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虎っぽいど。

作者: 烏丸四条

虎が、いた。

 僕の目の前を横切ったシルエットはまぎれもなく一頭の虎だった。

 なぜ直感的に虎だと確信できたのかはよくわからない。

 ただ放たれていた違和感を凶暴な猛獣のそれと人間の本能が感じ取り、それがたまたま今日学校でよく耳にした「虎」というキーワードを想起させただけだろう。

 まぁ理屈はどうだっていい。

 問題なのはここが校舎内ということ。それと、あまりにも暗くて人気が無いこと。

 今更になってようやく嫌な汗が思い出したように脇と額から流れ落ちる。

 ……そうだ、とりあえず逃げよう。

 なんで階段上った先の書道室から一頭の虎がのっそりと出てきたのかよくわからんしそもそもここは動物園なんかじゃなくて学校だろふざけんなよ、と心中で猛烈な勢いの抗議を飛ばしつつ、音を立てないよう慎重に階段を下りて元来た道へ戻る。

 今僕は夜遅くに学校へ忘れ物を取りに来たところだが、これは忘れ物を取りに行くどころの話じゃない。

 火事場の馬鹿力というのはまさにこういうシーンで発揮されるものだろうか。

 僕が目下直面している今の状況はどう考えても異常で、しかも生命の危機とみて間違いない。そんな状況下だからこそ今の僕はこれほどまでに存在感を殺して音を立てず、空気の流れさえ生じさせずにゆっくりと一ミリずつ階段を下りていけるのだった。

 やればできるじゃないか、僕。

「あ」

 と、優越感に浸っている場合ではなかった。

 気がつくと僕の右足は階段の端っこからかなりズレた虚空を切り、変てこな角度で次の段を思いっきり踏み外していた。

「うわぁぁぁぁぁぁ!!」

 僅かな気の緩みが僕の全身を階段から踊り場へ放り投げた。

 そのまま僕は重力に従うままに落下していく。落ちながらもカバンを手から放さずにしっかり握っていたのは不幸中の幸いだろうか。

 衝撃で背中をしたたかに打って肺の中の空気をすべて押し出された僕は、その場でうずくまって必死に酸素を求めることしかできなかった。

 階段の上にいる違和感に気付きながらも。

 グルルル。

 虎が喉を鳴らす低い音が嫌になるぐらいはっきりと聞こえた。

 全身の毛がびっしりと一本残らず粟立つ。

 たまらず僕は肉体の限界を超えたスピードでさっと起き上がり、階段を下りようと駆け出した。


 がおおおおおっっっっっ!!!!


 直後、腹の底から振るわすような獣の咆哮が響き渡る。

 それはともするとこの世の生物が発する音ではなかった。まるで魔獣の咆哮だ。

 四~五段飛ばして階段を飛び降りる。後ろから貫き抉るような殺意を向けられた僕は火事場の馬鹿力を遺憾なく発揮してこんな芸当をやってのけた。普通は二~三段を飛ばすのが精一杯だ。

 全身の筋肉を残らずバネのように激しく伸縮させて僕は廊下を全力で走り抜ける。

 後ろから獣の荒い息遣いとしっかりと地面を蹴る音が聞こえる。

 それらが一気に僕を焦燥で押し潰す。

 やばいやばいやばい……!!

 ここは一旦隠れたほうがいいか?!

 次々に流れる教室のドアの内、開いているものを見つけた僕は全力疾走のスピードを全く落とさずにドアへ身を滑り込ませた。

 虎はそのままドアを通り過ぎ、僕がいなくなったことに気付いてすぐに急停止した。

 そして間髪いれずに教室へ入ってくる。

 グルルルル。

 教壇を優雅に歩くそいつは暗がりの教室の中、鋭い眼光でこちらを睨む。

 お馴染みの、あのオレンジっぽい体毛にまばらな細い黒の縞が何本か入っている。

 だが図体はテレビやネットで見かけるものよりもずっと小さい。

 体重も七十キロ――下手したら五十キロ――にも満たないだろう。

 虎は前のドアからのっそりと入り、優雅に獲物を追い詰める。

 僕はとにかく手近の机と椅子を蹴っ飛ばして通路を塞ぎ、二~三キロはあるカバンを肩から下ろして臨戦態勢に入った。

 ……よし。飛び掛ってくるとこに一発かまして、そのまま逃げよう。

 度を越したパニックのおかげで、妙に冴えた頭はそんな無謀を企てた。

 だが、やるしかない。ここでちょっとでも逃げる時間を稼がなければどのみち追いつかれて食い殺される。

 はたして机で作ったバリケードを見た虎は、目論見通りにそれを飛び越えてきた!

