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⑤話 羽柴藤吉郎秀吉

夜襲を撃退したものの、恐怖は私の心から消えることはなかった。


布団の中で震えが止まらず、私はお初の手を握りしめ、母上様のそばに寄り添っていた。


昨夜の血の雨、刀の音、叫び声が頭の中で響き合い、目を閉じてもその光景が脳裏に焼き付いて離れない。


障子の向こうで月光に照らされた庭は、今は静寂に包まれているはずなのに、私にはまだ無数の影が蠢いているように感じられた。


母上様の息遣いが近くで聞こえ、その温もりが私の震えを少しずつ抑えてくれたが、心の奥に巣食う不安は消えなかった。


伯父・織田信長の手がこの夜襲に関わっているのではないか――その疑念が、私の胸を冷たく締め付けた。


やがて、外が次第に明るくなり始めた。


襖の隙間から朝日が差し込み、薄いオレンジ色の光が畳に細長い筋を引いた。


その光は冷たく湿った空気を切り裂き、部屋に微かな温もりを運んできた。


私は布団から顔を出し、その光をじっと見つめた。


雀のさえずりが遠くから聞こえ、寺の境内を包む静寂が広がっていく。


風が木々を揺らし、枯れ葉が地面を擦る音が微かに響いた。


昨夜の修羅場がまるで夢だったかのように、朝の穏やかさが寺を包み込んでいた。


しかし、その静けさを破るように、廊下から大きないびきが響いてきた。


その音は低く、荒々しく、まるで獣が寝息を立てているようだった。


私はその音の主を確かめようと、そっと布団を抜け出し、襖に手を掛けた。


襖を静かに開けると、そこには前田慶次利益がいた。


彼は槍を抱えたままあぐらをかき、壁にもたれて座ったまま眠っていた。


朝日が彼の顔を斜めに照らし、長い髪が乱れて額に落ち、その下の鋭い目元が閉じられているのが見えた。


煙管が口から落ちそうになり、大きな胸が規則正しく上下している。


私はその姿をじっと見つめ、改めて思った。


変わった男だ、と。


槍を手放さず眠るその姿には、戦場を渡り歩く者の習性が染み付いているようだった。


昨夜、彼が敵を一掃した豪快な動きが脳裏に蘇り、私は微かな安堵と同時に、彼が伯父・織田信長の手下であることへの警戒心を捨てきれなかった。


彼の槍が血を浴びるたび、それは伯父・織田信長の野望を支えているのではないか。


そんな疑念が、私の心を冷たく刺した。


しばらく彼を観察していると、寺の外に異変が起こった。


朝霧が漂う境内に、赤色の生地に瓢箪が描かれた旗が次々と翻り始めた。


その旗は風に揺れ、鮮やかな色彩が霧の中で際立っていた。


武者たちの影がうごめき、足音が土を踏み鳴らし、寺を徐々に取り囲んでいく。


私は襖の隙間からその光景を見た。


旗の数は多く、まるで赤い波が寺を飲み込もうとしているようだった。


緊張が私の体を硬くし、胸の鼓動が再び速くなった。


お初が布団の中で目を覚まし、


「茶々姉さま、何?」


と小さな声で尋ねた。


私は、「お初、静かにしていなさい」


と囁き、彼女の手を握った。


「お市様、お市様はご無事でございますか? どこにおいででございますかだみゃ!」


甲高い声が寺の静寂を切り裂いた。


一人の小柄な男が庭に踏み込み、その声が霧の中を響き渡った。


私は襖を少し開け、彼の姿を見た。


華やかな装いのその男は、赤と金の衣を纏い、胸には瓢箪の家紋が鮮やかに描かれていた。


朝日がその衣に反射し、彼の存在を一層際立たせていた。


私はその家紋を見て、胸の奥で冷たいものが動くのを感じた。


羽柴藤吉郎――伯父・織田信長の忠実な家臣、秀吉だ。


彼がここに現れた理由を私は即座に理解した。


母上様を岐阜城へ連れ戻すため、伯父・織田信長の命を受けたのだろう。


私は唇を噛み、彼への憎しみが再び疼いた。


男の声に、前田慶次利益が目を覚ました。


彼はゆっくりと立ち上がり、槍を手に持つと、眠気まなこを擦りながら庭を見た。


「おお、又左衛門のとこの者だがぎゃ? 羽柴藤吉郎が顔ぐらい知っておろうだみゃ」


その言葉に、前田慶次が顔をしかめた。


「何が知っておろうだみゃだ!猿。芝居じみた言い回しをしおって」


「なーにが芝居じゃ。まあよい。昨夜、敵襲があったそうだな? 又左衛門は上様にお市様を託されながら、わずかな手勢しか残さぬとは何たること。こーの羽柴藤吉郎が直々に軍勢を引き連れ、警護に来てやっただぎゃ」


