第九話 嵐の前の静けさ
朝。
寮の窓から差し込む光が、薄く壁を撫でていた。
一人部屋。
静かな空気の中で、自分の呼吸と心臓だけが、やけに大きく感じる。
(……今日が“出発前日”)
明日は、もう戻ってこないかもしれないやつがいる。
そんなことを考えながら制服に袖を通し、鞄を肩に掛ける。
鍵をかけて部屋を出るころには、いつもの“少し不安そうな一年生”の顔に戻っていた。
食堂は、いつも以上に騒がしかった。
「クロガネー! こっち空いてる!」
カイが大きく手を振る。
テーブルにはリオ、ミルナ、セナ、グレンも揃っていた。
「おはよー、クロガネ」
リオが笑う。
「明日、北部行くんだぞ? 絶対あったかい寝袋買えよ?」
「……やっぱりそれ言われるんだ」
「だってクロガネ、寒さに弱そうじゃん」
「弱そうって何」
「お前が震えてたら、班全体の雰囲気ヤバいだろ。
俺が寝れなくなるし」
「そこ基準なんだ……」
トレイにパンとスープを乗せて席に着く。
「でさ、今日の放課後、買い出し行こうぜ」
リオがパンをちぎりながら言った。
「ポーション、寝袋、食料三〜四日分……あと――」
「……あと?」
「トランプ!」
「修学旅行かよ」
カイがニヤニヤしながら、指でサイコロの形を作る。
「サイコロも買おうぜ。罰ゲーム付きの――」
「危ないから却下」
セナが迷いなく切り捨てた。
「ダモン先生にバレたら、ほんとに没収よ?」
「見つからなきゃセーフ!」
「ところで、みんな準備どう?」
ミルナが話題を変える。
「私はね、《応急治癒》がちょっと早くなったよ」
セナが少しだけ誇らしげに微笑む。
「前は詠唱に十秒かかってたけど、今は七秒くらい」
「俺は《火矢》の軌道、ちょっと曲げられるようになった!」
リオが胸を張る。
「壁の影に隠れたやつとか、ちょっとなら追えるぞ」
「私は……新しい毒、ひとつだけだけど完成した」
ミルナが小声で言う。
「“神経鈍らせる系”。痛覚と反射が鈍くなるやつ。味は、たぶんマズい」
「そこは美味しくしようとしなくていいからね?」
「で、グレンは?」
カイが肘でつつく。
「……《魔力感知》が、また……強くなってる」
「お前ほんっと魔力に敏感すぎなんだよ!」
カイが頭を抱える。
「絶対、酔い止め三本は買っとけ!」
「三本は……多い……」
「足りないよりマシ!」
午前のホームルームは、いつもと違う雰囲気だった。
全クラス合同。
第一訓練場に、四百人の一年生が整列している。
ざっと見渡すと、胸元のクラスバッジの色が違う。
赤いAクラス、青のB、緑のC、俺たちDクラスは黒。
(A〜Jクラスで四百人。
これだけいれば、どんな鳴き声も混ざって聞こえなくなる)
前に立つのは教頭と、ギルド職員数人、それから二年生。
銀髪のヴァルトを含む五人が、簡易鎧の上から学園の外套を羽織っていた。
「一年諸君」
教頭の声が、魔導拡声で響く。
「明日より、北部林道の未登録ダンジョンにて実習を行う」
魔法紙が展開され、宙に地図と図が浮かぶ。
「総人数は四百名」
ギルド職員が引き継いだ。
「馬車は五十台。班ごと、クラスごとに乗車する。
行程は、学園から北部関所まで一日半。
関所にて一泊し、翌日ダンジョンに入り、浅層を中心に探索する」
ざわ、と周囲が揺れた。
「四日分の食料と水を必ず準備しておくように」
職員は続ける。
「ダンジョン内での食料調達は禁止。
飢えたからといって、知らないキノコを食うな」
数人の男子が苦笑いを漏らしていた。
(まあ……四日目まで普通に歩けるやつが何人いるかは、知らないけど)
「次に、階層の制限について」
今度はダモンが前に出てきた。
「今回潜るダンジョンは、すでにギルドによって“第五層の扉”まで発見されている」
ざわめきが一段階大きくなる。
ギルド職員が補足する。
