湯の温度を下げてくれ。でも冷水にはするなよ、身体を急に冷やしたら危ないからな」

「わかったのだ~~~~~~~!」

 風呂場にいた数人の湯の神たちは静人の言葉に従い、それぞれ縁に立ち、手を広げて神の力を湯船に送った。

 だんだんと湯の温度が下がっていっているようで、湯気は減っていく。そのせいか湯気で隠されていた女の子の顔や胸やお尻がはっきりと見えるようになった。

 見てはいけない。そう思ってもついつい見てしまった。

「あれ? この人って」

 その女の子の顔には見覚えがある。ついさっきのことだ。間違いない。長い髪は束ねられているが、その顔は先ほど入学式に出ていた芹沢柚菜のものだった。

(なんであの人が風呂に入ってるんだ!)

 静人はパニックを起こしていた。先ほど憧れを抱いたばかりの柚菜の裸を見てしまうなんて、どんな高校生活の始まりだ。柚菜のたゆんっと弾む乳房となめらかな肌が刺激的である。

(いやらしい気持ちになってる場合じゃない!)

 そんなことよりもやるべきことをしなくてはいけない。

「芹沢先輩! 目を覚まして下さい!」静人は格子を叩きながら必死に呼びかける。鍵がかかっている以上、中に入ることはできない。あとは声をかけるしかなかった。

「んん……ん」

 風呂の温度が下がったおかげか、柚菜はわずかに意識を取り戻したようである。

「すぐにお風呂から出て下さい。それから頭に水をかけて、水分を補給して……とにかく人を呼んで来ますから横になってて下さいね!」

 あとは誰か女性教師に頼んで彼女を保健室に運んで貰おう。そう思い格子窓から離れようとした瞬間のことだった。

「おいてめえ! そこで何してるんだよ覗き魔!」

 激しい罵声が静人を襲った。恐る恐る振り向くと、そこには眉を吊り上げて睨み付けている女子生徒の姿があった。

 彼女は柚菜にも引けを取らない綺麗な少女だった。

 セミロングの金髪は太陽の光に反射して煌めいており、こちらを睨む瞳も宝石のように青かった。彼女はセーラー服ではなくブラウス姿だったが、柚菜よりもさらに一回りバストが大きいのか、ボタンが閉まりきらず胸の谷間と黒いブラが僅かに見えてしまっている。彼女が動くたびに胸もたゆんやゆんっと波打つように揺れていた。規定よりも短いスカートからはすらりと長く、だがやや肉感的な生足が伸びている。

 なんてエロい見た目の子なんだ。グラビアアイドルが裸足で逃げ出すレベルだ、と静人は思った。

「いや、ちょっと待ってくれ。俺は覗き魔なんかじゃない!」

「言い訳はあの世でするんだな。女の入浴を覗き見ようなんて男の風上にもおけねえ卑劣な奴だ。それに今は柚菜が風呂に入ってるはずだしな」

「そうだよ。先輩が――」

「でも分かる。気持ちは分かるぜ。あたいもあいつの裸見るとよー、なんつーかぐっとくるっていうか。女のあたいですら妙な気持ちになって欲情しちまうんだよな。一度あいつの胸を不意打ちで揉んだことがあるんだけどよ、すんげー柔らかくて興奮しちまったぜ。ああ思い出しただけで涎が出てくるぜ。げっへっへ」

 目の前の金髪の少女はおっさんのような表情を浮かべて笑っていた。

(なんなんだこの人は……?)

 怒っているのかふざけてるのかわからない。

「まあともかくだ。あいつの裸を見ていいのはあたいだけだ。男には勿体ねえ。記憶が飛ぶまで蹴り飛ばしてやるぜ! どりゃあああああ!」

「待ってくれ! 先輩が風呂でのぼせて倒れてるんだよ!」

「そんな嘘が通用するかよ! 必殺錐揉みキ―――――――――――ック!」

「ぶげえええええ!」

 金髪少女の飛び蹴りを喰らい、静人は吹き飛ばされてしまった。

 だが彼女の靴の裏が顔面に当たる直前、確かに静人はスカートの中の黒い下着を確かに見たのであった。

「あのー。ちーちゃん。その子の言ってること本当みたいなのですよ?」

 いつの間にかその場にもう一人女子生徒が現れていた。彼女は随分と小柄で、前髪が長いのと度の厚い眼鏡のせいで顔が良く見えない。彼女は背伸びをしてなんとか窓から浴室を見つめていた。

