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⑥⓪話 朝霧の待機と勝利の使者

1575年の春が終わりを迎え、岐阜城下の屋敷には、柔らかな風と共にどこか張りつめた静寂が漂っていた。


 伯父・織田信長が長篠へ出陣してから数日。私、茶々は母・お市様と妹たち、お初、お江、そして御祖母様である土田御前と共に、留守を預かる日々を過ごしていた。


 庭の桃の木は既に花を散らし、萌えるような新緑が枝を覆っていた。朝霧がその葉の間を淡く漂い、朝日が石畳に斜めの光を落としている。


 私は母上様と並んで庭に立ち、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。その涼やかさの中に、言いようのない不安がこびりついているのを感じる。


 伯父・信長が今、どこで何をしているのか。勝利を収め、無事に戻ってくるのか。それとも……。私の心は、その影に揺れていた。


 彼が勝てば、織田の力はより強固なものとなるだろう。私たちを守る楯ともなろう。だが、それは同時に、父・浅井長政を滅ぼした男の権威が、さらに私たちの上に覆いかぶさるということでもある。


 母上様が、私の横で静かに呟いた。


「茶々……兄上様は、今ごろ武田の軍勢と対しておられる頃でしょうね」


 その声は落ち着いていたが、どこか遠い記憶に手を伸ばしているような響きがあった。


 私はその言葉に応えるように、少しだけ顔を上げて言った。


「母上様……鉄砲の音が、今も遠くで響いているかもしれませんね」


 母上様の瞳が、霧に霞む岐阜城をじっと見つめていた。その眼差しには、静かな疲労と、拭えぬ悲しみが滲んでいる。


 私はその横顔を見ながら、ずっと胸に抱えてきた想いを、そっと口にした。


「私たちは……ここで待つしかないのですね」


 母上様は頷き、少しだけ微笑んだ。


「そうですよ、茶々。待つこと、そしてこの屋敷を守ることが、今の私たちにできるすべてです」


 その言葉に、私は一瞬安堵を覚えた。けれど同時に、押し殺しきれない苛立ちも感じていた。――なぜ、私たちはただ、黙って待つことしか許されないのだろう。


 織田信長が勝利するたび、その影は濃く、広くなる。彼は私たちの“伯父”であり、“父の仇”でもある。


 父を、長政様を――あの誇り高く、優しかった人を滅ぼした男。その憎しみは、今も私の胸で消えることなく、静かに燃え続けていた。


 いつか、必ず――。


 そんな想いを押し隠すように、私は妹たちの元へ歩を進めた。


 お初が、庭の石畳を跳ねるように歩きながら尋ねてきた。


「茶々姉さま、伯父上様がいない間、私たち何をしましょうか?」


 私はふっと笑みを浮かべて答えた。


「お初、普段通りでいいのよ。庭を歩いて、母上様や御祖母様とお話をして、穏やかに過ごしましょう」


 お江が母上様の裾をぎゅっと握り、小さな声で言った。


「茶々姉さま……寂しい?」


 私はその小さな瞳を見下ろし、微笑みながら頷いた。


「寂しくはないわ、お江。母上様と御祖母様が、そばにいてくださるから」


 お江の小さな手が、私の指に触れる。そのぬくもりに、ほんの少し心が和らぐ。


 けれど……心の奥底では、信長の不在がもたらす静けさに、私は密かに安堵していた。彼の鋭い眼差し、冷ややかな声――そのすべてが、私の中に重くのしかかっていたから。


 昼、囲炉裏の前に集まり、母上様と御祖母様と共に過ごした。


 ささつきが茶を運んできて、静かに言った。


「お市様、姫様方、土田御前様……お茶をどうぞ」


 私は茶碗を手に取り、ゆっくりと湯気の香りを吸い込んだ。


「……伯父上様の戦が終わるまで、私たちはこうして待つのですね」


 その言葉に、ささつきは静かに頷いた。


 御祖母様が茶を口に含みながら、ふと懐かしそうに語る。


「信長はね、小さな頃から手のつけられぬ子での……何をしても誰も止められなかったよ」


 母上様がそれに応える。


「兄上様は、今も変わらぬ強さをお持ちです」


 御祖母様はふっと微笑み、


「そうだねえ……でもね、強さばかりでは家族が疲れてしまうよ」


 私はその言葉に、密かに頷いた。


 ――強さが、父を奪った。


 御祖母様の信長への想いを否定することはできない。だが、私には、許せない。


 そして私は、心にそっと誓った。


 彼がいないこの静けさが、永遠に続けばいいのにと――。


 夕刻、風が強まり、霧が再び庭を包む頃、母上様と庭を歩きながら私は桃の花びらを拾い上げた。


「母上様……私たちに、できることは何でしょう」


 その問いに、母上様は迷いなく答える。


「待つこと、そして祈ることです。……それが、女としての強さなのですよ」


「……はい、母上様。承りました」


 けれど、私の中では別の決意が芽生えていた。


 待つだけではなく、備えるのだ。いつか彼に報いる機会が訪れたとき、決して逃さぬように――。


 夜、私たちは寝所で静かに横たわっていた。


 お初が、布団の中からぽつりと呟く。


「茶々姉さま、伯父上様が戻られたら、また賑やかになりますね」


 私はそれに、少しだけ微笑んで応えた。


「ええ……きっと、賑やかになりますね」


 けれど、その声にはわずかな冷たさが混じっていた。


 お江が、小さく囁いた。


「……茶々、母上様と御祖母様と一緒なら、大丈夫?」


 私はその手を握りしめて答える。


「ええ、お江。母上様も御祖母様もいるから、私たちは大丈夫よ」


 母上様が優しく言った。


「茶々、伯父上様が戦に向かわれている間……この静けさを、大切に守りましょうね」


「はい、母上様。この静けさを、私が守ります」


 御祖母様が布団の中で小さく咳き込み、囁くように言った。


「……茶々、お前は、賢い子だよ。母上様を……しっかり支えてあげなさい」


 私はその言葉に静かに頷き、答えた。


「はい、御祖母様。お任せください」


 だが、心の奥底では――。


 織田信長が戻れば、この静けさは消える。圧倒的な力が、また屋敷を覆う。


 私は、その時が来るのを待っている。


 ――父の仇に、報いる日を。


 その夜、私は母上様の隣で目を閉じた。


 夢の中で、鉄砲の音が遠くで鳴り響いた。


 そして、微笑む父上様の姿が、淡い霧の向こうに見えた――。



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