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⑥②話 霧の岐阜と凱旋の準備

 1575年のとうの昔に春は終わり、岐阜城下の屋敷は深い霧に包まれていた。


 伯父・織田信長が長篠の戦いで勝利を収めたとの知らせが届いてから数日が経ち、私、茶々は母上様とお初、お江、そして御祖母様である土田御前と共に、彼の帰還を待つ日々を過ごしていた。


 庭の桃の木は花を散らし、緑の葉が霧に濡れてしっとりと輝き、朝の光がその滴に反射して小さな虹を作っていた。


 石畳には苔が薄く生え、湿った空気が屋敷の木戸にまで染み込んでいた。


 私は母上様と庭に立ち、霧の向こうに聳える岐阜城の影を眺めていた。


 山の上にそびえるその姿は、まるで雲を突き刺す巨人のように威厳に満ち、伯父・織田信長の力を象徴しているようだった。


 私はその影を見ながら、胸の奥で疼く感情を抑えた。


 彼が勝利を収めたという事実は、私に安堵と憎しみを同時に与えていた。


 母上様が私の隣で静かに呟いた。


「茶々、兄上様が今日、岐阜城下に凱旋しますよ。その知らせが届きました」


 その声は穏やかだが、微かな緊張が混じっていた。


 私は、


「母上様、私たちも出迎えに出るのですね」


 と応じ、彼女の顔を見上げた。


 母上様の瞳は霧に霞む岐阜城を映し、その表情には疲れと期待が滲んでいた。


 私はその瞳の奥に何があるのか知りたかったが、母上様はいつも通り、私にその答えを教えてはくれなかった。


 彼女の手が私の肩にそっと触れ、その温もりが霧の冷たさを和らげてくれた。


 私はその手に自分の手を重ね、


「母上様、伯父上様の勝利はは私たちに何をもたらすのでしょう」


 と尋ねる。


 母上様は小さく頷き、


「それはまだわからなきこと、茶々。だが、私たちは家族として彼を迎える。それが私の務めです」


 その言葉に、私は胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じた。


 家族として――母上様にとって、彼は兄であり、私たちを守る存在なのかもしれない。


 だが、私には、父上様を奪った伯父・織田信長への憎しみが消えることはなかった。


 彼の勝利は織田の力を強め、私たちを彼の支配下に置く鎖をさらに固くするだけだ。


 私は彼に報いる日を夢見ている。


 その思いが、私の心に暗い炎を灯し続けていた。


 霧が私の髪を濡らし、その冷たさが憎しみを一層際立たせた。


 朝の時間が過ぎ、屋敷は出迎えの準備で活気づいた。


 お初が庭の石畳を軽く跳ねて遊んでいた。


 母上様が、


「ささつき、皆を庭に集めなさい。私たちは城下の入り口で兄上様を迎えます」


 と命じた。


 ささつきが、


「かしこまりました」


 と急いで出ていくと、屋敷の中が一気に動き出した。


 私は母上様と座敷に戻り、御祖母様が静かに立ち上がるのを見た。


 彼女の白髪が朝日に照らされ、長い年月を生き抜いた気品が漂っていた。


「市、信長が戻るのか。勝利の顔を見るのは久しいね」


 と御祖母様が呟いた。


 支度が整い、私たちは屋敷を出た。


 母上様が白い衣を纏い、その姿は霧の中でまるで幽霊のように浮かんでいた。


 私は藍色の衣を着せられ、お初とお江がそれぞれ薄紅と萌黄色の衣で寄り添った。


 御祖母様は黒い衣に身を包み、杖をついてゆっくりと歩いた。


 ささつきが先導し、屋敷の門を抜けると、岐阜城下の町並みが霧に霞んで見えた。


 石畳の道は湿り、足音がコツコツと響き、遠くで川のせせらぎが聞こえた。


 町の人々がざわめき始め、家々の戸が開き、顔を覗かせる者たちがいた。


 私はその光景を見ながら、胸の鼓動が速くなるのを感じた。


 伯父・織田信長の凱旋――それは、私にとって試練の始まりだった。


 城下の入り口に近づくと、霧が少しずつ晴れ始めた。


 空が青く広がり、太陽が雲の隙間から顔を覗かせていた。


 私は母上様の手を握り、彼女の横に立った。


 お初が私の袖を掴み、


「茶々姉さま、人がいっぱいだね」


 と囁いた。


 お江が、「茶々姉様、賑やかだね」


 と呟き、私は、


「そうだね、お江」


 と答えた。


 町の人々が道の両側に集まり、ざわめきが大きくなった。


 子供たちが走り回り、老婆が杖をついて見物に集まり、商人たちが荷物を置いて顔を上げていた。


 私はその光景を見ながら、心の中で呟いた。


 伯父・織田信長、あなたの勝利がこれほどの人々を惹きつけるのか。


 私はその力を認めざるを得なかったが、憎しみは消えなかった。


 やがて、遠くから馬の蹄の音が響き始めた。


 土埃が霧に混じって舞い上がり、風がその埃を運んできた。


 私は目を凝らし、道の先を見た。赤と黒の旗が風に揺れ、織田の家紋が鮮やかに浮かんでいた。


 鉄砲を担いだ足軽たちが列をなし、その後ろに騎馬の武将たちが続いた。


 私はその光景に息を呑んだ。


 軍勢の先頭に、馬に跨がっている伯父・織田信長の姿が見えた。


 朝日が甲冑に反射し、鋭い眼光が霧を貫くようだった。


 私はその姿を見ながら、胸の奥で冷たいものが動くのを感じた。


 彼が近づくにつれ、町の人々が歓声を上げ始めた。


「殿が戻られた!」


「長篠の勝利だ!」


 その声が私の耳に響き、私は唇を噛んだ。


 母上様が私の手を強く握り、


「茶々、兄上様が来ましたよ」


 と静かに言った。


 私は、


「はい、母上様」


 と答えつつ、心の中で別の思いが渦巻いていた。


 彼が勝利を収めたなら、私の憎しみはどうなるのか。


 私は彼に報いる日を夢見ている。


 だが、今は母上様と共に、彼を出迎えなければならない。


 私はその現実を受け入れ、母上様の横に立った。


 お初が、


「茶々姉さま、伯父上様、かっこいいね」


 と笑顔を見せた。


 私は「そうですね、お初」


 と答える。


 心には思っていない言葉。


 その言葉には微かな冷たさが混じっていた。


 お江が、


「初姉様、馬、大きいね」


 と呟き、


「そうだね」


 と目を輝かせ応じていた。


 軍勢が城下の入り口に近づき、伯父・織田信長が馬を止めた。


 彼の後ろには、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、前田利家、佐々成政、羽柴藤吉郎らが続き、それぞれの甲冑が朝日に輝いていた。


 私はその光景を見ながら、胸の鼓動が抑えきれなかった。


 町の人々がさらに歓声を上げ、旗が風にバサバサと揺れた。


 私は母上様の手を握り、その温もりにすがった。


 伯父・織田信長が馬から降り、こちらに近づいてくる。


 私はその姿を見ながら、心の中で呟いた。


 彼が勝利の顔を見せるなら、私はその裏で何を思うのか。


 私はその瞬間を待ち、霧の岐阜城下で彼を迎えた。



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