「ダンジョンコアの性質上、一定時間後に“再出現する可能性”が高い。
つまり第五層の中ボスは、“リポップする”と思ってくれ」
誰かが小さく「ゲームみたいだな」と呟いた。
(実際、ゲームよりずっと質が悪いけどね)
「そこでルールだ」
ダモンが指を三本立てる。
「一つ。B〜Jクラスの一年生は“第三層まで”を基本とし、第四層以深への立ち入りは禁止」
あちこちで「やっぱりか」「三層までか」とため息が漏れた。
「二つ。Aクラスの一年および、二年同行組は“第四層まで”の侵入を許可する」
銀色のバッジをつけたAクラスの面々の中に、微妙な緊張が走った。
「三つ。第五層への立ち入りを許可されるのは、“ギルド調査班”“二年生”“Aクラスの中でも希望者のみ”だ」
「希望制なんだ……」
「ボスいないかもしれないんでしょ?」
「でも、いたら死ぬかも……」
小声があちこちで飛び交う。
「第五層は“調査”が目的だ」
ギルド職員が声を引き締める。
「中ボスが再出現していたら、その危険度と動きを確認し、可能であれば討伐する。
中ボスがいなければ、部屋と周辺を調査し、一定時間で撤退する。
追いかけて“深追い”はしないこと」
(つまり、“俺の影騎士”は、うまくすれば明日には“お披露目”ってことだ)
ダモンが締めくくるように言った。
「四百人全員、同じスタートラインに立つ。だが、帰りの馬車で“誰が笑っているか”は、お前たち次第だ」
(違うよ。半分くらいは、俺の気分次第だ)
午前の授業は、ほぼ形だけで終わった。
みんな頭の中は実習でいっぱいだ。
昼食を早めに済ませると、俺たちは街へ向かった。
門から商業区への道は、冒険者志望の学生と荷馬車でごった返していた。
「四日分ってことは、乾燥パンが……」
「一日三つとして、十二個?」
「干し肉もいるし、ナッツとかもあった方が……」
食料品店の前で、ミルナが真剣に計算している。
「最悪、誰かが倒れたら……」
カイが口を挟む。
「その分、食料は浮くよな」
「そういうこと言わないの」
セナが小突く。
ポーション店では、セナが手際よく役割を決めた。
「私は回復薬メイン。倒れた人を起こすのが仕事」
「うん」
「ミルナは解毒と状態異常。北部は変な毒草もいるだろうし」
「任せて」
「カイとリオは、体力回復を多めに持って」
「了解!」
「了解!」
「グレンは……魔力回復。飲み過ぎないようにね」
「……うん」
「クロガネは?」
「僕は全体の予備かな。誰かが落としたときの保険」
「頼りになるじゃん」
リオがにかっと笑った。
(“保険”って言葉、いいよね。
一番当てにしてるところから崩れると、みんな本当にいい顔をする)
寝袋と防寒具の店の前では、カイが値札を見て固まっていた。
「高っ!!」
「北部仕様だからね……」
「でもさ、ケチって凍えたくないしな」
リオが言う。
「クロガネはさ、やっぱりモコモコのやつにしとけよ」
「そう見える?」
「見える」
全員が頷いた。
「ひどくない?」
文句を言いつつも、結局、そこそこ暖かくてそこそこ軽い寝袋を選んだ。
(凍えて死なれたら、こっちの計画が狂うしね。……殺すにしても順番がある)
雑貨屋で、リオが隊長面で言った。
「じゃ、トランプ二つとサイコロ三つな」
「だから二つは多いって」
「予備! 無くしたら終わりだろ!」
「……ほんと、修学旅行みたい」
ミルナが呆れたように言う。
買い出しを終えて学園に戻ると、空は夕方の色に変わり始めていた。
「じゃあ、一回荷物置いてから訓練場ね」
セナが言う。
「今日が最後の調整だし」
「俺、二年ともう一回やりたい!」
カイがやる気満々だった。
訓練場には、すでに何組もの一年生が集まっていた。
二年生も何人か、教員の代わりに模擬戦の相手をしている。
