はじまりの音
風が、鳴いていた。
朝の森に響いたその声は、誰かが泣いているようで。また、誰かを呼んでいるようにも思えた。
「……やっぱり、聴こえる」
少女——メアはそっと耳をすます。小さな手のひらで頬にかかる髪をおさえ、じっと風のゆく先を見つめた。
彼女には、生まれつき少し変わったところがある。
鳥の鳴き声の“意味”が分かる。雨の音から“気持ち”が伝わる。
そして人が聞き逃すような微かな音までも、まるで誰かのささやきのように聴こえてしまうのだ。
それは「異能」と呼ばれるものだった。
母のノエルは、その力を「音の祝福」と呼んでくれた。
けれど母がこの世を去ってからは、その力を知る者も、受け入れてくれる者も、ほとんどいなかった。
「今日から、学舎に通うんだよ」
父・ハルドの声は、静かだった。いつものように無口で背中を向けたまま言葉だけを残して、家の外に出ていった。彼はいつもメアの力について何も言わなかった。否定もしないし、認めもしない。
けれど、その背中には確かに“不器用な愛”が刻まれていると、知っていた。
メアは草の実が縫い込まれた緑の衣を着て、足元に草履を履いた。腰には母の形見である細い鈴のついた紐飾りを結ぶ。扉の前で一度だけ深く息を吸い、彼女は山道へと歩き出した。
目的地は「響命の学舎」。
音と命の交わるその場所で、彼女はまだ知らない—自分の“真の出会い”が、すぐそこに待っていることを。
***
その学舎は谷を見下ろす高台の上にあった。木々に囲まれたその建物は、どこか神殿のような静けさをまとっていて、普通の学校とは違う空気があった。
門の横にはくすんだ銀板にこう記されていた。
――《響命の学舎》
音を聴く者よ、ここに集え。命と共に歩む術を学べ。ーー
「……ここなんだ」
メアの胸がトクン、と高鳴った。
足を踏み入れたその瞬間——小さな“音”が、彼女の耳に届いた。
——チリン……
それは、どこか懐かしい音だった。けれど、どこから鳴ったのかは分からない。
「だれ……?」
問いかけるように声を出したそのときだった。背後の茂みから、カサッと音がした。振り返ると、そこに立っていたのは一頭の獣だった。
全身を白銀の毛に包まれた、美しい獣。狼にも似ているが、その瞳は人のような理性を宿していた。
「あなた……もしかして……」
その瞬間、メアの中に“声なき声”が響いた。
——おまえは、聴こえるのか?
それは、風の音でも木々のざわめきでもなかった。
けれど確かに「問いかけ」だった。
メアは恐れなかった。なぜなら——聴こえたから。
「うん。私、聴こえるよ」
そう答えた少女の前で、白銀の獣が静かに目を細めた。
そして、その瞳の奥にあったものは——どこか、孤独な“安堵”だった。
こうしてメアとシェイロの出会いは始まった。それは音が導いた、運命の最初の一歩だった。