 僕は目をつぶって歯を食いしばり、がむしゃらにカバンを振り回す。


 ごすっ。


 鈍い手応えと衝撃を感じた。

 反動で痛みと熱を持った手は遠心力に任せ重いカバンを放る。

 見れば虎が顎から横へ吹っ飛んでるではないか。

 派手な音を立てて机と椅子を薙ぎ倒して虎は壁にぶつかった。

 そしてそのままぴくりとも動かなくなった。

 ――――やった!! やったぞ!!

 ははっ、ざまーみろ!!

 いたずらを成功させた少年のように無邪気に笑って、僕は放ったカバンを取りに行った。

 カバンを肩にかけつつゆっくりと虎へ視線を向ける。

 暗くてよくわからないが、こいつさっきから微動だにしない。

 …………もしかして、僕が殺したのか?

 いや、でも向こうも僕をころそうとしていたから別にいいのでは?

 いやいや、だがいくら正当防衛にしても殺すのはやり過ぎだろ?

 倒れたまま動かない虎の全身を見渡す。

 姿形こそ猛獣といえどもその身に纏う覇気にしてはいささか薄すぎる。

 むしろ今にも目の前から消えてしまいそうなそんな儚ささえあるのだ。

 ……何かが変だ。この違和感はいったいなんだ?

 その違和感を抱くにつれ、虎に対する哀愁からか僕はなぜか罪悪感に捉われた。

 深みにはまりかけた僕はとりあえず虎が本当に死んでいるのか確かめてから去ることにした。

 このままではなんだか後味が悪い。

 ゆっくりと、慎重に虎へ近づく。

 そして屈んで胸の辺りへ耳を押し当て、ついでに喉の辺りにも手を当てた。

 まだ温かくふかふかのなんともいえない触り心地をした毛皮の奥へ意識を集中させて心臓の鼓動を探る。

 はたして――――虎の心臓はとくんとくんと動いていた。

 喉の辺りからもなんとなく脈打ってる感がある。

 僕はほっと安堵しつつ、さっさと虎から離れて教室を立ち去った。

 中身をぶち撒けたり転がったりしている机や椅子は放置したままだ。

 それからは万が一足音で虎が目覚めてはまずいと忍び足で廊下を歩いた。

 とりあえず虎のことは頭から締め出してさっさと家に帰ろう。

 さっき見たのはきっと夢か幻だったんだ。

「だからさっさと忘れて……」

 そう言いつつ僕は階段を下りて昇降口へ向かう。

 ここでいつものように靴箱から自分の靴を取り出して玄関を出れば、翌朝には虎が学校から異物として排除され、――それまでに何人か怪我をするかもしれないが――何事も無かったかのように学校は日課をこなしていくのだろう。

 まるで体の免疫機構のように。

 ……保健所とか来るのかな。

 それはそれで可哀想だけどせめて動物園に拾われてもらったらいいね。

 電気を落とされ、ぬりかべのように立ち塞がる靴箱の合間を足早に僕は歩く。

 靴を履き替えようとしたときだった。

 がたんと昇降口のどこかから物音が聞こえた。

 大した音じゃなかったけれど僕はびくっと全身を縮込ませる。

 …………何の音だ?

 頭の中は最悪のイメージを描くのに忙しくて、ロクに靴を履けるよう腕を動かしてはくれない。

 さっきよりも体感温度がぐっと下がったのは、熱くも無いのにまたやたらと冷たい汗が出てきたからだろう。

「くそっ! なんでこんなときに靴紐が――――!」

 焦って指を動かすばかりでどうにも上手く結べない。

 しかも手汗で紐が滑る。

 ええい、仕方ない。このまま走って逃げよう。

 解けたままの靴で逃げるのは転ぶリスクが大きくなるが、それどころじゃない。

 今、微光に映された人ではない影がそちらに映っていたのだから。

「うわああああああ!!!!」

 大声を上げて一目散に夜間外出用の内側からしか開かないドアへ僕は駆け出した。

 ――あと少し、あとほんの少しでこの狂った悪夢から逃れられるんだ!


 どさっっ!


 が、それは許されなかった。

 僕は背中を思いっきり何かに踏みつけられた。

 ただでさえ変な体勢で走っていた僕はそのまま無様に倒れて頼みの綱であったやたら重いカバンも投げ出してしまった。

 やられたとようやく分かったときにはすべてが終わっていた。

 僕は立ち上がろうとしたが虎は追い討ちをかける。

 前足で思いっ切り肩を踏みつけられ、後足で膝と脚の付け根を封じられた。

 のしかかる重みが妙に現実感を帯びていて、頭の中が空っぽになる。

 ゲームセット。

 さようなら僕の人生。

 普段靴箱の上に載せてある体育会系部活動のシューズやらスリッパやらが床に散乱しているのを見て、ああこいつ靴箱の上から――虎だけに――虎視眈々と機会を狙っていたんだなと僕は最後にそう思った。


■ ■ ■


 どれくらいそうしていたのか憶えていない。

 僕はただぎゅっと目を瞑っていた。

 だが、いつまで経っても分かりやすい痛みはやってこない。

 僕はゆっくりと目を開いた。

 目の前には変わらず虎がいた。

「ひっ――」

 目前まで迫る野生に僕は悲鳴を上げることさえ叶わなかった。

 やはり間近で見ると迫力が違う。

 だが相変わらず虎の纏う覇気は妙に物足りない。

 この分なら逃げ出せるか? さっきからじっとこちらを見ているだけだし。

 そこで前足の辺りに視線を向けたとき、ふと気付く。

 虎の爪先が真っ暗になっている。

 あれ、なんでこの辺だけこんなに光が無いの?