俺たちDクラスも、二年の先輩を相手に木剣を振るった。
掛け声だけは立派で、動きはまだまだ粗い。
夜。
一人部屋に戻り、買ってきた物資を丁寧に詰め直す。
「寝袋、よし。乾燥食、よし。ポーション……よし」
下には重いものを、上にはすぐ取り出したいものを。
リオがトランプをシャッフルしている姿。
カイが派手な柄の寝袋に潜ってニヤニヤしている姿。
そんな光景が頭に浮かぶ。
(この学園で、全員揃って眠る夜は――たぶん、もう今晩が最後)
ランタンを消す前に、窓を少しだけ開けた。
北の空。
遠くに、肉眼では見えない“濃さ”があるのを感じる。
(……呼んでるな)
寮が静かになった頃、俺はベッドから抜け出した。
靴を履き、外套を羽織り、音を立てないように廊下を進む。
見回りの気配をやり過ごし、寮裏の森へ入った。
木々の陰、誰も知らない裂け目に触れる。
世界がひっくり返り、影の底へ落ちる感覚が全身を撫でた。
影の草原に降り立つと、足元が柔らかく揺れた。
「……お帰りなさい、マスター」
サキュバスが、嬉しそうに近づいてくる。
「今日の報告をお願い」
「はい」
彼女は、いつものように淡々と、しかしどこか楽しげに言う。
「まず、第五層について」
足元の影が、輪を作るように集まった。
「影騎士の“素体”は、完全に組み上がりました。
鎧の形も、武器も、動きも……すべて準備済みです」
「ただ――」
サキュバスが唇に指を当てる。
「魂が、まだありません」
「やっぱり必要なんだね、一人くらい」
「ええ。本来なら、何十もの死を溶かして作るべき階層ですが……」
彼女は肩をすくめる。
「今回は魔力も時間も足りませんので、“節約構造”にしました」
「節約構造?」
「素体を先に作り、魂を“ひとつだけ”与えて完成させる方式です。
質の良い魂なら、一つで十分です」
(質の良い魂、ね)
「候補は?」
「二年生の剣士が、何人か。
あるいはギルド随伴の冒険者の誰か」
「……どっちでもいいな」
俺は笑う。
「“よく動いて、よく燃えそうなやつ”なら」
「あなたの好みで決めてください」
サキュバスの声は甘く静かだ。
「実習隊が第五層に到達する“前”に、ひとりだけ捕まえます。三、四層で殺して、その魂を第五層に落とす」
「で、実習隊が来るころには――」
「“影騎士”が玉座で待っている、というわけです」
影の草がざわりと震えた。
「第四層の包囲網も、調整が終わりました」
サキュバスは続ける。
「第三層で心を削り、第四層で体力と判断力を奪い……
そして第五層で、“魂”を頂きます」
「完璧だ」
「上の世界では――」
彼女が目を細める。
「今日、四百人の一年生が“遠足気分”で荷物を揃えていました」
「見てたの?」
「ええ。門のところまで、気配を伸ばしましたから」
「みんな楽しそうだった?」
「ええ、とても」
サキュバスは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「カードで遊ぶ話をしていた子たちもいましたよ」
「……うちの班だね、それ」
「そうです。彼らは、あなたのことを“頼れる中心”だと思っています」
「それは、それでいい」
影が、俺の足首を優しく撫でた。
「今日は、最後の平和な一日です」
サキュバスが囁く。
「明後日、“四百人分の足音”がこの森に踏み込んできます」
「わかってる」
「壊す順番は?」
「だいたい決めたよ」
俺は目を閉じる。
「楽しみですね、マスター」
「うん。とても」
影の草原に、ゆっくりと風が通り抜ける。
(出発まで、あと一日)
(学園も、俺の巣も――準備は、もうほとんど整ってる)
静かな闇の中で、俺はひとり、満足そうに息を吐いた。
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