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⑤⑨話 留守の生活と静かな日々

 

 伯父・織田信長が長篠へと出陣してから、岐阜城下の屋敷は深い静寂に包まれていた。


 まるで空気までもが息をひそめているようで、鳥の囀りや木々のざわめきさえも、遠慮がちに聞こえてくる。


 私は母上様と妹のお初、お江、そして御祖母様――土田御前と共に、この屋敷を守る日々を過ごしていた。


 庭の桃の木はすでに花を落とし、瑞々しい緑の葉が、春の終わりを告げるように風にそよいでいた。地に散った花びらは陽光に照らされ、白く輝く粉雪のように儚げだった。


 伯父・織田信長の不在は、屋敷に一時の平穏をもたらしている。けれど、私の心は穏やかではなかった。


 彼が戦場で武田と争っている今、私はこうして母上様や妹たち、そして御祖母様を守りながら、静かに己の思いを育んでいる。


 ある朝、私は母上様と御祖母様と共に庭へ出て、東の空に昇る朝日を見つめていた。風はまだ冷たく、草の先に残る朝露が足元を濡らす。


 空は淡い紅に染まり、霧が薄く立ちこめた岐阜の街並みは、まるで夢の中のように静かだった。


 母上様がぽつりと呟いた。


「茶々、兄上様が戦場にいる今、私たちにできることは何かしらね」


「母上様……待つことでしょう。そして、この岐阜を守ることです」


 そう答えたものの、心の奥では別の思いが波立っていた。


 ただ“待つ”だけでは、私は終われない。

 私は、伯父上に“報いる”機会を決して逃さぬよう、今は静かに身を整えている。


 御祖母様が庭石に腰を下ろし、遠くの空を見上げながらぽつりと言った。


「市、信長は……戦に勝つのだろうね」


 その声音には、安堵と不安がないまぜになったような複雑な響きがあった。


「はい、御母様。兄上様は強いですから」


 母上様の声は落ち着いていたが、その内に秘めた思いまでは隠しきれていないように思えた。


 御祖母様は小さく笑い、


「私は天魔王など産んだ覚えはないのですがね……ふふ」


 と、冗談めかして言った。


 その言葉に私は少し微笑んだ。けれど、その微笑の裏に疼くのは、あの男――伯父・信長への憎しみにも似た思い。


 御祖母様は彼を誇りに思っているのかもしれない。だが、私にとっては父上様を奪った存在。


 あの戦の記憶は、春の陽射しにも癒せぬ傷として、胸の奥に残っている。


 お初が私の袖をくいと引いてきた。


「茶々、伯父上様が留守の間、私たち何をしましょうか?」


 その無邪気な瞳に、私は静かに微笑みかけた。


「お初、普段通りに暮らしましょう。庭を歩き、母上様や御祖母様と語らい、静かな日々を過ごすのです」


 すると、お江がそっと囁いた。


「茶々姉様……寂しい?」


 なぜ、そのように問うのか。戸惑いながらも私は微笑んだ。


「いいえ、お江。母上様と御祖母様がそばにいるから、寂しくはありません」


 その言葉は、私自身よりも、お江を安心させるためのものだった。


 だが、私の本心は別にある。


 伯父上の不在が、私に安堵をもたらしているのだ。彼の鋭い眼光も、冷酷な言葉も、今はこの屋敷に届かない。

 その事実が、私にわずかな自由を与えてくれていた。


 昼間、座敷にて母上様と御祖母様と共に過ごす時間も、静かで穏やかだった。障子越しに射し込む陽が、畳に温かな影を作る。


 私はふと考える。彼の勝利が、この私に何をもたらすのか。


 織田家の栄光が輝くほどに、父上様の影は遠のいていく――その矛盾に、私は苦しみ続けていた。


 御祖母様が、湯呑を手に取ったまま目を細めて言った。


「信長はね、昔から強かったのよ。幼い頃から、誰も彼を止められなかった」


 母上様がうなずきながら答える。


「ええ、御母様。兄上様は、今もその強さを失ってはおりません」


「……けれどね、市。戦ばかりでは、家族が疲れてしまうわ」


 その言葉に、私は強く共感した。


