「人の心がない人形」といわれて婚約破棄された令嬢と偽装結婚するけど想定外に、妻が可愛い。
「俺と、偽りの婚姻関係を結んでくれないか?」
目の前に一人の男がひざまずき、かしずいている。
側近のメイドによれば有名な野心家の成金貴族で、女たらしと評判だとか。
そんな彼が今、私の目の前で頭を下げて求婚している。
いや、求婚と言っていいのだろうか、これは?
どうしてこんなことになったのだろう。
私は彼の頭頂部をぼんやりと見つめながら、三か月前のあの出来事を思い出していた……。
***
「君との婚約を破棄させてくれないか」
ある日、婚約者である伯爵の子息によばれて屋敷へおもむくと、会うなり突然に、そう言われた。
いきなりもいきなりだった。予兆も前兆もなかった。しかし、不思議と驚きはなかった。いつかこんな日が来るような気はしていた。
「そうですか」
「驚かないんだな」
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「……ああ、いいだろう。言ってやる」
彼は顔を一瞬くしゃりと歪めたが、貴族としての自分を思い出したのか、すぐに元の無表情に戻った。
「君とは長年、婚約者として接してきた。君の家の格は高く、君自身も才色兼備の令嬢と評判だった。だから、君と婚約したし、相手として申し分ないと思っていた。私としては極力、君のことを大切に扱ってきたつもりだ」
「ええ、そうですね」
私はうなずいた。彼は毎月必ず服を贈ってくれるからだ。
「お気持ちはありがたいと思っています」
「では……、私が贈った服をなぜ着ない?」
「好みではないからです」
「そうだな。何度も聞いたな」
「はい」
「しかし、普通はせめて一度くらいは着てみせてくれるものだと思うが」
「はい。そう思います」
「私は君が笑ったところを見たことがない」
「はい。私もこの数年、笑っていません」
「なぜ笑わない?」
「うまく笑うことができないからです」
「うまくなくとも、笑いたいときは笑えばいい」
「笑いたいと思うことも、ないのです」
「そうか……」
彼は机に片手をついて、少し体をかたむけた。
「君はまるで……人形のようだな。君に人の心は、あるのか?」
「わかりません」
「まだ理由を聞きたいか?」
「できれば」
「君と結婚したあとの日々を考えたら、ぞっとしたんだ。笑わない君と、そんな君にはなしかけ続ける私……。あまりにもみじめじゃないか」
彼はついに、私から顔をそむけた。
「君との婚約を破棄させてくれ。
私は……人形と添いとげるつもりはないんだ」
***
「……クリスタ嬢?」
私が黙っていたせいだろう、成金貴族……ファルクス男爵は顔を上げて私の顔をみつめていた。
私は座ったまま頭を下げた。
「すみません。少し、考え事をしていました」
「いや、無理もない」
男爵は気にしていない風に肩をすくめた。椅子を引いて腰かける。
「いきなりだったからな。普通はもっと手順というか、段階を踏むものだ。あなたがやや個性的な方だと聞いていたので、話をすっ飛ばしてみたんだ。不快だったなら、謝ろう」
「いえ、不快というわけでは」
「ならよかった」
男爵は口の端を吊り上げて笑い、紅茶を口に含んだ。
外見がよい。人好きのしそうな顔であり笑顔だ。名うての女たらしだいうのは、なるほど確からしい。
彼は庭をながめている。
今は六月で、雨がよく降る季節だ。紫陽花が雨粒をはじいている。
彼は一週間前に「私に会いたい」と手紙をよこした。だから、私は庭園の東屋で彼を待っていた。約束の時間の少し前に雨が降って来たので、中で待つべきだな、と思った矢先、彼が来てしまったのだ。
ふと気づけば、彼は私を見つめていた。
「あの、どうしましたか?」
「あなたは本当に静かだな。評判通りだ」
「よく言われます。もっとしゃべるべきだと」
「いや、それは違う」
彼は笑って、横をむいた。顔をそらして、少し見下すような目つきになる。
「……女というものは、それくらい静かな方が、俺は好みだ」
「そうですか」
「ああ。少々、自慢話をしても?」
「どうぞ」
「あなたが知っているかどうかしらないが、俺は俗にいう成金貴族でね。才能と財力はもちろん、美貌まで持っているんだ。恐ろしいよ。天は二物を与えずというが、嘘だと思うね」
「そうですか」
「だから、女はみな俺に寄ってくるんだ。自分からな。頼みもしないのに、だ」
「はあ」
「露骨なものだ。表面的な特徴につられて俺のことを素晴らしいだの、好きだのとのたまう。俺のどこに魅力を感じたか隠そうともしない。隠すという発想すらない。庶民も貴族もみな同じ。おしなべてそう。わかるか?」
「わかりません」
「だろうな」
彼は椅子にぐでっと深く、行儀悪く腰かけた。
「君にはわかるまい。それにしても、君は本当に変わり者のようだな。こんな話に怒るでも同調するでもなく、ただ聞いている」
「ただの世間話でしょう?」
「そうだが、そうでもない」
「どういう意味ですか」
「つまるところ、俺が今日来た理由が、それなのだ」
彼はため息をつくと、再び椅子に座り直し、私に向き直った。
「俺は男爵としての地位を金で買った。しかし、ここで終わるつもりはない。俺は、もっと自分の力で世の中を変えたいと思ってるんだ。一人で海に出たことは?」
「ありません」
「素晴らしいぞ。孤独で、死が身近に感じられる」
「それは、素晴らしいことですか?」
「自分の力で苦難を乗りこえていると実感できる。おすすめだ」
「はあ」
「世界は海のようなものだ。俺はこの世界を泳ぎたい……。力いっぱいな」
「……」
「だが、残念ながら、人には限界がある。個人の能力としての限界、時間の限界、そして……」
「地位の限界、ですか?」
「そうだ」
「だから、伯爵の娘である私と結婚なさろうと?」
「そうだ」
「だから、偽りの婚姻関係、とおっしゃったのですね」
「そうだ」
「偽り、とはどういう意味ですか?」
「表面的には通常の婚姻関係にみえるようふるまう、という意味だ。中身が伴っている必要はない。俺の屋敷には住んでもらうが、基本的には自由に過ごしていて、構わない」