 その黒い染みのようなものはみるみるうちに虎の前足から胸、顔、後足へと広がってゆき、やがて全身を覆いつくした。

 まるで虎の姿形をとって不思議と立体感のある影のようなものが僕の目前にある。

 痛む素振りも、嫌がる素振りさえ虎は全く見せなかった。

 虎は、そこで何かの合図のように一声遠く咆える。

「な、なんだっ?」

 僕は呆然とその光景を見ていた。

 虎の咆哮に応えるように、影のような黒い染みの輪郭線がジャギのようにぼやけ始めた。

 ……やがてそれは少しずつ形を変えていった。

 前足の鋭い爪の部分は段々と丸みを帯びて細くなっていく。

 顔の部分も全体的に小さく丸っこくなって、体毛も消えていく。

 しばらくすると影は完全に虎からは程遠いものへ姿形を変えた。


 真っ黒くろすけみたいに、影に覆われた女の子が僕に上に覆いかぶさっていた。


 何が起きたのか全く分かっていない僕を尻目に彼女はものすごい速さで僕の上から飛び退いた。

 そのまま暗闇の廊下を走り去っていく。

 ……助かっ……た…………?

 肩透かしを食らったときの気分って今の気分に違いない。

 僕はのっそりと地面から起き上がり、制服についた砂埃を払い落とした。

 それから、落としたカバンを拾って僕も彼女のようにそそくさと夜の闇に紛れるのだった。


■ ■ ■


 虎徹絹華(こてつきぬか)という少女は大変無口な少女だ。

 容姿端麗、頭脳明晰、さらに運動神経抜群と、どこをとっても非の打ち所が無い。

 聞いたところによると彼女は書道部に所属していて、大会などではけっこうな成績をあげているらしい。

 なんでも幼少のころから書道を嗜んでいるとかなんとか。

 僕の前の席に座っている彼女は、朝一番から眠気を誘う教科筆頭の現代社会であるにもかかわらず全く視線を外すことなく先生の話を真面目に聞いていた。

 時折零れるような黒髪のポニーテールが揺れるのは、ノートを取っているからか。

 やがてチャイムも鳴り、生徒はのろのろと次の教科の準備を始める。

 そしてその光景は夕方になるまで繰り返される。

 その日はいつも通りに退屈な日課を消化して、僕は家に帰った。


■ ■ ■


 異変が起きたのは次の週からだった。

 授業中、ふと彼女の黒い髪を見て気がついた。

 黒い。

 いつも以上に、やけに黒いのだ。

 いや、暗いと言ってもいい。

 まるでそこだけ光のすべて吸収する無機物のように見える。

 とにかくそのぐらい彼女の髪は生物の一部であるという実感がしなかった。

 やがてその暗いインキみたいなものはなんと動き始めた。

 思わず驚いて声を上げそうになったが、ここはぐっと我慢。

 ちらっと左右に視線を走らせたが、誰もそれをおかしいと思っていないようだ。

 もしかすると見えてすらいないのかもしれない。

 僕はじっとその真っ黒くろすけみたいなやつを目で追った。

 そいつらは彼女の頭の部分に集まり、何かを形成している。

 影は少しずつ少しずつ角みたいなものを頭の左右に一対つんと形取り、やがて細部を調節して輪郭をはっきりさせた。


 ……どうみてもネコ耳だった。


 だが僕以外誰も気付いていない。

 先生でさえこの変てこな黒いものの存在に気付く素振りを全く見せない。


 ……これはとうとうおかしい。


 僕は幻覚でも見るようになったのか?

 だとしたら今すぐ黄色い救急車に乗り込んだほうがいいんじゃないか?