 伯父上の強さ――それが、父上様を遠ざけた。御祖母様が彼を愛する気持ちは理解できる。だが、私の胸には、決して癒えぬ裂け目がある。


 夕方、私は一人で庭を歩き、山の上にそびえる岐阜城を仰ぎ見た。


 夕陽を受けて黒く浮かび上がるその天守は、伯父上の力の象徴そのものだった。


 私は桃の木の下に立ち、地に落ちた花びらをひとひら、そっと拾い上げる。


「父上様……もし生きていてくだされば、私はこんな思いを抱かずに済んだでしょうに」


 その言葉は風に消え、誰にも届かぬまま、私の胸の奥に沈んでいった。


 夜。寝所にて母上様と妹たち、御祖母様と共に横たわりながら、私は静かに耳を澄ませた。


 屋敷の戸をかすかに揺らす風の音が、遠い戦の気配を運んでくるようだった。


 お初がつぶやいた。


「茶々姉様、伯父上様が戻ったら、また賑やかになりますね」


 私は穏やかに答えた。


「お初、そうね。賑やかな岐阜が戻ってきますね」


 けれど、その言葉には、微かな冷たさが滲んでいたのを、自分でも感じていた。


 お江が心配そうに私を見つめて言った。


「茶々姉様、母上様と御祖母様と一緒なら……大丈夫?」


「ええ、お江。大丈夫よ。母上様も、御祖母様も、私たちを守ってくださるから」


 私はそう言いながら、お江の心が私の本心を見透かしているような気がしてならなかった。


 伯父・織田信長が戻れば、この静けさは終わる。


 彼が勝利を得て戻るのなら、私はその栄光を讃えるふりをしつつ、決して忘れぬ――彼に報いる機会を。


 夜更け。私は寝所から抜け出し、障子をそっと開けて外を眺めた。


 星々が夜空に瞬き、山の上の岐阜城が黒く、静かにその姿を浮かべていた。


 私は胸に手を当て、静かに誓う。


「母上様、御祖母様……私は、あなた方を守ります」


 この静かな日々は、私にとって準備の時。


 私は忘れない。伯父上の勝利が、永遠ではないことを。


 そしていつの日か、彼と真正面から向き合う時が来たなら――

 私は、この胸に宿した覚悟をもって、彼に報いるのだ。


伯父・織田信長が長篠へ出陣した後、岐阜城下の屋敷は静寂に包まれた。




 私は母上様とお初、お江、そして御祖母様である土田御前と共に、留守を預かる日々を過ごした。




 庭の桃の木は花を散らし、緑の葉だけが風に揺れている。




 伯父・織田信長の不在は、屋敷に一時の平穏をもたらしていた。




 だが、私の心は穏やかではなかった。




 彼が戦場で武田と争っている今、私は母上様と妹たち、そして御祖母様を守りながら、静かに己の思いを育んでいる。




 朝、私は母上様と御祖母様と共に庭に出て日の出を眺めた。




 岐阜城下の空は薄紅色に染まり、遠くに聳える岐阜城の影が朝霧に霞んでいる。




 母上様が、




「茶々、兄上様が戦場にいる今、私たちにできることは何かしらね」




 と呟いた。




「母上様、待つことでしょう。そして、この岐阜を守ることです」




 と応じた。




 だが、心の中では別の思いが動いている。




 待つだけではない。




 いつか彼に報いる機会を、私は見逃さない。




 彼が勝利を収めて戻るとしても、その勝利が永遠ではないことを私は信じている。




 御祖母様が庭の石に腰を下ろし、




「市、信長は戦に勝つのだろうね」




 と母上様に尋ねた。




 その声は穏やかだが、どこか遠くを見ているようだった。




 母上様が、




「はい、御母様。兄上様は強いですから」




 と答えると、御祖母様は小さく頷いた。




「私は天魔王など産んだ覚えはないのですがね」




 御祖母様は笑った。




 私は御祖母様の横に立ち、




「御祖母様、伯父上様が留守の間、私たちは静かに暮らします」




「茶々は良い子だね。お前がそばにいてくれるなら、私も安心だよ」




 微笑んだ時、私はその優しさに胸が温かくなった。




 だが、同時に、伯父・織田信長への思いが疼く。




 御祖母様は彼を誇りに思うかもしれないが、私にとって彼は父上様を奪った者だ。