「……」
「悪い話では、ないはずだ」
彼は私の顔をみながら、紅茶を飲んだ。
「あなたが先日、マムル卿に婚約を破棄された、というのはもっぱらの噂だ。卿は才能も実力もある人格者として名高い。婚約を破棄したのは自分だと言っているにもかかわらず、悪評は卿ではなく、あなたに集まっている」
「そう思います。それが正しいとも」
「正しいというのは、悪い話ではない方か? それとも悪評が偏っていることか?」
「どちらも正しいかと」
「そうか。この先のあなたの人生は困難なものになった。俺はそう思うのだが、同意見だろうか?」
「はい。私と結婚してくださる方は非常に少ないでしょう」
私と婚約または結婚するということ、それは、極端なまでに突き詰めれば、マムル卿を否定する行為だからだ。マムル卿の評判は高い。十年もすれば国内屈指の実力をもつ貴族となるだろう。噂だけでもそれほどの才気を感じさせる人物だ。そんなマムル卿が婚約を破棄した私とわざわざ婚約しようという人は、なかなかの物好きといえるだろう。
「この話を受けてくれるだろうか?」
「なぜ私なのでしょうか。先ほどの話では、私以外にも引く手あまたということでしたが」
「いや、俺はあなたがいい」
「なぜですか」
「さっきの話を聞いていなかったのか?」
「聞いていましたが、よくわかりませんでした」
「そうだったな……」
彼は一瞬、考えるように指を組みかえた。
「まず、あなたの地位だ。伯爵という地位は素晴らしい」
「しかし、伯爵のご令嬢は他にもいらっしゃいます。男爵ほどの方であれば、そういった方々からのお声もかかるのではありませんか?」
「無くはない。伯爵にもかかわらず俺に声をかけるとなると、さまざまタイプがあるのだが……。しかし、やはり、小うるさくてな。端的に言うと、好みではない」
「はあ」
「俺にとって、理想の伴侶とは……、つまるところ置物なのだ」
「置物、ですか?」
「そうだ。口やかましくなく、金をせびることもなく、よその男と遊ぶこともない。ただそこにいるだけの……、そう、ちょうど人形のような存在。それが俺にとっての理想の伴侶なのだ」
「人形……」
「ああ。あなたは見目もよいからな。人形という言葉は、ピッタリだ」
「……。ふ……」
「ふ? ……ああ、ふざけるな、と言いたいのだろう。それも自由だ。俺はこんな人間だからな。まあ、君が嫌なら、この話は―――」
「ふ、ふふ、ふふふふふ……」
気づけば私はくすくすと笑っていた。
可笑しかった。
先日は、人形のようだからと婚約を破棄されたのに、
今度は、人形のようだからと求婚されたのだ。
ファルクス男爵の言い分はきっと世間一般では受け入れられないものだろう。女性が聞けば、いや男性が聞いたとしても、正論として通ることはないと思う。外身はともかく、中身を人形と形容されて不快におもわない人間は少ないだろう。
それでも。
私は可笑しいと思った。
彼の発言はたしかに私をないがしろにしていたかもしれない。していたと思う。
でも、欠点だと思っていたものが、一転して長所のように見てもらえたことが、可笑しかったのだ。
「……あなたも、笑うんだな」
男爵は目を丸くしていた。なかば放心状態のように胡乱な目つきになっていた。
……。
少々、驚きすぎではないだろうか。
「驚きすぎではありませんか?」
「いや、その……すまない……」
「わかりました」
「あ、え? な、何がだ? 何をわかったと?」
「あなたの提案です。私と結婚してくださるのですよね?」
「あ、ああ。……えっ?」
「大丈夫ですか? なにか問題でも?」
「だっ、大丈夫だ。……いや、ええと、すまないが、もう一度言ってくれるか?」
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「え? あ、はい。こちらこそ、どうぞよろしく……」
こうして、私は結婚することになった。
***
「なにも、あんな男と結婚しなくとも……」
「大丈夫よ、メアリ。彼は道理も世間体もわきまえているもの。最低限の衣食住は保証されているはずだわ」
「それは結婚相手に望むものとしては最低限過ぎますよ、クリスタ様……」
私がファルクス男爵と結婚をきめたと聞くなり、メイドのメアリは驚愕した。驚きのあまり失神し、再び目を覚ますと延々と私に説教を始めた。
「今からでも断りましょう、クリスタ様! いえ、私からお断りのお手紙を……」
「メアリ、準備は済んだの?」
「少々お待ちください。お嬢様の筆跡をまねて手紙をしたためてから、いたしますので……。何の準備ですか?」
「男爵のお屋敷にいく準備」
「私もいくんですか!?」
「あ……。そうか、ごめんなさい。てっきりあなたもついてきてくれるものだと……。物心ついた時から一緒だったから、つい。あなたがいないと心細いけれど、仕方ないわよね……」
「クリスタ様!」
メアリはひざまずいて私の両手をにぎった。
「結婚してください!」
「ごめんなさい、メアリ。私とあなたでは身分が違うのよ」
「大丈夫です! メイドとして、いっぱい働いて稼ぎますから!」
「そのお金、うちから出てるんだけど……」
「すごくいっぱい働きますので!」
「うん、うちのお金がよく回るようになるわね……」
そのとき、扉をノックする音が聞こえた。私は荷造りを中断し、足にすがりつくメアリを引っぺがして、扉を開いた。
ノックの主はメイド長だった。
「なにかしら?」
「旦那様がお呼びです、クリスタ様」
「わかりました。すぐに行きます」
「はい。旦那様にお伝えしておきます。……それはそうと、クリスタ様」
「なにかしら」
「……メアリはそこで何をしているのでしょうか?」
私は足元を見下ろした。
「求婚です」
「は?」
「メアリは私に求婚しているのです」
「……」
メイド長は眉間にしわを寄せ、眼鏡を外し、眉間を揉んで、眼鏡をかけ、メアリを見下ろして言った。
「メアリ。話があるので、後で私の部屋に来なさい」
メアリの肩がびくっと震えるのがわかった。
「そんなあ~……」
「では失礼します、クリスタ様」
