第10話 レイの覚悟
夜が深まると、森の空気はしんと静まり返った。
星の光すら葉に遮られ、あたりはほとんど闇だった。
レイは焚き火のそばに腰を下ろし、小さな毛布に包まれたエリィを膝に乗せていた。
寝息はまだ浅く、ときおり小さな指がぴくんと動く。
「眠れてる……よね」
自分に問いかけるように、レイはそっとエリィの額に触れた。すべすべとした柔らかな肌。生きているという実感が、そこにあった。
──赤ん坊なんて、触れたことすらなかったのに。
ほんの数日前まで、自分がこんなふうに誰かを守ろうとするなんて思ってもみなかった。
だけどこの子は、確かに泣いて、震えて、命を求めていた。
それだけで、十分だった。
焚き火の火が小さく揺れる。
ぱちり、と音を立てて枝がはぜると、レイはその音に紛れるように、小さく息を吐いた。
「……母さん」
その名前を口にするのは、久しぶりだった。
森での暮らしを嫌がったこと。
魔法の勉強ばかりで、家を継ぐ気がないと言ったこと。
自分を信じてくれないと思い込んで、勝手に傷ついて、勝手に家を出た。
だけど今になって、ようやく少しだけ分かる気がする。
あのとき母がどんな想いでレイを見ていたのか──
「母さんも、こんな夜を過ごしたのかな……」
自分が赤ん坊だった頃、母は、夜泣きや熱におびえながら、こうしてひとりで見守ってくれていたのかもしれない。
そんな記憶は残っていないけれど、胸の奥で何かが温かく灯るような気がした。
そのときだった。
ふと、風が吹いた。
焚き火の火がゆらぎ、森の奥から「ふう」と囁くような音が聴こえる。
「……風の声?」
レイは背筋を伸ばし、耳を澄ました。
誰かが呼んでいるような、不思議な気配。
音にならない声が、森の木々をすり抜けていく。
「……ちがう、これ……」
どこか懐かしい。
それはまるで、母の歌声のようだった。
昔、夜に不安になると、母はいつも子守唄を歌ってくれた。言葉はもう覚えていないけれど、その旋律だけは体に染みついている。
風の中に、その記憶が重なった。
「母さん……なの?」
レイは思わずつぶやいた。
もちろん、そんなはずはない。
でも、風の中に確かに感じる“ぬくもり”があった。
それは、自分がかつてもらった愛情の記憶。
そして今、誰かに手渡そうとしているもの。
エリィが、ふにゃりと笑った。
眠ったまま、ほんの少し口角を上げて、レイの胸元に頬をすり寄せる。
「……ふふ、夢でも見てるのかな」
夜の森はまだ冷たかったけれど、レイの心には、不思議な安心感が広がっていた。
⸻
夜明け前。
東の空がわずかに白み始めるころ、レイはそっとエリィを寝床に戻した。
「大丈夫だよ。怖くない」
自分に言い聞かせるように、エリィのほっぺにそっとキスを落とす。
その小さな命が、これからどんな未来を歩んでいくのかは、わからない。
けれど、守りたいと思った。
この子の笑顔も、泣き顔も、全部。
森の奥で囁く風が、再びそっと葉を揺らす。
レイはその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
──風が、教えてくれる。
進むべき道も、伝えられる想いも、きっと。