英雄が、英雄であることをやめた夜
勝利のあとに残るはずの音が、なかった。
歓声も、泣き声も、
剣を地面に落とす乾いた音すらない。
世界が、音を出すのを忘れたみたいだった。
レオン・クロスは、
聖剣を地面に突き立て、
自分の呼吸だけを数えていた。
魔王は、もういない。
確かに斬った。
仲間は生きている。
街も、国も、世界も――守られた。
完璧な勝利。
記録に残すなら、そう書かれる。
なのに。
視界の端で、空が揺れた。
色が、欠けている。
夕焼けの赤が、
紙を消しゴムでこすったみたいに薄くなっていた。
「……?」
瞬きをしても、戻らない。
重い。
剣を引き抜こうとして、手が止まる。
違う。
重いのは、剣じゃない。
「……俺、まだ英雄なのか」
声は、空気に吸われた。
返事はない。
英雄は迷ってはいけない。
英雄は終わりを惜しんではいけない。
英雄は役割を降りたいなど、考えてはいけない。
分かっている。
それでも、分かってしまった。
もう、前に出られない。
もう、次の戦いを始められない。
剣を握り続ければ、
人々は安心する。
世界は安定する。
だからこそ、それが怖かった。
――俺がいなくなったら、この世界はどうなる。
答えは、すぐに出た。
――俺がいる限り、この世界は、俺に頼り続ける。
それは、優しさの形をした檻だった。
「……アレン」
名前を口にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
あいつなら、すぐには答えを出さない。
帳簿を閉じる前に、必ず立ち止まる。
その癖が、今は羨ましかった。
聖剣から、手を離す。
刃が、わずかに震えた。
《ルミナス・エッジ》は、
主の迷いを、正確に“記録”していた。
「……俺は」
英雄の言葉じゃない。
人としての言葉を探す。
「俺は、もう……」
その瞬間。
世界の音が、完全に消えた。
風が止み、
仲間の声が途切れ、
空の色が、さらに一段薄くなる。
理解した。
ここが、境界だ。
英雄である自分と、
そうでない自分。
その線を、今、踏み越えた。
「俺は、英雄じゃない」
短い判断。
修正は、効かない。
足元に、淡い光の円が広がる。
禁じられた魔法陣。
恐怖はなかった。
ただ、安堵だけがあった。
「……終わらせてくれ」
世界は、一瞬だけ躊躇した。
次の瞬間、処理が始まる。
光が、レオンの輪郭をほどいていく。
痛みはない。
寒さもない。
ただ、
自分が“世界の記録から削除されていく”
その感覚だけが、確かにあった。
最後に浮かんだのは、後悔だった。
――ちゃんと話せばよかった。
判断を、誰かに預けたまま、
終わらせてしまった。
光が消える。
色の欠けた空の下、
剣だけが残った。
英雄のいない勝利。
正しくて、
どこか壊れた、世界の続き。