藤吉郎の言葉に、慶次はにやりと笑い、槍の穂先をじりと彼に向けた。


私はその動きに息を呑んだ。


藤吉郎が目を細め、低い声で応じた。


「おめぇさん、誰に槍を向けているか分かってやっているだがよ?」


「猿、お市の方様と姫様をお守りするのは前田又左衛門利家、誰であろうと渡すなと、松から言われておる」


「松殿か? めんどくさい女子よなあ」


二人の間に緊迫した空気が漂った。


朝霧が二人の足元を包み、槍の穂先が朝日に鈍く光る。


私は襖の隙間からその光景を見ながら、胸の鼓動が抑えきれなかった。


言葉の応酬が続く中、突然、襖が静かに開いた。


母上様が姿を現し、冷ややかな足取りで庭へと歩み出た。


その顔は今まで見たことのないほど厳しく、まるで氷のように冷徹だった。


朝日が彼女の白い肌を照らし、その瞳に鋭い光を宿らせていた。


私はその姿に目を奪われ、心の中で息を呑んだ。


「藤吉郎、久しいですね」


母上様の声は静かだが、刃のような鋭さを帯びていた。


藤吉郎が慌てて膝をつき、甲高い声で応じた。


「お市の方様、御無事な様子、何よりでございます。この羽柴藤吉郎が参ったからには、もうご安心を。我が横山城へお移りくださいませ」


「母上様?」


私は母上様の顔を見上げた。


彼女の瞳には決然とした光が宿り、私はその表情に何かを予感した。


母上様はどのように返答するのか。


私は息を殺して待った。


すると、彼女の声が響いた。


「藤吉郎、下がりなさい。私たちの身は、兄上様の命により前田又左衛門利家に託されました。私はその意に従います」


その言葉に、私は胸の奥で安堵と同時に不安を感じた。


伯父・織田信長の命――その言葉が、私に重くのしかかる。


彼の意に従うことが、私たちを安全に導くのか、それとも彼の支配をさらに強めるだけなのか。


藤吉郎が顔を上げ、必死に訴えた。


「しかし、このような荒れ寺では──せめて又左衛門が軍勢を揃えて迎えに来るまでは、我が城でお休みくだせぇだぎゃ」


「猿、しつこいぞ。この前田慶次利益が相手をしてやろうか?」


慶次が槍を構え直し、低い声で警告した。


藤吉郎が目を吊り上げ、反論した。


「慶次、おみゃーは礼儀を知らんなぁ」


「なーにが礼儀だ。昨夜の覆面の男は、猿山に帰ったか?」


「おみゃーは何を言っている?」


「俺の忍びを甘く見たな。付けていったら、羽柴家の陣屋に逃げ込んだとよ」


「おみゃーは何を言っている? わしゃー知らん。なーんも知らんだぎゃ」


私はその言葉に耳を疑った。


昨夜の襲撃者と羽柴家の関係――藤吉郎が関わっているのか。


私は母上様の顔をもう一度見つめた。


彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、私の頭にそっと手を置いて優しく撫でた。


その温もりが私の震えを抑えてくれたが、心の奥では疑念が渦巻いていた。


母上様が静かに言った。


「藤吉郎、今一度言います。下がりなさい。私は前田又左衛門利家の迎えを、この寺で待ちます」


藤吉郎の表情が引きつった。


朝霧の中で、彼の手勢が持つ旗が静かに揺れていたが、その数は母上様の決意を動かすには足りなかった。彼は拳を握りしめ、唇を噛みながら慶次を睨みつけた。


苛立ちが彼の顔に浮かび、甲冑が微かに震えるのが見えた。


「お市様、ここは危険でございますだぎゃよ!」


「私は貴方のほうが危険に見えます。ええい、これ以上話すことはありません。下がりなさい!」


母上様の声が鋭く響き、藤吉郎はしばし沈黙した。


朝日が彼の顔を照らし、その表情に苛立ちと屈辱が混じっているのが分かった。


彼は舌打ちし、乱暴に踵を返した。


草を蹴り上げ、甲冑の鳴る音を響かせながら庭を出ていく。


その背中が霧に溶け込む前に、彼が言い残した。


「でしたら、せめて寺の外には我が兵を残していくだみゃ」


母上様はすぐに慶次に向き直った。


「前田慶次、手紙をしたためます。又左衛門利家に届け、早く迎えを寄こすように」


「はっ」


慶次が槍を肩に担ぎ、軽い足取りで庭を去った。


私はその光景を見ながら、何が起きているのか未だに理解できなかった。


朝霧が寺を包み、雀のさえずりが再び響き始めた。


私は母上様の手を握り、彼女の冷徹な眼差しと、苛立ちを滲ませながら去っていく藤吉郎の後ろ姿を見つめた。


この出来事が何か大きなうねりの一部であることだけは、直感で感じ取っていた。


私は母上様のそばに寄り添い、心の中で呟いた。


伯父・織田信長、あなたの影がどこまで及ぶのか。


私は母上様を守り、いつかあなたに報いる日を待つ。



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