 お初が私の袖を引いて、




「茶々、伯父上様が留守の間、私たち何をしましょうか?」




 と尋ねた。




「お初、普段通りに過ごせばいいよ。庭を歩き、母上様や御祖母様と話をして、穏やかに暮らすのだ」




 お江が、


「茶々姉様、寂しい?」




 と小声で問うてきた。




 なぜに私が寂しい?疑問だったが、




「いいえ、お江。母上様と御祖母様がそばにいるから、寂しくはないよ」




 私は微笑んだ。




 お江を心配させないために。




 だが、心の奥では、伯父・織田信長の不在が私に安堵をもたらしていることを認めざるを得なかった。




 彼の鋭い視線と冷徹な声が遠くにある今、私は少しだけ自由に息をつける。




 昼間、私たちは座敷で母上様と御祖母様と過ごした。




 私は彼の勝利が私に何をもたらすかを考えていた。




 彼が勝てば、織田の栄光は増すが、私にとっては父上様の仇がさらに力を得る瞬間だ。




 私はその力を称賛する気にはなれない。




 御祖母様が茶碗を手に持ったまま、




「信長は昔から強かったのよ。子どもの頃から、誰も彼を止められなかった」




 懐かしそうに語った。




 母上様が、




「御母様、兄上様は今もその強さを失っておりません」




 と応じると、御祖母様は、




「そうですね。だが、戦ばかりでは家族が疲れるよ」




 と呟いた。




 私はその言葉に頷きつつ、心の中で別の思いを抱いた。




 伯父・織田信長の強さが、父上様を奪ったのだ。




 御祖母様が彼を愛する気持ちはわかるが、私は彼を許せない。




 夕方、私は庭を歩き、岐阜城天守を見上げた。




 山の上に聳えるその姿は、伯父・織田信長の力を象徴しているようだった。




 私は桃の木の下に立ち、散った花びらを手に取った。




「父上様・・・・・・生きていれば、私はこんな思いを抱かずに済んだのに」




 心の中で呟いた。




 だが、すぐにその思いを振り払い、母上様と御祖母様のことを考えた。




 母上様は伯父・織田信長との蟠りは心にしまい込んだみたいだが、私は違う。




 私は母上様と妹たち、そして御祖母様を守りながら、彼に報いる道を探すのだ。




 そして、彼が戻った時、私は新たな覚悟で彼と向き合う。




 夜、私は母上様とお初、お江、御祖母様と共に寝所に横たわった。




 風が屋敷の戸を揺らし、遠くで微かな音を立てていた。




 お初が、




「茶々姉様、伯父上様が戻ったら、また賑やかになりますね」




 と呟いた。




 私は、


「お初、そうね。賑やかな岐阜がもどりますね」




 と答えたが、その言葉には微かな冷たさが混じっていた。




 お江が、




「茶々姉様、母上様と御祖母様と一緒なら大丈夫?」




 と問うた。




「ええ、お江。母上様と御祖母様がいるから、私たちは大丈夫だよ」




 私は励ました。




 励ましたのだろうか?お江は心を見透かして言っている気がする。




 私の本心を・・・・・・。




 この静けさは、伯父・織田信長が戻れば終わる。




 彼が勝利を収めて戻るなら、私はその勝利を称賛するふりをしながら、彼に報いる機会を待つ。




 寝る前、私は窓から岐阜城下の夜を見下ろした。




 星が静かに輝き、遠くに岐阜城の影が黒く浮かんでいた。




 私は母上様のそばで眠りにつき、




「母上様、御祖母様、私はあなたたちを守ります」




 と心の中で呟いた。




 伯父・織田信長が戻るまでの日々は、私にとって貴重な準備の時間だ。




 私はこの静かな生活の中で、母上様と妹たち、御祖母様を守りながら、彼に報いる道を模索する。




 彼の勝利が永遠ではないことを信じ、私は静かに時を待つ。

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