 心のお医者さんへ、れっつごー。

 ……その後授業中ずっと虎徹さんの頭の上に黒いネコ耳がついていた。

 周りは黒いネコ耳に気付いていないようなので、虎徹さんに直接「ネコ耳生えてますよ」と耳打ちするような愚行をもちろん僕はおかさなかった。

 そんなことしたら僕は本当に今の社会的地位を失ってしまう。

 だから、高嶺の花と名高い彼女が授業中にネコ耳を付けて、しかもそれが体の一部であるかのように時たまぴくりと動くのを見ていた僕は、笑いを噛み殺すのに必死だった。


■ ■ ■


「なあ、なんか最近こてっさん変じゃね?」

「ゑ?」

 僕はご飯を乗せた箸を運ぶ手を止めて呆けたように間抜けな声を出した。

 こいつは秋月彊(あきづきつよし)。高校入学してからの友達だ。

 なんだかんだと趣味や話題が合い、こうしてよく昼飯を共に食べている。

「いや、なんつーかさ。こう――――授業中よく寝るとか」

「ああー。確かに、ね」

 最近になって彼女は授業中よく寝るようになった。

 前までは――見た感じ――きちんと一字一句ノートを取っていたのに、今はすっかり授業時間が睡眠時間になっている。

「それと――――ほら。弁当の具が肉中心になったとか」

「へぇー。秋月そんなとこまでよく見てるね」

「語弊のある言い方はよせやぃ。たまたま目に入ったんだよ。前までは野菜中心の体に優しそうな精進料理っぽいものだったじゃん。どうしたんだろうなぁ~って」

「肉食べたくなったんじゃないの?」

「む。そうか。そうだな。最近まで肉食系女子とか言ってたもんな」

「いや、そもそも虎徹さんはそういうことには疎い方でしょ?」

「あれ? そうだっけ?」

「そうだよ」

 僕が見たところ彼女はクラスの女子と他愛無いお喋りを交わすことは無い。

 コミュニケーションは普通にとれるのだが、彼女は積極的にそういう輪に加わることをよしとしない。

 まさに孤高の虎といった感じ、か。

 ……皮肉にも彼女の苗字にぴったりのイメージだった。


■ ■ ■


 それから授業中の彼女の様子は日に日に変になっていった。

 ここ二~三日は虎徹さんの腰のあたりから暗くて長い尻尾のようなものが伸びるようになった。

 ……っこれは何の尻尾だろう。

 ものすごく気になる。

 待ち遠しかった授業終了のチャイムを聞いた僕は早速わざと机の下に消しゴムを落とした。

 他の人には見えてないといっても案外実体があって触れるかもしれない。

 そんな好奇心を胸に机の下に腕を伸ばした僕は、消しゴムではなくゆらゆらと揺れる黒い尻尾の方へ腕を伸ばした。

 