「え? まじで?」小柄少女の言葉を聞き、気絶寸前の静人の胸倉を掴み上げている金髪少女はぽかんとした表情を浮かべたのだった。


     ○


「はっはっはっは。助かったよきみ。歓迎の言葉を終えた後にひとっ風呂浴びようと思ってついつい眠ってしまったんだ」

 小柄少女に団扇で煽がれながら柚菜はそう言った。

 のぼせてしまっていた彼女であったが、あれから十数分経った今ではすっかりよくなったようで、浴衣を着て畳の上で横になっている。

 あれから二人の女子生徒は小屋の中に入って柚菜を救出した。小屋の中には浴室の他に休憩用の和室もあり、静人を含む四人はそこで話をしていた。

「はあ。それはよかったです」

 蹴られたせいで顔に痣を作ってしまった静人は正座をしながら言った。人助けしたのにどうしてこんな酷い目に合わなくちゃいけないんだろう。

「きみには借りが出来たようだね。えっと、名前はまだ聞いていなかったな」

「鴨川静人と言います」

「そうか鴨川君。きみは命の恩人だ。高校生活で困ったことがあれば力になるぞ。なんでも気軽に話してくれたまえ」

 そう言う柚菜の台詞は格好よかったが、浴衣で寝たまま言われると威厳が無い気がした。

「あの、柚菜ちゃん。もうあんまり長湯はしちゃダメだよ。もしも長時間入るならヌルくしないと」

「ああ。心配かけたな」

 気分はいいのか、柚菜は体を起こして座り込んだ。ゆるい浴衣のせいか胸元や足の辺りがわずかに乱れ、どこに視線を向けたらいいのかドギマギしてしまう。

「そうだ」と柚菜は自前の扇子を広げて顔を煽いだ。「まだわたしの友人二人の紹介がまだだったね。こっちは中等部二年生の葛西絵美理君だ」

「え、絵美理です。十三歳です」

 小柄な眼鏡の女の子――絵美理はおどおどとした視線を寄越しながらぺこりと頭を下げた。その挙動は小動物的であり、中等部と聞いて納得した。彼女はまるで静人から避けるように柚菜の背に隠れてしまう。

「絵美理のことをあまりじっと見つめてやらないでくれ。この子はちょっと男性恐怖症の気があってね。こういう態度になってしまうのは仕方ないんだ。寛大な心で怒らないでやってくれたまえ」

「別に怒ったりはしませんけど……」

 見つめるな、と言われるとつい見てしまう。するとビクッと絵美理は体を震わせて顔を背けてしまった。

「ううううう。男が見てます。気持ち悪いですぅ……」

「え?」

「男の気持ち悪い視線が私に向けられてますぅ……うううう。吐きそうですぅ……どうして男なんて不気味な生物がこの世に存在するんですか。死んだらいいのにぃ」

「なんて酷いこと言うんだ!」初対面の中学生に辛辣なことを言われて、思わず静人は声を荒げてしまった。

「ほら、怒るな怒るな」

「怒りますよ先輩! この子はなんなんですか!」

「うむ。言い方が少し違ったな。絵美理は男性恐怖症というよりも男性嫌悪だな。まあこれには男である以上慣れて貰うほかあるまい」

「いいんですかそれで」

「うむ。それで、お前を蹴り飛ばした張本人のあやつは百瀬千夏だ」

「はっ、覗き魔に名乗ることなんかねーぜ」

 不遜な態度で千夏は言った。自分は少しも悪くないと言った風で、和室の隅で堂々と胡坐をかいて座っている。

「だから俺は覗き魔なんかじゃない」

 それだけははっきりしておかなければならなかった。誤解は早いうちに解く必要がある。

「はん。そいつは嘘だな。覗き目的じゃなけりゃここの風呂を覗くわけねーじゃねーか。いい加減ゲロっちまえよ」

「あのなあ。俺は今日入学式なんだぞ。ここがお風呂だなんて知ってるわけないだろ!」

「試験の時に一度来ただろ。そんなのは言い訳になんねーよ」

「受験の時にそんな余裕なんかねーよ!」

「じゃあなんでここにいたんだ。ここは新入生が辿りつけるような場所じゃねえんだぜ。そもそも今一年生はホームルーム中だろうが!」

「ううっ」千夏に問い詰められ静人は黙りこくってしまう。そういえばすっかり忘れていたが自分はトイレだと言って抜け出したのだ。早く戻らないと怪しまれる……いや、もうとっくにホームルームは終わっている時間だろう。

 入学初日からサボることになるなんて思ってもみなかった。

「そうだな。確かにこの時間に一年生が敷地内を歩いているのは怪しい。新入生以外の学年は明日から始業式だからこうしていられるわけだが」

 厳しい眼つきに変わり、柚菜は閉じた扇子を静人の首元に押し当てた。ただの扇子でしかないのに、なぜだか真剣の刃を当てられているかのように冷や汗が出た。

「なぜ君がわたしの入浴を見つけることができたのか、詳しい話を聞こうか」

 言えるわけがない。湯の神から直接話を聞いただなんて話したら、きっと頭のおかしい奴だって思われるに違いない。

「そうだぜ柚菜。こいつは確かにお前がのぼせてるところを助けたかもしれねえ。けどそれは結果論だ。こいつが覗き魔かどうかは、また別の話だぜ」

「そ、そうですぅ。私もそう思いますでぅ。男の人がお風呂を覗くなんて怖すぎます。キモ過ぎますぅ。あんな気持ち悪い男を野放しにしていたら『女子風呂会』の破滅ですよぉ」

「じょしぶろかい?」

 絵美理の口から聞き慣れぬ言葉が出てきた。なんだその『女子風呂会』って。

「絵美理。我が秘密組織の名を軽々しく口にするものではない。特に男子の前ではな」

「ご、ごめんなさい」

 柚菜にたしなめられ、絵美理は失言だったと顔を伏せる。

「まあよい。鴨川静人君、どうしても話せないのならば致し方あるまい。今回のことは不問にいたそう。風呂だけに水に流してやろうではないか」

「おい柚菜! いいのかよ!」と食い下がる千夏を遮り、柚菜は言った。

「しかし今日この場で見たこと、聞いたことは全て忘れることだ。特にこの『風呂場』のことは他言無用だ。もしも喋ったら……」

 スパッと柚菜は扇子を横に薙いだ。

 静人の前髪がはらりと落ち、ぞっと体が冷える感じがした。

「さあ。もう今日の事は帰りたまえ、命の恩人君」

 厳しい眼つきの柚菜。その後ろで睨み付ける千夏と、蔑視の眼を向ける絵美理。

(と、都会の女の子って……こわっ!)

 鴨川静人。入学初日にして授業を抜け出し、三人の女子生徒に迫られる(別の意味で)。

 高校生活に対する期待は、一瞬にして不安一色になったのだった。


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