⑧話 夜明けのざわめき
それは、夜明け前の薄闇がまだ山間の寺を包む時刻だった。
普段なら、鳥のさえずりが静かに響き合い、朝の訪れを告げる穏やかな時間が流れるはず。
しかし、この朝は違った。寺の外が騒がしくなり始めたのは、ちょうどその鳥の声が聞こえ始めた頃だった。
最初は遠くで馬の蹄の音が響き、次第に人のざわめきや金属が擦れ合う音が加わり、静寂をかき消していった。
私は布団の中で目を閉じたまま、その音に耳を澄ませた。
普段の朝とはあまりにも異なるその喧騒に、心のどこかに冷たい不安が忍び寄るのを感じた。
布団の暖かさの中でさえ、背筋に冷や汗が滲むような感覚があった。
母上様の腕の中では、お初が小さく震えていた。まだ幼く、世の理も戦の影も知らない妹のその姿は、私には痛々しく映った。
お初の髪は寝乱れ、薄い寝間着の袖を母上様の手にぎゅっと握り潰していた。
彼女の怯えた瞳が、薄暗い部屋の中でかすかに光っているように見えた。
布団の端から覗くその小さな顔は、まるで嵐に怯える子犬のようだった。
「母上様・・・・・・」
お初の声は小さく、掠れていた。
まるでこの騒がしさが自分を飲み込んでしまうのではないかと恐れているかのようだった。
その声は、普段のお初の明るさからは想像もつかないほど弱々しく、私の胸を締め付けた。
母上様は優しくお初を抱き寄せた。
「大丈夫ですよ、お初」
と柔らかな声で囁いた。
その声は、いつも私たちを安心させるものだった。
母上様の声には、不思議な力があった。
どんなに怖い夢を見た夜でも、その声を聞けば心が落ち着いた。
しかし、今朝に限っては、その穏やかな声音の裏に隠された緊張が、私には感じ取れてしまった。
母上様の手は優しくお初の背を撫でているように見えたが、その指先にわずかな硬さがあった。
お初の肩を握る力がいつもより強く、彼女の細い体が少し縮こまるほどだった。
普段の母上様からは感じられないその硬直が、私の胸に重くのしかかった。
不安が冷たい波のように押し寄せ、私は思わず息を呑んだ。
やがて、廊下を踏み鳴らす足音が近づいてきた。
畳を軋ませるその音は重く、急いでいる様子が伝わってきた。
足音は一つではなく、複数の者が慌ただしく動いているようだった。
襖が勢いよく開かれ、一人の家臣が母上様の前に膝をついた。
男の額には汗が滲み、息がわずかに乱れているのが分かった。
夜明け前の冷たい空気の中を走ってきたのだろう。
彼の着物の裾は泥で汚れ、膝をついた畳に小さな土の粒が落ちた。
「お市様、失礼いたします。前田の松様が来られたようにございます」
「 慶次しかと相違ないか見てまいれ」
「はっ」
母上様の声は落ち着いていたが、その中に鋭い命令の響きがあった。
普段の穏やかな口調とは異なり、そこには有無を言わさぬ力が込められていた。
家臣は即座に「はっ」と短く答え、立ち上がった。
その動きは素早く、まるで戦場での訓練を思い起こさせるものだった。
その家臣——前田慶次利益——は、不機嫌そうに眉をひそめていた。
長い髪を無造作に束ねたその姿は、どこか野性的で、整った顔立ちに似合わない荒々しさが漂っていた。
彼は母上様の命を受けながらも、どこか納得いかない様子で唇を歪めていた。
眉間の皺が深く刻まれ、不満が顔に浮かんでいるのがはっきりと分かった。
それでも、彼は足早に寺の門へと向かった。
背の高いその身影が廊下の角に消えると、部屋の中には再び静寂が戻った。
だが、その静けさは嵐の前の静けさのように、私には不気味に感じられた。
母上様は私とお初をそっと見つめた。
彼女の瞳には深い思案と、どこか遠くを見るような寂しさが宿っていた。
「茶々、お初、心しておきなさい。今日はおそらく、お前たちの運命を大きく変える日になるでしょう」
と静かに告げた。
その言葉は重く、私の胸に深く刻まれた。
母上様の声は低く、まるでこれから起こる出来事を予見しているかのようだった。
私は何も言わず、ただ母上様の顔を見つめ返した。
彼女の目には、決意と諦めが混じった複雑な光があった。
お初はまだ母上様の腕の中で小さく震えていたが、その震えも次第に収まっていった。
母上様の温もりが、彼女に少しずつ安心を与えているようだった。