 むんず。



「ふにゃぁぁああああぁぁっっっっ!!!?」



 椅子と机の音でがたついていた教室に虎徹さんの奇声があがった。

 クラスの半数が反射的に虎徹さんを見た。

 ざわつく教室が若干静かになる。

 やっておいてなんだが、僕もすごく驚いて思わず上体を戻すときに机へ頭を打ち付けた。

「いったたたた……」

 後頭部を押さえて机の上に上体を戻すと、虎徹さんがこっちを見ていた。

 ……ネコ耳と尻尾が生えていた。

依杜(よりと)くんっ!!」

「え? なに? 虎徹さん。僕何かした?」

「っっっっっっ~~~~!!!!」

 彼女は顔を真っ赤にして声にならない声で抗議する。

 非難がましく僕を睨む虎徹さんの眼を、愛想笑いで流しながらよく見てみた。

 ……そうか。彼女の眼をみたときの違和感はこれだったのか。

 彼女の瞳孔はネコ科を思わせるように、すっと縦に細長く伸びていたのだ。


■ ■ ■


 授業中に眠ることのツケは、彼女には大きかったらしい。

「依杜くん、ちょっと現社のノート貸してくれない?」

 両手を前に合わせて虎徹さんは申し訳なさそうに僕に頼んできた。

 実を言うと僕も割りと眠らない方で、何気にノートはきちんととってある。

 ……ただし、数学を除く。

「いいよ。はいどうぞ」

「ありがとう!」

 そして彼女はぱあっと笑顔を咲かせるのだった。

 それをまともに直視した僕はなんだか気恥ずかしくなって、さっさと次の授業の準備を始めることにした。

 次は移動教室だ。

 去り際に虎徹さんの頭部を見てみた。

 ネコ耳が生えていた……。

 しかもすごい頻度でぴこぴこ動いている。

 ネコ科を思わせる肉球の付いた手や、頭から生えたぴこぴこ動く耳。

 影のように色彩を失ったそいつらは日に三十分現れては消える。それを何度か繰り返す。

 ここ最近見ていてわかったことだ。

 ……しかも、特に感情の振れ幅が大きいときに出易いらしい。

 この間朝から机に突っ伏していた彼女は運の悪いことに先生から当てられた。

 答えられなかった彼女が席に着いたとき、やはりネコ耳と尻尾が両方とも出ていたのだ。


■ ■ ■


「依杜~、お前最近こてっさんと仲いいじゃんかよ~」

「ゑ~。気のせいじゃんかよ~?」

 昼飯時にいきなりわけのわからないテンションで秋月がつっかかってきたからこっちも同じテンションで返してやった。

「そんなこたぁねえっつーの! 俺の勘が告げている」

 後半をすごく低くて渋い声で発音し、なおかつビシッと僕を指差す。

 ミステリの解答編で犯人を追い詰める刑事か探偵みたいな、そんな威圧感を秋月は滲むほど僕にぶつけてきた。

「秋月の勘はあてにならないよ?」

「なんでそこ疑問符なの?! ……まぁ、いい。最近こてっさんによくノートを貸してあげてるよな、お前」

「うん、まぁ」

 向こうが貸してって言うんだし。

「それだっっ!! この一級フラグ建築士めっっっっ!!!! よくも抜け抜けとあのこてっさんに……っ! 恥を知れっ!」

「はぁ……」

 別にそういう目論見があるわけではないのだが。

 そして昼休み中、秋月は僕に向かってけしからんけしからんと連発するのだった。


■ ■ ■


 今日は土曜で、日曜と月曜が休みになっていた。

 祝日がたまたま月曜に来たのだ。

 土曜学校に来ていたのは、模試を受けるためだった。ちなみに振り替え休日は、無い。

 今日は全校統一で、一年は午前中、二年と三年は夕方までがっつりと模試があった。

 模試の疲れから開放され、浮き足立って楽しそうに下校する生徒の合間を縫うように僕は歩いて図書室に向かった。

 今日中にどうしても完成させなければならないプリントがあるのだ。

 それをさっさと終わらせるために、今日は図書室に篭って一人作業をする。

 黙々と作業を続けていたら、いつの間にか最終下校時刻になっていて、僕は仕方なく作業の続きを教室でやって終わらせた。

 二時間もかかった。

 さて、仕事も終わったし帰ろう。と思ったときに僕は忘れ物を思い出した。

「しまった、借りた本を部室に置いてきてしまった……」

 疲れきった足取りで僕は暗い廊下を歩き、四階の隅にある部室を目指すのだった。



 その夜、ぼくは一頭の虎と出会った。




■ ■ ■


 週明けの火曜日。

 今週は体育が一回潰れたぞーと、僕は喜びのあまり高らかに叫びそうになっていた。

 正直虎に追われたときの筋肉痛がまだ取れていなかったから、体育のハードル走が無くなったことはとてもありがたかった。

 前の席へふと視線を向ける。

 すると、朝っぱらから虎徹さんはネコ耳と尻尾の両方を生やしていた。

 いつになく輪郭線のジャギも粗い。

 どうしたんだろう。

 なにかよくないことでもあったのだろうか?

 その正体を、僕はすぐ目の当たりにすることになる。


■ ■ ■


 成績上位五十名は漏れなく廊下に掲示されることになっている。

 授業の合間、トイレに行って教室へ戻るときに僕はちらっとそれを見た。

 ……いつも一位に名を連ねていた虎徹さんは、今回その表のどこにも名前を置いていなかった。

 そして、呆然とそれを眺める虎徹さんがいた。

 真っ黒くろすけみたいな影は、いつになく活発に脈動していた。


■ ■ ■


 彼女はいつだって孤高の虎であろうとしていた。

 ……家が厳しいらしい。

 幼少のころからエリートになるための徹底的な教育を施されてきた彼女は、人の下になることを潔しとせず、上に立ったとしても満足することなく妥協することもなくただ己を一心に精進させることを道とした。

 そういう風に人の上に立つことが彼女の『当たり前』となるのにそう時間はかからなかった。

 当然、そういう『当たり前』を当たり前に保ち続けることはいつからか彼女の自負心となっていた。自尊心となっていた。

 しかし、決して彼女はそれを表に出すことは無かった。

 幼少のころから一緒だが俺はそれを一度も見たことがない。

 人の上には立つが、あくまでも傍観者でいることを彼女は決め込んでいたんだ。

 そうしなければ抑え切れなかったから……。



 自分の心に光を当てたとき生じるカゲを。

 獲物を仕留めて愉悦に浸る、一頭の猛獣をかたどるカゲを。




■ ■ ■


 昼休み。

 虎徹さんは壊れた。

 突然席を立ち上がったかと思うと、彼女は見る間に真っ黒な影に包まれた。

 そして気がつくと、教室には一頭の虎がいた。

 皆、悲鳴と驚嘆を以ってそれを迎えた。

 蜘蛛の子を散らすように教室にいた生徒は隅の方か、あるいは教室の外へ逃げ出した。

 刹那、真っ黒な影のベールを脱ぎ捨てた虎は後ろの黒板の近くにいる男子生徒と女子生徒目掛けて突然飛び掛る。

 僕はそれよりも疾く、考えるより速く、行動を起こすよりも早く、飛び掛る虎の前に立ちはだかり、受け止めた。

 開いた口の牙が僕の左腕を刺して、抉り、食い込んだ。


 ……ああ、分かっていたとも。


 ドリル状のはんだごてで腕に穴を開けられ、さらに溶けた鉄を注ぎ込んでまた掻き回されるような、こんな痛みよりも。

 自分で勝手にずたずたにした傷跡をひたすらに隠して、勝手に心の奥にいくつもいくつも抱え込んで、それで勝手に化膿させて、それで苦しいことをまた隠して……。あとはそれを延々と繰り返す。

