プロローグ『音のない朝』
その朝、風が一度も鳴らなかった。葉も揺れず小川もささやかず、鳥たちさえ声をひそめていた。音を失った森は、まるで息を止めたかのように沈黙していた。
メアは、小さな草屋の戸口でじっと耳を澄ませていた。十歳のその耳はまだ世界のすべてを知らず、それでも誰よりも敏感に“音”を愛していた。いつもなら、風が木の枝をこすり合わせ父の足音が湿った土を踏みしめ、兄の笑い声が裏山へ駆けていくはずだった。
けれど今日はなにも聴こえない。なにかが――おかしい。
「……おかあさん、どこにいるの?」
思わずつぶやいたその言葉が自分の耳にさえ届かなかったような気がした。
母・ノエルは数年前に静かにこの世を去った。けれどメアにとって、母はずっと音のなかにいた。湯を沸かす音、木の実を刻む音、優しく髪をとかす指の音。
それらは母の声だった。姿が消えても、音はメアの中に残っていた。それなのに――今日は、そのすべてが消えていた。
彼女は歩き出した。森の奥、音の生まれる泉と呼ばれる場所へ。誰も近づいてはいけないと言われていた。でも今は何かに呼ばれている気がした。裸足の足が土を踏むたび、少しずつ“音”が戻ってくる。
葉のざわめき、遠くの鳥の羽音、水が岩に跳ねる音。そのすべてが彼女の中に染み込んでいった。
そして――泉のほとりに立ったとき、メアの鼓膜にひとつの音が満ちた。
それは言葉ではなかった。でも確かに“なにか”がそこにいた。その瞬間、メアの瞳は見開かれ彼女の世界が変わった。
音が、聴こえた。生き物の、森の、大地の、命の音が――彼女に語りかけていた。
のちに、この日を“始まりの朝”と呼ぶ者たちが現れる。
まだ誰も知らない「音の巫子」の物語が、この瞬間から静かに歩き出した。