第5話 共感の魔女
あれから、一晩が明けた。
森の空気は冷たくて澄んでいて、
どこまでも静かだった。
けれど、その透明さがかえって
昨日の出来事を現実味のない夢のように思わせた。
けれど、ぼく――
レイの胸の中には、確かにそれが残っていた。
あの光、あの温もり。
エリィの小さな手が差し出され、
ぼくを包み込んだ瞬間。
まるで心そのものに触れられたような、
あのやさしい感覚。
言葉を話せないはずの彼女が、
たしかにぼくの心に直接語りかけてきた。
あれは、幻なんかじゃない。夢でもない。
けれどそれをどう説明すればいいのか分からなかった。
朝食の時間になっても、ぼくは頭の中がぐるぐるとしていて、パンをかじっていても味が分からなかった。
そんなとき、母がふと窓の外に目を向けた。そして、わずかに眉をひそめる。
「……結界が、強くなってる」
手にしていたスープ皿を置きながら、
父とぼくが顔を見合わせる。
母が張っている家の魔法結界は、
家族を守るために定期的に見直しているものだ。
それが、勝手に強くなるなんて、今まで一度も聞いたことがない。
「そんなことって、あるの?」
ぼくの問いに、母はそっと首を振った。
「ないわ。でも……何か、気配が変わってる」
空気が一瞬、ピンと張りつめる。
その沈黙に耐えきれずぼくは口を開いた。
「あのさ……昨日、森で起きたこと。話してもいい?」
父と母が、ぼくに視線を向けた。
その表情は静かだったけれど、真剣だった。
ぼくはすべてを話した。
エリィが光を放ったこと。
その光がぼくを包み込んだこと。
まるで心の中に“誰かの声”が流れ込んできたような、
不思議な感覚のこと。
魔物が結界を破ったこと、そして
それをエリィの力か吹き飛ばされたこと。
話しているうちに、胸がきゅうっと苦しくなった。
何が起きているか分からなくて
ぼく自身も混乱している。
でも、伝えなきゃいけない気がした。
最後まで話し終えると、母は少し目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……それ、もしかしたら“共感の魔女”かもしれないわね」
その名前を聞いたのは、初めてだった。
「むかしね、森にひとりの魔女がいたの。
人の感情を読み取り、癒やす力を持っていた魔女。
優しくて、静かで、とても強い人だった。
でも、その力があまりにも大きすぎて……人々は彼女を恐れ、ある日、彼女は姿を消したの」
母はどこか遠くを見るような目をしていた。
「私、レイをお腹に宿していた頃、森で魔物に襲われたことがあるの。死を覚悟したとき……あの人が、現れたの。何も言わずに、ただそっと手を伸ばして、私たちを守ってくれた」
そのときのことを思い出すように、
母は胸に手を当てる。
「名前も、顔も、もう思い出せないの。でもね――
あのとき感じた魔力のぬくもりだけは、
今も心に残ってる。
それにその力は...エリィのそれと……
とても、よく似てる」
ふと、ぼくの隣でエリィが小さく体を揺らした。
まるで、何かを思い出すように。あるいは、答えるように。
「でも、まだエリィがその魔女と関係があるって決まったわけじゃ……」
「そうね。ただの偶然かもしれない。でも、最近やけに魔物の気配が強くなってきてるのも、関係してるかもしれない。彼女の力が強すぎるから、引き寄せられてる可能性もあるわ」
父の表情が険しくなった。
「……なら、どうする?
このままここにいても危険かもしれない」
母は少しだけ迷ったように唇を噛み、
けれど、すぐに前を向いた。
「いずれ、“共感の魔女”を探さなければならないわ。
もし彼女がまだ生きているなら、
エリィの力の秘密を知ってるはず。
彼女自身が、何者なのかも」
言葉の重みを感じながら、ぼくはそっとエリィを抱き上げた。
彼女の小さな手が、ぼくの胸に触れる。
その瞬間、心の奥底に広がっていた不安が、
すっと和らぐのを感じた。
――大丈夫。きっと、道は見えてくる。
「ぼく、エリィを守るよ。絶対に」
そう言うと、エリィはぼくをじっと見て、にこりと笑った。
その笑顔は、まるで“約束の返事”のようだった。
まだ何も分からない。
けれど、たしかに何かが、ゆっくりと動き始めている。