***
「結婚すると聞いたが、本当かね、クリスタ」
「はい、本当です。お父様」
私は父様のベッドの隣におかれた椅子に腰かけた。父様は病弱で、この部屋のベッドからほとんど出ることはない。私が物心ついたときにはもうすでにそうだった。当然、領地を管理する仕事もここで行っている。といっても、父様のところまで確認に来るようなものはごく一部だ。大半はその遙か手前で部下の方々が処理しているらしい。父様いわく「部下に恵まれた」のだそうだ。
しかし、部下の人たちはみな口をそろえて「当主様に教えていただきました」と言っているのだが。
「ずいぶんと急だね。お前らしくもない。会ったばかりなのだろう?」
「気が合ったものですから」
嘘ではない。なにせ私を笑わせてくれたのだから。相当気が合ったと言える。
「お相手は、ファルクス男爵といったかね。私は聞いたことがない御仁だな。会えなくて残念だよ。いずれ会いたいものだな」
「お仕事が忙しいそうでしたので。機会があればお連れいたします」
これは嘘だ。
私はあまりファルクス男爵を父様に会わせるつもりはなかった。会ってほしくない。
父様は心配性だ。病弱な上に心配性なのだ。
昔、私がひどい風邪をひいてしまった時、メイドや執事の反対を押し切って私の看病をしてくれた。その甲斐あってか私は治ったのだが、今度は父様が風邪をひいてしまった。そのときは大変だった。結局、一か月近く、父様に会えなくなってしまったのだから。
もしも男爵が今日私に言ったようなことを、父様に言ってしまったら、きっと父様は心配をしてしまうだろう。どんな行動にでるかわからない。男爵の家に直接乗り込むようなことはないと思うが、神の手のような手腕を駆使して、私をこの家に連れ戻そうと画策する、くらいのことはやるかもしれない。
それでは本末転倒だ。
私は、父様に安心してもらいたくて結婚するのだから。
ここに来るのは、ファルクス男爵に父のことをきちんと説明して、説得して、会わせても大丈夫だろうと思えてからでも、遅くない。
「地位は、金で買える」
父様がぽつりと言った。
私は少しどきっとした。それはファルクス男爵が言っていたことに近いからだ。
「豪華な住まいも、贅沢な食事も、きらびやかな衣服も、指示を聞く従者も、すべて金で買えるものだ。だが、自分のことを本当に大切に思ってくれる人は、決して金では買えないものだ」
「はい」
「彼は、そんな男なのかね?」
「はい」
私はこくりとうなずいた。
「そう思います」
「そうか。ほかならぬお前が言うんだ。信じてみるとしよう。しかし、そうか。ふふふ……」
「どうなさったのですか?」
「彼をここに呼んで、誓いを立てさせるのが楽しみだと思っただけだよ」
父様はそういって、にやりと笑った。
「彼がお前のためにどこまで差し出せるのか、測るのが楽しみだ!」
……どうやら、私たちの嘘がバレるのは時間の問題らしい。
***
クリスタ嬢が我が家へ来る日、俺は執事やメイドたちと共に、玄関ロビーでクリスタ嬢の到着を待っていた。
実のところ、今日は地方の有力貴族との商談があったのだが、急遽キャンセルしてもらった。のっぴきならない事情があったためだ。
仕事に集中できない。
先日会ったクリスタ嬢の、笑顔が脳裏に焼き付いて、この数日まったく仕事が手につかなかった。何をしていても、誰と話していても、気づけば彼女の笑顔を思い出している。
今回の商談はこの先数年の俺の速度を決める重要なものだ。その商談でぼんやりするなどという失態を演じるわけにはいかないので、双方の面子の立つ理由をつけてキャンセルにしてもらった。
決して、クリスタ嬢を一目見たかったからではない。
「落ち着いてください、旦那様」
「……」
「旦那様!」
「ん!? なんだ、どうした? 来たのか!?」
「まだです。どうか落ち着いてください、旦那様」
「そうか、まだか……。なら、何の用だ!?」
「ああ……」
執事がなにやら絶望したような表情で顔をしわしわにしている。原因が気になった。
俺は足を止めて執事に詰めよった。
「どうした、なにか不備でもあるのか?」
「まあ、あると言えば、ありますね」
「なんだと!? 言え、どこに不備がある。すぐに改善しろ!」
「旦那様、どうか落ち着いてください……」
「俺は落ち着いている。不備はどこだ!」
「いえ、旦那様は落ち着いていらっしゃいません。それが一番の問題なのです」
「なんだと?」
俺は彼の肩から手を放し、一歩さがった。
「俺のどこが落ち着いていないと?」
「強いて言えば、すべてかと」
「回りくどいぞ、セバスチャン。具体的に言え」
「まず、その貧乏ゆすりはやめた方がよろしいですな」
「む。わかった」
「次に、いくら落ち着かないからといって、ロビーを足音をたてて歩き回るのはおやめください。奥方様に見られでもしたら……」
「奥方!?」
「ええ。……奥方様、で間違いないでしょう?」
「ああ。間違ってない。間違ってないが。奥方、奥方か……」
「重症ですな」
「なに?」
「とにかく、旦那様は静かに、黙ってそこに立ってお待ちになってください。奥方様に、浮ついた、せわしない、軽々しい男などという印象を、これ以上、お与えになるのはどうかと思います」
「これ以上だと?」
「はい。これ以上、です」
「お、お前、容赦なさすぎるぞ!」
「旦那様は普段通りになさっていればよいのです。それだけで十分な風格がございますから」
「そ、そうか」
その時、外で馬車が石畳を踏みしめる音がした。
「おお、来たか!」
「あっ、旦那様!? いけません、旦那様! 旦那様あああ!」
俺は玄関扉を開いた。執事に止められたような気がしたが、気のせいだろう。
我が家の家紋のはいった馬車がとまる。戸が開いて、クリスタ嬢が現れた。
「ファルクス様」
クリスタ嬢は心なしか驚いているようだった。
「お出迎えいただき感謝します」
「あっ!?」
「どうかなさいましたか?」
しまった。執事よりもメイドよりも前に出て彼女を出迎えてしまった。威厳もくそもない。セバスチャンめ、なぜ力づくで俺を止めないのだ。
ああ、止めていたのか。
「ファルクス様?」
