起票 ――帳簿にない英雄
境界管理局の地下は、一定の温度に保たれている。
感情が入り込む余地はない。
世界の裏側は、いつも事務的だ。
石段を下りる音が、乾いて響く。
反響が返ってくる。
一人分の足音が、二人分になる。
第七課の執務室は簡素だった。
机が四つ。椅子が四つ。棚が二つ。
書類箱は、どれも同じ色。
違うのは、中身だけだ。
外套を脱ぎ、椅子にかける。
生成り色。
第七課の外套は無色だ。
案件箱を開ける。
魔導紙の匂いが立つ。乾いている。
帳簿を開き、ページの端を揃える。
癖だ。
揃えないと、判断が滑る。
英雄登録台帳。
功績記録。
――そこで、手が止まった。
魔王軍第三軍 壊滅
実行者:——
空欄。
「……は?」
声が出る。
出る予定はなかった。
目撃証言は多数。
被害は最小。
処理は完了。
なのに、名前がない。
英雄登録に載っていない英雄は、
存在してはいけない。
それが、この世界のルールだ。
別の資料を引く。
地理報告。ギルド記録。王都紙。
どれも同じ。
英雄が現れ、世界は救われた。
名前だけが、抜け落ちている。
薄い。
魔導紙に触れた指先が、少し痺れた。
……冷たい。
嫌な感覚だ。
ノック。
「入って」
黒い外套の女が入ってくる。
第壱課、記録保全課の主任記録官――リュシア・フェルナンド。
「おはよう、アレン」
「第壱課が先に見たな」
「閲覧しただけよ」
封筒が机に置かれる。
黒い封印糸。
中のメモは短い。
「空欄」を埋めるな
埋める前に、現場を見ろ
嫌な指示だ。
判断を、先送りにする命令。
書類を揃える。
ページの端を、二度。
判断を遅らせるための、儀式。
「行くの?」
「……ああ」
答えながら、
自分の胸に引っかかりを覚えた。
本当は、
すぐに行くべきじゃないかもしれない。
空欄を見つけた瞬間、
もっと早く動けたはずだ。
――少し、遅れた。
その自覚が、
紙よりも重く残る。
リュシアが、ほんの一瞬だけ俺を見る。
「その案件、あなたの嫌いな言葉が出る」
分かっている。
――一人で済むなら。
――正解だから。
どちらも、
世界が好む言葉だ。
扉を開ける。
廊下の空気は、相変わらず冷たい。
英雄の名前が空欄のまま、
世界は回っている。
階段の前で、立ち止まる。
帳簿を閉じるのは、まだ先だ。
だが、
遅らせすぎた判断が、
誰かを壊すこともある。
その可能性を、
俺は否定できない。
息を吸い、吐く。
それでも。
判断は、簡単に書かない。
そう決めて、
地上へ続く階段を上った。