 そういう痛みの方がこんなのよりよっぽど痛いってことを僕は知っている。

「……そうだろ、虎徹さん……!」

 だから、もう終わりにしよう。

 そんなことで人が傷ついていいわけがないんだ。

 自分で勝手に傷ついて壊れていくのは――――もうやめてくれ。


 グルルルル。


 低い唸り声を出した虎は、血に濡れた牙を抜いて身を翻し、教室から走り去った。

 直後に、血が、腕から、あふれ出す。

 支えを失った人形のように、身体がふらりと重力に屈服する。  

「依杜!!!!」

 誰かが大声で僕の名前を呼んだ。

 机を支えに身体を持ち上げ、顔を上げる。

 それはこの場にいる誰よりも、堂々とした眼差しで僕を見据えていた。

「追いかけろ!!!!」

「お……おう!」

 他に誰がこうして背中を押してくれるというのだ。

 お前なら連れ戻せると胸を張って信じてくれるというのだ。

 

 ……だから、

 僕は日常を取り戻せる!

 

 止血する間も惜しい僕はふらつきながらも一頭の虎を追いかけた。

 幸い、地面に垂れている血痕のおかげでどこに行けばいいかは見当がついた。


■ ■ ■


 外は冷たい雨が降っていた。

 ぼやける視界の中、僕は傘も差さずに傷口を抑えて血痕を追いかける。

 その虎は人目につきにくい高架下の影にいた。

 冷たい雨に当たって冷えているからか、その虎は目に見えて小さく震えていた。

 僕はなるべく左腕が目に付かないようにさりげなく背中へ回しつつゆっくりと近づいていった。

「どうして……こうなっちゃったんだろう……」

 虎は小さく語る。

 声は彼女のそれと同じだった。

「いや、きっと私は分かっていた。傷つくことを恐れて遮二無二人の上に立つことばかり考えていた。上から傍観者として眺めて、もう自分は関係ないと、そう決め込んでいた。そうすることが一番楽だと、私は信じて疑わなかった」

「……」

 ぽつりぽつりと言葉は零れていく。

 僕はそれをただ黙って聞いていた。

「そう信じたから私はその通りに実行し続けた。実際、楽だったから、もっともっとと望んで、人の上に居続けた。……でも、いつからか気付いた。私がどんなに足掻いても人の上に立てなくなる。そんな時がやって来ると。そして実際にやって来た時、私が今まで遵守していたルールは突然目印ではなくただの脅威にしかならなかった。…………私は、人を畏れた。人間というものに恐怖を覚えた。上に立ち続けることが私としての証明だったのに、それは破綻してしまった。さらに私は上に立ち続けることができなくなってもまだ、無関心を装うことで周りの人との間に勝手に壁を作って、傷つけてしまうこともあった」

 虎徹さんはそこで一旦言葉を区切った。

「名誉も才能も功績も、所詮はただの物差し。周りから与えられた――いや、押し付けられたレッテルに過ぎないの。私の家はたまたま(・・・・)そういうものをたくさん押し付けられていたから、当然私にもお鉢は回って来る。できもしないことでも人の上に立ち続けることを強要されて――――それで――――」

彼女は喉元までせり上がる何かを押し戻すように息を飲み、言葉を区切った。

……僕にはそれが彼女の最後の一線を画す激情ではないかと思える。

「私は従うしかなかった。そうする以外に、年端もいかない小娘がのうのうと生きられるほど世の中は甘くないと知っていたから。でも私はどうやら向こうの期待に副うことはできなかったみたいなの。中学卒業を機に実家から遠い親戚の家に預けられて勘当を言い渡されたわ。その時のことはあまりよく覚えていない。とにかく今日までなんとか学費を自分で稼いで学業を営むことに精一杯だった」

 虎徹さんの家がどういう状況だったのかはあらかじめ秋月が教えてくれていた。

 他人の身の上話なんてまるで興味の無い僕が、珍しく、自分から聞きに言ったことに秋月は相当驚いた様子だった。

「実際、そんなものが無くても、自分の持ち合わせているものを専一に磨いて私よりもっとずっと素晴らしいものを残す、あるいはもっとずっと素晴らしいことをやり遂げる人が世の中にはたくさんいる。現に高校に入って私は初めてそれを目の当たりにした。だけど、私はそんな人たちと一緒になって切磋琢磨しようとは微塵も思わなかった。むしろ嫌悪していた。すでにそれなりのものがあると自負していた私は、それを否定され、超越されることに怯えていた。だけども前述の通り私は人の上に立っていたかった。そうした矛盾が澱のように溜まっていき、私は私の臆病な自尊心と尊大な羞恥心とを己の内で飼い太らせる結果になった」