「あー、ごほん……。よく来たな、クリスタ嬢」
「はい」
「ええと……。い、いい天気だな!」
「そうですね。よい曇り空かと」
「冷えるといけない。中に入るがいい」
「お風邪でもお召しになっているのですか?」
「なに?」
「今日は暖かいと思いますが……」
「うむ……。あー……、緊張しているだろうと思ってな、冗談だ」
「そうでしたか。申し訳ありません、そういった機微はわからず……」
「あああ、頭を上げてくれ! クリスタ嬢!」
俺は大声でメイドたちを呼んで、クリスタ嬢を部屋へ案内するよう命令した。玄関ホールから彼女たちの姿が消えるのを見届けてから、俺はセバスチャンの胸ぐらをつかんだ。
「セバスチャン!!!」
「旦那様、声が大きゅうございます。落ち着いてください」
「俺はなんと言ったのだ!?」
「は?」
「彼女と会話した記憶がない! 俺は何を言った!? 変ではなかったか!?」
「……」
「セバスチャン!?」
「問題は、無うございましたよ?」
「なぜ疑問形なのだ」
「お食事はどうなさいますか? ご一緒になされますか?」
「もちろんだ!」
「お食事はどうなさいますか? ご一緒になされますか?」
「なぜ二度、聞く?」
「質問が耳に入らなかったのかと思いまして」
「どういう意味だ?」
「旦那様」
セバスチャンはため息をついた。
「それほど奥方様が気に入られたのであれば、偽りの婚姻関係など、おやめになられてはいかがですか」
「彼女を追い出せというのか!?」
「ダメだ。脳みそが半分も動いていない……」
「なに?」
「いまからでも、普通の婚姻関係にすればよい、と申し上げているのです」
「なっ!?」
俺はセバスチャンから手を放した。
セバスチャンは二三歩よろけた後、素早く服を元通りに整えた。
「なんの不都合がございましょう」
「おっ、俺は、別に、クリスタ嬢にほ、ほ、ほほほほほ……」
「惚れて、いらっしゃるのですよね?」
「ない!」
「復唱できますか? 惚れていない、と」
「無論だ」
「では、どうぞ」
「……。いや、今日は日が悪い。また後日にしよう」
「はあ……。まあ、構いません。余計なことかもしれませんし」
「ああ、余計だ」
「すれちがいで愛想など尽かされないとよいのですがね」
「……」
「さて、お食事はどうなさいますか? ご一緒になされますか?」
***
「え? なんとおっしゃいました?」
「ですから、クリスタ様がご結婚なさるそうですよ、マムル様」
寝耳に水だった。
直後、足元でパリン、と何かが割れる音がした。冷たい。見下ろすと、ワイングラスが中身をぶちまけて割れていた。
私が落としたのか。
「大丈夫ですか!?」
「ああ……、問題ありません……」
私は心配そうに見つめる彼女のために笑顔を作って、手を上げた。会場の執事の一人が近寄ってきたので、片付けをまかせてその場を離れた。
さっきまで話していた彼女がついてきているかは、気にならなかった。
クリスタの評判がどうなったのかは、把握していた。おおむね推測通りで、しばらくは誰も彼女に見向きもしないだろうと思っていたのだが……。
私はパーティ会場を抜け出し、自分の執事たちに声をかけ、帰り支度をさせ、馬車に乗りこんだ。
馬車が走り出すと、執事が尋ねた。
「どうなさいましたか? 急を要する事態でも?」
「いや、急ではない。既に起こったことだ」
「と、言いますと?」
「クリスタが結婚したことを知っていたか?」
「ええ、ですがお心を乱されるかと思い、黙っておりました」
「わかった。相手は?」
「たしか、ファルクス男爵だったかと」
「あの成金か……。なるほど、あの派手好きが手を伸ばしてくるとはな。見誤った」
「あの、それはどういう……」
「黙ってくれるか。少し考える」
***
「披露宴、ですか」
「そうだ」
私がこの家に来て一週間ほど経ったある日のことだった。
私は自分の部屋で編み物をしていた。この屋敷へ来てからの私はけっこう忙しかった。土いじりが趣味だといったら、お庭の一部を私に譲ってくれた(最初は全部くれると言われたが、さすがに辞退した)ので、午前中はお庭の手入れを。午後は編み物をしたり読書をしたり、動かずにできる趣味に費やすことにしていた。
今は編み物をしながらメアリと一緒に紅茶を飲んでいたところだ。
そこへ商談を終えて戻ってきたファルクス男爵がやってきて「来週、披露宴を開く」と告げたのだ。
「披露宴はしない、という話ではありませんでしたか?」
「ああ。そのつもりだったのだが、お得意先の方々から、是非に、と言われてしまってな……。どうだろう?」
「……」
「どうしても嫌なら、断ってもいいが……」
「嫌ではないのですが、正直なところ、演技が露呈するかもしれないと危惧しています」
「そのあたりは気にしなくていい。あなたは黙って俺の傍にいればいいようにするし、仮に悟られたところで特段の問題もない。みな、わかっているのだから」
「そうですか」
「これは偽装です、などと口にさえしなければ大丈夫だ」
「わかりました」
「……それはそうと」
ファルクス男爵は私のむかいに座っているメアリを指さした。
「あなたのメイドはどうして俺をいつまでもにらんでいるんだ?」
「申し訳ありません。何度も注意しているのですが、彼女はファルクス様のことを誤解していて……」
「誤解ではありません!」
メアリは叫んだ。
「失礼ですが、旦那様! 旦那様はクリスタ様のことを見つめすぎではありませんか!?」
「見つめすぎ、だと?」
「そうです! 私は旦那様の評判を知っています! 巷では、数多くの女性を泣かせてきた女たらしだともっぱらの噂ではありませんか!」
「なんだと!? そんな噂が立ってるのか! 流したのはどこのどいつだ! ちょっとシメるから名前を教えてくれ!」
「黙秘します! とにかく、旦那様はクリスタ様のことを見つめすぎです。いつもいつもいつも目を血走らせて、クリスタ様のことを見ておいでです!」
「俺はそんなに見ているのか!?」
「見ています!」
「血走っているのか!?」
「血走っています!」
ファルクス様はやや呆然とした表情で私をみた。私はうなずいた。
