鏡の国の沈黙
その法案、通称「スパイ防止法」が可決されたとき、国民の反応は意外にも冷淡なものだった。
「まあ、悪いことをしていなければ関係ないだろう」
「むしろ、スパイが捕まって国が安全になるならいいことだ」
そんな、どこか他人事のような空気のなかで、新しい時代の幕が開いたのである。
数ヶ月後、一人の男が「情報保全局」に呼び出された。男の名はタナカ氏。ごく普通のサラリーマンである。彼は、自分がなぜこんな厳めしい役所に呼ばれたのか見当もつかなかった。
「タナカさん、落ち着いてください。これは単なる確認作業です」
無機質な部屋で、無機質なスーツを着た役人が、無機質な笑みを浮かべて言った。
「あなたの先週の行動について、少々お伺いしたい。あなたは木曜日の午後三時、近所の公園でハトに豆をやっていましたね」
「ええ、まあ。休憩時間でしたから」
「その際、あなたは左手に持っていた豆を、一度地面に落としました。そして、それを拾わずにその場を立ち去った。間違いありませんか?」
「ええ。たかが豆一粒のことでしょう?」
役人は手元のタブレットを叩き、深刻そうな顔をした。
「それが問題なのです。その『豆を落とした位置』と『立ち去る際の方角』、そしてその時の『気温と湿度』。これらを複雑な数式に当てはめると、ある国の暗号コードと完全に一致するのですよ」
タナカ氏は呆気にとられた。
「そんな馬鹿な! 私はただハトに豆を……」
「もちろん、あなたに悪意がないことはわかっています。しかし、スパイ防止法の改正案によれば、『結果として機密保持に抵触する可能性のある挙動』も処罰の対象になる。あなたのその無意識の動作が、偶然にも敵国の潜伏スパイに『今夜決行せよ』という合図を送ってしまった可能性があるのです」
タナカ氏は震え上がった。しかし、役人は意外にも優しくこう続けた。
「まあ、今回は初犯ですから。その代わり、今後一切の『無意識の行動』を禁じます。すべての動作に明確な理由を持ち、それを常に記録してください。それが国民の義務です」
それからというもの、街の景色は一変した。
人々は、歩く一歩一歩に細心の注意を払うようになった。右足を出してから左足を出すまでの秒数を一定に保たなければならない。さもなければ、歩行のリズムがモールス信号として解釈され、どこかの国の軍隊を動かしてしまうかもしれないからだ。
レストランでの会話も消えた。
「美味しいですね」という何気ない一言が、実は政府高官の暗殺を意味する暗号ではないと、どうやって証明できようか。人々はメニューを指差し、無言で食事を済ませるようになった。
最も恐ろしいのは「視線」だった。
空を見上げれば「気象衛星への関心」とみなされ、地面を見れば「地下シェルターの探索」と疑われる。人々は常に、政府が配布した「標準的視線ガイドライン」に沿って、決まった角度に目を向けるようになった。
ある日、タナカ氏は同じマンションに住むサトウ氏とエレベーターで乗り合わせた。
かつては「いい天気ですね」と挨拶を交わした仲だが、今は互いに石像のように固まっている。
ところが、その時、エレベーターが急停止した。小さな故障だろう。
二人はバランスを崩し、タナカ氏の肩がサトウ氏の体に当たった。
「あ……」
タナカ氏が口を開きかけたその瞬間、サトウ氏の顔が恐怖に歪んだ。サトウ氏は大慌てで自分のポケットからメモ帳を取り出し、震える手でこう書き記した。
『午後六時十二分、重力加速度の変化による不可抗力の接触。他意なし。目配せなし。通信の意図なし』
そしてそれをエレベーター内の監視カメラに必死に見せつけたのである。
数年が経過した。
国内から「犯罪」は消えた。それどころか「不用意な行動」そのものが消滅した。
すべての国民は、政府が提供する「標準化生活マニュアル」を完璧にトレースして生きるようになった。何時に起き、どの色の服を着て、どのルートで通勤し、どの角度で頭を下げるか。すべてが決まっている世界。
情報保全局の長官は、満足げに閣僚会議で報告した。
「我が国のセキュリティは完璧です。スパイが入り込む余地はありません。なぜなら、全国民の行動が完全に予測可能であり、そこから逸脱する者は即座に排除されるからです。これこそが、究極の安全保障です」
しかし、そんなある日のことだ。
情報保全局の巨大なスーパーコンピュータが、異常なアラートを発した。
「警告。全国民の行動ログに、解読不能なパターンを検出」
長官は慌ててエンジニアを問い詰めた。
「どういうことだ! 国民は皆、マニュアル通りに動いているはずだろう!」
エンジニアは青い顔で答えた。
「はい。しかし、その『完璧すぎるマニュアル通りの行動』が、全国民数千万人の規模でシンクロした結果……地球規模の巨大なフラクタル図形を描き出しているのです。そして、その図形を宇宙から俯瞰すると、巨大な文字に見えることが判明しました」
「文字だと? なんと書いてあるんだ」
長官がモニターを覗き込むと、そこには最新の衛星画像が映し出されていた。
通勤電車の流れ、街灯の点滅、人々の規則正しい呼吸。それらが組み合わさって、日本の国土の上に巨大な一文が刻まれていた。
『我が国は、いつでも降伏する準備ができている』
皮肉なことに、完璧に管理された「無駄のない行動」の集積こそが、敵国にとって最も理解しやすい、最高の機密流出となってしまったのだ。
翌日、タナカ氏のもとに再び役人がやってきた。
今度の役人は、以前よりももっと無機質な顔をしてこう言った。
「タナカさん。今日から新しい法律が施行されました。これまでのマニュアルはすべて破棄してください。これからは、『予測不能でデタラメな行動』をすることが義務付けられます。さあ、今すぐそこで、意味もなく踊り狂ってください。それが国家を守るための、新しいスパイ防止策です」
タナカ氏は、自分が何を信じていいのか分からなくなった。
彼は公園に行き、ハトに豆を投げた。左手で投げたり、右手で投げたり、突然叫んでみたりした。
周りを見渡すと、街中の人々が支離滅裂な動きをしていた。ある者は叫び、ある者は這い回り、ある者は服を裏返しに着ている。
それを見たタナカ氏は、ふと不安になった。
(もし、この『デタラメな行動』さえもが、数百年後の誰かにとっての高度な暗号になっていたら、どうすればいいんだろう?)
タナカ氏は、空を見上げた。そこには、どこまでも青く、何も語らない空が広がっているだけだった。彼は深くため息をついた。すると、横にいた役人がすかさずメモを取った。
「今の『ため息』、長さは二秒。音程はミのフラット。……よろしい、極めて不自然で、意味不明な素晴らしい行動です」
タナカ氏は、自分たちが守っているのが「国家」なのか、それとも「滑稽な儀式」なのか、もう考えるのをやめることにした。考えること自体が、何かの暗号になってしまうのが怖かったからである。