 それはどこかで読んだことのある話に似ていた。

 かつて、僕が読んだ本で異様にプライドの高い男が虎になったときも、そんなことを言っていた。

「それが……それが私の猛獣。飼い太らせたそいつは私の知らぬ間に色々な人に噛み付いて怪我をさせた。――いいえ、きっと心の底で本当は周りの人を貶め傷つけ踏みにじることを望んでいたのだと思う。そしていつしかそいつは外面を内面にふわしいものに変えることで私そのものを乗っ取ろうとしている。虎になっている間は、実は夢を見ているように意識が無いの。自分が何をしていたのか朧気にしか覚えていない。だからさっきみたいに、また誰かを本当に傷つけて殺めてしまうかもしれない。…………私はそれが本当に怖い」

「…………」

 ぼくは悲痛そうな声で告げる虎徹さんを、哀れみと皮肉を込めた視線で見つめた。

 彼女も同じような眼を中空に向けていた。

「私は自分の置かれた状況なぞまるで理解しようともせず、のうのうと楽な方へ流れてきた。それで誰かが傷ついているとも知らずに。こんなあさましくいやしい身に堕ちたのはひとえに私が本能に、欲望に忠実すぎるほどに従順だったから。畜生になる以前から私はすでに(けだもの)だった」

 熱っぽい口調で虎徹さんはこう締めくくった。

 そして大きく溜息をつく。

 

 ………………けだもの。……けだもの、ねぇ。

 なんだか途端にいやらしいイメージしか湧かなくなっちゃったじゃないか。

 僕は俄然熱くなる胸を抑えることなく、あっけらかんと開き直ってこう言った。

「あのね、虎徹さん。……正直そのコスプレよく似合ってるよ」

「な、な、な、な、なっ…………!」

 目の前の猛虎は分かりやすくわたわたと動揺し始めた。

 なにこれ。超面白い。

 獣を手懐けるってこういうことなのか? 病み付きになりそうだ。……嘘だけど。

「まぁ、冗談は置いといて。…………虎徹さんが長々と語ってくれたことに対して素直に申し訳なく思うんだけどね――――」

 最後の部分は声を大にして強調した。

「それがどうかしたの?」


 がおおおおぉぉぉぉっっっっっっ!!!!


 正確にニュアンスを受け取った虎は毛を逆立て、怒り心頭に咆える。

「……………………あなたに私の――――「何がわかる? ――ってか」

 お決まり過ぎる台詞に僕はうんざりしてわざとらしく肩をすくめた。

「それ漫画の読み過ぎだよ虎徹さん。落ち着いてよく考えてごらん。僕が虎徹さんの事を何もかも知っているわけないじゃないか。やっぱり虎徹さんは本当に本当の、世間では稀に見る『箱入り娘』だったんだね」

 怒りが大気中に滲み出ているのが肌で分かる。

 猛虎の眼は仕留める獲物を値踏みし、如何に一撃で獲物を無力化できるか確信している、そんな殺意みなぎる眼光だった。

「正直虎徹さんがどんな過去を持っているかはどうでもいいんだ。虎徹の一族が世間でどういう風当たりなのかはそれなりに知識として持っているつもりだ。……でもそれはあくまで知識としてであって、断じて虎徹さんを辛い目にあったんだねぇかわいそうに――って甘やかすための動機ではないのだよ。虎徹さんが女だとしても」

 虎は低く姿勢を落とし距離を詰める。

 ……いいぞ。あと少しだ。

「そんなことに持ち前のヒロイズムだかなんだかを遺憾なく発揮してアピールしてもらってもね、こっちは――――」

 僕の言葉は中途で切れる。

 そして背中を全面均等に激しく打ち据えられた。

 とうとう怒りに耐え切れなくなった猛虎は飛び掛った。

「知った風なことをさっきからおとなしく聞いてればべらべらと……。まぁよくしゃべる口ね。――――一遍噛み千切ってあげましょうか?」

「…………いや、遠慮しておくよ」

 それだけは洒落にならないから!

 いつかの昇降口と同じ光景がまた繰り返されていた。

 この体勢だと僕はほぼ完全に身動きが取れないから、彼女自身の目の前で煩わしく動く口と顎を噛み千切るなど造作も無いだろう。

 だから、僕はあっさりと身を引くことにした。

「一度依杜くんもあの家に入ってみるといいわ。それだけであそこがどういう場所なのかよくわかるから。今あなたが一番行きたくない旅行先はどこですかと聞かれたらまず間違いなくこの県ね。……同じ行政単位にいるというだけで反吐が出るわ」

「そうかい」

「いい? 話を少し戻すけど勘当よ? 私はあの家の敷居をまたぐことすら拒絶されたのよ? 血のつながった実の娘をよ? ……ようやく世間に出てみて分かったけど普通はそんなことありえないわっ!」