「いつも充血されているようでしたので、寝不足なのかな、と思っていました」
「あ、ああ、そうだったのか……」
「私は知っていますよ!」
メアリはまた叫んだ。
「旦那様は地位のためだけではなく、クリスタ様に、え、えええ、えっちなことをするために結婚されたのです! そうでしょう!?」
「メアリ、はしたないわよ」
「え、えええ、えっちなことだと!?」
「ファルクス様も大声でそんなことを言わないでください」
「いいですか、旦那様! 旦那様がいくらメアリの主人だとしても、私の目の黒いうちはクリスタ様のことは、私が守ります!」
「ほう! そうか、少々複雑な気分だが、それは頼もしい。しかし、意外だな。武術の心得でもあるのか?」
「あ。そういった心得などはございません。ですが、いざという時は、熱々の紅茶をぶっかけたりはできますよ」
「メアリ、危ないから、ファルクス様にはしないでね」
「なんだ、役には立ちそうもないな。君にはがっかりした」
「なんですと!?」
ファルクス男爵はため息をつくと、私をみた。
咳払いを一つする。
「ごほん。ええと、別に俺は、え、えっちなことが目的であなたと結婚したわけではないぞ……」
「存じています」
「俺の目的は変わらない。あなたの地位と、あなたの、人形らしいところが、その、決め手だったのだ」
「存じております」
「人形。人形のようだ。あなたは」
「はい。わかっております」
「……」
ファルクス男爵は何かを期待するように私をじっと見つめた。やはり寝不足のようだ。
「なにか?」
「いや……、なんでもない」
「……クリスタ様のことを、いつもいつも人形人形と……、まるでゴミクズのような旦那様ですね……。とりあえず、紅茶をぶっかけるべきでしょうか……」
「メアリ、声に出てるわよ」
「はっ!? しっ、失礼しました! 殺さないでください!」
「殺すわけないだろ」
「じゃ、じゃあ、私にもえっちなことを……?」
「するか!」
ファルクス男爵はふんと鼻を鳴らすと、頭をかいて、出ていった。
***
「はあ、疲れた―――」
「えっちなことは、なさらないので?」
「うわあ!? びっくりした! 何してるんだ、セバスチャン!?」
俺は、クリスタ嬢の部屋をでたところで、すぐそこに立っているセバスチャンに声をかけられた。目と鼻の先とはまさにこのこと。扉を開けたら鼻先がかすめるような距離に立っていた。
俺は扉を閉め、自室へ歩きだした。セバスチャンは俺の半歩後ろをついてくる。少し怖かった。
「旦那様がおかしなことを口走らないよう、念のため待機しておりました」
「お前がおかしなことを口走ってどうする」
「しかし、肝心なことをお伝えし忘れていませんか?」
「なに? また惚れただのなんだの言うつもりか?」
「披露宴がどのようなものか、という話です」
俺は足を止めた。
「なぜ、お伝えしなかったのですか?」
「……忘れていた」
「いいえ、旦那様が話をそらしたのでしょう。旦那様のお得意様であれば、この結婚が形式的なものだとわかっていらっしゃいます。ですから、披露宴を開くよう促されるのは不自然だとおっしゃったのは旦那様です。その方向に話を進めるものと思っていたのに、いきなりメイドに話の軸を移して……」
「そこまでわかっているのなら、わざわざ口にするな」
「マムル卿の差し金だろうと、伝えるのが怖くなったのですか?」
俺はセバスチャンを振りかえり、思い切りにらんだ。しかし、セバスチャンはびくともせず俺を見つめ返してきた。俺は舌打ちし、再び自室へ歩き出した。
「奥方様は、マムル卿への未練をお持ちだと?」
「知らん。聞いていない」
「……私から、それとなく聞いてみましょうか?」
「ダメだ。余計なことはするな。これは俺と彼女の問題だ」
「左様ですか。しかし、このままでは……」
「このままでは、なんだ?」
「披露宴の場で、奥方様が……」
「クリスタ嬢を傷つけるようなことがあれば、マムル卿を八つ裂きにしてやる」
「それでは守ったことにはなりませんよ」
「わかっている。決して彼女が傷つけられぬよう、奴の発言を可能な限り想定しておく。それで問題ないだろう?」
「そうですね……」
「まだ何か不安材料があるのか?」
「マムル卿は才のあるお方です。なにか想定外のことが起こるのではないかと……」
「大丈夫だ。知っているだろう。俺は交渉事で負けたことはない。いかに奴に才能があるといっても、場数を踏んでいる俺には勝てんさ」
「そう、ですね。問題ありませんね」
「ああ。お前は心配しすぎなのだ」
「それはそうと、旦那様」
「なんだ?」
「人形とは、どういう意味なのですか?」
俺は足を止めた。
まったく、余計なことに気が付くやつだ。
「気にするな」
俺は再び歩き出した。
「弱点とお見受けしました。どういう意味なのです?」
「しつこいぞ!」
「クリスタ嬢とお話になるときは必ず、一度は口になさいますよね。どのような意味で?」
「いつも聞き耳を立てているのか!?」
「毎回、必ず」
「……」
「旦那様、本当にお嫌であれば、おっしゃらなくともよいです。しかし、旦那様は時に視野が狭くなりがちです」
「わかっている」
「判断を誤る前に、どうか私めにご相談くださることを勧めます」
「そんなことを言って、興味本位ではないのか?」
「ゼロではありません」
「ちくしょうめ!」
「旦那様」
「……」
執務室にたどりついた。俺は中に入り、セバスチャンを中に入れるか迷って……、結局中に入れた。
「ありがとうございます」
「……笑ったんだ」
「と、いいますと?」
「俺が、彼女を人形のようだ、といったら、彼女が笑ったんだ」
「なるほど」
「……」
「あの、それで続きは……」
「ない。以上だ」
「ああ、なるほど! つまり、旦那様は奥方様に笑ってほしいということですか!」
「……」
「それで、毎度毎度あのような厚顔無恥な発言をなさっていたのですね!」
「おい、いつも言ってるだろ! お前は容赦がなさすぎるんだ!」
***
披露宴当日。
披露宴は屋敷の玄関ホールを利用して行うことにした。
そろそろ客がちらほら顔をみせに来ていた。俺はその応対で忙しかった。
