第11話 夜の森と声
森の夜は、ふしぎなほどに静かだった。
空には雲ひとつなく、星々が瞬いている。
葉と葉のすきまから差し込む月の光が、
やさしく地面を照らしていた。
風はほとんどなく、
かすかな湿り気を帯びた空気が森を包んでいる。
夜の香り――湿った土、枯れ葉の匂い、
どこかで咲いている花の甘さ――が、
私の小さな鼻腔をくすぐる。
遠くでフクロウがひと声鳴いた。
レイの膝の上で眠っている私の体には
彼の体温がじんわりと伝わってくる。
あたたかい。目を閉じているのに、なぜか世界が見える気がする。
けれど、それは“見る”というより“感じる”に近かった。
──風が、なにかを囁いている。
さわ、さわ。葉を揺らす音に混ざって、誰かの声が聞こえる気がする。
(……だいじょうぶ。ぼくが、まもる)
その声はとてもやさしくて、どこか懐かしかった。けれど、私はその声の主を知らない。
まだ、私は言葉をうまく話せない。
けれど、心の中に広がるこの声だけは、
不思議とすんなり染み込んできた
。名前も知らない、姿もわからない“誰か”。
だけど私は、その声が嫌じゃなかった。
むしろ……すこし、恋しかった。
レイの胸にぴたりと身を寄せると、
かすかに彼の鼓動が聞こえた。どくん、どくん。
規則正しくて、心地よい音。
それが私の鼓動と重なって、
眠りに引き込まれそうになる。
でも、まぶたの裏では風と声が渦を巻いていて、私はその世界に飲み込まれていく。
ひらひらと落ちてきた木の葉が、私の頬に触れる。
レイが小さく息を呑んだ気配がして、
次の瞬間、彼の手がそっと私の髪を撫でた。
「……寒くないか、エリィ」
あたたかい声。安心するにおい。
私は小さく手を動かして、レイの指に触れる。
それだけで、ここにいていいと感じられた。
私を守るように抱きしめてくれる腕のなかは、
柔らかくて、やさしくて、涙が出そうになるくらい安心できる場所だった。
でも──。
(あの声は……だれ?)
また、風の中にまぎれて声がする。今度はもっとはっきりしていた。
(エリィ……きこえる?)
私はびくりと体を震わせた。レイの腕の中で、
小さな私の体がぴくりと動くと、
彼は気づいたのか「大丈夫だよ」と優しく背をさすってくれた。
声は、耳で聞くのではなかった。
心の奥深くに、直接語りかけられるような不思議な感覚。
(まだ、知らなくていい。きみに、必要なときがくるまで……)
私は、だれ……? “知る”とは、なにを?
ふと、焚き火の光が揺れた。赤く、金色にきらめく炎の影が、森の木々に踊るように映し出される。
その中に──見えた気がした。
私のすぐ隣に、もうひとつ、影。
人の形をした、やわらかな輪郭。
それはただの揺らめきだったかもしれない。
けれど私は確かに感じた。あれは、“誰か”だった。
記憶の底で、なにかがかすかに軋む。
知らなければよかったことなのかもしれない。
でも、知らなければ進めないこともある──そんな気がしていた。
胸の奥に、やわらかい痛みが広がっていく。
それは言葉にならない哀しみと、
微かな期待とがまざったような、奇妙な感情だった。
「……エリィ?」
レイの声に、私はようやく目を開けた。
夜の森はまだ、眠っているみたいだった。
けれど、私の中だけが、ざわざわと動いている。
そのとき、ほんの一瞬だけ、
私の胸が、きゅうっと締めつけられる。
理由はわからない。でも涙がこぼれそうになる。
なにか、とても大事なものを失ったような気がして。
けれど、それはまだ思い出せない。
私は、いったいどこから来たの?
なにを忘れてしまったの?
レイの腕が、少しだけきつく私を抱きしめる。私はそのぬくもりに甘えるように頬を寄せた。
焚き火の明かりがまた揺れて、闇の中にいくつもの影を作り出す。そのひとつひとつが、まるで私の過去のかけらのように見えた。
(だいじょうぶ。きみは、ひとりじゃない)
風の声がそう囁いた気がした。涙の気配はすうっと引いていく。代わりに、ほんのわずかだけど、強さのようなものが私の中に芽生えていた。
私はそっと、レイの胸の中で体をまるめる。まるで、これからくる“なにか”に備えるように。
どこか遠くで、梢が揺れた。星が流れた。世界はまだ、静かだった。
でも、私の心だけが──静かに、目覚めていく。
(もうすこしで……きみは、ぼくを思い出す)
風が静かに吹き抜ける。焚き火の火が小さく弾けて、星のような火の粉が舞い上がる。私はその声に、そっと心の中で返事をした。
(──きこえてるよ)
そして私はまた、レイの胸の中で、そっと目を閉じた。