逸脱 ――英雄にならなかった人
朝の村は、静かすぎた。
音がないわけじゃない。
鍬が土に触れる音も、戸が軋む音もある。
ただ、
誰も声を落とさない。
鍛冶屋の家の戸は、半分だけ開いていた。
中から流れてくるのは、鉄ではなく薬草の匂い。
エリナは、父の横に膝をついていた。
父は生きている。
呼吸はある。
だが、返事は返らない。
目は開いているのに、
そこに向けられているものがない。
「……父さん」
名を呼ぶ。
音だけが落ちる。
水を含ませた布を絞る。
落ちる音が、やけに大きい。
扉の外で、足音が止まった。
「……入るぞ」
アレンの声。
エリナは振り向かなかった。
机の上に、紙が一枚置かれる。
薄い。
文字は少ない。
事象:未登録英雄事案
状態:収束傾向
拡大可能性:低
個人の損失は、世界の安定と相関しない
エリナは、しばらく動かなかった。
「父さんは?」
「生きている」
「……戻るの?」
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
エリナは、短く笑った。
「じゃあ」
立ち上がる。
足元が、少し揺れる。
「私がやる」
アレンが、視線を上げる。
「私が英雄になればいい。
それで、この村は守られる」
言葉は速い。
考えるより先に出ている。
「適性はある」
アレンは言った。
「だが、動機が強すぎる」
「当たり前でしょ」
即答。
「父さんがこうなって、
平気でいられる人間なんていない」
正論だった。
だが、正論は安全とは限らない。
アレンは、紙を一枚だけ差し出した。
英雄適格判定:不適格
理由は書いてある。
どれも正しい。
「……何もしないって言うの?」
「そうだ」
短い返答。
部屋の空気が、冷える。
エリナは、父の枕元に置かれた布袋を掴んだ。
中には、黒い欠片。
「これ、触ると痺れる」
指先を見せる。
ほんのわずかに、色が薄い。
アレンが手首を掴む。
強くは掴めない。
一瞬。
その一瞬で、
エリナは欠片を握りしめた。
砕ける音。
空気が歪む。
光が、抜け落ちる。
父の喉から、
紙が裂けるような音が漏れた。
「……父さん?」
目が、合う。
唇が動く。
「……り、な」
名前だけ。
それ以上は、続かない。
生きている。
だが、戻らない。
エリナは、ゆっくり座り込んだ。
「……私が、やったの?」
アレンは否定しない。
否定は、嘘になる。
エリナは、破れた書類を拾い集めた。
胸に抱く。
「……英雄って」
声が、かすれる。
「世界にとって、
都合がいい人のこと?」
アレンは答えなかった。
帳簿は、まだ閉じない。
閉じれば、
この部屋で起きたことを
“正しい”で終わらせてしまう。
それは、できなかった。