そう。忙しすぎて、クリスタ嬢の晴れの衣装をまだ見れていない。まだ控室にいるはずだ。まだ着替えているだろう。披露宴が始まる少し前には、姿を見せてくれるはずだが……。
正直、心の準備ができていない。
俺は彼女が最初に見せてくれた笑顔が一番好きだ。だが、普段の無表情も嫌いというわけではない。むしろ好きだ。セバスチャンなどと比べるのは失礼だが、月とスッポンくらいの比率で、彼女の顔をながめていたい。ああ、今日のドレス姿が楽しみだ。どんな衣装なのだろうか……。
「旦那様」
声をかけてきたのは、月ではなくスッポンの方だった。
「なんだセバスチャンか」
「なんだとは、なんですか。……いらしてますよ」
「そうか」
顔を上げると、遠くにマムル卿が来ているのが見えた。向こうも俺に気づいて微笑みを浮かべ、グラスを少し持ち上げてみせた。同じ仕草を返しておいた。
「奥方様に、お伝えしないのですか?」
「……」
「やはり、招待客のみにするべきだったか」
「いまさらですよ。それに披露宴を開くことになったのと同じです。ここまでは不可避だったでしょう」
「そうだな」
「もう、お伝えしなければ。これ以上は伸ばせませんよ。奥方様のショックが大きくなるばかりです」
「……」
「私から、お伝えしましょうか」
「いや、俺が行く」
クリスタ嬢の部屋へ行った。
扉の前に立った。
これから話すことを思うと、体中の血が逆流する思いがした。
扉をノックして声をかけると、メアリが大声で悪態をつく声と「どうぞ」というクリスタ嬢の声が聞こえた。俺は扉を開いた。
部屋の真ん中に大きな仕切りが置かれていて、その向こうでクリスタ嬢が着替えているようだった。メアリは着替えを手伝っていて、仕切りから顔を少し出して俺をにらんでいる。
「突然すまない」
「いえ、なにか不測の事態でもありましたか?」
「落ち着いて聞いて欲しい」
「はい」
「マムル卿が来ている」
「……」
一瞬、間があった。
「そうですか」
「追い払うこともできるが」
「いえ、お気になさらず。角が立ちますでしょう」
「会いたいと……」
「え?」
「君は、あいつに会いたいと、思っているのか?」
「……」
クリスタ嬢が答えなくなった。
まるで時間が凍りついたようだった。
しまった、と思った。余計なことを聞いてしまった。
俺はすがるようにメアリを見た。しかし、彼女は驚いた様子で俺とクリスタ嬢を交互にみているだけだ。助けになりそうもないし、彼女の表情からクリスタ嬢の様子を、読み取ることもできなかった。
「私、は……」
クリスタ嬢が、言葉を切りながらゆっくりとそう言うのが聞こえた。今までにない話し方だった。感情こそこもっていないが、なんらかの意志をこめて言葉を発しようとしているのが伝わった。
そのときだった。
扉が激しくノックされた。
「旦那様、いらっしゃいますか!」
セバスチャンの声だった。俺はその声のただならない様子にぎょっとしつつも、どこかほっとしている自分がいるのを認識した。
俺は逃げるように部屋を出た。
「なにがあった」
「マムル卿が旦那様をお呼びしています。お怒りになられています」
「まだ、クリスタ嬢が姿を見せていないのに、動いたのか?」
「はい」
「そうか。まあ、彼女が面と向かって責められることがないなら、それでいいか……」
***
「ファルクス卿! どこに行かれた、ファルクス卿!」
「お呼びでしょうか、マムル卿」
ロビーへ戻ると、マムル卿は二階に陣取り、声高に俺を読んでいた。俺は一階から彼を見上げて言った。
「卿が大声をあげるなど、珍しい。なにか不手際でも?」
「この度の、貴君の婚儀に異議を申し立てたいのだが」
「マムル卿、心配は無用だ。私は彼女の人となりを私なりに理解している。卿に口出しされるいわれはない」
「口出し無用か。なるほど、私に話されてはまずいことでもあるのかな?」
「……なに?」
あるに決まっている。
これ以上、クリスタ嬢の悪評が広まるような真似はしたくない。彼女は気にしていないようだが、俺は気にする。
俺が思うに、彼女は人の心が無いのではない。ただ純粋なだけだ。
ガラス細工のようにくもりが無いだけ。
感情という不純物が他人と比べて非常に少ないから、違和感を与えるだけなのだ。
それをよく知りもしない連中に、悪評をつけられるのが俺には耐えられない。
「自分が捨てた令嬢の悪評をふりまくのは卿の勝手だが、その結果、俺が卿の敵に回ることも覚悟してもらいたい!」
「ファルクス卿」
マムル卿は微笑んだ。
「貴君はなにか勘違いをしておいでのようだ」
「は?」
「それとも……、クリスタを案じているという自分を印象付けるための、小芝居なのかな、それは。とても真に迫っていると思いますよ」
「なにを……言っている?」
「調べはついているのです、ファルクス卿」
マムル卿は俺を見下ろして、冷たく言った。
俺は全身の肌が粟立つのを感じた。
周囲の目が俺に向くのを感じる。まだマムル卿は何も確かなことを言っていない。
彼が俺に何を言うつもりか、わからない。
まるで底なし沼にでもはまりこんだような心地だった。
もちろん勝負はまだ着いていない。
マムル卿はまだ肝心なことをなにも言っていないに等しい。
しかし、俺はもうすでに勝敗は決したようにさえ、感じた。
「あなたは彼女の地位を目当てに、偽装結婚するおつもりだ。違いますか?」
……ああ、そうか。
そうだったのか。
マムル卿の標的は、クリスタ嬢じゃなかったのか。
俺か。
俺はマムル卿の顔をみて悟った。
そうか、こいつ、彼女のことが嫌いじゃなかったんだ。
だったら、何のつもりで婚約を破棄した……。
たとえば、「もう少し私のことを考えてください」とかいうメッセージだったのだろうか。
あまりにも淡白なクリスタ嬢への。
子供じみている。
だが、わからなくはない。
わからなくはないが、とんだ迷惑だ……。
しかし、ともかく……、
クリスタ嬢を傷つけるようなことだけは、マムル卿は言わないだろう。
だから、ちょっとほっとした。
この場では、クリスタ嬢が傷つくことはない。