「確かに……。勘当は正直ちょっとやり過ぎだと思う」

「そうでしょう? まったくこんなご時世にとんだ一家がいたもんだわ」

 ……さすがにここまで調子がいいとは思わなんだ。

 ちょっと引いただけでただのクラスメイトである僕にこうもずかずか自分の本音を連発するとは。

 虎徹さんの抱えているもの相当に重いものらしかった。


■ ■ ■


 それから三十分の間、虎徹さんの愚痴を聞いた。

 時に笑い、時に瞳を潤わせ、虎徹さんはその身に起きた過去を語った。

 いつしか僕は琵琶法師のように緩急のついた物語調の語り口にすっかり聞き入っていた。

 やがて、僕は違和感に気付く。

 虎徹さんの肉球の爪先がまた黒い染みのような影で覆われていた。

 そして少しずつ影は広がって猛虎の姿を多い尽くし、形を変えていく。

 しばらくすると、目の前には雪のように真っ白で決めの細かい肌。小さくてバランスの整った人形みたいな顔があった。

 目が合った。

 髪が一房垂れ落ちた。

 そして食い入るように虎徹さんが僕の眼を覗き込んだ。

「「あれ? 戻ってる?」」

 二人が同時に、感慨深そうに呟いた。

 続いて虎徹さんは僕の肩から手を放してグーパーを繰り返して確認する。

 そして、腕を見る。肘を見る。肩を見る。

 それから腹と腰と足を見る。

 そうしてやっと虎徹さんは自分が人間の姿に戻ったことを知った。

「あー! 戻れたー! よかった~」

「よかったよかった」

 これで一件落着。

 そして首を絞められた。

「ななななな、なんで私がっっっっっ! 男の上に馬乗りになってるのよっっっっ!?」

 それは虎徹さんが飛び掛ったからでしょ!

 と言おうとしたが僕は声が出なかった。

 とりあえずなんとかして首を絞めている手を緩めてもらう。

 そして虎徹さんは虎もかくやという俊敏な動作で僕の上からどいた。

「まったく、依杜くんが私を焚き付けなければこんなことには……」

「それはごめん。本当にすまなかった」

 僕は素直に謝った。

 虎徹さんを人間の姿に戻すにはこうするしか方法が無かったのだ。

 彼女の心境は古代中国の変身譚『人虎伝』をアレンジして作られた中島敦の『山月記』とよく似ていたことに僕は気がついた。

 そうなると虎徹さんが虎になってしまう原因は李徴と同じように『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』から来るとみて間違いない。終盤の言動からもそれは確信できる。

 ……ではどうするか。

 それらの矛先を別のものに向けさせればいい。

 二つの歪な心構え自体を変えることはおそらくできない。それは虎徹さんが幼少の頃から叩き込まれたものを解釈していくうちに芽生えてしまったもので、それを今更変えることは別の人間になれと言うようなものだ。

 だが、それらを何に向けるかぐらいは変えることができる。

 虎徹さんの場合は『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』が、幼少の頃より培われた不自然なまでに自分の見られ方を気にすることと、とにかく外部を数字で測るよう気にすることに向けられていたのだ。

 つまり彼女は、自分自身について深淵の隅々まで把握し、それを統計データとして解釈した周りと比較することしか知らなかった。

 それは彼女が過ごした家がそういうことでしか周りを測らないようにするためなのだろう。必要以上に感情移入させないために。必要以上の正確さを求めるが故に。

 僕は虎徹さんが愚痴る途中様々な『周り』についてのことを話した。

 時に大胆に切り出し、時にさりげなく混ぜ込むことで彼女は元来シャットアウトしようとした『周り』のことに興味を示し出したのだ。

 あとは虎徹さんの底へ根付く『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』の矛先を、彼女自身の手が勝手にどうでもいいものへ向かせたのだった。


 ――そのほうが楽だから――


 いつか虎徹さんがそう言ったように。

 彼女は本能に対して忠実なまでに従順だ。

「あ。雨が…………」

 深みにはまった思考を元へ戻し、僕はふと激しくなった雨音に気付く。

 外は土砂降りになっていた。まるで空から延々と機銃掃射されているみたいだ。

 まいったな……。さっき飛び出したときに傘を持ってくるのを忘れていた。

「あ、あ……、あの……」

 雨音にかき消されそうなほどに小さな声で虎徹さんが僕に言った。

「こっ、こ、こう…………たまには、休みも必要だと思うの。私力んだままに生きてきてしまって、なんだか――――疲れてしまったわ」

「そうだね。こんな土砂降りじゃ学校帰れないね」

「だっ……だからっ! 今日はもう学校休もう!」

 不安と希望に揺れる二つの瞳が、僕を捉える。

 

 ……そうか。

 

 僕は確かに矛先の向きを変えることはできた。

 けどそれが他の誰かに向いていないとは限らないのだ。

 僕はまたしても虎に喰らわれそうになった。



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