俺とクリスタ嬢の婚約が流れたとしても、それは俺にとっての最悪なだけだ。
彼女にはこれまで通りの生活を保証していた。だから、やはりこれまで通りに戻るだけだ。住む場所が元に戻るだけ。マイナスはない。
ひょっとすると、マムル卿との復縁もありえるかもしれない。
この話の流れなら、「君の面倒はやはり僕が見ないと……」とか言えば、きっと周囲への面子は立つし、人格者としての箔もつくだろう。
やや子供じみている気はするが、致命的ではない。元々そういう計算をしていたのかもしれない。
そうなれば、彼女はきっとマムル卿の手を取るだろう。それが合理的だからだ。そう。俺の手を取った時のように……。
俺は顔を上げた。
勝敗は決した。俺は標的を見誤った。
俺は自分自身を擁護するための準備などしていない。
この準備万端の恋敵を相手に、対抗することはできないだろう。
才気あふれる彼がこうして声をあげているということは、俺にとって致命的なものをにぎっているはずだ。勝ち目はない。
考えるべきはすでに、勝つ方法ではない。
いかに負けるかだ。
俺は、勝負に関してあまり潔い方ではない。
潔く負けたところで、損害が増すばかりだからだ。
だが、今回に限ってはそうもいかないだろう。
「ち、違う! お、俺は地位を狙っての偽装結婚など、たくらんでいない!」
「見苦しいですよ、ファルクス卿。あなたと懇意にしている業者の方々がみな口をそろえて、あなたがそう言っていたと証言してくださっています」
「馬鹿な! くそっ! 誰だ!?」
俺は会場にいた、客たちを疑いの目で見渡した。
「誰が、そんなことを、一体誰が、俺を、俺をはめたんだ!」
「本当に、見苦しいですね……」
マムル卿は冷たい目で俺をにらんだ。
これくらいでいいだろうか。
これくらい、強調しておけば彼女は利用されただけだと、わかってもらえるだろうか?
いや、まだだ。もう一押し。
「あ、あんな、人形じみた……」
言え、言うんだ。
「あんな人形みたいな女……、俺がひろってやらなきゃあ、誰が面倒見るってんだ!?」
言った。言ったぞ。
周囲の視線が、冷たく、黒く、敵意すらはらんだものに変わるのを感じる。
つまり、軽蔑だ。
上手くいった……。これで、クリスタ嬢は「被害者」として、扱われるだろう。彼女はあわれにも、俺という野心家にいいように利用されただけだと。
これで、俺と婚約したことによるマイナスは、最小限に抑えられるはずだ。
「人形……」
そう小さくつぶやく声が聞こえた。
ふりかえると、クリスタ嬢がそこにいた。
俺にとって最悪のタイミングだった。きっと彼女は俺を軽蔑するようになるだろう。
彼女にとって最高のタイミングでもあった。きっと彼女は俺を捨てることに躊躇しないだろう。
「あっ……」
クリスタ嬢はウェディングドレス姿だった。
花々をあしらった衣装で、まぶしいほどに白く、美しかった。
一瞬だけ目があったが、彼女はすぐに目を伏せてしまった。
今のが彼女と目をあわせることができた最後の機会だったのかもしれないな、と俺は思った。
彼女は足を階段へ、つまり二階にいるマムル卿へむけた。顔を少し上げ、ゆっくりと二階へと階段をのぼっていく。
俺は彼女の様子をじっと見つめていた。誰もがそうだった。誰も何も言わず、ただ黙って彼女の歩みを見ていた。
このあとの展開をおもうと憂鬱だった。
彼女がいつから俺とマムル卿のやり取りを聞いていたのか知らないが、利口な彼女のことだ。きっとこの場の状況のほとんど全てを理解して、彼女にとっての最適解を出したのだろう。
つまり、マムル卿に感謝を伝えに行ったのだ。
クリスタ嬢がマムル卿へ近づいていく。顔はベールで隠れていて、表情は見えない。
マムル卿は微笑みを浮かべている。自由になった彼女を祝福するかのような微笑みを―――。
パァン!
その微笑みは、クリスタ嬢の張り手で勢いよく、回転し、はじけ飛んだ。マムル卿が驚きのあまり、尻もちをつく。微笑ましかった会場の空気が一気に困惑したものに、緊張感をはらんだものに変わる。
「……セバスチャンから、聞きました」
少し息を乱しながら、彼女は言った。
「あなたが、ファルクス様を、糾弾していると。私はっ……、私は、たしかに、この方と、偽りの婚姻関係を結ぼうとしています。そう誘いを受けました」
会場の空気が、少しゆるんだ。「なんだ、やっぱりマムル卿の言う通りだ。ファルクス卿が悪いんじゃないか」という笑みを交わす気配。
「ですが」
クリスタ嬢が言った。その迫力に会場が再び息を飲む。
さっき張り手をしたはずみで、ベールが脱げている。彼女は、今まで見たことがない表情をうかべていた。怒っていた。マムル卿をにらみつけている。
それでも彼女は美しいと、俺は思った。
「私はファルクス様から、ないがしろにされたことはありません。ただの一度として。ファルクス様は私の自由なように過ごさせてくださいます。食事はかならず一緒にとります。日に何度か、私の部屋へ遊びに来てくださいます。すこしおしゃべりをすると、帰られます。それだけです。
私たちの関係は、夫婦と呼べるものではないかもしれません。
この関係は、偽りかもしれません。
時がたてば、私は捨てられるのかもしれません。
そんなことは最初から覚悟の上です。わかっていて、私はこの方と婚姻を結ぶことを決めました。
ですが、私は……」
クリスタ嬢はそこで言葉を切った。
まるで、あふれる言葉の整理が追いつかないかのようだった。
俺は、ただ彼女を見上げていた。
彼女は毎日、いつも変わらず無表情で俺の話を聞いていた。
最初に会った日以来、一度も笑顔をみせていない。それどころか、ほとんど表情が変化するところを見たことがない。
普段の無表情と、たった一度の笑顔と、いま怒っている顔の三種類。それが俺の知る、彼女の表情だった。
てっきり、嫌われていると思っていた。すくなくとも、好かれてはいないと思っていた。彼女は「捨てられるかも」と言っていたが、それとそっくり同じことを俺も思っていた。
いつ彼女は俺の元を去るのだろうと。
それがずっと、怖かった。
なのに。
「私は、偽りだろうとなんだろうと、このまま、ファルクス様と一緒にすごしていたいと願っています。どうか、私のことは放っておいてください」
彼女は、俺と一緒にいたいと願ってくれた。
何年か前に、大嵐の海で遭難して死にかけたことがあったが、そこから生還したのと同じくらい嬉しかった。
いや、それ以上だろうか。
きっと財宝をみつけた探検家はこんな気分なのだろう。
俺はたぶん、この世で最も得がたい宝物を手に入れたのだから。
クリスタ嬢は、マムル卿へ頭を下げた。
「怒りのあまり、殴ってしまったことはお詫びします。感情的な発言も。必要であれば、実家から金品をお支払いして謝罪いたします。ですので、どうか、私たちの結婚に口をお出しにならないでください。お願いします」
マムル卿は尻もちをついたまま、しばらく黙って、頭を下げる彼女を驚きに満ちた表情で見つめていた。
やがて立ち上がると、切れ切れに言った。
「……いえ、謝るのは、謝罪が必要なのは、私の方です。どうも、私の誤解だった、ようです。皆さま、お騒がせいたしました」
マムル卿は二階から、頭を下げて謝罪した。
会場は何とも言えない空気に包まれた。複雑な表情で、拍手するべきか迷っている者が半数。結局、誰が悪くて誰が正しかったのか、よくわからない、という表情の者が半数、という感じだった。
けれども、しばらくすると客たちは、おしゃべりや食事を再開しはじめた。とりあえず、判断を保留することにしたらしい。今回のことについての是非が決まっていくのは後日、ということになるだろう。
しかし、ひとまず急場はしのいだようだ。
クリスタ嬢のおかげで。
そして、張りつめていた緊張の糸が切れたように、クリスタ嬢が倒れかけた。
あっ、と思ったが、無事だった。
すぐそばにいたマムル卿が倒れる前に彼女を助けたからだ。
***
少し目がくらんで、気づけばマムル卿に抱きかかえられていた。彼は困ったような表情をうかべていた。私は少し頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ……」
「すみません、気が抜けてしまって……」
「驚きました」
「え?」
「あなたが、あんなに感情を見せるなんて。私はあなたのあんな顔、見たこともなかった」
「私は、どんな表情だったのですか?」
「人形とはほど遠かったですよ」
マムル卿は深く息を吸って、言った。
「彼と、私では、何が違ったのでしょう?」
「というと?」
「彼の何が、あなたの感情を引き出したのでしょうか」
「そう言われても、私にはうまく言えませんが……。これだけはわかっています」
「それは?」
「彼は、私を、笑わせてくれたんです」
「え?」
「クリスタ嬢!」
そのとき、階段を駆け上がってきたファルクス様が、私のすぐ隣にひざまずいた。両手を差し出して、マムル卿をじっとにらむ。
「俺の妻を返してくれ」
「あ、ああ……」
マムル卿は唖然とした表情で、私とファルクス様をみくらべて、私をわたした。
「どうぞ」
「大丈夫か、クリスタ嬢? なにかされなかったか?」
「いえ」
「なにか言われなかったか?」
「言われました」
「なんだと!?」
ファルクス様は、マムル卿にむかって獅子のように歯を剥きだしにして怒ったので、私はあわてて両手で彼の顔を押し戻した。
「人形とはほど遠いと、言われました」
「……む。そうか」
「そうです」
「なら、問題はないのか」
「ありません」
「手をどけてくれないか。見えない」
「あ。すみません」
「なるほど」
マムル卿は、泣きそうな顔でにっこりと笑うと立ち上がった。
「どうやら私の目は節穴だったらしいな」
「ああ、その通りだ」
「悪かった」
彼は私たちに背を向けた。
「あなたたちはお似合いだと思う。たとえ偽りだとしても。私に言えた義理ではないが……。しかし、そうか、あなたは最初から人形などではなかったんだな」
「……」
「二人とも、どうぞ、お幸せに」
「ありがとうございます」
「……どうも」
「そうだ、ファルクス卿」
マムル卿は私たちに背を向けたまま、どこかへ行こうとしていたが、足を止めて振り返った。
「貴君に一つアドバイスしよう。彼女に服を贈って、それを着てくれなかったとしても、落ち込まないことだ」
「は?」
「それでは」
マムル卿は、にやっと笑うと一階へおりて、誰かに話しかけられる前に屋敷から出ていった。それをみて、ファルクス様は苦々しそうに言った。
「もう帰りやがった。ふてぶてしい奴だな」
「いい人ですよね」
「子供なだけだ」
ファルクス卿は私をみつめた。
「どうかしましたか?」
「あいつから、服を何着贈られた?」
「わかりません」
「その服を着た回数は?」
「ゼロです」
「ゼロ? ゼロだって?」
「はい」
「なるほど……。同情したくなってきたな……」
「好みでは、なかったのです」
「あらら」
ファルクス卿はぐるりと目を回してみせた。
「それはまた可哀そうに……。でも、だったら、俺も同じ轍を踏む可能性があるわけだな?」
「それは……」
「ふーむ。なら、君が自分で選んだ服を、俺が買って贈るのはどうだろう」
「え?」
「それだったら、着てくれるのではないか?」
「そうですね。着ると思います。でも……、ふふっ」
「! ど、どうした?」
「いえ、それは少しずるいな、と思いまして。ふふふ……」
私はしばらく一人でくすくすと笑っていた。
ファルクス卿は私を抱えたまま、黙っていた。
披露宴はまだ始まったばかり。いや、始まってさえいない。
私たちの偽りの結婚生活もまた、始まってすらいない。
また穏やかな日々を過ごせるだろうか。
今の私のように、また笑うことができるだろうか。
それとも、さっきみたいに何らかの困難が立ちはだかるだろうか。
わからない。
たしかなことは何も無い。
けれど、たぶん大丈夫だと思う。
私は人形で、彼は野心家で、
きっと、ときどき私を笑わせてくれる。
だから大丈夫だろう。
ああ、でも……、
私もなにか、彼に返した方が、いいのかな?
そうだ。
とりあえず、刺しゅうを入れたハンカチを渡してみよう。
一体なんと言ってくれるのか、楽しみだ。




